目を開けると、眩しいほど白い天井があった。
知らない天井――ではない。残念ながらかなり見慣れている。
地下ラボの奥にある、仮眠室の天井だ。
昨夜、過去の実験データをひっくり返している途中で限界を迎え、「一時間だけ」と、実験ノートを抱えたままベッドへ倒れ込んだところまでは覚えている。
どうやら睡眠中に、そのノートを枕へ用途変更したらしい。
頬には罫線がくっきりと転写され、髪は静電気の実験に大成功したみたいに爆発していた。よれよれの白衣も含めて、研究員というより、研究事故の生存者である。
白衣のポケットからスマートフォンを引き抜き、画面を点ける。
朝、六時。実験ノートに残した最後の記録時刻は、午前一時四十七分。
差分、四時間十三分。
「仮眠……四時間十三分……」
もはや、それは仮眠とは呼べない長さである。
まあ、こうなるのも致し方ない面もある。
昼はキラキラ組の業務。夜は地下ラボで検証。その合間に、ときどき風呂と睡眠を補助工程としてねじ込むという生活……。蘭子さんが自ら寮を訪ねてきてくれた、あの夜の後も、私のそんな二重生活はずっと続いているから。
蘭子さんが警察に逮捕されるような最悪の事態にならなかったのは、心の底から安堵している。あの人を救わなければ、という最初の焦燥は消えた。パトカーに乗せられていく蘭子さんの幻影も消えて、胸の中で鳴り続けていた非常ベルも止まった。
だから、私を突き動かしていた切実な勢いは、ほんの少しだけ弱くなったのかもしれない。
それでも、私は実験をやめてはいなかった。
蘭子さんへの疑惑が晴れても、流出したとされるサンプルと、私たちのクリームが「別物」であることはデータで証明しなければならない。
座馬颯真が言っていたとおり、この流出騒動そのものが専務の陰謀なのだとしたら……。確たる証拠を突きつけ、真実を明らかにできれば――白組を復活させられるかもしれないからだ。
「よし……」
大きく息を吐き、気合を再注入する。
ベッドから立ち上がろうとして――ふと、枕元へ放り出したスマートフォンの予定通知が目に入った。
本日の予定 「出張」。
その二文字を認識した瞬間、眠っていた全神経が再起動した。
「やっば、今日、出張じゃん!」
私は爆発した頭を両手で押さえ、ベッドから飛び上がる。
急いで寮へ戻り、シャワーを浴び、髪をどうにか人類の形へ戻し、スーツに着替えないと。
鞄へ実験ノートを突っ込み、白衣の裾を翻して、ラボの重い扉へ駆け寄る。
扉を開けると――
そこには、漆黒のスーツ姿の颯真が立っていた。
時刻は朝六時である。こちらは顔に罫線、頭に爆発、白衣に皺なのに、向こうは髪、襟、ネクタイ、カフスに至るまで完全制御下にある。
同じ人類の朝六時とは、とても思えない。
「……また、その格好で寝たのか」
颯真はそんな私の姿を上から下まで確認して、これ以上ないほど深く眉根を寄せた。
「はっ。自分、仮眠をとっていましたっ!」
「何時間?」
「はっ。四時間十三分ほどであります」
「それは仮眠ではない。睡眠という」
即座に棄却されてしまった。
仕方がない。自分でもそう思う。
「仮眠は構わないが、ここで完全に寝泊まりするのは契約違反だ」
「善処します!」
「善処しない人間の返事だな」
颯真は、朝六時から正論の切れ味が鋭かった。
「はっ! 急ぎ、寮へ戻りますー」
私はびしっと敬礼を決め、逃げるように颯真の横をすり抜けかけて――ふと、足を止めた。
そういえば、颯真にはまだ、蘭子さんのことを話していない。もう彼女が警察の調べを受けることはないことも。ヒラルダ社へ行ってしまうことも。
この人の情報網なら、とっくに知っている気はする。
それでも、一度、きちんと話しておいた方がいいのだろうか。蘭子さんのこと。そして、これから私がどう動くべきなのかを……。
声をかけるべきか迷い、颯真の横顔をちらりと見上げる。けれど、何から切り出せばいいのか、答えが出ない。
結局、何も言えないまま、再び歩き出そうとした――そのとき。
「待て」
呼び止められた。
振り返る私に、颯真は大きな紙袋を差し出してきた。
「今日は、出張だったな」
「……なんで知ってるんですか?」
「アウトルックの予定表に書いてあった」
「わざわざ私の予定表を見たんですか。怖っ」
「全社員に公開されている共有予定だ」
「公開情報を毎朝巡回するのも、かなりストーカー寄りの行動ですよ」
言いながら、紙袋の中を覗き込む。二段重ねの巨大な弁当箱が入っていた。しかも、一段一段が深いやつ。運動会か花見にでも行くのかというボリュームである。
「……あの、これ?」
「出張先は遠い。移動時間も長いし、現地へ着けば昼食を取れる時間も読めない。弁当を持参するのが最適だ」
「かなりボリューミーに見えますが」
「どうせいつも昼食はお菓子とか菓子パンで済ませているのだろう」
「な、なぜ、それを」
「それではカロリーは摂取できても栄養が足りない」
「でも、最近、夕飯は頂いているので……。感謝してますけど……。この勢いで食べていたら、私、太りそうなんですが」
「女性は、多少ふくよかな方が長生きするという研究報告もある」
「対象年齢も交絡因子も無視して、都合のいいところだけつまみ食いしないでください! 未来の寿命よりも、せっかく買ったスーツが入らなくなる方が問題なんです」
「いらないなら、持ち帰るが」
颯真が紙袋を引こうとする。私は反射的に、持ち手を掴んだ。
「いえ、いらないとは言ってません……」
「では、持っていって、今日くらいはちゃんとした昼食をとるべきだ。その際、よく噛んで食べること。水分も十分とった方がいい」
「あー、はいはい」
「『はい』は一回でいい」
「はい、お母さん」
「誰がお母さんだ」
「今のは、小学生が、学校の先生をうっかり『お母さん』と呼んでしまう、あの現象を再現しました」
「早く行け。遅れるぞ」
「はっ! 行ってまいります!」
「気をつけて行ってこい」
最後の一言まで、完全にお母さんだった。
* * *
三十分後、私は郊外を走るタクシーの中にいた。
向かう先は、メスキータ社。
研究開発部門である白組を解散させたアルカサスが、新たに化粧品の研究開発を委託した会社。そして、アルカサスの実権を握る座馬玄蕃専務が、社長を兼務しているという。
私はその会社へ、Blancheを本格的に商品化するために必要な最終試験項目の確認に向かっている。
以前の打ち合わせで、委託先の品質試験計画について確認させてほしいと申し出ると、黒瀬さんは二つ返事で了承した。
「「ええ、いいわよ。確認する『だけ』ならね」」
もちろん確認だけで終わらせるつもりはない。不足があるなら、試験計画を見直す。それができないなら、市場へ出る前に止める。
白組の『アルフレッド』は、研究サンプルとしては完成間近だった。例の流出サンプルのクリームに比べれば欠点もあるが、製品にできる一歩手前のレベルまでにはなっていた。
でも、実際に量産してお客様に渡すとなると、その前に通さなければならない関門がいくつも残っている。
それを飛ばしたまま世に出すことだけは、絶対に避けないといけない。
アルフレッドを作ってきた人間として。そして、化粧品を人の肌へ届ける会社の研究員として、それは譲れない。
メスキータ社のラボは、都心から車で一時間ほど離れた、緑の多い郊外の研究開発団地にあった。
案内されて足を踏み入れた瞬間、私の頭の中はお花畑になっていた。
――なにここ。めちゃくちゃいい。
最新鋭の研究設備。ステンレスの配管と計器が、無菌的な白の中を、設計図どおり迷いなく走っている。
撹拌。乳化。脱泡。充填。分析。各工程が連動し、温度、回転数、トルク、真空度の履歴まで、自動で記録される。
ガラス越しに並ぶ試作用乳化機や分析装置は、白組の地下ラボが五年間夢に見て、予算会議では三秒で却下され続けた設備の完成形だった。
「この乳化機、回転数だけじゃなくてトルク履歴も全バッチ保存ですか?」
「はい。温度と真空度も、一秒単位で記録できます」
案内役であるメスキータ社の担当者は、さも当然という風に頷いた。
「……めっちゃいい」
とうとう、素の声が漏れた。
あの配管を触りたい。あの乳化機の中を覗きたい。あの撹拌翼の形状なら、角度を変えながら三時間は眺められる……。
設備だけを理由に、亡命という二文字が一瞬だけ脳裏をよぎった。
研究員の忠誠心は、最新機器に対して驚くほど脆いのだ。
見学の途中、評価用バルクも確認させてもらった。資料に記載された処方構成。香りと、指先へ伸ばしたときの感触と、そして、あの純白……。
白組が五年間研究したクリームと同じに感じた。
とても白くて、斬新で、そして少しだけザラツキが残っている……。
レシピをキラキラ組に没収されて、メスキータ社に渡されたのだから当然かもしれない。でも、メスキータ社は私たちが作っていたものを完璧に再現しているように思えた。
この設備なら、この技術力なら、委託を任せられるかもしれない……。
そう思いかけていた。
でも、プレゼンルームへ通され、モニターに映し出された「評価プロトコル」の一覧を見た瞬間。私の研究員としての体温が、氷点下まで急降下した。
「え、これだけですか?」
「はい?」
「このあとに、実地試験の一覧があるんですよね?」
担当者は、わずかに表情を曇らせた。
嫌な沈黙だった。私はもう一度、画面を見る。
試験項目が、異様に少ないのだ。加速試験、温度サイクル、凍結融解、輸送振動、容器適合性、実使用試験、防腐力試験、長期安定性……。
アルカサスの製品化基準で、肌に乗るものを世に出す前に通すべき関門が、根こそぎ抜け落ちている。代わりに並んでいるのは、「統計モデルによる予測」「劣化シミュレーション」といった項目ばかりだった。
それらは知らない技術ではない。むしろ、よく知っている。どちらも便利で、正しく使えば優秀だ。だが、これは補助線だ。実測の代わりに据えていいものではない。
「……それだけ、でしょうか?」
絞り出した声が震えた。
「今回、弊社が受託した評価範囲は、画面にある項目のみです。その他については、発注元の判断により、対象外とされています」
担当者が画面を切り替える。
そこには、灰色に塗り潰された試験項目と、その横に並ぶ同じ注記があった。
『発注者指示により除外』
『発注者指示により除外』
『発注者指示により除外』
品質評価表というより、試験項目の墓場だった。
「弊社からは、追加試験の実施を提案しております。新規素材を含む処方ですので、予測モデルのみで上市可否を判断することは難しいと、懸念も文書で提出しましたが……スピード感をもって発売するため、不要なレガシー試験は省き、最新の評価プロトコルを採用せよ、と」
担当者は、そこで一度言葉を切った。
「念のため申し上げますが、『不要なレガシー試験』という表現は、弊社のものではありません」
メスキータ社が、勝手に試験を削ったのではなかった。
彼らは提案した。懸念も残した。それを、アルカサス側が意図的に切り落としたのだ。
「依頼元の人間が言ってはいけないことかもしれませんが、これでは、量産化できるかの可否判断が……」
できない。できっこない……。
販売までのリードタイムが短くて、怪しいとは思っていた。
でも想像以上に、検査項目が少なかった。
「予測モデルを使うこと自体に反対しているんじゃありません。既存処方のデータが十分にあるなら使えます。でも、シンヴェールは新規素材です。学習データの外にあるものを、過去の処方と同じだと仮定して計算しても、保証にはならない……」
「おっしゃるとおりです」
担当者は、まっすぐに私を見た。
「弊社としても、この受託範囲だけで上市品質を保証できるとは申し上げておりません。弊社が請け負ったのは、試作と、指定された範囲の評価です。最終的な発売判断は、あくまで御社が行うものです」
声に、ごまかしはなかった。
彼も分かっている。この設備を動かしている人たちに責任はない。渡された仕様の中で、できる限り正確な仕事をしている。
責任はアルカサス側にある。
「除外指示を含めた資料を、いただけますか?」
「御社へ共有可能な版を準備します」
担当者が資料を操作しようとした、そのときだった。
「――その必要はない」
低い声が、室内へ落ちた。
プレゼンルームの扉が、ゆっくりと開く。
その瞬間、室温が三度ほど下がった気がした。
担当者が慌てて立ち上がり、姿勢を正した。
現れたのは、上質なグレーのスーツを隙なく着こなした、初老の男だった。
綺麗に撫でつけられた白髪。冷徹な眼差し。自分がこの場の支配者であることを、一瞬たりとも疑わない足取り。革靴が床を叩くたび、社内規程の文字が勝手に書き換わりそうな圧……。
座馬玄蕃。颯真の叔父にしてアルカサスの専務。そして、このメスキータ社の社長。
BGMも予告もなく、大ボス本人が登場! そんな感じだった。
そして、その半歩後ろには、見慣れたシルエットが付き従っている。
黒瀬さんだ。
いつものような、フロア全体を照らすキラキラ感はなかった。普段の輝きを極限まで圧縮し、玄蕃の影へぴたりと収まっている。まるで「専務対応モード」という別人格へ切り替わったようだった。
なぜ、黒瀬さんが専務と一緒に?
私の頭の中で、けたたましく警報が鳴り響いた。
玄蕃が私を一瞥する。視線が止まった瞬間、黒瀬さんがすっと彼の耳元へ顔を寄せた。
「――専務。彼女が、例の……」
玄蕃は、ごくわずかに顎を引いた。
「ああ。彼女が、白組の……」
低い声だった。
その言葉には、怒りも敵意もない感じだった。
ただ、道端の小石に名前があったことを、今初めて知ったような目をしていた。
――その二人のやり取りは、不自然なほど呼吸が合っている。
初めてじゃない。何度も繰り返されてきた、慣れた形だ。
その事実に気づいた瞬間。私はなんとなく分かった気がした。
もし、颯真が言っていたとおり、白組の解体が玄蕃専務の計画だったのなら、黒瀬さんも、最初からそこへ加担していたんじゃないか?
証拠はないけれど、私の頭の中はクロだと確信していた。
それくらい今、目の前に並ぶ二人は――あまりにも自然に、同じ側へ立って見える。
「何か、問題があったのかな。湊川くん」
玄蕃は、温度のない微笑みを浮かべた。
「問題しかありません……」
言い切った途端、玄蕃の視線が私へ落ちた。
怒鳴られたわけでもなく、ただ、見られただけ。それなのに、喉の奥がひゅっと狭まり、背筋を冷たいものが走った。
怖い。
ただ視線を向けられただけで、反射的に体がすくむ。
蛇に睨まれた蛙のように……。
それが「専務」という肩書がもたらす重圧なのか、彼自身が放つ威圧感なのかは分からない。思考よりも先に、膝が小さく震えていた。
その時、脳裏に黒ずくめのスーツ姿がよぎった。不愛想で、やたら心配性なオカンの顔が。
それだけで……胸の奥に細い芯が一本戻った。
震える脚はもう戦力外で構わない。
口と脳はまだ動く。
「実地試験が足りません。今のまま量産化するのは危険です」
「試験は、机上検討を使用した最新のプロトコルで担保されている」
「試験を削ったものへ最新と名前をつけても、品質は担保できません」
玄蕃の眉が、わずかに動いた。
「製品化には期限がある。すべてのリスクを、ゼロにはできない」
「ゼロにしろなんて言っていません。測ってもいないリスクを、許容したことにすることはできない、ということです」
玄蕃の目から、完全に温度が消えていた。
構わず私は続けた。
「試験を終えていないものを売るということは、お客様の洗面台を最終試験場にするということです。それは絶対に許されないことです」
室内が、しん、と静まり返った。
メスキータ社の担当者は顔色を失い、固まっていた。横に控える黒瀬さんも、私の反抗が予想外だったのか、わずかに目を見開いている。
しかし――玄蕃だけは。
その表情は、微塵も揺らいでいなかった。
痛くも痒くもない。目の前の小石が、少し耳障りな音を立てただけ。
そう言わんばかりの、底知れない無関心がそこにあった。
「君の懸念は承った」
玄蕃は、私への興味を失ったように背を向けた。
「だが、経営判断は私が下す。試験計画を変更するつもりはない」
革靴の音が遠ざかっていく。
黒瀬さんも、何も言わずにその背中を追った。
扉が閉まる。残された私は、握り締めた拳を開くことができなかった。
* * *
帰り際。
ガラス越しに、試作台へ並ぶ純白のボトルが見えた。
あれは、私たちが作ったものだ。白組のみんなで、五年間、心血を注いできた『アルフレッド』が使われている。
まだ、わずかなざらつきが残っている。完全ではなかったかもしれない。
それでも、必要な試験を一つずつ正当に突破し、商品として安全だと証明できるのなら、世へ出ることを私も受け入れただろう。むしろ、胸を張って送り出したかった。
けれど、その試験すら受けていない。
問題は起きないかもしれない。誠実に量産すれば、重大な不具合は出ないかもしれない。
だが、「起きないかもしれない」で、人の肌へ届けていいものではない。
もし何かあったとき、被害を受けるのは、会社の上層部ではない。
毎朝、自分の顔へ塗ってくれるお客様だ。
――絶対に止める。
必要なら、自分の社員証一枚くらい、賭けてやる。あのクリームを生み出した作り手として。それが、私の責務だ。
* * *
メスキータ社を出たところで、腹が鳴った。
こんな時でも、私の体の要求にどこまでも正直なようである。
帰りのタクシーを呼ぶ前に、私は研究開発団地の端にある小さな休憩広場へ向かった。
昼休みをとうに過ぎたベンチには、誰もいない。
颯真から渡された紙袋を膝へ載せる。朝と重量は変わっていないはずの二段重ねの弁当箱が、妙にずしりと重く感じられた。
蓋を開ける。
整然と並んだ胚芽米。
牛肉を醤油で甘辛く煮たものにイリゴマがふってある。
青菜のお浸し。
だし巻き卵。
叔父の暴走を止めるため、甥の手作り弁当でエネルギー補給する。
なんだか複雑な気持ちだった。
だが、卵焼きに罪はない。
「まず、食べる。それから、止める」
私はだし巻き卵を頬張りながら、スマートフォンを取り出す。
メモの一行目へ、文字を打ち込む。
『Blanche製品化試験――未実施項目および除外指示一覧』
何をすべきかは、もう、嫌になるほどはっきりしている。
胸の底へゆっくりと沈んでいくのは、決して退かない、という覚悟。
そして、出汁の効いた、やたら美味しい卵焼き。
――反撃、開始である。
知らない天井――ではない。残念ながらかなり見慣れている。
地下ラボの奥にある、仮眠室の天井だ。
昨夜、過去の実験データをひっくり返している途中で限界を迎え、「一時間だけ」と、実験ノートを抱えたままベッドへ倒れ込んだところまでは覚えている。
どうやら睡眠中に、そのノートを枕へ用途変更したらしい。
頬には罫線がくっきりと転写され、髪は静電気の実験に大成功したみたいに爆発していた。よれよれの白衣も含めて、研究員というより、研究事故の生存者である。
白衣のポケットからスマートフォンを引き抜き、画面を点ける。
朝、六時。実験ノートに残した最後の記録時刻は、午前一時四十七分。
差分、四時間十三分。
「仮眠……四時間十三分……」
もはや、それは仮眠とは呼べない長さである。
まあ、こうなるのも致し方ない面もある。
昼はキラキラ組の業務。夜は地下ラボで検証。その合間に、ときどき風呂と睡眠を補助工程としてねじ込むという生活……。蘭子さんが自ら寮を訪ねてきてくれた、あの夜の後も、私のそんな二重生活はずっと続いているから。
蘭子さんが警察に逮捕されるような最悪の事態にならなかったのは、心の底から安堵している。あの人を救わなければ、という最初の焦燥は消えた。パトカーに乗せられていく蘭子さんの幻影も消えて、胸の中で鳴り続けていた非常ベルも止まった。
だから、私を突き動かしていた切実な勢いは、ほんの少しだけ弱くなったのかもしれない。
それでも、私は実験をやめてはいなかった。
蘭子さんへの疑惑が晴れても、流出したとされるサンプルと、私たちのクリームが「別物」であることはデータで証明しなければならない。
座馬颯真が言っていたとおり、この流出騒動そのものが専務の陰謀なのだとしたら……。確たる証拠を突きつけ、真実を明らかにできれば――白組を復活させられるかもしれないからだ。
「よし……」
大きく息を吐き、気合を再注入する。
ベッドから立ち上がろうとして――ふと、枕元へ放り出したスマートフォンの予定通知が目に入った。
本日の予定 「出張」。
その二文字を認識した瞬間、眠っていた全神経が再起動した。
「やっば、今日、出張じゃん!」
私は爆発した頭を両手で押さえ、ベッドから飛び上がる。
急いで寮へ戻り、シャワーを浴び、髪をどうにか人類の形へ戻し、スーツに着替えないと。
鞄へ実験ノートを突っ込み、白衣の裾を翻して、ラボの重い扉へ駆け寄る。
扉を開けると――
そこには、漆黒のスーツ姿の颯真が立っていた。
時刻は朝六時である。こちらは顔に罫線、頭に爆発、白衣に皺なのに、向こうは髪、襟、ネクタイ、カフスに至るまで完全制御下にある。
同じ人類の朝六時とは、とても思えない。
「……また、その格好で寝たのか」
颯真はそんな私の姿を上から下まで確認して、これ以上ないほど深く眉根を寄せた。
「はっ。自分、仮眠をとっていましたっ!」
「何時間?」
「はっ。四時間十三分ほどであります」
「それは仮眠ではない。睡眠という」
即座に棄却されてしまった。
仕方がない。自分でもそう思う。
「仮眠は構わないが、ここで完全に寝泊まりするのは契約違反だ」
「善処します!」
「善処しない人間の返事だな」
颯真は、朝六時から正論の切れ味が鋭かった。
「はっ! 急ぎ、寮へ戻りますー」
私はびしっと敬礼を決め、逃げるように颯真の横をすり抜けかけて――ふと、足を止めた。
そういえば、颯真にはまだ、蘭子さんのことを話していない。もう彼女が警察の調べを受けることはないことも。ヒラルダ社へ行ってしまうことも。
この人の情報網なら、とっくに知っている気はする。
それでも、一度、きちんと話しておいた方がいいのだろうか。蘭子さんのこと。そして、これから私がどう動くべきなのかを……。
声をかけるべきか迷い、颯真の横顔をちらりと見上げる。けれど、何から切り出せばいいのか、答えが出ない。
結局、何も言えないまま、再び歩き出そうとした――そのとき。
「待て」
呼び止められた。
振り返る私に、颯真は大きな紙袋を差し出してきた。
「今日は、出張だったな」
「……なんで知ってるんですか?」
「アウトルックの予定表に書いてあった」
「わざわざ私の予定表を見たんですか。怖っ」
「全社員に公開されている共有予定だ」
「公開情報を毎朝巡回するのも、かなりストーカー寄りの行動ですよ」
言いながら、紙袋の中を覗き込む。二段重ねの巨大な弁当箱が入っていた。しかも、一段一段が深いやつ。運動会か花見にでも行くのかというボリュームである。
「……あの、これ?」
「出張先は遠い。移動時間も長いし、現地へ着けば昼食を取れる時間も読めない。弁当を持参するのが最適だ」
「かなりボリューミーに見えますが」
「どうせいつも昼食はお菓子とか菓子パンで済ませているのだろう」
「な、なぜ、それを」
「それではカロリーは摂取できても栄養が足りない」
「でも、最近、夕飯は頂いているので……。感謝してますけど……。この勢いで食べていたら、私、太りそうなんですが」
「女性は、多少ふくよかな方が長生きするという研究報告もある」
「対象年齢も交絡因子も無視して、都合のいいところだけつまみ食いしないでください! 未来の寿命よりも、せっかく買ったスーツが入らなくなる方が問題なんです」
「いらないなら、持ち帰るが」
颯真が紙袋を引こうとする。私は反射的に、持ち手を掴んだ。
「いえ、いらないとは言ってません……」
「では、持っていって、今日くらいはちゃんとした昼食をとるべきだ。その際、よく噛んで食べること。水分も十分とった方がいい」
「あー、はいはい」
「『はい』は一回でいい」
「はい、お母さん」
「誰がお母さんだ」
「今のは、小学生が、学校の先生をうっかり『お母さん』と呼んでしまう、あの現象を再現しました」
「早く行け。遅れるぞ」
「はっ! 行ってまいります!」
「気をつけて行ってこい」
最後の一言まで、完全にお母さんだった。
* * *
三十分後、私は郊外を走るタクシーの中にいた。
向かう先は、メスキータ社。
研究開発部門である白組を解散させたアルカサスが、新たに化粧品の研究開発を委託した会社。そして、アルカサスの実権を握る座馬玄蕃専務が、社長を兼務しているという。
私はその会社へ、Blancheを本格的に商品化するために必要な最終試験項目の確認に向かっている。
以前の打ち合わせで、委託先の品質試験計画について確認させてほしいと申し出ると、黒瀬さんは二つ返事で了承した。
「「ええ、いいわよ。確認する『だけ』ならね」」
もちろん確認だけで終わらせるつもりはない。不足があるなら、試験計画を見直す。それができないなら、市場へ出る前に止める。
白組の『アルフレッド』は、研究サンプルとしては完成間近だった。例の流出サンプルのクリームに比べれば欠点もあるが、製品にできる一歩手前のレベルまでにはなっていた。
でも、実際に量産してお客様に渡すとなると、その前に通さなければならない関門がいくつも残っている。
それを飛ばしたまま世に出すことだけは、絶対に避けないといけない。
アルフレッドを作ってきた人間として。そして、化粧品を人の肌へ届ける会社の研究員として、それは譲れない。
メスキータ社のラボは、都心から車で一時間ほど離れた、緑の多い郊外の研究開発団地にあった。
案内されて足を踏み入れた瞬間、私の頭の中はお花畑になっていた。
――なにここ。めちゃくちゃいい。
最新鋭の研究設備。ステンレスの配管と計器が、無菌的な白の中を、設計図どおり迷いなく走っている。
撹拌。乳化。脱泡。充填。分析。各工程が連動し、温度、回転数、トルク、真空度の履歴まで、自動で記録される。
ガラス越しに並ぶ試作用乳化機や分析装置は、白組の地下ラボが五年間夢に見て、予算会議では三秒で却下され続けた設備の完成形だった。
「この乳化機、回転数だけじゃなくてトルク履歴も全バッチ保存ですか?」
「はい。温度と真空度も、一秒単位で記録できます」
案内役であるメスキータ社の担当者は、さも当然という風に頷いた。
「……めっちゃいい」
とうとう、素の声が漏れた。
あの配管を触りたい。あの乳化機の中を覗きたい。あの撹拌翼の形状なら、角度を変えながら三時間は眺められる……。
設備だけを理由に、亡命という二文字が一瞬だけ脳裏をよぎった。
研究員の忠誠心は、最新機器に対して驚くほど脆いのだ。
見学の途中、評価用バルクも確認させてもらった。資料に記載された処方構成。香りと、指先へ伸ばしたときの感触と、そして、あの純白……。
白組が五年間研究したクリームと同じに感じた。
とても白くて、斬新で、そして少しだけザラツキが残っている……。
レシピをキラキラ組に没収されて、メスキータ社に渡されたのだから当然かもしれない。でも、メスキータ社は私たちが作っていたものを完璧に再現しているように思えた。
この設備なら、この技術力なら、委託を任せられるかもしれない……。
そう思いかけていた。
でも、プレゼンルームへ通され、モニターに映し出された「評価プロトコル」の一覧を見た瞬間。私の研究員としての体温が、氷点下まで急降下した。
「え、これだけですか?」
「はい?」
「このあとに、実地試験の一覧があるんですよね?」
担当者は、わずかに表情を曇らせた。
嫌な沈黙だった。私はもう一度、画面を見る。
試験項目が、異様に少ないのだ。加速試験、温度サイクル、凍結融解、輸送振動、容器適合性、実使用試験、防腐力試験、長期安定性……。
アルカサスの製品化基準で、肌に乗るものを世に出す前に通すべき関門が、根こそぎ抜け落ちている。代わりに並んでいるのは、「統計モデルによる予測」「劣化シミュレーション」といった項目ばかりだった。
それらは知らない技術ではない。むしろ、よく知っている。どちらも便利で、正しく使えば優秀だ。だが、これは補助線だ。実測の代わりに据えていいものではない。
「……それだけ、でしょうか?」
絞り出した声が震えた。
「今回、弊社が受託した評価範囲は、画面にある項目のみです。その他については、発注元の判断により、対象外とされています」
担当者が画面を切り替える。
そこには、灰色に塗り潰された試験項目と、その横に並ぶ同じ注記があった。
『発注者指示により除外』
『発注者指示により除外』
『発注者指示により除外』
品質評価表というより、試験項目の墓場だった。
「弊社からは、追加試験の実施を提案しております。新規素材を含む処方ですので、予測モデルのみで上市可否を判断することは難しいと、懸念も文書で提出しましたが……スピード感をもって発売するため、不要なレガシー試験は省き、最新の評価プロトコルを採用せよ、と」
担当者は、そこで一度言葉を切った。
「念のため申し上げますが、『不要なレガシー試験』という表現は、弊社のものではありません」
メスキータ社が、勝手に試験を削ったのではなかった。
彼らは提案した。懸念も残した。それを、アルカサス側が意図的に切り落としたのだ。
「依頼元の人間が言ってはいけないことかもしれませんが、これでは、量産化できるかの可否判断が……」
できない。できっこない……。
販売までのリードタイムが短くて、怪しいとは思っていた。
でも想像以上に、検査項目が少なかった。
「予測モデルを使うこと自体に反対しているんじゃありません。既存処方のデータが十分にあるなら使えます。でも、シンヴェールは新規素材です。学習データの外にあるものを、過去の処方と同じだと仮定して計算しても、保証にはならない……」
「おっしゃるとおりです」
担当者は、まっすぐに私を見た。
「弊社としても、この受託範囲だけで上市品質を保証できるとは申し上げておりません。弊社が請け負ったのは、試作と、指定された範囲の評価です。最終的な発売判断は、あくまで御社が行うものです」
声に、ごまかしはなかった。
彼も分かっている。この設備を動かしている人たちに責任はない。渡された仕様の中で、できる限り正確な仕事をしている。
責任はアルカサス側にある。
「除外指示を含めた資料を、いただけますか?」
「御社へ共有可能な版を準備します」
担当者が資料を操作しようとした、そのときだった。
「――その必要はない」
低い声が、室内へ落ちた。
プレゼンルームの扉が、ゆっくりと開く。
その瞬間、室温が三度ほど下がった気がした。
担当者が慌てて立ち上がり、姿勢を正した。
現れたのは、上質なグレーのスーツを隙なく着こなした、初老の男だった。
綺麗に撫でつけられた白髪。冷徹な眼差し。自分がこの場の支配者であることを、一瞬たりとも疑わない足取り。革靴が床を叩くたび、社内規程の文字が勝手に書き換わりそうな圧……。
座馬玄蕃。颯真の叔父にしてアルカサスの専務。そして、このメスキータ社の社長。
BGMも予告もなく、大ボス本人が登場! そんな感じだった。
そして、その半歩後ろには、見慣れたシルエットが付き従っている。
黒瀬さんだ。
いつものような、フロア全体を照らすキラキラ感はなかった。普段の輝きを極限まで圧縮し、玄蕃の影へぴたりと収まっている。まるで「専務対応モード」という別人格へ切り替わったようだった。
なぜ、黒瀬さんが専務と一緒に?
私の頭の中で、けたたましく警報が鳴り響いた。
玄蕃が私を一瞥する。視線が止まった瞬間、黒瀬さんがすっと彼の耳元へ顔を寄せた。
「――専務。彼女が、例の……」
玄蕃は、ごくわずかに顎を引いた。
「ああ。彼女が、白組の……」
低い声だった。
その言葉には、怒りも敵意もない感じだった。
ただ、道端の小石に名前があったことを、今初めて知ったような目をしていた。
――その二人のやり取りは、不自然なほど呼吸が合っている。
初めてじゃない。何度も繰り返されてきた、慣れた形だ。
その事実に気づいた瞬間。私はなんとなく分かった気がした。
もし、颯真が言っていたとおり、白組の解体が玄蕃専務の計画だったのなら、黒瀬さんも、最初からそこへ加担していたんじゃないか?
証拠はないけれど、私の頭の中はクロだと確信していた。
それくらい今、目の前に並ぶ二人は――あまりにも自然に、同じ側へ立って見える。
「何か、問題があったのかな。湊川くん」
玄蕃は、温度のない微笑みを浮かべた。
「問題しかありません……」
言い切った途端、玄蕃の視線が私へ落ちた。
怒鳴られたわけでもなく、ただ、見られただけ。それなのに、喉の奥がひゅっと狭まり、背筋を冷たいものが走った。
怖い。
ただ視線を向けられただけで、反射的に体がすくむ。
蛇に睨まれた蛙のように……。
それが「専務」という肩書がもたらす重圧なのか、彼自身が放つ威圧感なのかは分からない。思考よりも先に、膝が小さく震えていた。
その時、脳裏に黒ずくめのスーツ姿がよぎった。不愛想で、やたら心配性なオカンの顔が。
それだけで……胸の奥に細い芯が一本戻った。
震える脚はもう戦力外で構わない。
口と脳はまだ動く。
「実地試験が足りません。今のまま量産化するのは危険です」
「試験は、机上検討を使用した最新のプロトコルで担保されている」
「試験を削ったものへ最新と名前をつけても、品質は担保できません」
玄蕃の眉が、わずかに動いた。
「製品化には期限がある。すべてのリスクを、ゼロにはできない」
「ゼロにしろなんて言っていません。測ってもいないリスクを、許容したことにすることはできない、ということです」
玄蕃の目から、完全に温度が消えていた。
構わず私は続けた。
「試験を終えていないものを売るということは、お客様の洗面台を最終試験場にするということです。それは絶対に許されないことです」
室内が、しん、と静まり返った。
メスキータ社の担当者は顔色を失い、固まっていた。横に控える黒瀬さんも、私の反抗が予想外だったのか、わずかに目を見開いている。
しかし――玄蕃だけは。
その表情は、微塵も揺らいでいなかった。
痛くも痒くもない。目の前の小石が、少し耳障りな音を立てただけ。
そう言わんばかりの、底知れない無関心がそこにあった。
「君の懸念は承った」
玄蕃は、私への興味を失ったように背を向けた。
「だが、経営判断は私が下す。試験計画を変更するつもりはない」
革靴の音が遠ざかっていく。
黒瀬さんも、何も言わずにその背中を追った。
扉が閉まる。残された私は、握り締めた拳を開くことができなかった。
* * *
帰り際。
ガラス越しに、試作台へ並ぶ純白のボトルが見えた。
あれは、私たちが作ったものだ。白組のみんなで、五年間、心血を注いできた『アルフレッド』が使われている。
まだ、わずかなざらつきが残っている。完全ではなかったかもしれない。
それでも、必要な試験を一つずつ正当に突破し、商品として安全だと証明できるのなら、世へ出ることを私も受け入れただろう。むしろ、胸を張って送り出したかった。
けれど、その試験すら受けていない。
問題は起きないかもしれない。誠実に量産すれば、重大な不具合は出ないかもしれない。
だが、「起きないかもしれない」で、人の肌へ届けていいものではない。
もし何かあったとき、被害を受けるのは、会社の上層部ではない。
毎朝、自分の顔へ塗ってくれるお客様だ。
――絶対に止める。
必要なら、自分の社員証一枚くらい、賭けてやる。あのクリームを生み出した作り手として。それが、私の責務だ。
* * *
メスキータ社を出たところで、腹が鳴った。
こんな時でも、私の体の要求にどこまでも正直なようである。
帰りのタクシーを呼ぶ前に、私は研究開発団地の端にある小さな休憩広場へ向かった。
昼休みをとうに過ぎたベンチには、誰もいない。
颯真から渡された紙袋を膝へ載せる。朝と重量は変わっていないはずの二段重ねの弁当箱が、妙にずしりと重く感じられた。
蓋を開ける。
整然と並んだ胚芽米。
牛肉を醤油で甘辛く煮たものにイリゴマがふってある。
青菜のお浸し。
だし巻き卵。
叔父の暴走を止めるため、甥の手作り弁当でエネルギー補給する。
なんだか複雑な気持ちだった。
だが、卵焼きに罪はない。
「まず、食べる。それから、止める」
私はだし巻き卵を頬張りながら、スマートフォンを取り出す。
メモの一行目へ、文字を打ち込む。
『Blanche製品化試験――未実施項目および除外指示一覧』
何をすべきかは、もう、嫌になるほどはっきりしている。
胸の底へゆっくりと沈んでいくのは、決して退かない、という覚悟。
そして、出汁の効いた、やたら美味しい卵焼き。
――反撃、開始である。

