華やかな喧騒と、無数のフラッシュと、計算し尽くされた賞賛の声で満ちていたPRイベントは、盛況のうちに幕を下ろした。
最後の来賓をエントランスで見送り、撤収作業に追われるスタッフたちへ深々と頭を下げ、割り当てられた小さな控室で、ようやく荷物をまとめ終えたとき――。
私の脚は、悲鳴を通り越して、完全なストライキに突入していた。
足裏労働組合、交渉決裂。足指全十本、一斉に職務放棄。ふくらはぎに至っては、明日以降の操業再開すら未定である。
ヒール。
私は今日、身をもって理解した。
これは、人類が発明した数ある道具の中でも、もっとも取り扱い注意の警告ラベルを必要とする凶器である。
『長時間の連続使用により、血流障害、筋肉疲労、歩行能力の低下、ならびに人類の二足歩行そのものへの疑念を引き起こすおそれがあります』
最低でも、それくらいは箱の表面へ赤字で記載すべきだ。
重い足取りでホテルの正面玄関を出ると、夜の冷たい風が、火照りきった頬をすっと撫でていった。
都心の街は、午後八時を過ぎても白々しいほど明るい。
天を衝く高層ビルの窓明かり。
絶え間なく明滅する巨大なLED看板。
濡れたようなアスファルトの上を滑っていく、タクシーの赤いテールランプ。
私は、白いジャケットの襟を軽く立て、駅の方向へ向かって歩き出した。
中学時代からの友人が、朝から総力を挙げて作り込んでくれた髪は、過酷な一日を経てもほとんど崩れていなかった。
頬の上に形成した薄膜も、まだ健在だ。服も。髪も。顔も。足元も。
ただし、中身だけはいつもの私なので――。
「……あー、疲れたぁ……」
口から出る言葉には、華やかさの成分が一ミリも配合されていなかった。
誰にも聞こえないほどの声で、吐き出すように呟く。
でも、それは決して悪い疲れではなかった。
交差点の信号が、青から赤へ変わる。
私は足を止めた。正確には、止めざるを得なかった。この状態で走ったら、ヒールが折れるより先に私の足首が折れる。
その、すぐ横。
一台の車が、アスファルトを滑るように寄せてきた。磨き上げられた、黒いセダンだ。
驚いて半歩下がった私の目の前で、助手席側の分厚い窓ガラスが、するすると下りていく。
薄暗い車内。運転席から、聞き慣れた低い声が飛んできた。
「乗っていけ」
命令形である。前置きなし。主語も目的語もなし。
誘拐犯だって、もう少し会話の導入に気を配るんじゃないだろうか。
「……ザマスか」
「誰がザマスだ」
運転席にいたのは、颯真だった。
会場では、一度も言葉を交わしていない。
彼は役員や取引先の重役たちに囲まれっぱなしだった。私からは、会場の隅で誰かに頭を下げる黒い背中が、時々見えるだけ。
別に、探していたわけではない。背が高くて、黒くて、無駄に目立つから、勝手に視界へ入ってきただけだ。
終演後、最後の来賓を見送って振り返ったときには、もうどこにもいなかった。
「……先に帰ったのかと思ってました」
「そのつもりだった」
「じゃあ、どうして」
「寮まででいいな」
「会話が一段飛んでいます。私、まだ送ってくださいとは一言も――」
「意地を張らなくていい。足が限界だろう」
「ギク」
図星が深すぎて、口から効果音が出た。
実際、限界だった。これから地下鉄を乗り継いで寮へ戻るなんて、もう無理である。私の両足は、とっくに『本日の営業は終了しました』の札を出していた。
「……どうして分かったんですか」
「さっきから、右足と左足を交互に浮かせている」
「これは、そういうステップです」
「信号が変わる。早く乗れ」
「…………」
苦し紛れの言い訳まで、冷静に処理されてしまった。
「……分かりました。お願いします」
私は素直に――正確には、両足の全会一致により――助手席の重いドアを開け、レザーシートへ体を沈めた。
張り詰めていた全身から、ふにゃりと力が抜ける。
「……天国」
思わず、魂まで抜けそうな声が出る。
車内には、上質な革と、微かなシトラスの香りが漂っていた。ダッシュボードにもコンソールパネルにも、埃ひとつ落ちていない。塵も乱れも許さない、整理整頓の行き届いたクリーンルームに近い空間だ。
私がシートベルトへ手を伸ばしたとき、颯真が言った。
「靴を脱いでも構わない」
颯真が、助手席の足元を指す。
そこには、デパート名の入った紙袋が置かれていた。中を覗くと、新品の簡易スリッパが一足入っている。
「……これ」
「余っていたから確保しただけだ」
「私の足が痛くなると予測して?」
「ヒールを履き慣れていない人間が、十時間以上立ち続ければどうなるかは、予測ではなく既知の事実だ」
つまり。
私の足が痛くなると分かっていて。
わざわざ会場でスリッパを確保して。
車で待っていた。
そこまでしておきながら、「君のために用意した」の一言だけは、頑として認めない。
この人の優しさは、いつも無愛想な包装紙にくるまれている。しかも表には、でかでかと『業務上のリスク管理』と印刷されている。
中身がどう見ても優しさなのは、もう全然隠せていないのに。
「……ありがとうございます」
私は観念し、ヒールを脱いだ。
締め付けから解放された足先へ、一気に血が戻ってくる。じんじんとした痺れに、思わず変な声が漏れた。
「……ふあぁ」
「妙な声を出すな」
「出ますよ。これは長時間の拘束から解放された生命体の声です」
そっとスリッパへ足を滑り込ませる。
薄っぺらい簡易スリッパのはずなのに、今の私には雲より柔らかかった。
颯真は、私がスリッパへ履き替えたのを確認してから、ようやく車を出した。
窓の外を、まばゆい夜景が飛ぶように流れていく。
私はレザーシートへ深く体を預けた。
黒くスモークの貼られた窓ガラスに、私の顔がうっすらと映っている。
しばらく、ふたりとも言葉を発しなかった。
けれど、不思議と気まずい沈黙ではない。
地下ラボで、私がビーカーの中の乳化状態を睨んでいるのを、颯真が部屋の端の方から眺めてる時のあの静寂に似ている。不思議と落ち着く沈黙だった。
やがて颯真が、前方のテールランプを見据えたまま口を開いた。
「今日は、驚いた」
「なにがですか?」
「今日は、白衣の装甲じゃなかった」
私は、少しだけ笑った。
「たまには、自社製の装甲を使ってみてもいいと思っただけです」
颯真は何も言わなかった。
けれど、革巻きのハンドルを握る指が、ほんのわずかに動いた。
何かを確かめるように、ゆっくりと握り直す。
赤信号で、車が静かに停まった時、颯真が、ふいにこちらを見る。
漆黒の瞳。データの異常も、人間の嘘も、隠したところで全部見抜いてしまいそうな目だ。そのくせ今は、珍しいものでも見るように、私の顔をまっすぐ見ている。
「……ちゃんとできるんだな。化粧」
私は、危うく吹き出しかけた。
「失礼な。やればできる子なんですよ、私は」
「だから驚いている。化粧品は作れても、自分では使えないものだと思っていた」
「それ、褒めてます?」
「驚いている」
「二回言わなくていいです」
私はやれやれと首を振り、シートへ深くもたれた。
「あのですね。私たちが作った化粧品を、この世で一番最初に使うのは誰だと思います?」
「社内モニターでは?」
「ぶぶー。作った人間です。つまり、私です」
私は、顔の前で人差し指を立てた。
「基礎評価を通した試作が上がるたびに、まず自分の腕の内側へ塗る。次は顔。二時間、四時間、八時間、十二時間後まで定点観察。一処方あたり最低十回、条件を変えてまた繰り返すんです。だから、自分の顔に何をどう塗ればいいかくらい、ちゃんと分かってます」
「では、なぜ普段はしない」
「朝が弱いからです。あと、面倒くさいし……」
「急に身も蓋もないな」
「会社に行って、太陽の当たらない地下で試験管を握るだけなのに、メイクはいらなくないですか? 合理的に考えて」
「つまり、君の普段の装甲は白衣だから?」
「そういうことです。三秒で装着できますから!」
私が笑うと、颯真も口だけで笑った。
「で、どうですか?」
「何がだ」
「今日の装甲です。いつもの白衣とは、ずいぶん違うでしょう。……似合ってますか?」
気づけば、そんな言葉が口から飛び出していた。
言ってから、しまった、と思った。
自分から見た目の感想を求めるなんて。しかも、よりにもよってザマス王子に。
回収したい。今すぐ質問ごと撤回して、発言ログを完全消去したい……。
別に、褒めてほしくて聞いたわけではない。
せっかく朝五時に起きて頑張ったのだから、感想くらい聞いてもいいだろうって。
それだけだ。たぶん。
「ああ」
そんな二文字が返ったきた。
「よく似合っていた」
追い打ちつき。心臓が、どくん、と大きく跳ねて、顔が熱くなった。
素直に嬉しい。でも、ちょっと困る。
今日のベースメイクは、光で欠点を補整しながら、血色を透かして見せる設計。つまり、今、頬へ一気に集まった赤みを目立たせてしまうから。
「……そうですか。それは、どうも」
私は、わざとらしく窓の外へ顔を向ける。
赤くなった顔を見せたくなかったからだ。
「あの」
「なんだ」
「いきなり、魚の話をしてもいいですか?」
「? なぜ魚なんだ」
「明日、ブリでお願いします」
颯真が、前を向いたままわずかに眉を寄せた気配がした。
「……ブリ?」
「はい。照り焼きでお願いします」
「突然、夕食の注文をするな」
「どっちでもいいです。あ、仕上げにごま油を利かせたのが私の好みです。あと、アラが出るようなら、小鉢にブリ大根があると素敵です」
「なんだかんだで、二品要求しているな」
「昨日から今日一日、会議中もイベント中も、ずっとブリのことを考えてたんです」
「質疑中もか?」
「七割は商品、二割は実験、一割がブリです」
「一割も占めていたのか」
「今日一日頑張った人間には、それくらいの自由が認められてもいいと思います」
たっぷり三秒くらいの沈黙があった。
見なくてもわかる。絶対に彼は今、不可解な生き物を観察するような目でこっちを見ている。
やがて、ほんの少しだけ息を吐く音がした。
「……検討する」
たぶん彼の場合、「検討する」はほぼ「確定」を意味する。
私は今日一番の、心からの笑顔を浮かべる。
いつの間にか、頬の火照りは消えていた。
窓の外に、見慣れた景色が流れ始めた。
会社の広大な敷地。深夜も煌々と点灯している守衛室。その奥にそびえる、巨大な研究棟の黒いシルエット。
颯真がウインカーを出し、ゆっくりと速度を落とす。
車は、会社の独身寮の前で音もなく停まった。
三階建ての、築年数すら正確には分からない古い建物。あと数週間で閉鎖される、私のねぐらだ。
「送ってくれて、ありがとうございました」
私は、シートベルトの金具を外した。
「おやすみなさい。あと、明日のブリもごちそうさまです」
「まだ作るとは言っていない」
「照り焼きとブリ大根、楽しみにしてます」
「勝手に二品へ増やすな」
「ブリは大きいですから」
「話を聞け」
私は重いドアを開け、夜の空気へ足を下ろした。
「湊川」
呼び止められ、振り返る。
颯真は運転席に座ったまま、こちらを見ていた。
「靴を忘れているぞ」
「あっ」
見事に、スリッパのまま外へ出てしまっていた。
「危ない。もう少しで、このまま寮へ連れて帰るところでした」
あはは、と笑って誤魔化しながら、助手席に置きっぱなしだったスリングバックシューズへ手を伸ばす。
その時だった。
「その装甲も悪くないが……」
「はい?」
顔を上げると、思いのほか近いところに颯真の顔があった。
助手席側へわずかに身を乗り出して、まっすぐこちらを見ている。
「俺は、いつもの白衣も嫌いじゃない」
恐ろしいほど真面目な顔で、そんな不意打ちを落とされた。
私は、反射的に動きを止める。
ようやく引いたばかりの顔の熱が、一瞬にして再沸騰する。
動悸も、さっきより明らかに激しい。
「や、やっぱり白衣フェチだったんですね!」
世界でいちばん下手な照れ隠しを投げつけ、私は靴をひっつかんで、慌てて車から身を引き剥がした。
そのままバタンとドアを閉める。
ヒールへ履き替える余裕なんてなかった。スリングバックを片手にぶら下げ、スリッパをぱたぱた鳴らしながらエントランスへ逃げ出した。朝五時から作り上げた完璧な装甲の、あまりにも締まらない撤収である。
「足元に気をつけろ」
背中へ声が飛んでくる。
私は足を止め、振り返らないまま、靴を持った手だけを小さく上げた。
黒い車は再び無音のまま、敷地の奥へ滑り出した。私はその場で、赤いテールランプが見えなくなるまで立っていた。
夜風が、冷ややかな手で火照った頬を撫でていく。
一日中ヒールに締め付けられていた足先は、スリッパ越しでもまだジンジンと痛む。部屋へ戻ったら、この何層にも重ねた顔の膜も、クレンジングで一から落とさなければならない。
明日の朝には、またすっぴんへ戻る。よれよれの白衣へ袖を通し、髪を適当に束ねて、地下ラボでビーカーを覗き込むのだ。それは今日の装甲を外して、いちばん馴染んだ格好へ戻るということ。
そして――颯真は、その私も嫌いではないと言った。
思い出した途端、冷えかけていた頬がまた熱を持つ。
「……もう少し、ちゃんと冷やしてください」
私は夜風へ小さく八つ当たりしてから、空を見上げた。
「悪くない一日だったな」
口に出してみて、少しだけ考える。
「……かなり、よかったかも」
誰も見ていないのをいいことに、私は抱えた靴を胸の前で小さく揺らした。
* * *
寮の薄暗い階段を、三階まで上がる。
スリッパの底が、剥き出しのコンクリートをぱたぱたと鳴らした。
顔の被膜をさっさと落とし、よれよれの白衣に着替えたら、明日はブリだ、照り焼きだ。
思わず五・七調のリズムになるくらい浮かれながら、私は三階廊下の角を曲がった。
――ぱたりと、スリッパの音が止まった。
三〇二号室。
錆の浮いた、私の部屋の鉄扉。
その前に、ひとりの人影が立っていた。
寿命の近づいた蛍光灯が、じじっ、と羽虫のような音を立てて点滅する。
白い光が瞬くたび、その顔が闇の中から浮かび上がった。
私に気づいて、その人が顔を上げた。
「……由芽」
ついさっきまで胸に残っていた浮ついた熱が、足元から音もなく引いていく。
そこに立っていたのは、蘭子さんだった。
最後の来賓をエントランスで見送り、撤収作業に追われるスタッフたちへ深々と頭を下げ、割り当てられた小さな控室で、ようやく荷物をまとめ終えたとき――。
私の脚は、悲鳴を通り越して、完全なストライキに突入していた。
足裏労働組合、交渉決裂。足指全十本、一斉に職務放棄。ふくらはぎに至っては、明日以降の操業再開すら未定である。
ヒール。
私は今日、身をもって理解した。
これは、人類が発明した数ある道具の中でも、もっとも取り扱い注意の警告ラベルを必要とする凶器である。
『長時間の連続使用により、血流障害、筋肉疲労、歩行能力の低下、ならびに人類の二足歩行そのものへの疑念を引き起こすおそれがあります』
最低でも、それくらいは箱の表面へ赤字で記載すべきだ。
重い足取りでホテルの正面玄関を出ると、夜の冷たい風が、火照りきった頬をすっと撫でていった。
都心の街は、午後八時を過ぎても白々しいほど明るい。
天を衝く高層ビルの窓明かり。
絶え間なく明滅する巨大なLED看板。
濡れたようなアスファルトの上を滑っていく、タクシーの赤いテールランプ。
私は、白いジャケットの襟を軽く立て、駅の方向へ向かって歩き出した。
中学時代からの友人が、朝から総力を挙げて作り込んでくれた髪は、過酷な一日を経てもほとんど崩れていなかった。
頬の上に形成した薄膜も、まだ健在だ。服も。髪も。顔も。足元も。
ただし、中身だけはいつもの私なので――。
「……あー、疲れたぁ……」
口から出る言葉には、華やかさの成分が一ミリも配合されていなかった。
誰にも聞こえないほどの声で、吐き出すように呟く。
でも、それは決して悪い疲れではなかった。
交差点の信号が、青から赤へ変わる。
私は足を止めた。正確には、止めざるを得なかった。この状態で走ったら、ヒールが折れるより先に私の足首が折れる。
その、すぐ横。
一台の車が、アスファルトを滑るように寄せてきた。磨き上げられた、黒いセダンだ。
驚いて半歩下がった私の目の前で、助手席側の分厚い窓ガラスが、するすると下りていく。
薄暗い車内。運転席から、聞き慣れた低い声が飛んできた。
「乗っていけ」
命令形である。前置きなし。主語も目的語もなし。
誘拐犯だって、もう少し会話の導入に気を配るんじゃないだろうか。
「……ザマスか」
「誰がザマスだ」
運転席にいたのは、颯真だった。
会場では、一度も言葉を交わしていない。
彼は役員や取引先の重役たちに囲まれっぱなしだった。私からは、会場の隅で誰かに頭を下げる黒い背中が、時々見えるだけ。
別に、探していたわけではない。背が高くて、黒くて、無駄に目立つから、勝手に視界へ入ってきただけだ。
終演後、最後の来賓を見送って振り返ったときには、もうどこにもいなかった。
「……先に帰ったのかと思ってました」
「そのつもりだった」
「じゃあ、どうして」
「寮まででいいな」
「会話が一段飛んでいます。私、まだ送ってくださいとは一言も――」
「意地を張らなくていい。足が限界だろう」
「ギク」
図星が深すぎて、口から効果音が出た。
実際、限界だった。これから地下鉄を乗り継いで寮へ戻るなんて、もう無理である。私の両足は、とっくに『本日の営業は終了しました』の札を出していた。
「……どうして分かったんですか」
「さっきから、右足と左足を交互に浮かせている」
「これは、そういうステップです」
「信号が変わる。早く乗れ」
「…………」
苦し紛れの言い訳まで、冷静に処理されてしまった。
「……分かりました。お願いします」
私は素直に――正確には、両足の全会一致により――助手席の重いドアを開け、レザーシートへ体を沈めた。
張り詰めていた全身から、ふにゃりと力が抜ける。
「……天国」
思わず、魂まで抜けそうな声が出る。
車内には、上質な革と、微かなシトラスの香りが漂っていた。ダッシュボードにもコンソールパネルにも、埃ひとつ落ちていない。塵も乱れも許さない、整理整頓の行き届いたクリーンルームに近い空間だ。
私がシートベルトへ手を伸ばしたとき、颯真が言った。
「靴を脱いでも構わない」
颯真が、助手席の足元を指す。
そこには、デパート名の入った紙袋が置かれていた。中を覗くと、新品の簡易スリッパが一足入っている。
「……これ」
「余っていたから確保しただけだ」
「私の足が痛くなると予測して?」
「ヒールを履き慣れていない人間が、十時間以上立ち続ければどうなるかは、予測ではなく既知の事実だ」
つまり。
私の足が痛くなると分かっていて。
わざわざ会場でスリッパを確保して。
車で待っていた。
そこまでしておきながら、「君のために用意した」の一言だけは、頑として認めない。
この人の優しさは、いつも無愛想な包装紙にくるまれている。しかも表には、でかでかと『業務上のリスク管理』と印刷されている。
中身がどう見ても優しさなのは、もう全然隠せていないのに。
「……ありがとうございます」
私は観念し、ヒールを脱いだ。
締め付けから解放された足先へ、一気に血が戻ってくる。じんじんとした痺れに、思わず変な声が漏れた。
「……ふあぁ」
「妙な声を出すな」
「出ますよ。これは長時間の拘束から解放された生命体の声です」
そっとスリッパへ足を滑り込ませる。
薄っぺらい簡易スリッパのはずなのに、今の私には雲より柔らかかった。
颯真は、私がスリッパへ履き替えたのを確認してから、ようやく車を出した。
窓の外を、まばゆい夜景が飛ぶように流れていく。
私はレザーシートへ深く体を預けた。
黒くスモークの貼られた窓ガラスに、私の顔がうっすらと映っている。
しばらく、ふたりとも言葉を発しなかった。
けれど、不思議と気まずい沈黙ではない。
地下ラボで、私がビーカーの中の乳化状態を睨んでいるのを、颯真が部屋の端の方から眺めてる時のあの静寂に似ている。不思議と落ち着く沈黙だった。
やがて颯真が、前方のテールランプを見据えたまま口を開いた。
「今日は、驚いた」
「なにがですか?」
「今日は、白衣の装甲じゃなかった」
私は、少しだけ笑った。
「たまには、自社製の装甲を使ってみてもいいと思っただけです」
颯真は何も言わなかった。
けれど、革巻きのハンドルを握る指が、ほんのわずかに動いた。
何かを確かめるように、ゆっくりと握り直す。
赤信号で、車が静かに停まった時、颯真が、ふいにこちらを見る。
漆黒の瞳。データの異常も、人間の嘘も、隠したところで全部見抜いてしまいそうな目だ。そのくせ今は、珍しいものでも見るように、私の顔をまっすぐ見ている。
「……ちゃんとできるんだな。化粧」
私は、危うく吹き出しかけた。
「失礼な。やればできる子なんですよ、私は」
「だから驚いている。化粧品は作れても、自分では使えないものだと思っていた」
「それ、褒めてます?」
「驚いている」
「二回言わなくていいです」
私はやれやれと首を振り、シートへ深くもたれた。
「あのですね。私たちが作った化粧品を、この世で一番最初に使うのは誰だと思います?」
「社内モニターでは?」
「ぶぶー。作った人間です。つまり、私です」
私は、顔の前で人差し指を立てた。
「基礎評価を通した試作が上がるたびに、まず自分の腕の内側へ塗る。次は顔。二時間、四時間、八時間、十二時間後まで定点観察。一処方あたり最低十回、条件を変えてまた繰り返すんです。だから、自分の顔に何をどう塗ればいいかくらい、ちゃんと分かってます」
「では、なぜ普段はしない」
「朝が弱いからです。あと、面倒くさいし……」
「急に身も蓋もないな」
「会社に行って、太陽の当たらない地下で試験管を握るだけなのに、メイクはいらなくないですか? 合理的に考えて」
「つまり、君の普段の装甲は白衣だから?」
「そういうことです。三秒で装着できますから!」
私が笑うと、颯真も口だけで笑った。
「で、どうですか?」
「何がだ」
「今日の装甲です。いつもの白衣とは、ずいぶん違うでしょう。……似合ってますか?」
気づけば、そんな言葉が口から飛び出していた。
言ってから、しまった、と思った。
自分から見た目の感想を求めるなんて。しかも、よりにもよってザマス王子に。
回収したい。今すぐ質問ごと撤回して、発言ログを完全消去したい……。
別に、褒めてほしくて聞いたわけではない。
せっかく朝五時に起きて頑張ったのだから、感想くらい聞いてもいいだろうって。
それだけだ。たぶん。
「ああ」
そんな二文字が返ったきた。
「よく似合っていた」
追い打ちつき。心臓が、どくん、と大きく跳ねて、顔が熱くなった。
素直に嬉しい。でも、ちょっと困る。
今日のベースメイクは、光で欠点を補整しながら、血色を透かして見せる設計。つまり、今、頬へ一気に集まった赤みを目立たせてしまうから。
「……そうですか。それは、どうも」
私は、わざとらしく窓の外へ顔を向ける。
赤くなった顔を見せたくなかったからだ。
「あの」
「なんだ」
「いきなり、魚の話をしてもいいですか?」
「? なぜ魚なんだ」
「明日、ブリでお願いします」
颯真が、前を向いたままわずかに眉を寄せた気配がした。
「……ブリ?」
「はい。照り焼きでお願いします」
「突然、夕食の注文をするな」
「どっちでもいいです。あ、仕上げにごま油を利かせたのが私の好みです。あと、アラが出るようなら、小鉢にブリ大根があると素敵です」
「なんだかんだで、二品要求しているな」
「昨日から今日一日、会議中もイベント中も、ずっとブリのことを考えてたんです」
「質疑中もか?」
「七割は商品、二割は実験、一割がブリです」
「一割も占めていたのか」
「今日一日頑張った人間には、それくらいの自由が認められてもいいと思います」
たっぷり三秒くらいの沈黙があった。
見なくてもわかる。絶対に彼は今、不可解な生き物を観察するような目でこっちを見ている。
やがて、ほんの少しだけ息を吐く音がした。
「……検討する」
たぶん彼の場合、「検討する」はほぼ「確定」を意味する。
私は今日一番の、心からの笑顔を浮かべる。
いつの間にか、頬の火照りは消えていた。
窓の外に、見慣れた景色が流れ始めた。
会社の広大な敷地。深夜も煌々と点灯している守衛室。その奥にそびえる、巨大な研究棟の黒いシルエット。
颯真がウインカーを出し、ゆっくりと速度を落とす。
車は、会社の独身寮の前で音もなく停まった。
三階建ての、築年数すら正確には分からない古い建物。あと数週間で閉鎖される、私のねぐらだ。
「送ってくれて、ありがとうございました」
私は、シートベルトの金具を外した。
「おやすみなさい。あと、明日のブリもごちそうさまです」
「まだ作るとは言っていない」
「照り焼きとブリ大根、楽しみにしてます」
「勝手に二品へ増やすな」
「ブリは大きいですから」
「話を聞け」
私は重いドアを開け、夜の空気へ足を下ろした。
「湊川」
呼び止められ、振り返る。
颯真は運転席に座ったまま、こちらを見ていた。
「靴を忘れているぞ」
「あっ」
見事に、スリッパのまま外へ出てしまっていた。
「危ない。もう少しで、このまま寮へ連れて帰るところでした」
あはは、と笑って誤魔化しながら、助手席に置きっぱなしだったスリングバックシューズへ手を伸ばす。
その時だった。
「その装甲も悪くないが……」
「はい?」
顔を上げると、思いのほか近いところに颯真の顔があった。
助手席側へわずかに身を乗り出して、まっすぐこちらを見ている。
「俺は、いつもの白衣も嫌いじゃない」
恐ろしいほど真面目な顔で、そんな不意打ちを落とされた。
私は、反射的に動きを止める。
ようやく引いたばかりの顔の熱が、一瞬にして再沸騰する。
動悸も、さっきより明らかに激しい。
「や、やっぱり白衣フェチだったんですね!」
世界でいちばん下手な照れ隠しを投げつけ、私は靴をひっつかんで、慌てて車から身を引き剥がした。
そのままバタンとドアを閉める。
ヒールへ履き替える余裕なんてなかった。スリングバックを片手にぶら下げ、スリッパをぱたぱた鳴らしながらエントランスへ逃げ出した。朝五時から作り上げた完璧な装甲の、あまりにも締まらない撤収である。
「足元に気をつけろ」
背中へ声が飛んでくる。
私は足を止め、振り返らないまま、靴を持った手だけを小さく上げた。
黒い車は再び無音のまま、敷地の奥へ滑り出した。私はその場で、赤いテールランプが見えなくなるまで立っていた。
夜風が、冷ややかな手で火照った頬を撫でていく。
一日中ヒールに締め付けられていた足先は、スリッパ越しでもまだジンジンと痛む。部屋へ戻ったら、この何層にも重ねた顔の膜も、クレンジングで一から落とさなければならない。
明日の朝には、またすっぴんへ戻る。よれよれの白衣へ袖を通し、髪を適当に束ねて、地下ラボでビーカーを覗き込むのだ。それは今日の装甲を外して、いちばん馴染んだ格好へ戻るということ。
そして――颯真は、その私も嫌いではないと言った。
思い出した途端、冷えかけていた頬がまた熱を持つ。
「……もう少し、ちゃんと冷やしてください」
私は夜風へ小さく八つ当たりしてから、空を見上げた。
「悪くない一日だったな」
口に出してみて、少しだけ考える。
「……かなり、よかったかも」
誰も見ていないのをいいことに、私は抱えた靴を胸の前で小さく揺らした。
* * *
寮の薄暗い階段を、三階まで上がる。
スリッパの底が、剥き出しのコンクリートをぱたぱたと鳴らした。
顔の被膜をさっさと落とし、よれよれの白衣に着替えたら、明日はブリだ、照り焼きだ。
思わず五・七調のリズムになるくらい浮かれながら、私は三階廊下の角を曲がった。
――ぱたりと、スリッパの音が止まった。
三〇二号室。
錆の浮いた、私の部屋の鉄扉。
その前に、ひとりの人影が立っていた。
寿命の近づいた蛍光灯が、じじっ、と羽虫のような音を立てて点滅する。
白い光が瞬くたび、その顔が闇の中から浮かび上がった。
私に気づいて、その人が顔を上げた。
「……由芽」
ついさっきまで胸に残っていた浮ついた熱が、足元から音もなく引いていく。
そこに立っていたのは、蘭子さんだった。

