メスキータ社からの帰路。
私は会社へは戻らず、颯真が個人的に構えている地下ラボへ直帰。いや、家ではないので、そのまま転がり込んでいた。
薄暗い空間に響くのは、サーバーの低い駆動音と――
ダダダダダダダダダダッ!
私がキーボードを親の仇のように叩き潰す音だけである。
画面に展開されている文書のタイトルは、
『Blanche製品化に関わる重大な品質懸念の上申』
メスキータ社で突きつけられた、評価プロトコル。本来なら絶対に確認しなければならない項目が、発売スケジュールに邪魔だからという理由で、次々と切り捨てられていた。
しかも、それを要求したのは私たちアルカサス側だ。
このままでは、必要な試験をいくつも飛ばした不完全なクリームが、そのまま市場へ出てしまう。そんな暴挙は、絶対に許せない。
今日見たもの、聞いたもの、担当者の反応から、除外された試験項目、アルカサス側から出された指示まで。私は持ち帰った情報を、一文字残らず文書へ叩き込んだ。
最後の一文を入力し、
ターンッ!
と改行キーを鳴らしたところで、私の指は止まった。
「…………」
書けた。それはいい。問題は――これを、どこへ出すかだ。
今の私は、キラキラ組へ押し込められた一介の社員にすぎない。品質保証部門へ正式に上申する権限も、上市判定会議へ議題を持ち込む権限もない。
社内のコーポレートガバナンス窓口にメールで送る? ダメだ。きっと、握りつぶされる。品質保証部へ直談判するか? 専務の名前を出された瞬間、扉ごと閉められる。
じゃあ、社長室へ突撃するか? その前に警備員さんへ回収される。
正しいことを言えば、会社が動いてくれる。そんな優しい世界でないことくらい、この五年間で嫌というほど思い知っていた。
「なんだ。もう帰っていたのか」
不意に、背後から低い声が降ってきた。
振り返ると、ラボの入り口にスーツ姿の颯真が立っていた。
いつも寸分の隙もなく締められているネクタイが、今日はほんの少しだけ緩んでいる。どうやら、珍しく早く戻ってきたらしい。
「腹は減っているか」
颯真は腕時計へ視線を落とした。
「今からなら、三十分で作れるが」
いつもなら「食べます!」と〇・二秒で即答するところだった。
だが、今は返事が出なかった。私はキーボードから手を離し、黙ったまま彼を見つめる。
私の顔に張りついていたものを読み取ったのだろう。颯真は緩めかけていたネクタイから手を離し、すっと目を細めた。
「……何があったか?」
その一言で、張り詰めていたものが決壊した。
私はメスキータ社で見てきたすべてを、息継ぎも忘れて吐き出した。
信じられないほど試験項目が削られていたこと。それがメスキータ社の判断ではなく、アルカサス側からの要求だったこと。そして、その場へ専務の座馬玄蕃が現れ、私の訴えを羽虫でも払うように一蹴したこと。
「このままでは、まともな評価をしないまま製品が出ます」
膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
「発売してから分離するかもしれない。凝集するかもしれない。肌へ塗り続けたとき、どんな影響が出るかも分からない。それなのに専務は、売ってから考えればいいとでも言うような顔をしていました」
あの時の玄蕃の顔を思い出し、背筋がゾッとした。
検査の不十分な化粧品を世に出すことを、なんとも思っていないような顔。あれは白組ともキラキラ組とも違う、もっと別の次元の生き物のものだった。
「……助けてほしい」
顔を上げる。
「颯真」
初めてだ。役職でも、ザマス王子でも、嫌味でもなく。
ただ一人の味方を求めて、真正面から彼の名前を呼んだのは。
颯真は、しばらく何も言わなかった。
感情の読めない漆黒の瞳が、私と、モニターに表示された上申書を交互に見つめる。
やがて、短く息を吐く。
「……君がそれを出しても、勝てない。まったく無意味だ」
声には、容赦がなかった。
「今の君は、品質保証の正式なルートを持たないキラキラ組の一社員だ。そんな人間が専務案件に異議を申し立てても、上申書は専務の目に触れる前に握りつぶされるだけだ」
「でも――」
「仮に会議へ乗せられたとしても、今あるのは懸念と仮説に過ぎない。専務は『発売を止めるに足る証拠ではない』の一言で切り捨てる。君が一人で正論を叫んだところで、組織は絶対に動かない」
一言一言が、正しい。
正しすぎて、胸の奥へ冷たい杭を打ち込まれているようだった。
分かっていた。
自分一人では、どうにもならないことくらい。
だからこそ。
私は、この人なら一緒に立ってくれるかもしれないと――ほんの少しだけ、期待していた。
「……分かりました」
自分でも驚くほど、冷えた声が出た。
「やっぱり、あなたはそういう人ですよね!」
乱暴にノートパソコンを閉じる。
バンッ、と乾いた音がラボに響いた。
「勝手に味方だと思った私が悪かったです。いつもみたいに、正論だけ三行で置いて、あとは自分で何とかしろってことですよね!」
「分かりました。大丈夫です。一人でやります」
パイプ椅子を蹴るように立ち上がる。
「品質保証部へ直談判でも、社長室へ突撃でも、株主総会で拡声器を持つでも、なんだってやってやります! 失礼します!」
鞄をひったくり、颯真の横を通り抜けようとした――その瞬間。
ぐんっ、と腕を引かれた。
「離してください!」
「待て!」
「待ちません」
「いいから話を聞け。勘違いするな」
低い声が、頭上から落ちてくる。
振り返ると、颯真の大きな手が私の手首をがっちりと掴んでいた。
「何を勘違いするんですか。無理だ、勝てない、組織を甘く見るなって、ここまで丁寧に絶望を三段重ねで出されたのに!」
「俺は、君一人では無理だと言っているんだ」
「同じです!」
「同じではない」
颯真の指に、わずかに力がこもる。
「君一人で勝てないが、二人なら勝てるかもしれない」
「…………え?」
「一人で戦わせるとは、一言も言っていない」
颯真は私の手首を離すと、閉じたノートパソコンへ目を向けた。
「次回の『Blanche上市可否判定会議』で、俺が事業戦略部長として正式に議題へ上げる」
「え? 颯真が?」
「ああ。君の上申書を、俺の資料として出す。そうすれば、途中で握りつぶすことはできない。叔父にも、会議の場で直接答えさせることも可能だ」
颯真は私を真っ直ぐに見た。
「座馬玄蕃へ、真正面から宣戦布告する」
声は静かだった。でも、その奥に、抜き身の刃のような覚悟があった。
「ただし、戦う以上は中途半端な資料では駄目だ。品質懸念だけでは逃げられる。リークしたサンプルが白組の『アルフレッド』ではない可能性と、白組解体の前提そのものが誤っていた可能性も含めて、今あるエビデンスで一本につなげろ」
「じゃあ……」
「一緒に戦うぞ、由芽」
その言葉で、私の中に詰まっていた恐怖も、不安も、怒りも、全部まとめて吹き飛んだ。
味方がいる。
色白で、どう見ても吸血鬼みたいなのに、妙にオカンで、少々ストーカー気質。肝心な言葉はいつも足りないくせに――それでも、ずっと私を助けてくれた味方が。
「……ありが、とおっ!」
胸が熱くなったあまり舌がもつれ、「ありがとう」の最後が、変身ヒーローの掛け声みたく「とおっ!」になった。
しかも、その掛け声に身体まで引っ張られたのか。気づけば、私は両腕を大きく広げていた。
次の瞬間。
私は、颯真の胴体へ全力でしがみついていた。
「――っ!」
胸へ飛び込んだ――というより、捕獲した。
関東の上のほうにある歴史的なテーマパークで、着ぐるみのマスコットへ全力で飛びつく子ども。ほぼ、あれである。
もっとも、当該テーマパークでも現在はマスコットへの飛びつきすら禁止されている。まして相手は、着ぐるみではない。生身の人間だ。
長い。硬い。肩幅が広い。両腕を回しても、背中で指先がぎりぎり触れるだけ。
結果として私は、スーツを着た、体温のある、やたら高級な等身大抱き枕を、全身で抱え込む格好になっていた。
「…………由芽」
頭上から、自分の名前が降ってきた。
「はい?」
「これは、一体どういう状態なんだ……」
そこでようやく、私の脳が現在の姿勢を認識した。
頬のすぐ横にネクタイ。腕の中に硬い胴体。鼻先には、上質なスーツ生地と、微かなシトラスの香り。
「――あっ!」
私は弾かれたように両腕を離し、二メートルほど飛び退いた。
「す、すみません! つい、高まった感謝が、腕から発露していました!」
「感謝が腕からか!」
「はっ! 新しい分析装置が届いたときと、ほぼ同じ種類の感動であります!」
「それはそれで、どうなんだ」
颯真は珍しく目を丸くしたまま、乱れたスーツの襟元を直している。色素の薄い耳の裏が、わずかに赤くなっている。
――たぶん、私の顔も似たような色見をしているはずだ。
「……ごほん」
颯真は、不自然なほど大きく咳払いした。
「とにかく、資料を完成させろ。試験除外の指示系統。現行プロトコルで見落とされるリスク。流出サンプルと白組試作品の物性差。すべて、第三者が見ても追える形にする」
「はっ!」
「感情的な表現は削れ」
「はっ! はっ!」
「『専務は化学を舐めている』も削除しろ」
「書いてませんけど?」
「今から書きそうな顔をしている」
なぜ分かった。
「よし、では方針が決まったところで」
颯真はワイシャツの袖を肘までまくり、ラボの階段へ向かって歩き出した。
「君は夕食を摂るといい。今から作ってくる。今夜は八角を利かせた角煮と煮卵だ」
ガクッとなった。
「あの、今すぐ資料を作りたいんですけど――」
「急いだところで、次の会議が早まるわけじゃない。空腹状態では判断力も集中力も落ちる。私はミスだらけの資料で叔父と対峙したくない」
「うっ」
「三十分で帰ってくる。その間に構成だけ直しておけ。その続きは夕飯の後だ」
有無を言わせぬ口調だった。
叔父へ宣戦布告した直後に、私の空腹を管理し始める。
やはり、この男。
ザマス王子ではない。ザマスオカンだ。
「……はい」
私は素直に椅子へ座り直し、ノートパソコンを開いた。
まずは構成。
次に夕飯。
反撃の続きはその後だ。
颯真の言う通り、
――腹が減っていては、あの専務は倒せない。
私は会社へは戻らず、颯真が個人的に構えている地下ラボへ直帰。いや、家ではないので、そのまま転がり込んでいた。
薄暗い空間に響くのは、サーバーの低い駆動音と――
ダダダダダダダダダダッ!
私がキーボードを親の仇のように叩き潰す音だけである。
画面に展開されている文書のタイトルは、
『Blanche製品化に関わる重大な品質懸念の上申』
メスキータ社で突きつけられた、評価プロトコル。本来なら絶対に確認しなければならない項目が、発売スケジュールに邪魔だからという理由で、次々と切り捨てられていた。
しかも、それを要求したのは私たちアルカサス側だ。
このままでは、必要な試験をいくつも飛ばした不完全なクリームが、そのまま市場へ出てしまう。そんな暴挙は、絶対に許せない。
今日見たもの、聞いたもの、担当者の反応から、除外された試験項目、アルカサス側から出された指示まで。私は持ち帰った情報を、一文字残らず文書へ叩き込んだ。
最後の一文を入力し、
ターンッ!
と改行キーを鳴らしたところで、私の指は止まった。
「…………」
書けた。それはいい。問題は――これを、どこへ出すかだ。
今の私は、キラキラ組へ押し込められた一介の社員にすぎない。品質保証部門へ正式に上申する権限も、上市判定会議へ議題を持ち込む権限もない。
社内のコーポレートガバナンス窓口にメールで送る? ダメだ。きっと、握りつぶされる。品質保証部へ直談判するか? 専務の名前を出された瞬間、扉ごと閉められる。
じゃあ、社長室へ突撃するか? その前に警備員さんへ回収される。
正しいことを言えば、会社が動いてくれる。そんな優しい世界でないことくらい、この五年間で嫌というほど思い知っていた。
「なんだ。もう帰っていたのか」
不意に、背後から低い声が降ってきた。
振り返ると、ラボの入り口にスーツ姿の颯真が立っていた。
いつも寸分の隙もなく締められているネクタイが、今日はほんの少しだけ緩んでいる。どうやら、珍しく早く戻ってきたらしい。
「腹は減っているか」
颯真は腕時計へ視線を落とした。
「今からなら、三十分で作れるが」
いつもなら「食べます!」と〇・二秒で即答するところだった。
だが、今は返事が出なかった。私はキーボードから手を離し、黙ったまま彼を見つめる。
私の顔に張りついていたものを読み取ったのだろう。颯真は緩めかけていたネクタイから手を離し、すっと目を細めた。
「……何があったか?」
その一言で、張り詰めていたものが決壊した。
私はメスキータ社で見てきたすべてを、息継ぎも忘れて吐き出した。
信じられないほど試験項目が削られていたこと。それがメスキータ社の判断ではなく、アルカサス側からの要求だったこと。そして、その場へ専務の座馬玄蕃が現れ、私の訴えを羽虫でも払うように一蹴したこと。
「このままでは、まともな評価をしないまま製品が出ます」
膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
「発売してから分離するかもしれない。凝集するかもしれない。肌へ塗り続けたとき、どんな影響が出るかも分からない。それなのに専務は、売ってから考えればいいとでも言うような顔をしていました」
あの時の玄蕃の顔を思い出し、背筋がゾッとした。
検査の不十分な化粧品を世に出すことを、なんとも思っていないような顔。あれは白組ともキラキラ組とも違う、もっと別の次元の生き物のものだった。
「……助けてほしい」
顔を上げる。
「颯真」
初めてだ。役職でも、ザマス王子でも、嫌味でもなく。
ただ一人の味方を求めて、真正面から彼の名前を呼んだのは。
颯真は、しばらく何も言わなかった。
感情の読めない漆黒の瞳が、私と、モニターに表示された上申書を交互に見つめる。
やがて、短く息を吐く。
「……君がそれを出しても、勝てない。まったく無意味だ」
声には、容赦がなかった。
「今の君は、品質保証の正式なルートを持たないキラキラ組の一社員だ。そんな人間が専務案件に異議を申し立てても、上申書は専務の目に触れる前に握りつぶされるだけだ」
「でも――」
「仮に会議へ乗せられたとしても、今あるのは懸念と仮説に過ぎない。専務は『発売を止めるに足る証拠ではない』の一言で切り捨てる。君が一人で正論を叫んだところで、組織は絶対に動かない」
一言一言が、正しい。
正しすぎて、胸の奥へ冷たい杭を打ち込まれているようだった。
分かっていた。
自分一人では、どうにもならないことくらい。
だからこそ。
私は、この人なら一緒に立ってくれるかもしれないと――ほんの少しだけ、期待していた。
「……分かりました」
自分でも驚くほど、冷えた声が出た。
「やっぱり、あなたはそういう人ですよね!」
乱暴にノートパソコンを閉じる。
バンッ、と乾いた音がラボに響いた。
「勝手に味方だと思った私が悪かったです。いつもみたいに、正論だけ三行で置いて、あとは自分で何とかしろってことですよね!」
「分かりました。大丈夫です。一人でやります」
パイプ椅子を蹴るように立ち上がる。
「品質保証部へ直談判でも、社長室へ突撃でも、株主総会で拡声器を持つでも、なんだってやってやります! 失礼します!」
鞄をひったくり、颯真の横を通り抜けようとした――その瞬間。
ぐんっ、と腕を引かれた。
「離してください!」
「待て!」
「待ちません」
「いいから話を聞け。勘違いするな」
低い声が、頭上から落ちてくる。
振り返ると、颯真の大きな手が私の手首をがっちりと掴んでいた。
「何を勘違いするんですか。無理だ、勝てない、組織を甘く見るなって、ここまで丁寧に絶望を三段重ねで出されたのに!」
「俺は、君一人では無理だと言っているんだ」
「同じです!」
「同じではない」
颯真の指に、わずかに力がこもる。
「君一人で勝てないが、二人なら勝てるかもしれない」
「…………え?」
「一人で戦わせるとは、一言も言っていない」
颯真は私の手首を離すと、閉じたノートパソコンへ目を向けた。
「次回の『Blanche上市可否判定会議』で、俺が事業戦略部長として正式に議題へ上げる」
「え? 颯真が?」
「ああ。君の上申書を、俺の資料として出す。そうすれば、途中で握りつぶすことはできない。叔父にも、会議の場で直接答えさせることも可能だ」
颯真は私を真っ直ぐに見た。
「座馬玄蕃へ、真正面から宣戦布告する」
声は静かだった。でも、その奥に、抜き身の刃のような覚悟があった。
「ただし、戦う以上は中途半端な資料では駄目だ。品質懸念だけでは逃げられる。リークしたサンプルが白組の『アルフレッド』ではない可能性と、白組解体の前提そのものが誤っていた可能性も含めて、今あるエビデンスで一本につなげろ」
「じゃあ……」
「一緒に戦うぞ、由芽」
その言葉で、私の中に詰まっていた恐怖も、不安も、怒りも、全部まとめて吹き飛んだ。
味方がいる。
色白で、どう見ても吸血鬼みたいなのに、妙にオカンで、少々ストーカー気質。肝心な言葉はいつも足りないくせに――それでも、ずっと私を助けてくれた味方が。
「……ありが、とおっ!」
胸が熱くなったあまり舌がもつれ、「ありがとう」の最後が、変身ヒーローの掛け声みたく「とおっ!」になった。
しかも、その掛け声に身体まで引っ張られたのか。気づけば、私は両腕を大きく広げていた。
次の瞬間。
私は、颯真の胴体へ全力でしがみついていた。
「――っ!」
胸へ飛び込んだ――というより、捕獲した。
関東の上のほうにある歴史的なテーマパークで、着ぐるみのマスコットへ全力で飛びつく子ども。ほぼ、あれである。
もっとも、当該テーマパークでも現在はマスコットへの飛びつきすら禁止されている。まして相手は、着ぐるみではない。生身の人間だ。
長い。硬い。肩幅が広い。両腕を回しても、背中で指先がぎりぎり触れるだけ。
結果として私は、スーツを着た、体温のある、やたら高級な等身大抱き枕を、全身で抱え込む格好になっていた。
「…………由芽」
頭上から、自分の名前が降ってきた。
「はい?」
「これは、一体どういう状態なんだ……」
そこでようやく、私の脳が現在の姿勢を認識した。
頬のすぐ横にネクタイ。腕の中に硬い胴体。鼻先には、上質なスーツ生地と、微かなシトラスの香り。
「――あっ!」
私は弾かれたように両腕を離し、二メートルほど飛び退いた。
「す、すみません! つい、高まった感謝が、腕から発露していました!」
「感謝が腕からか!」
「はっ! 新しい分析装置が届いたときと、ほぼ同じ種類の感動であります!」
「それはそれで、どうなんだ」
颯真は珍しく目を丸くしたまま、乱れたスーツの襟元を直している。色素の薄い耳の裏が、わずかに赤くなっている。
――たぶん、私の顔も似たような色見をしているはずだ。
「……ごほん」
颯真は、不自然なほど大きく咳払いした。
「とにかく、資料を完成させろ。試験除外の指示系統。現行プロトコルで見落とされるリスク。流出サンプルと白組試作品の物性差。すべて、第三者が見ても追える形にする」
「はっ!」
「感情的な表現は削れ」
「はっ! はっ!」
「『専務は化学を舐めている』も削除しろ」
「書いてませんけど?」
「今から書きそうな顔をしている」
なぜ分かった。
「よし、では方針が決まったところで」
颯真はワイシャツの袖を肘までまくり、ラボの階段へ向かって歩き出した。
「君は夕食を摂るといい。今から作ってくる。今夜は八角を利かせた角煮と煮卵だ」
ガクッとなった。
「あの、今すぐ資料を作りたいんですけど――」
「急いだところで、次の会議が早まるわけじゃない。空腹状態では判断力も集中力も落ちる。私はミスだらけの資料で叔父と対峙したくない」
「うっ」
「三十分で帰ってくる。その間に構成だけ直しておけ。その続きは夕飯の後だ」
有無を言わせぬ口調だった。
叔父へ宣戦布告した直後に、私の空腹を管理し始める。
やはり、この男。
ザマス王子ではない。ザマスオカンだ。
「……はい」
私は素直に椅子へ座り直し、ノートパソコンを開いた。
まずは構成。
次に夕飯。
反撃の続きはその後だ。
颯真の言う通り、
――腹が減っていては、あの専務は倒せない。

