「……蘭子さん」
喉の奥からこぼれた声が掠れていた。
朝五時から気合いで組み上げた装甲も、半日ヒールに締め上げられ、もはや感覚の消えた両足も、かかとのストラップごと右手に引っかけた黒いスリングバックのパンプスも……。何もかもが、その一瞬で、頭から吹き飛んだ。
西城蘭子。白組の責任者。私が入社した日から、五年間ずっと背中を追い続けてきた、たった一人の人。
最後に見たのは、あの朝の研究棟の車寄せだった。
刑事たちに前後を挟まれ、グレーのカーディガンの肩を小さく丸めて、赤色灯の回るパトカーへ歩いていく背中。
あの日、颯真から、少なくとも聴取が続いているあいだは接触するな、と止められた。口裏合わせや証拠隠滅を疑われれば、蘭子さんの立場まで悪くなる。それが分かっていたから、私は一度も電話をかけなかった。メールも送らなかった。
その人が。
今、私の部屋の前に立っている。
今夜の蘭子さんは、あの朝のカーディガンではなかった。
白いシャツに、チャコールグレーのパンツ。肩口で切りそろえた黒髪。細い銀縁眼鏡。
服装だけを見れば、いつもの蘭子さんだった。
背筋も、ぴんと伸びている。ただ、その目の下には、私と同じ種類の疲労が、たいへん正直な色で沈んでいた。
「……なんで、ここに」
「三十分、待ったわ」
蘭子さんは、腕時計へちらりと目を落とした。
「部屋、変わってなくてよかった。郵便受けに名前が残っていたから。この寮、もうすぐ閉鎖なんでしょう。もう引っ越したかと思ってたの」
「閉鎖のことまで、知ってたんですか」
「二年前に引っ越したけど、私、まだこの寮に部屋を残しているから」
そうだった。
反応待ちで終電を逃した夜、この古い建物の一室で仮眠をむさぼっていたのは、私だけじゃない。
言葉が続かない。聞きたいことが多すぎる。
逮捕のこと、取り調べのこと、流出したサンプルのこと……。
頭の中で疑問が多重衝突を起こし、完全に交通網が麻痺している。
どれも喉の手前で団子になって、一つも出てこない。
代わりに、口から出たのは、ひどく間の抜けた一言だった。
「……とりあえず、中に。廊下じゃ、話せませんから……」
* * *
四畳半の私の寮の部屋。
人を招くための部屋とは言いづらい。
床では研究ペーパーのコピーが地層を形成し、その上に脱ぎ散らかしたパーカーが不時着。ミニキッチンのシンクには、いつ使ったか記憶にないマグカップが一つ。底に残ったコーヒーが干上がり、すでに一つの生態系を築きかけていた。
壁の百円ショップで購入したミニホワイトボードは、消し忘れた配合比と、
『牛乳を買う』
という三週間前の走り書きで、仲良く埋まっている。
……ちなみに牛乳は、まだ買っていない。
私が慌てて床の地層を片付けて人類の生存領域を確保するより早く、蘭子さんは畳の上へ、ごく自然に腰を下ろした。
そして座ったまま、私を上から下まで、一度だけ、ゆっくりと見た。
「……どうしたの、その格好」
忘れてた。
私は今、朝五時から丹念に組み上げた「別人」のままだった。
すっぴん白衣の標準仕様から見ると、地質年代が二つほどずれた姿をしている。。
「い、いえ、これはですね。その、今日、PRイベントがあって、必要に迫られて一時的に、その、社会適応用の外装を――」
脳内で、言い訳の稟議書を高速回覧する。
しかし、一人目の決裁印すら押されないうちに、蘭子さんは言った。
「かわいい」
「…………」
全処理、停止。
今日一日で、いちばん衝撃を受けた言葉だった。
会場で浴びた、計算し尽くされた賞賛の束よりも、玄人記者が最後に見せた、納得の頷きよりも、颯真に言われた感想よりも……。もっと深いところへ刺さって、抜けなくなった。
私は慌てて、蘭子さんの向かいへ正座する。
膝が笑っている。緊張のせいか、ヒールの後遺症かは、判別不能だった。
「あの……蘭子さん。警察は、どうなりましたか?」
「警察? あの日以来、行ってないけど?」
蘭子さんは静かに言った。
「任意同行で事情を聞かれただけだから。聴取も、一日で終わったけど?」
「え……でも、あの朝。パトカーが三台も来て、刑事さんに囲まれて、あんなふうに連れていかれて」
「あれは会社が、通勤する社員の目のつく劇的なタイミングを狙ったからだけ」
蘭子さんの声が、一段低くなった。
「警察は、会社から出された被害届を受けて、必要な確認をした。それだけよ。でも会社は、警察が来る日時を知っていたのに、裏口を使わせることも、社員を遠ざけることもできた。それをしなかった」
銀縁眼鏡の奥で、蘭子さんの目が冷える。
「パトカーを正面の車寄せに並べて、出勤してきた社員全員の前を、私に歩かせた。そして、その日のうちに白組を解体したのよ」
背筋が、すっと冷えた。
「私がどうして任意同行されたか、知ってる?」
「はい……。なんか、蘭子さんがシンヴェールのサンプルを、リークしたって……」
「私もそう聞いたわ。証拠なんてどこにもないし、刑事さんも半信半疑だった。なのに、パトカーは三台も来て、社員全員が見ている前を歩かされた」
蘭子さんの声は、怒るでもなく、ただ冷めきっていた。。
「事実なんて、どうでもよかったの。『西城蘭子が警察に連れていかれた』『白組は犯罪者を出した』――会社が欲しかったのは真相じゃない。全社員の目にそれを焼きつける、たった一枚の『絵』だけだったのよ」
三台のパトカー、音もなく回る赤色灯、濃紺のスーツの刑事たち。そして、その間を歩かされる蘭子さん。出勤途中の誰もが足を止め、振り返った、あの朝のこと。
偶然ではなかった。
いちばん多くの社員が目にし、いちばん誤解し、いちばん長く記憶する時間と角度。
誰かがそれを選び、あの光景を作った。
「……専務ですね。座馬玄蕃」
蘭子さんは肯定も否定もしなかった。ただ、細い指先で銀縁眼鏡のブリッジをそっと押し上げただけだった。
「警察が来るより、ずっと前からよ」
蘭子さんは、小さく肩をすくめてみせた。
「私は内部監査に目をつけられていた。入退室記録も、メールも、端末の操作履歴も。何時にどこへ行って、誰と話したかまで、全部調べられていた。……私も、薄々は気づいていたわ」
「どうして、教えてくれなかったんですか。知っていたのに、ずっと、一人で……」
「だって」
蘭子さんは少しだけ首をかしげ、困ったような、けれどどこか優しい目をした。
「言ったら、由芽は心配するでしょう。心配して、夜も寝ないで勝手に調べて、証拠もないまま監査へ正面から喧嘩を売る。……あなた、隠し事も嘘も、壊滅的に下手なんだから」
「…………っ」
図星すぎて、反論の言葉が喉に詰まる。
もし知っていたら。
監査の人間と廊下ですれ違っただけで、間違いなく顔に出る。絶対に態度で喧嘩を売っていた自信がある。
「私一人なら、どうとでもなる。肩書きを剥がされても、研究者は、ラボとこの頭と両手が動けば、何度でもやり直せる。でも、あなたまで巻き込まれて潰される必要はない。――だから、黙っていたの」
その声は、静かだった。温かくて、強い。
目の前が、ぐらりと揺れた。
私はずっと、自分が蘭子さんを守るのだと息巻いていた。
地下のラボへ潜り込み、純白のサンプルを分析して、無実を証明する。奪われたものを取り返して、蘭子さんを白組へ連れ戻す。
そのために、私は走ってきたつもりだった。
でも――逆だったのだ。蘭子さんは、自分の身に何が起きるか分かっていながら、私には何も知らせなかった。
監査も疑いも会社が用意した悪意も、たった一人で、正面から受け止めた。
私が蘭子さんを守るために走り出す、そのずっと前から。蘭子さんは、私を守り抜いていたのだ。
私は込み上げてくるものを、奥歯で噛み殺した。
震える声を、どうにか研究員のそれへ戻した。
「私、調べたんです。蘭子さんがリークしたって話の純白のクリーム」
「へえ」
「配合比も顕微鏡像も、白組の最終試作と一致しました。でも――」
私は、ぎゅっと膝の上の布地を握りしめた。
「でも、同じじゃない。あれには、白組のやり方じゃ、絶対にあの安定性には届かない。……七十三回やって、全部ダメでした。だから、蘭子さんが、現物をそのままリークしたなんて、ありえない」
蘭子さんの目が、ほんの一ミリほど見開かれた。
「……そこまで、調べたのね」
「はい」
「リークしたシンヴェールがあったとしても、あなたが見れば、私が持ち出した物ではないと分かると――思ってた」
思ってた。
過去形。
その言い方に引っかかりを覚えるより早く、蘭子さんは続けた。
「でも、その先は、もう追わなくていいわ。少なくとも、私のためには、もう何もしなくていい」
「え?」
理解が追いつかない。
証明。
それは、私がこの数日間、すべてを賭けてきたものだ。
蘭子さんの無実を、感覚ではなく数字で証明する。その一点だけを支えに、私は走ってきた。
その相手が今、もういらない、と言ったのだ。
「どうして……ですか。何もしなくていいなんて、どうして……」
「……捨てる神あれば、拾う神あり、って言うでしょう」
蘭子さんは私の言葉を穏やかに遮り、ふっと笑った。
「ヒラルダ社って、知ってる? アルカサスと古くから付き合いのある、化粧品の研究開発をしている会社よ」
「……はい。名前だけは」
「そこが、新設する研究所の所長として、私を迎えたいと言ってくれたの」
「研究所長……?」
「向こうは、今回の件で私が潔白だと確認したうえで、来てほしいって」
私は息を呑んだ。
「でも、アルカサスは……止めなかったんですか。リークを疑っておきながら、同業他社への転職なんて」
「止めるどころか、向こうから手打ちにしてきたのよ」
蘭子さんは、皮肉気に唇を歪めた。
「警察は、立件できるだけの証拠がないと見ている。そもそも犯罪として成立するかも怪しい。アルカサスの上層部も、白組という目障りな部署を解体できたんだから、もう目的は果たしたのよ。これ以上揉めて、マスコミに嗅ぎ回られるほうが困るんでしょうね」
「そんな……じゃあ、本当に」
「ええ。転職はあっさり認められたわ。ご丁寧に、割増の退職金までつけてね」
「それ……いつから、ですか」
水分の消えた喉から、どうにか声を絞り出す。
蘭子さんは、当然のことのように答えた。
「来月からよ」
来月。
それはつまり、会社との交渉も、移籍の手続きも、すべて終わっているということだ。
私はこのところ、蘭子さんを元の場所へ連れ戻すことばかり考えていた。
けれど蘭子さんは、とっくに「元の場所」など見ていなかった。別の未来を選び、そこへ続く道を、自分の手で切り開いていたのだ。
呆然とする私を、蘭子さんがまっすぐに見つめた。
銀縁眼鏡の奥の瞳には、静かな熱が灯っていた。
「ねえ、由芽」
「……はい」
「あなたも、一緒に来ない?」
心臓が、胸の奥で一度だけ強く鳴った。
「散らされた白組の人たちにも、順に声をかけるつもりよ。最初は、私一人に来てほしいという話だった。でも、それなら断ると言ったの。私一人だけ新天地に行って、それで終わりにする気はないもの」
蘭子さんは、コクリと頷いた。
「散らされた白組を呼び戻せるだけの採用枠と、人選を私に任せること。それを条件にした。向こうも、全部飲んだわ。だから、あなたにも声をかけに来たの。考えてみて」
蘭子さんの声は、どこまでも穏やかだった。
「この会社で、私たちはずっと地下二階だったでしょう。どんなに新しい処方を組んでも、どれだけ本物を作っても、日の当たる場所には出られない。名前も、手柄も、最後には全部、上の階の人間が持っていく」
反論できない。どれも、私自身が五年間、悔しさと一緒に飲み込んできた事実だったからだ。
「研究が、ちゃんと主役になれる会社へ行きましょうよ。専用のラボも、十分な予算も、人も用意できるはずよ」
蘭子さんはもう一度、今度は深く頷いた。
「今度は、私たちが作ったものを、私たちの名前で世に出しましょうよ。開発した人がもっと商品の前面に立つの」
それは、私が五年間、理想としてきた世界だ……。
「あなたなら、もっと自由に、もっと――」
「――でも」
蘭子さんの言葉を遮ったのは、私自身の声。
四畳半の空気が、ぴたりと止まる。気づけば、畳の上の両手は固い拳になり、爪が掌へ食い込んでいた。
「……私は、白組を、アルカサスで復活させたい……です」
それは、五年間追い続けてきた人へ初めて――「ついていかない」と告げる言葉だった。
「ここで潰された白組を、潰されたまま終わったことにしたくないんです。奪われた技術も、名前も、そのまま他の人間へ渡したくない」
震えていた声が、一言ずつ、私自身のものになっていく。
「協力すると言ってくれた人もいます。アルカサスには白組が必要だと、そう思ってくれている人が。だから私は、まだ――ここを離れられません」
颯真の名前は出さなかった。
あの人のことは、まだ、うまく言葉にできない気がしたから……。
蘭子さんは、反論しなかった。
銀縁眼鏡の奥から、ただまっすぐに私を見ていた。
張り詰めた沈黙。外の廊下で、寿命の近い蛍光灯が相変わらずジジと鳴いている。
やがて。
蘭子さんは、ふっと息を吐くように笑った。
「……そう。あなたなら、そう言うと思った」
怒っているのでも責めているのでもなく、ただ、ずっと遠くを見るような目をしていた。
「だけど、私はもう、この会社には見切りをつけた」
再び、沈黙が、四畳半へ降りた。
重い。
五年間、同じ地下二階に立っていた二人の道が、今ここで、別々に分かれようとしている重さ。たった四畳半しかないのに、空気だけで床が抜けそうだった。
その息苦しさに耐えきれず、私は逃げるように声を張り上げた。
「そうだ! お、お茶、出しますね!」
勢いよく立ち上がり、ミニキッチンの棚を開ける。
使えそうなカップが一個しかない。他は、底に謎の茶渋が地層を形成した限界マグカップ。
私は、唯一のまともなカップを蘭子さん用に取り出した。そして自分用を求め、視線をシンクの横へ移す。洗って伏せてある、私物の新品ビーカーが一つ。
私は、ごく自然に、その一つへ手を伸ばした。
「由芽」
「はい」
「それに、お茶を注ぐ気ね」
「はい、煮沸消毒済みですし、目盛りがあるので二百ミリリットルを正確に」
「あなた、そういうところは」
蘭子さんが、目尻をくしゃりと下げて笑った。
「五年前から、一ミリも変わらないのね」
その笑顔を見た瞬間、鼻の奥が、つんと痛んだ。
変わっていないのは、私だけなんだと感じて……。
蘭子さんは、私の知らないところで一人で耐えて、一人で次の場所を決めて――そして今、一人で、ここを去ろうとしている……。
私は、自分用に握りかけたビーカーを、そっと棚へ戻した。
「……蘭子さん」
「なに?」
「今は、行けません」
勧誘への返事だった。
「でも、これで最後の返事にはしたくありません。アルカサスでやるべきことを終えて、それでも私が蘭子さんのお役に立てるなら……そのとき、もう一度、声をかけてください」
白組をここで復活させる。それはどうしても果たしたいことだ。
けれど、五年間追い続けてきたこの人の差し出した手を、今ここで完全に振り払うこともできなかった。
「もちろん。ゆっくり考えて」
そう言うと、蘭子さんは立ち上がった。
「お茶はもういいわ。最近、夜にカフェインを摂取すると、眠りづらくなるのよ。歳かしらね」
蘭子さんはそんなことを言って、パンツの皺を手で伸ばし、鞄を取る。
鉄扉の前で、蘭子さんは一度だけ振り返った。
「由芽」
「はい」
「もう一度言うけど、私のことは、もう庇わなくていいのよ」
それだけ言って、蘭子さんは廊下へ出ていった。
あの朝とは違い、蘭子さんは背筋を伸ばし、足音一つ乱さず、振り返らなかった。
それは、自分の手で次の一手を打ち終えた人の背中に見えた。
喉の奥からこぼれた声が掠れていた。
朝五時から気合いで組み上げた装甲も、半日ヒールに締め上げられ、もはや感覚の消えた両足も、かかとのストラップごと右手に引っかけた黒いスリングバックのパンプスも……。何もかもが、その一瞬で、頭から吹き飛んだ。
西城蘭子。白組の責任者。私が入社した日から、五年間ずっと背中を追い続けてきた、たった一人の人。
最後に見たのは、あの朝の研究棟の車寄せだった。
刑事たちに前後を挟まれ、グレーのカーディガンの肩を小さく丸めて、赤色灯の回るパトカーへ歩いていく背中。
あの日、颯真から、少なくとも聴取が続いているあいだは接触するな、と止められた。口裏合わせや証拠隠滅を疑われれば、蘭子さんの立場まで悪くなる。それが分かっていたから、私は一度も電話をかけなかった。メールも送らなかった。
その人が。
今、私の部屋の前に立っている。
今夜の蘭子さんは、あの朝のカーディガンではなかった。
白いシャツに、チャコールグレーのパンツ。肩口で切りそろえた黒髪。細い銀縁眼鏡。
服装だけを見れば、いつもの蘭子さんだった。
背筋も、ぴんと伸びている。ただ、その目の下には、私と同じ種類の疲労が、たいへん正直な色で沈んでいた。
「……なんで、ここに」
「三十分、待ったわ」
蘭子さんは、腕時計へちらりと目を落とした。
「部屋、変わってなくてよかった。郵便受けに名前が残っていたから。この寮、もうすぐ閉鎖なんでしょう。もう引っ越したかと思ってたの」
「閉鎖のことまで、知ってたんですか」
「二年前に引っ越したけど、私、まだこの寮に部屋を残しているから」
そうだった。
反応待ちで終電を逃した夜、この古い建物の一室で仮眠をむさぼっていたのは、私だけじゃない。
言葉が続かない。聞きたいことが多すぎる。
逮捕のこと、取り調べのこと、流出したサンプルのこと……。
頭の中で疑問が多重衝突を起こし、完全に交通網が麻痺している。
どれも喉の手前で団子になって、一つも出てこない。
代わりに、口から出たのは、ひどく間の抜けた一言だった。
「……とりあえず、中に。廊下じゃ、話せませんから……」
* * *
四畳半の私の寮の部屋。
人を招くための部屋とは言いづらい。
床では研究ペーパーのコピーが地層を形成し、その上に脱ぎ散らかしたパーカーが不時着。ミニキッチンのシンクには、いつ使ったか記憶にないマグカップが一つ。底に残ったコーヒーが干上がり、すでに一つの生態系を築きかけていた。
壁の百円ショップで購入したミニホワイトボードは、消し忘れた配合比と、
『牛乳を買う』
という三週間前の走り書きで、仲良く埋まっている。
……ちなみに牛乳は、まだ買っていない。
私が慌てて床の地層を片付けて人類の生存領域を確保するより早く、蘭子さんは畳の上へ、ごく自然に腰を下ろした。
そして座ったまま、私を上から下まで、一度だけ、ゆっくりと見た。
「……どうしたの、その格好」
忘れてた。
私は今、朝五時から丹念に組み上げた「別人」のままだった。
すっぴん白衣の標準仕様から見ると、地質年代が二つほどずれた姿をしている。。
「い、いえ、これはですね。その、今日、PRイベントがあって、必要に迫られて一時的に、その、社会適応用の外装を――」
脳内で、言い訳の稟議書を高速回覧する。
しかし、一人目の決裁印すら押されないうちに、蘭子さんは言った。
「かわいい」
「…………」
全処理、停止。
今日一日で、いちばん衝撃を受けた言葉だった。
会場で浴びた、計算し尽くされた賞賛の束よりも、玄人記者が最後に見せた、納得の頷きよりも、颯真に言われた感想よりも……。もっと深いところへ刺さって、抜けなくなった。
私は慌てて、蘭子さんの向かいへ正座する。
膝が笑っている。緊張のせいか、ヒールの後遺症かは、判別不能だった。
「あの……蘭子さん。警察は、どうなりましたか?」
「警察? あの日以来、行ってないけど?」
蘭子さんは静かに言った。
「任意同行で事情を聞かれただけだから。聴取も、一日で終わったけど?」
「え……でも、あの朝。パトカーが三台も来て、刑事さんに囲まれて、あんなふうに連れていかれて」
「あれは会社が、通勤する社員の目のつく劇的なタイミングを狙ったからだけ」
蘭子さんの声が、一段低くなった。
「警察は、会社から出された被害届を受けて、必要な確認をした。それだけよ。でも会社は、警察が来る日時を知っていたのに、裏口を使わせることも、社員を遠ざけることもできた。それをしなかった」
銀縁眼鏡の奥で、蘭子さんの目が冷える。
「パトカーを正面の車寄せに並べて、出勤してきた社員全員の前を、私に歩かせた。そして、その日のうちに白組を解体したのよ」
背筋が、すっと冷えた。
「私がどうして任意同行されたか、知ってる?」
「はい……。なんか、蘭子さんがシンヴェールのサンプルを、リークしたって……」
「私もそう聞いたわ。証拠なんてどこにもないし、刑事さんも半信半疑だった。なのに、パトカーは三台も来て、社員全員が見ている前を歩かされた」
蘭子さんの声は、怒るでもなく、ただ冷めきっていた。。
「事実なんて、どうでもよかったの。『西城蘭子が警察に連れていかれた』『白組は犯罪者を出した』――会社が欲しかったのは真相じゃない。全社員の目にそれを焼きつける、たった一枚の『絵』だけだったのよ」
三台のパトカー、音もなく回る赤色灯、濃紺のスーツの刑事たち。そして、その間を歩かされる蘭子さん。出勤途中の誰もが足を止め、振り返った、あの朝のこと。
偶然ではなかった。
いちばん多くの社員が目にし、いちばん誤解し、いちばん長く記憶する時間と角度。
誰かがそれを選び、あの光景を作った。
「……専務ですね。座馬玄蕃」
蘭子さんは肯定も否定もしなかった。ただ、細い指先で銀縁眼鏡のブリッジをそっと押し上げただけだった。
「警察が来るより、ずっと前からよ」
蘭子さんは、小さく肩をすくめてみせた。
「私は内部監査に目をつけられていた。入退室記録も、メールも、端末の操作履歴も。何時にどこへ行って、誰と話したかまで、全部調べられていた。……私も、薄々は気づいていたわ」
「どうして、教えてくれなかったんですか。知っていたのに、ずっと、一人で……」
「だって」
蘭子さんは少しだけ首をかしげ、困ったような、けれどどこか優しい目をした。
「言ったら、由芽は心配するでしょう。心配して、夜も寝ないで勝手に調べて、証拠もないまま監査へ正面から喧嘩を売る。……あなた、隠し事も嘘も、壊滅的に下手なんだから」
「…………っ」
図星すぎて、反論の言葉が喉に詰まる。
もし知っていたら。
監査の人間と廊下ですれ違っただけで、間違いなく顔に出る。絶対に態度で喧嘩を売っていた自信がある。
「私一人なら、どうとでもなる。肩書きを剥がされても、研究者は、ラボとこの頭と両手が動けば、何度でもやり直せる。でも、あなたまで巻き込まれて潰される必要はない。――だから、黙っていたの」
その声は、静かだった。温かくて、強い。
目の前が、ぐらりと揺れた。
私はずっと、自分が蘭子さんを守るのだと息巻いていた。
地下のラボへ潜り込み、純白のサンプルを分析して、無実を証明する。奪われたものを取り返して、蘭子さんを白組へ連れ戻す。
そのために、私は走ってきたつもりだった。
でも――逆だったのだ。蘭子さんは、自分の身に何が起きるか分かっていながら、私には何も知らせなかった。
監査も疑いも会社が用意した悪意も、たった一人で、正面から受け止めた。
私が蘭子さんを守るために走り出す、そのずっと前から。蘭子さんは、私を守り抜いていたのだ。
私は込み上げてくるものを、奥歯で噛み殺した。
震える声を、どうにか研究員のそれへ戻した。
「私、調べたんです。蘭子さんがリークしたって話の純白のクリーム」
「へえ」
「配合比も顕微鏡像も、白組の最終試作と一致しました。でも――」
私は、ぎゅっと膝の上の布地を握りしめた。
「でも、同じじゃない。あれには、白組のやり方じゃ、絶対にあの安定性には届かない。……七十三回やって、全部ダメでした。だから、蘭子さんが、現物をそのままリークしたなんて、ありえない」
蘭子さんの目が、ほんの一ミリほど見開かれた。
「……そこまで、調べたのね」
「はい」
「リークしたシンヴェールがあったとしても、あなたが見れば、私が持ち出した物ではないと分かると――思ってた」
思ってた。
過去形。
その言い方に引っかかりを覚えるより早く、蘭子さんは続けた。
「でも、その先は、もう追わなくていいわ。少なくとも、私のためには、もう何もしなくていい」
「え?」
理解が追いつかない。
証明。
それは、私がこの数日間、すべてを賭けてきたものだ。
蘭子さんの無実を、感覚ではなく数字で証明する。その一点だけを支えに、私は走ってきた。
その相手が今、もういらない、と言ったのだ。
「どうして……ですか。何もしなくていいなんて、どうして……」
「……捨てる神あれば、拾う神あり、って言うでしょう」
蘭子さんは私の言葉を穏やかに遮り、ふっと笑った。
「ヒラルダ社って、知ってる? アルカサスと古くから付き合いのある、化粧品の研究開発をしている会社よ」
「……はい。名前だけは」
「そこが、新設する研究所の所長として、私を迎えたいと言ってくれたの」
「研究所長……?」
「向こうは、今回の件で私が潔白だと確認したうえで、来てほしいって」
私は息を呑んだ。
「でも、アルカサスは……止めなかったんですか。リークを疑っておきながら、同業他社への転職なんて」
「止めるどころか、向こうから手打ちにしてきたのよ」
蘭子さんは、皮肉気に唇を歪めた。
「警察は、立件できるだけの証拠がないと見ている。そもそも犯罪として成立するかも怪しい。アルカサスの上層部も、白組という目障りな部署を解体できたんだから、もう目的は果たしたのよ。これ以上揉めて、マスコミに嗅ぎ回られるほうが困るんでしょうね」
「そんな……じゃあ、本当に」
「ええ。転職はあっさり認められたわ。ご丁寧に、割増の退職金までつけてね」
「それ……いつから、ですか」
水分の消えた喉から、どうにか声を絞り出す。
蘭子さんは、当然のことのように答えた。
「来月からよ」
来月。
それはつまり、会社との交渉も、移籍の手続きも、すべて終わっているということだ。
私はこのところ、蘭子さんを元の場所へ連れ戻すことばかり考えていた。
けれど蘭子さんは、とっくに「元の場所」など見ていなかった。別の未来を選び、そこへ続く道を、自分の手で切り開いていたのだ。
呆然とする私を、蘭子さんがまっすぐに見つめた。
銀縁眼鏡の奥の瞳には、静かな熱が灯っていた。
「ねえ、由芽」
「……はい」
「あなたも、一緒に来ない?」
心臓が、胸の奥で一度だけ強く鳴った。
「散らされた白組の人たちにも、順に声をかけるつもりよ。最初は、私一人に来てほしいという話だった。でも、それなら断ると言ったの。私一人だけ新天地に行って、それで終わりにする気はないもの」
蘭子さんは、コクリと頷いた。
「散らされた白組を呼び戻せるだけの採用枠と、人選を私に任せること。それを条件にした。向こうも、全部飲んだわ。だから、あなたにも声をかけに来たの。考えてみて」
蘭子さんの声は、どこまでも穏やかだった。
「この会社で、私たちはずっと地下二階だったでしょう。どんなに新しい処方を組んでも、どれだけ本物を作っても、日の当たる場所には出られない。名前も、手柄も、最後には全部、上の階の人間が持っていく」
反論できない。どれも、私自身が五年間、悔しさと一緒に飲み込んできた事実だったからだ。
「研究が、ちゃんと主役になれる会社へ行きましょうよ。専用のラボも、十分な予算も、人も用意できるはずよ」
蘭子さんはもう一度、今度は深く頷いた。
「今度は、私たちが作ったものを、私たちの名前で世に出しましょうよ。開発した人がもっと商品の前面に立つの」
それは、私が五年間、理想としてきた世界だ……。
「あなたなら、もっと自由に、もっと――」
「――でも」
蘭子さんの言葉を遮ったのは、私自身の声。
四畳半の空気が、ぴたりと止まる。気づけば、畳の上の両手は固い拳になり、爪が掌へ食い込んでいた。
「……私は、白組を、アルカサスで復活させたい……です」
それは、五年間追い続けてきた人へ初めて――「ついていかない」と告げる言葉だった。
「ここで潰された白組を、潰されたまま終わったことにしたくないんです。奪われた技術も、名前も、そのまま他の人間へ渡したくない」
震えていた声が、一言ずつ、私自身のものになっていく。
「協力すると言ってくれた人もいます。アルカサスには白組が必要だと、そう思ってくれている人が。だから私は、まだ――ここを離れられません」
颯真の名前は出さなかった。
あの人のことは、まだ、うまく言葉にできない気がしたから……。
蘭子さんは、反論しなかった。
銀縁眼鏡の奥から、ただまっすぐに私を見ていた。
張り詰めた沈黙。外の廊下で、寿命の近い蛍光灯が相変わらずジジと鳴いている。
やがて。
蘭子さんは、ふっと息を吐くように笑った。
「……そう。あなたなら、そう言うと思った」
怒っているのでも責めているのでもなく、ただ、ずっと遠くを見るような目をしていた。
「だけど、私はもう、この会社には見切りをつけた」
再び、沈黙が、四畳半へ降りた。
重い。
五年間、同じ地下二階に立っていた二人の道が、今ここで、別々に分かれようとしている重さ。たった四畳半しかないのに、空気だけで床が抜けそうだった。
その息苦しさに耐えきれず、私は逃げるように声を張り上げた。
「そうだ! お、お茶、出しますね!」
勢いよく立ち上がり、ミニキッチンの棚を開ける。
使えそうなカップが一個しかない。他は、底に謎の茶渋が地層を形成した限界マグカップ。
私は、唯一のまともなカップを蘭子さん用に取り出した。そして自分用を求め、視線をシンクの横へ移す。洗って伏せてある、私物の新品ビーカーが一つ。
私は、ごく自然に、その一つへ手を伸ばした。
「由芽」
「はい」
「それに、お茶を注ぐ気ね」
「はい、煮沸消毒済みですし、目盛りがあるので二百ミリリットルを正確に」
「あなた、そういうところは」
蘭子さんが、目尻をくしゃりと下げて笑った。
「五年前から、一ミリも変わらないのね」
その笑顔を見た瞬間、鼻の奥が、つんと痛んだ。
変わっていないのは、私だけなんだと感じて……。
蘭子さんは、私の知らないところで一人で耐えて、一人で次の場所を決めて――そして今、一人で、ここを去ろうとしている……。
私は、自分用に握りかけたビーカーを、そっと棚へ戻した。
「……蘭子さん」
「なに?」
「今は、行けません」
勧誘への返事だった。
「でも、これで最後の返事にはしたくありません。アルカサスでやるべきことを終えて、それでも私が蘭子さんのお役に立てるなら……そのとき、もう一度、声をかけてください」
白組をここで復活させる。それはどうしても果たしたいことだ。
けれど、五年間追い続けてきたこの人の差し出した手を、今ここで完全に振り払うこともできなかった。
「もちろん。ゆっくり考えて」
そう言うと、蘭子さんは立ち上がった。
「お茶はもういいわ。最近、夜にカフェインを摂取すると、眠りづらくなるのよ。歳かしらね」
蘭子さんはそんなことを言って、パンツの皺を手で伸ばし、鞄を取る。
鉄扉の前で、蘭子さんは一度だけ振り返った。
「由芽」
「はい」
「もう一度言うけど、私のことは、もう庇わなくていいのよ」
それだけ言って、蘭子さんは廊下へ出ていった。
あの朝とは違い、蘭子さんは背筋を伸ばし、足音一つ乱さず、振り返らなかった。
それは、自分の手で次の一手を打ち終えた人の背中に見えた。

