数日後――。
本社最上階の特別会議室で開かれた『Blanche上市可否判定会議』は、開始前から緊張感に包まれていた。
磨き抜かれた巨大な長机。壁一面を占めるスクリーン。ずらりと並ぶ、研究、品質保証、生産、法務、営業、マーケティング各部門の責任者たち。
そして上座には、アルカサスの実権を握る専務取締役――座馬玄蕃。その斜め後ろには、一切の感情を消した黒瀬さんが完璧な秘書の顔で控えている。
私は、事業戦略部長である座馬颯真の「随行員」という名目で、彼の斜め後ろの補助椅子に座っていた。
会議開始から二十分。各部門から予定されていた報告が一通り終わり、進行役が手元の進行表へ目を落とした。
「それでは、Blancheの上市可否判定へ移ります。その前に、ほかに議題として取り上げるべき事項はございますか」
「あります」
間髪を入れず、低くよく通る声が上がる。
颯真だった。
「事業戦略部から、現行の上市計画の承認へ移る前に、議論したいことがあります」
颯真は立ち上がると、リモコンを操作した。壁一面のスクリーンが暗転し、中央に白い文字が浮かび上がる。
『Blanche上市計画に関する二つの重大な疑義』
会議室に、低いざわめきが走った。
品質保証部長が眼鏡の奥で目を細め、マーケティングの責任者たちが顔を見合わせる。黒瀬さんの表情も、わずかに強張った。
颯真は、ざわめきが収まるのを待ってから口を開いた。
「本日、事業戦略部から提起するのは、Blancheの上市可否を判断する上で、決して見過ごすことのできない二つの問題です。先に結論を申し上げます」
低いバリトンが、静まり返った会議室の空気を震わせた。
「事業戦略部は、現状のまま本製品の上市を承認すべきではないと考えています」
ざわめきが、一段と大きくなった。
玄蕃が、そこで初めて手元の資料から目を上げた。
颯真がリモコンを押すと、タイトルの下に二つの項目が現れる。
『一、品質および安全性評価の意図的な除外』
『二、白組から流出したとされるサンプルの真正性』
「理由は二点です。一つは、品質と安全性を担保するために絶対に必要な評価項目が、現在のプロトコルから意図的に除外されていること」
颯真は、二つ目の項目へ視線を移した。
「もう一つは、この事業の出発点となった『白組からの技術流出』という前提そのものに、重大な疑義が生じていることです」
空気が、激しく揺れた気がする。
白組の技術流出。その言葉は、この場にいる全員のタブーだ。
西城蘭子が処方を持ち出したとされ、それを決定打として白組は解体された。そして、自社での研究開発を縮小し、外部委託へ切り替える現在の方針が決まったのだから。
「この二点について、指示記録と実測データをもとに、順に説明します」
画面が切り替わる。
『第一の疑義――除外された品質評価』
標準的な評価プロトコルと、現在予定されているBlancheのプロトコル。二つの一覧表が、左右に並んで表示された。
「まず、第一の問題です。現在予定されている評価プロトコルでは、長期安定性試験、複数の加速試験、さらに一部の安全性評価が除外されています」
赤く塗られた未実施項目が、画面を次々と埋め尽くしていく。
「これらが未実施のままでは、発売後に生じる凝集、相分離、粘度変化、そして物性変化に伴う皮膚刺激リスクを、十分に見極めることができません。そして――」
さらに画面が切り替わる。そこに映ったのは、メスキータ社との打ち合わせ記録と、評価項目の変更履歴だった。
「この試験除外は、委託先であるメスキータ社の技術的判断ではありません。アルカサス側から、納期短縮を理由として明確に要求されたものです」
指示書、試験項目一覧、メスキータ社担当者の議事記録。逃げ場のない証拠が次々と提示される。
「現行の評価プロトコルの要となっている統計量データやシミュレーションは、新素材であるシンヴェールに適用できるかの検証が済んでいません。そのため、今のまま上市を承認することには、重大な経営リスクを伴います」
穴のないプレゼンだった。数字にも、論理にも、一切の隙がない。私にはそう思えた。誰もがこの事実の前に沈黙し、計画を見直そうと思うはずだと。
だが、それでも。玄蕃は微塵も動揺しなかった。スクリーンを一瞥することすらせず、手元の資料を一枚めくる。
そして、ひどく退屈そうに言った。
「――で?」
たったその一文字が、颯真がここまで組み上げた論理を、土足で無惨に踏み潰した。
「試験が省かれていることは、資料を見れば分かる。それが何かね」
「今のままでは、絶対的な品質を担保できません」
「もともと品質に『絶対』などというものはない」
玄蕃は、ゆっくりと顔を上げた。
「既知の原料データと予測モデルを組み合わせれば、一定範囲の安全性は担保できる。海外企業ではすでに一般的な手法だ。旧態依然とした試験を一つずつ実施し、発売を半年、一年遅らせる方が、会社にとってはよほど大きな損失になる。それは私がずっと言ってきたことだ」
「その経営的視点自体は否定しません。しかしながら、未知の分散技術が使われた全く新規の製品に、既存のモデルを適用するのは危険であると私は指摘しています」
「危険、か」
玄蕃の口元に、ひんやりとした薄い笑みが浮かんだ。
「会社は、現場担当者の不安を一つずつ解消するために存在しているのではない。利益を出すために存在している。仮に発売後、軽微な問題が発生したとしても、対応に要する費用まで含めて経営判断を下す。それが事業というものだ。問題が起きる可能性が一パーセントでもあるから発売しない、などという理屈が通るなら、世の中から商品は一つもなくなる」
私は、奥歯を噛み締めた。
この男は、分かっているのだ。リスクを理解していないわけではない。理解した上で、自らの天秤にかけ、安全性を「売上より軽い」と冷酷に判断しているのだ。
「分かりました。では、こちらはどう説明しますか。二つ目の理由です」
颯真が次の資料を映し出した。
白組の最終試作と、流出したとされるサンプルの比較データ。
「画面の左は、白組が実際に開発していた最終試作です。そして右は、白組の責任者だった西城蘭子が、処方データとともに外部へ流出させたとされるクリームです」
颯真の声が、さらに低くなる。
「この流出疑惑を決め手として、会社は研究開発部――通称『白組』を解体し、以後の製品開発を外部委託へ切り替えた。そして、その判断を最も強く推進したのは――叔父上、あなたです」
会議室のあちこちで、息を呑む気配がした。
「ですが、この二つのクリームは同じものではない。成分組成こそ一致していますが、粒径分布、温度依存性、塗布時のレオロジー挙動に明確な差があります。よって、これら二つは別ものである可能性が極めて高い」
颯真は、上座の玄蕃を真っ直ぐに見据えた。
「つまり、流出品が白組のラボから持ち出された実物であるという前提には、重大な疑義がある。西城蘭子によるリークそのものが、何者かによって偽装された可能性さえあります」
一拍置き、鋭く言い切る。
「叔父上。あなたが主導した白組解体は、誤った証拠を根拠に決定された可能性がある」
「誤った証拠、か」
玄蕃は鼻を鳴らした。
「成分が一致している以上、同一処方と考えるのが妥当だ。君の言う物性差とやらも、白組の製造工程が未熟だったために生じた品質のブレではないのかね」
「工程差で説明できる範囲を超えています」
「それを証明する確たるデータは? なぜ二つの物性が異なるのか、君は論理的に説明できるのか?」
「それは現在、検証中です」
「ならば、現時点では君の推測に過ぎない」
玄蕃は、資料を机へ無造作に放り出した。
「我が社の研究開発部隊が、五年もの間こねくり回して作った新製品のレシピを、責任者が持ち出した。外部企業がそれをベースに、少しいじって別のものを作成した。ただそれだけのことではないのか? しかもその責任者は、さっさと別会社へ飛んだじゃないか。それ以上、何を疑う必要がある?」
私の胸の奥で、何かが激しく煮えたぎった。
白組が五年間積み重ねてきた血の滲むような試行錯誤を、「こねくり回した」の一言で踏みにじった。そのうえ、なおも蘭子さんを裏切り者として貶めた。
この男だけは。座馬玄蕃だけは、絶対に許してはいけない。
「叔父上」
颯真の声が、低く沈んだ。事業戦略部長としてではなく、一人の甥が、叔父へ向けた呼び方だった。
「あなたは、試験除外の危険性を理解した上で、このまま発売するつもりですか」
「そう聞こえなかったか?」
「白組解体の判断に誤りがある可能性も、再調査しないと?」
「必要ない」
「アルカサスの研究開発を、あなたの権力基盤を固めるための道具にするおつもりなら――」
颯真が、玄蕃を真っ直ぐに見据えた。
「私は、あなたを止めます」
ハッと息を呑んだ。
颯真が、自らの退路を完全に断った瞬間だった。
これまで何を考えているのか分からない場所から、じっと状況を見定めていた彼が。今、自分の立場も将来もすべて懸けて、叔父へ真正面から刃を突きつけている。
この人は、本気で戦うつもりだ――きっと私と共に。
対する玄蕃は、しかし、ほんの少し目を細めただけだった。
「父親が病床に伏せた途端、ずいぶんと勇ましくなったものだな。颯真」
「それはお互いさまではないですか? それに、会社を守るのに、早いも遅いもありません」
「守る?」
玄蕃が、鼻で笑う。
「一人の研究員の根拠に乏しい不安に振り回され、数十億規模の事業を止めることが、会社を守ることか。三代目の座が約束されているからといって、経営を児戯と勘違いするな」
その時。
ガタッ! と、補助椅子が大きな音を立てた。
私だった。私が勢いよく立ち上がったのだ。
「根拠に乏しい不安じゃありません!」
役員たちの視線が、一斉に私へ突き刺さった。
「君に発言を許可した覚えはないが」
「化粧品は、専務の許可を取って不具合を起こすわけではありません!」
重役相手に、自分でも信じられないほど失礼なことを言ったと思った。一介の社員が、役員会で専務に向かって放つ言葉ではない。
でも、構うものか。ここで引き下がることなんて、絶対にできない。
「アルカサスの量産化前の評価プロトコルは、何十年も先輩たちが引き継いできた宝です。これがあったからこそ、アルカサスの化粧品の『信頼と安心』のブランドは守られてきたんです!」
「それで?」
玄蕃は、顔色一つ変えなかった。
なにを見せても。どれだけ危険性を訴えても。返ってくるのは、「で?」「それで?」だ。
同じことを黒瀬さんに言われたことがある。違うのは、黒瀬さんが綺麗に整えたピンヒールの先で踏みつけてくるのに対し、この男は役員印のついた重機で、こちらの正しさごと根こそぎ轢き潰してくることだ。
「そこまで言うのなら、誰もが納得する根拠と共に説明してもらえるかな?」
「?」
「どちらでもいい。新しい評価プロトコルの危険性でも、流出したサンプルが白組の開発していたものでないことの証明でもいい。君も白衣に腕を通す人間なら、誰もがぐうの音も出ないしっかりとした証拠つきで説明したまえ」
玄蕃は不敵に笑って、そう言い放った。
「ただし、期日は設けさせてもらう。君たちの時間感覚に従って、また五年も六年も待たされたら商機を失ってしまうからな。……来週の次回の会議まで。それまで、Blancheの上市可否判定は保留とする。それでいいな?」
「わ、わかりました! ありがとうございます」
「ただし。誰もが納得する決定的な証明を持ってこられなかった場合――湊川君。君には、この会議と事業計画を混乱させた責任を取ってもらう」
私は生唾を飲み込んだ。
今の発言は、実質的な解雇宣告だ。
「責任を取るのは、彼女だけではありません」
目の前で、颯真が言った。
「この議題を正式に持ち込んだのは私です。責任は、私にもある」
「当然だ」
玄蕃の視線が、ゆっくりと由芽から颯真へと移る。
「一社員の首一つで、数十億の事業を遅らせた損失が精算できると思うなよ。颯真。座馬家の三代目としてこの会社の意思決定へ異を唱えた以上、外したあとで何事もなく元の席へ戻れるとは思わないことだ」
玄蕃はその目を、糸のように細めた。
「事業戦略部長の職だけではない。次期社長候補としての適格性そのものを、取締役会に諮る」
息を呑む音が、会議室のあちこちから上がった。
それは颯真に対する、つまり、座馬家の御曹司に対する、一族からの追放宣告だからだ。
「承知しています。ただし、こちらが証明した場合は――」
颯真が、机の上へ資料をドンと置く。
「Blancheの上市計画を全面凍結。試験除外を指示した経緯の社内調査。そして、白組解体および西城蘭子への処分判断を、すべて再審議していただきます」
玄蕃の目から、初めて笑みが消えた。
「叔父上にも、専務としての責任を取ってもらう」
こちらも、完全な宣戦布告。
会議室の誰もが、息を潜めてこの叔父と甥の対峙を見守っている。
張り詰めた沈黙のなか、玄蕃はゆっくりと背もたれへ身を預けた。
「……いいだろう」
その口元が、わずかに吊り上がる。
「次回の会議を、楽しみにしている」
その顔は、獲物が自ら仕掛けた罠へ足を踏み入れたことを確信した、狩人のような……。
冷酷で、うれしげな笑みだった。
本社最上階の特別会議室で開かれた『Blanche上市可否判定会議』は、開始前から緊張感に包まれていた。
磨き抜かれた巨大な長机。壁一面を占めるスクリーン。ずらりと並ぶ、研究、品質保証、生産、法務、営業、マーケティング各部門の責任者たち。
そして上座には、アルカサスの実権を握る専務取締役――座馬玄蕃。その斜め後ろには、一切の感情を消した黒瀬さんが完璧な秘書の顔で控えている。
私は、事業戦略部長である座馬颯真の「随行員」という名目で、彼の斜め後ろの補助椅子に座っていた。
会議開始から二十分。各部門から予定されていた報告が一通り終わり、進行役が手元の進行表へ目を落とした。
「それでは、Blancheの上市可否判定へ移ります。その前に、ほかに議題として取り上げるべき事項はございますか」
「あります」
間髪を入れず、低くよく通る声が上がる。
颯真だった。
「事業戦略部から、現行の上市計画の承認へ移る前に、議論したいことがあります」
颯真は立ち上がると、リモコンを操作した。壁一面のスクリーンが暗転し、中央に白い文字が浮かび上がる。
『Blanche上市計画に関する二つの重大な疑義』
会議室に、低いざわめきが走った。
品質保証部長が眼鏡の奥で目を細め、マーケティングの責任者たちが顔を見合わせる。黒瀬さんの表情も、わずかに強張った。
颯真は、ざわめきが収まるのを待ってから口を開いた。
「本日、事業戦略部から提起するのは、Blancheの上市可否を判断する上で、決して見過ごすことのできない二つの問題です。先に結論を申し上げます」
低いバリトンが、静まり返った会議室の空気を震わせた。
「事業戦略部は、現状のまま本製品の上市を承認すべきではないと考えています」
ざわめきが、一段と大きくなった。
玄蕃が、そこで初めて手元の資料から目を上げた。
颯真がリモコンを押すと、タイトルの下に二つの項目が現れる。
『一、品質および安全性評価の意図的な除外』
『二、白組から流出したとされるサンプルの真正性』
「理由は二点です。一つは、品質と安全性を担保するために絶対に必要な評価項目が、現在のプロトコルから意図的に除外されていること」
颯真は、二つ目の項目へ視線を移した。
「もう一つは、この事業の出発点となった『白組からの技術流出』という前提そのものに、重大な疑義が生じていることです」
空気が、激しく揺れた気がする。
白組の技術流出。その言葉は、この場にいる全員のタブーだ。
西城蘭子が処方を持ち出したとされ、それを決定打として白組は解体された。そして、自社での研究開発を縮小し、外部委託へ切り替える現在の方針が決まったのだから。
「この二点について、指示記録と実測データをもとに、順に説明します」
画面が切り替わる。
『第一の疑義――除外された品質評価』
標準的な評価プロトコルと、現在予定されているBlancheのプロトコル。二つの一覧表が、左右に並んで表示された。
「まず、第一の問題です。現在予定されている評価プロトコルでは、長期安定性試験、複数の加速試験、さらに一部の安全性評価が除外されています」
赤く塗られた未実施項目が、画面を次々と埋め尽くしていく。
「これらが未実施のままでは、発売後に生じる凝集、相分離、粘度変化、そして物性変化に伴う皮膚刺激リスクを、十分に見極めることができません。そして――」
さらに画面が切り替わる。そこに映ったのは、メスキータ社との打ち合わせ記録と、評価項目の変更履歴だった。
「この試験除外は、委託先であるメスキータ社の技術的判断ではありません。アルカサス側から、納期短縮を理由として明確に要求されたものです」
指示書、試験項目一覧、メスキータ社担当者の議事記録。逃げ場のない証拠が次々と提示される。
「現行の評価プロトコルの要となっている統計量データやシミュレーションは、新素材であるシンヴェールに適用できるかの検証が済んでいません。そのため、今のまま上市を承認することには、重大な経営リスクを伴います」
穴のないプレゼンだった。数字にも、論理にも、一切の隙がない。私にはそう思えた。誰もがこの事実の前に沈黙し、計画を見直そうと思うはずだと。
だが、それでも。玄蕃は微塵も動揺しなかった。スクリーンを一瞥することすらせず、手元の資料を一枚めくる。
そして、ひどく退屈そうに言った。
「――で?」
たったその一文字が、颯真がここまで組み上げた論理を、土足で無惨に踏み潰した。
「試験が省かれていることは、資料を見れば分かる。それが何かね」
「今のままでは、絶対的な品質を担保できません」
「もともと品質に『絶対』などというものはない」
玄蕃は、ゆっくりと顔を上げた。
「既知の原料データと予測モデルを組み合わせれば、一定範囲の安全性は担保できる。海外企業ではすでに一般的な手法だ。旧態依然とした試験を一つずつ実施し、発売を半年、一年遅らせる方が、会社にとってはよほど大きな損失になる。それは私がずっと言ってきたことだ」
「その経営的視点自体は否定しません。しかしながら、未知の分散技術が使われた全く新規の製品に、既存のモデルを適用するのは危険であると私は指摘しています」
「危険、か」
玄蕃の口元に、ひんやりとした薄い笑みが浮かんだ。
「会社は、現場担当者の不安を一つずつ解消するために存在しているのではない。利益を出すために存在している。仮に発売後、軽微な問題が発生したとしても、対応に要する費用まで含めて経営判断を下す。それが事業というものだ。問題が起きる可能性が一パーセントでもあるから発売しない、などという理屈が通るなら、世の中から商品は一つもなくなる」
私は、奥歯を噛み締めた。
この男は、分かっているのだ。リスクを理解していないわけではない。理解した上で、自らの天秤にかけ、安全性を「売上より軽い」と冷酷に判断しているのだ。
「分かりました。では、こちらはどう説明しますか。二つ目の理由です」
颯真が次の資料を映し出した。
白組の最終試作と、流出したとされるサンプルの比較データ。
「画面の左は、白組が実際に開発していた最終試作です。そして右は、白組の責任者だった西城蘭子が、処方データとともに外部へ流出させたとされるクリームです」
颯真の声が、さらに低くなる。
「この流出疑惑を決め手として、会社は研究開発部――通称『白組』を解体し、以後の製品開発を外部委託へ切り替えた。そして、その判断を最も強く推進したのは――叔父上、あなたです」
会議室のあちこちで、息を呑む気配がした。
「ですが、この二つのクリームは同じものではない。成分組成こそ一致していますが、粒径分布、温度依存性、塗布時のレオロジー挙動に明確な差があります。よって、これら二つは別ものである可能性が極めて高い」
颯真は、上座の玄蕃を真っ直ぐに見据えた。
「つまり、流出品が白組のラボから持ち出された実物であるという前提には、重大な疑義がある。西城蘭子によるリークそのものが、何者かによって偽装された可能性さえあります」
一拍置き、鋭く言い切る。
「叔父上。あなたが主導した白組解体は、誤った証拠を根拠に決定された可能性がある」
「誤った証拠、か」
玄蕃は鼻を鳴らした。
「成分が一致している以上、同一処方と考えるのが妥当だ。君の言う物性差とやらも、白組の製造工程が未熟だったために生じた品質のブレではないのかね」
「工程差で説明できる範囲を超えています」
「それを証明する確たるデータは? なぜ二つの物性が異なるのか、君は論理的に説明できるのか?」
「それは現在、検証中です」
「ならば、現時点では君の推測に過ぎない」
玄蕃は、資料を机へ無造作に放り出した。
「我が社の研究開発部隊が、五年もの間こねくり回して作った新製品のレシピを、責任者が持ち出した。外部企業がそれをベースに、少しいじって別のものを作成した。ただそれだけのことではないのか? しかもその責任者は、さっさと別会社へ飛んだじゃないか。それ以上、何を疑う必要がある?」
私の胸の奥で、何かが激しく煮えたぎった。
白組が五年間積み重ねてきた血の滲むような試行錯誤を、「こねくり回した」の一言で踏みにじった。そのうえ、なおも蘭子さんを裏切り者として貶めた。
この男だけは。座馬玄蕃だけは、絶対に許してはいけない。
「叔父上」
颯真の声が、低く沈んだ。事業戦略部長としてではなく、一人の甥が、叔父へ向けた呼び方だった。
「あなたは、試験除外の危険性を理解した上で、このまま発売するつもりですか」
「そう聞こえなかったか?」
「白組解体の判断に誤りがある可能性も、再調査しないと?」
「必要ない」
「アルカサスの研究開発を、あなたの権力基盤を固めるための道具にするおつもりなら――」
颯真が、玄蕃を真っ直ぐに見据えた。
「私は、あなたを止めます」
ハッと息を呑んだ。
颯真が、自らの退路を完全に断った瞬間だった。
これまで何を考えているのか分からない場所から、じっと状況を見定めていた彼が。今、自分の立場も将来もすべて懸けて、叔父へ真正面から刃を突きつけている。
この人は、本気で戦うつもりだ――きっと私と共に。
対する玄蕃は、しかし、ほんの少し目を細めただけだった。
「父親が病床に伏せた途端、ずいぶんと勇ましくなったものだな。颯真」
「それはお互いさまではないですか? それに、会社を守るのに、早いも遅いもありません」
「守る?」
玄蕃が、鼻で笑う。
「一人の研究員の根拠に乏しい不安に振り回され、数十億規模の事業を止めることが、会社を守ることか。三代目の座が約束されているからといって、経営を児戯と勘違いするな」
その時。
ガタッ! と、補助椅子が大きな音を立てた。
私だった。私が勢いよく立ち上がったのだ。
「根拠に乏しい不安じゃありません!」
役員たちの視線が、一斉に私へ突き刺さった。
「君に発言を許可した覚えはないが」
「化粧品は、専務の許可を取って不具合を起こすわけではありません!」
重役相手に、自分でも信じられないほど失礼なことを言ったと思った。一介の社員が、役員会で専務に向かって放つ言葉ではない。
でも、構うものか。ここで引き下がることなんて、絶対にできない。
「アルカサスの量産化前の評価プロトコルは、何十年も先輩たちが引き継いできた宝です。これがあったからこそ、アルカサスの化粧品の『信頼と安心』のブランドは守られてきたんです!」
「それで?」
玄蕃は、顔色一つ変えなかった。
なにを見せても。どれだけ危険性を訴えても。返ってくるのは、「で?」「それで?」だ。
同じことを黒瀬さんに言われたことがある。違うのは、黒瀬さんが綺麗に整えたピンヒールの先で踏みつけてくるのに対し、この男は役員印のついた重機で、こちらの正しさごと根こそぎ轢き潰してくることだ。
「そこまで言うのなら、誰もが納得する根拠と共に説明してもらえるかな?」
「?」
「どちらでもいい。新しい評価プロトコルの危険性でも、流出したサンプルが白組の開発していたものでないことの証明でもいい。君も白衣に腕を通す人間なら、誰もがぐうの音も出ないしっかりとした証拠つきで説明したまえ」
玄蕃は不敵に笑って、そう言い放った。
「ただし、期日は設けさせてもらう。君たちの時間感覚に従って、また五年も六年も待たされたら商機を失ってしまうからな。……来週の次回の会議まで。それまで、Blancheの上市可否判定は保留とする。それでいいな?」
「わ、わかりました! ありがとうございます」
「ただし。誰もが納得する決定的な証明を持ってこられなかった場合――湊川君。君には、この会議と事業計画を混乱させた責任を取ってもらう」
私は生唾を飲み込んだ。
今の発言は、実質的な解雇宣告だ。
「責任を取るのは、彼女だけではありません」
目の前で、颯真が言った。
「この議題を正式に持ち込んだのは私です。責任は、私にもある」
「当然だ」
玄蕃の視線が、ゆっくりと由芽から颯真へと移る。
「一社員の首一つで、数十億の事業を遅らせた損失が精算できると思うなよ。颯真。座馬家の三代目としてこの会社の意思決定へ異を唱えた以上、外したあとで何事もなく元の席へ戻れるとは思わないことだ」
玄蕃はその目を、糸のように細めた。
「事業戦略部長の職だけではない。次期社長候補としての適格性そのものを、取締役会に諮る」
息を呑む音が、会議室のあちこちから上がった。
それは颯真に対する、つまり、座馬家の御曹司に対する、一族からの追放宣告だからだ。
「承知しています。ただし、こちらが証明した場合は――」
颯真が、机の上へ資料をドンと置く。
「Blancheの上市計画を全面凍結。試験除外を指示した経緯の社内調査。そして、白組解体および西城蘭子への処分判断を、すべて再審議していただきます」
玄蕃の目から、初めて笑みが消えた。
「叔父上にも、専務としての責任を取ってもらう」
こちらも、完全な宣戦布告。
会議室の誰もが、息を潜めてこの叔父と甥の対峙を見守っている。
張り詰めた沈黙のなか、玄蕃はゆっくりと背もたれへ身を預けた。
「……いいだろう」
その口元が、わずかに吊り上がる。
「次回の会議を、楽しみにしている」
その顔は、獲物が自ら仕掛けた罠へ足を踏み入れたことを確信した、狩人のような……。
冷酷で、うれしげな笑みだった。

