PRイベント、当日。
会場は、都心の一流ホテルにある大宴会場だった。
天井いっぱいに光を振りまくシャンデリア。足元を深く染める真紅のカーペット。計算し尽くされた生花のアレンジメント。
開演前だというのに、フロアはすでに熱気で満ちていた。
取引先のバイヤー。美容誌の記者。数万、数十万のフォロワーを抱えるインフルエンサー。
女性たちは、上品なワンピースやセットアップに隙のないメイク。男性たちは、仕立てのいいジャケットスタイル。空気にまで、高級な香水とヘアスプレーの香りが塗り重ねられている。
大宴会場そのものが、一枚の巨大な化粧品広告みたいだった。まさに、キラキラ組の主戦場。黒瀬さんが、もっとも美しく、もっとも強く、もっとも絶対的な女王でいられる場所。
その黒瀬さんは、会場の中央にいた。
シャンパンベージュの洗練されたオールインワン。完璧に巻かれた髪。耳元で揺れるゴールドのピアス。来賓たちの輪の中心でグラスを傾け、優雅に微笑んでいる。
今日も照明は、彼女だけを特別扱いしていた。
天井のスポットライト一同が、『本日の主役はこちらです!』と、全力で黒瀬麗奈を推薦している。
私は、会場の入り口となる重厚な大扉の前に立ち、一度だけ深く息を吸った。
逃げ隠れはしない。暗転してから、こっそり壁際へ滑り込むつもりもない。私は両手で大扉を押し開け、まばゆい光の海へ、正面から足を踏み入れた。
入り口脇の受付には、キラキラ組のPRチームの女性たちが並んでいた。
私に気づいた一人が、反射的に営業用の笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ。恐れ入りますが、お名刺を頂戴でき――」
私の顔を正面から見た瞬間、その声が途切れた。
「……え?」
「お疲れさまです」
軽く会釈すると、彼女の手からバインダーが滑り落ちかけた。
その異変に気づき、隣の女性がこちらを見る。その隣も。さらに、その隣も。
「ちょっと、あれ……」
「誰? 招待客?」
「待って。あの人って……」
「え……湊川さん?」
「うそでしょ」
囁き声が、さざ波のように広がっていく。
私は彼女たちの戸惑いのど真ん中を、何一つ弁明せず、ただまっすぐ、悠々と進んだ。
カツン、カツンと、ピンヒールがカーペットを踏みしめる音が響く。 向かう先はただ一つ。会場の中央にいて、来賓たちに囲まれ、こちらへ背を向けている黒瀬麗奈。
私はまっすぐ彼女へ近づき、その一メートル後ろで立ち止まった。
「黒瀬さん。――遅くなりました」
びくり、と肩が揺れた。声で私だと分かったのだろう。
けれど、彼女はまだ振り返らない。
「あら。うちの開発担当が来たようですわ」
来賓たちへ向けた声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。
きっと今、彼女の頭には、いつもの私が浮かんでいる。
すっぴん。
寝不足。
引っ詰め髪。
ヨレヨレの白衣。
自分が支配する完璧な舞台へ、場違いな研究員が、ようやく公開処刑されにやってきた。
黒瀬さんは、そんな勝利を確信した笑顔のまま、優雅に振り返った。
「遅かったわね、湊川さ――」
私の名前が、途中で切れた。
黒瀬さんの目が、大きく見開かれる。シャンパングラスを持った右手が、空中で停止した。
薄く開いた唇から、息だけが漏れる。グラスの中で、黄金色の液体がかすかに震えた。
――その見開かれた瞳に、今日の私が、頭の先からつま先まで映り込んでいた。
私がまとっているのは、いつものよれよれの白衣ではなかった。
肩のラインをわずかに立てた、オフホワイトのロングジャケット。同色のハイウエストのワイドパンツに、ごく淡いグレーのシルクニット。足元には、歩ける高さの黒いスリングバック……。
髪も――。目にかかっていた長い前髪は中央で分け、額の丸みに沿わせながら、耳へ向かってタイトに流している。
後ろは、襟足すれすれで束ねたローポニー。結び目は細いシルバーのメタルカフで覆い、そこから下だけを、磨き上げたサテンのような大きなS字のウェーブに整えて、背中へ流した。
中学の同級生で美容師をやっている友人に頼み込んでやってもらった。原理だけなら、いつものひとつ結びの発展版。
そして――顔。
今朝、私は珍しく朝五時に起きた。
奇跡である。
普段なら、その時刻の私は睡眠中というより、生命活動の一時停止に近い。だが今朝だけは一度目のアラームで跳ね起き、洗面台の前に陣取った。
そこへ、ずらりと並べたのは――すべて我が社、アルカサスの製品群。
化粧水。美容液。下地。コンシーラー。ファンデーション。フェイスパウダー。ハイライト。アルカサス化粧品軍、総力出撃。
今日だけは、開発者権限でフルスペックを解放した。
自分の角質層の水分量。皮脂の分泌サイクル。赤みが出やすい場所。乾燥しやすい場所。そして、どの製品のどの成分が、私の肌の上で、何時間後に、どう作用するか。
――自分自身の肌と、化粧品との相性なら、この世でいちばん熟知している。なにしろ過去五年間、開発のたびに自分の顔面をテストピースとして差し出し、何百、何千回と塗って、落として、観察して、記録してきた。
私の顔面には、五年分の実験ログが蓄積されている。
まず、徹夜明けで青黒く沈んでいた目元。ここには補色となるオレンジ系のコンシーラーを、透けも厚塗り感も出ない限界の厚みで正確に配置。
青よ、補色の前に沈黙せよ。
乾燥によって生じた微細な凹凸には、粒子径を揃えた球状シリカ。光を均一に散乱させるソフトフォーカス効果で、影の境界を視覚的に消去する。
皮脂の出やすいTゾーンには、選択吸油性パウダーを先回りして緻密に配備。
皮脂が出てから慌てるのは素人だ。私は、こいつが何時何分頃から増援を送り込んでくるかまで知っている。
そして、ホテルの強烈な照明。まともに受ければ、毛穴も小ジワも容赦なく暴き出す尋問官だ。だが、反射率を計算してパールを効かせれば、事情が変わる。
照明は敵に回せば凶器。味方につければ、会場じゅうに設置された無料のレフ板になる。私がやったのは、徹底的なノイズの除去と、光の進路制御だ。
これは変身ではない。顔面の光学設計。結果として、私の顔は今、肌の粗を一つ残らず捜索してくるホテルの高演色照明の下でも、透き通るような均一さを保っている。
頬には静かな光。目元には澄んだ立体感。肌そのものが、内側から発光しているように見える。
「え……」
黒瀬さんの口から、一音だけが零れ落ちた。
そして、止まった。完全停止だ。
いつもなら、どんな相手を前にしても一ミリの隙もなく営業スマイルを貼りつけている彼女の顔から、文字どおり、すべての表情が抜け落ちていた。
「あ、あなた……」
鮮やかなリップを引いた唇が震え、ようやく次の言葉を生成した。
「その、格好……その、顔……」
「ドレスコードは、スマートカジュアルでしたよね」
「え……ええ……」
「よかった。間違えていなくて」
私は、自分の骨格にぴたりと合わせて仕立てた純白のジャケットの襟を、指先ですっと整えた。
そして、にっこりと笑う。
「ご指定どおり――白で揃えてみました」
「…………っ」
黒瀬さんのこめかみが、ヒクッと痙攣した。
その顔は、どうしても彼女の知る湊川由芽と、目の前の人物が同一個体とは思えない、と訴えていた。
私は五年間、化粧品を作り続けてきた。
ただ、それを自分を飾るためには使ってこなかった。
今日一日だけ、ずっと眠らせていた技術を、もっとも検証データの揃ったテストピースへ投入した。それだけだ。
私は、昨日までと、何ひとつ変わっていない。ただ、黒瀬さんがこれまで一度も、私という人間を正しい条件で測定していなかっただけなのだ。
だから今日、私はここへ来た。
その誤判定を――正しいデータで、ひっくり返すために。
* * *
やがて、開演を告げるベルが鳴った。
照明が落ち、巨大スクリーンにティザー映像が流れ始める。
純白のクリームが、光の中で滑らかに広がる。その映像美に、会場のあちこちから感嘆の吐息が漏れた。
黒瀬さんがステージへ上がり、ブランドの世界観を語る。
見事なプレゼンだった。
言葉の選び方。間の取り方。スクリーンへ視線を誘導するタイミング。悔しいけど、キラキラ組の『見せる力』は本物だ。
私はステージには上がらない。持ち場は、フロアの隅にある体験スペースの脇。サンプルを並べたテーブルと来場者の間に立ち、質問が出たら答える。それだけの役割だ。
二十枚の付箋を貼って準備した想定質問集は、もう鞄の中で眠っている。
黒瀬さんの流麗な言葉が、心地よく会場を撫でていく。
「――雪のように白く、それでいて、羽のように軽い。私たちが目指したのは、肌を塗り隠す白ではありません。肌そのものが光をまとう、『透過する白』です」
プレゼンが終わると、盛大な拍手が起きた。
やがて、司会が進行を切り替えた。
「それでは、ここからは、ご来場の皆さまからのご質問にお答えする時間とさせていただきます」
最初のいくつかは、和やかなものだった。発売日。価格帯。限定色の展開。パッケージのデザイナー。黒瀬さんは、そのすべてを笑顔で完璧にさばいていく。
私が壁際で「そろそろ足が痛くなってきたな」などと考えていると、会場の中ほどで、一人の男性が手を挙げた。
仕立てのいいジャケット。手元には紙のノートと万年筆。周囲がスマホやカメラを構えている中で、明らかに毛色が違う。
司会が慌てて名前を確認した。美容専門誌の、技術系記者。
その名前を聞いた瞬間、私の背筋がぴんと伸びた。
予習にあった名前だ。処方の中身に鋭く踏み込むことで有名な記者。たしか、元・化粧品会社の研究畑出身。
この人に、世界観だけで煙幕を張るのは不可能だ。
「二点、技術的な確認をさせてください」
マイクを渡された彼は、丁寧だが、はっきりとした口調で言った。
「『透過する白』という表現から、白色顔料を使わずに可視光を散乱させるため、中空シリカなどの空隙を持った微粒子を使われていると推測します」
彼は、すっと目を細めた。
大正解。別に隠すことではないけれど、初手から心臓部へメスを入れてきた。
「しかし、塗布後に皮脂や基剤の油分と混ざれば、粒子と周囲の屈折率の差が縮まり、光の散乱効率は著しく落ちますよね。いわゆる『濡れたシャツが透ける』現象です。実際の肌という過酷な環境で、どのように光散乱性を維持しているのでしょうか」
会場の空気が、わずかに変わった。
屈折率のあたりで置き去りにされた人も、『濡れたシャツ』でどうにか追いついたらしい。
全員が理解したのは、一つ。これは、素人の質問ではない、ということ。
「加えて、もう一点」
彼は、ノートを一枚めくった。
「中空粒子を用いた製剤は、他社でも例があります。ただ、経時で粒子が凝集し、塗布膜が不均一になり、かえって白浮きするという報告が複数出ています。御社は、その分散安定性をどう担保されたのでしょうか」
――どちらも、質問としておかしくない。それどころか、ド真ん中だった。
シンヴェールという技術の、一番コアの部分。
私と蘭子さんが何度も転び、何度も這い上がった、沼の最深部へ正確にピンを刺してきた。
ステージの上で、黒瀬さんの完璧に塗られた唇が、静かに閉じた。
答えられるはずがない。彼女は世界観を作る人だ。屈折率を守ったり、粒子同士の集会を解散させたりする人ではない。
最前列のPRスタッフが、弾かれたようにこちらを振り返る。助けを求める視線が、まっすぐ私に刺さる。
――ああ、そうだった。
私は、ようやく思い出した。黒瀬さんとは違って、あのPRの人たちは、本当に私を必要としていたのだ。
黒瀬さんが、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。その目に浮かんでいたのは、強烈な屈辱。
「……開発担当者から、お答えいたします。湊川さん。お願い」
会場の視線が、一斉に私へと集まる。私は、ジャケットの襟を指先で整え、一歩前へ出た。
スタッフから差し出されたマイクを受け取る。
不思議なことに、足の痛みまで消えていた。
「――開発を担当していました、湊川由芽と申します。専門は、処方設計と粉体分散です」
会場のざわめきが、すっと静まった。
「まず、一点目のご質問から。ご推察のとおり、私たちは顔料ではなく、内部に空気を含む透明な中空粒子を使用しています」
私は、会場全体を見渡した。
「先ほどのご指摘は、化粧品開発における最大の壁です。白く見える雪も、溶ければただの透明な水になる。同じように、粒子の内部へ皮脂や油が浸入し、『空気との境界』が失われれば、光は曲がらず、白さは消えてしまいます」
空いている手で身振りを交えながら、はっきりと言葉を紡ぐ。
「そのため、シェルの表面と内部に独自の撥水撥油コーティングを施し、基剤や皮脂の浸入を防いでいます。常に内部に『空気の層』を保ち、屈折率の差を維持する設計です。いわば――『絶対に溶けない雪』を、肌の上へ降らせています」
「なるほど」
記者がマイクを持ったまま、深く頷いた。
「しかし、強い屈折率の差を保ったままでは、単なる『白浮き』になりませんか?」
「粒径をコントロールし、光の散乱ピークを青から緑の領域に設定しています。くすみを感じさせる影の波長は散乱させて飛ばし、血色感となる赤みは通す。だから肌そのものは隠さず、透明な光のヴェールだけがかかったように見えるんです」
「散乱の波長選択性を、顔料フリーで、しかも実用レベルまで引き上げたわけですか」
記者の万年筆が、猛烈な速度で動いていた。
「では、二点目を」
私は、少しだけ声の温度を落とした。
「凝集の問題は、ご指摘のとおりです。中空粒子は軽く、比重が小さい。だから処方の中で浮きます。浮けば集まる。集まればムラになる。ムラになれば白く浮く。開発者にとっては、非常に美しい地獄の四段活用です」
会場のあちこちで、小さな笑いが起きた。
「では、どう解決を?」
「粒子が浮かんでいる基剤に、ごく緩い構造を持たせました。静かに置いている間は、やわらかなゼリーのように粒子を支える。けれど、指でこすった瞬間だけ、その構造がさらっと崩れて伸びるようにしています」
「置いている間は動かない。塗るときだけ動く、と」
「はい。身近なもので言えば、ケチャップです。瓶を立てておけば落ちてこないのに、振れば出てくる。あれと同じ性質を、うんと繊細に設計することで、技術的な壁を越えました」
一流ホテルの大宴会場へ、突如としてケチャップが乱入した。
だが、その瞬間、専門知識のない人たちの顔にも「ああ」と理解の光が灯った。
私は、そこで一度、言葉を切った。
言うべきか、迷う。
だが、ここで言わなければ、私がこの場にいる意味がない。
「――ただし」
私はマイクを握り直し、はっきりと言った。
「本日お配りしているサンプルは、最終処方ではありません。安定性試験は、現在も進行中です」
黒瀬さんの表情が、ステージの上で完全に凍りついた。
「私たちが先ほどから『できた』と申し上げられるのは、温度も、湿度も、使う方の肌質も違うさまざまな条件で、同じ品質と安全性を確認できてからです」
私は、記者の目をまっすぐに見返した。
「ですから今日は、『こういう考え方で作っています』というところまでを、お話しさせてください。化粧品のレシピは、魔法の呪文ではありません。誰が使っても同じ結果へたどり着けると検証されて、初めて技術になります」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「十二時になったら崩れるものを、私たちは商品とは呼びません」
しん、と会場が静まり返る。
やがて――。
「なるほど。素晴らしい」
記者が万年筆を置き、こちらへ小さく頭を下げた。
「完成していないものを、完成したと言わない会社は信用できます」
その一言が。五年分の徹夜よりも、ずっと深いところへ届いた気がした。
* * *
歓談の時間になると、私の周りには、次々と人が集まってきた。
どうやら、明らかに玄人な記者と、丁々発止のオタク議論をやってのけたのが、インフルエンサーたちの好奇心を強く刺激したらしい。私がそれなりに着飾り、髪を整え、メイクしてきたことも大きかったのだと思う。
ふと人垣の隙間から視線を抜くと、少し離れた場所に黒瀬さんが立っていた。
彼女の周りにも来賓はいる。けれど、明らかに輪が薄い。
会場の熱の重心は、いつの間にか完全にこちら側へ移ってしまっていた。黒瀬さんがシャンパングラスを握る手に、ギリッと力を込めているのが、遠目にも分かる。
口角は上がっている。だが、目は一ミリも笑っていない。あの完璧な黒瀬さんが、今日初めて作り損ねた表情だった。
――悔しいのかもしれない。
自分が組み上げた最高の舞台。自分が選んだ花。自分が決めた照明。そのすべてが完璧に機能したのに、一番おいしい瞬間を、壁際の日陰者である私に持っていかれた。しかも、自分からマイクを渡す形で。
私は勝ち誇ったりはしない。
ただ、研究者として――自分の体の中で観測された事実だけを、正確に記しておこう。
胸の奥は――かなり、すっとした。
ふと、人垣の隙間から、会場の一番後ろへと視線が抜けた。
アルカサスの役員やメディアの幹部たちが談笑しているエリア。その中に、見慣れた黒いスーツの姿が紛れ込んでいた。
颯真だ。今日ここへ来るとは、一言も聞いていなかった。
どうせまた、私が何かやらかさないか心配になって、こっそり様子を見に来たのだろう。
なにしろ、あの人は根が『オカン』なのだ。
ふと、彼と目が合った。その瞬間――彼の口角が、ゆっくりと上がった。
笑っている。
あの、普段は検出限界以下しか表情を動かさない、鉄仮面をかぶった吸血鬼が。
今日は、誰が見ても分かるくらいの笑顔だった。
――どうだ。見たか。
私は、白いジャケットのポケットの中で、小さく拳を握った。
私は、シンデレラになったわけではない。
王子様にガラスの靴を履かせてもらった覚えもなければ、十二時になって魔法が解ける予定もない。十二時を過ぎれば、メイクは自分で落とす。
地下ラボで五年間磨き続けてきたことを、今日は、ほんの少しだけ――証明してみたくなっただけだ。
白衣は、舞台裏へ溶けて消えるための色ではない。
白は本来――受けたすべての光を、誰より強く返す色なのだから。
会場は、都心の一流ホテルにある大宴会場だった。
天井いっぱいに光を振りまくシャンデリア。足元を深く染める真紅のカーペット。計算し尽くされた生花のアレンジメント。
開演前だというのに、フロアはすでに熱気で満ちていた。
取引先のバイヤー。美容誌の記者。数万、数十万のフォロワーを抱えるインフルエンサー。
女性たちは、上品なワンピースやセットアップに隙のないメイク。男性たちは、仕立てのいいジャケットスタイル。空気にまで、高級な香水とヘアスプレーの香りが塗り重ねられている。
大宴会場そのものが、一枚の巨大な化粧品広告みたいだった。まさに、キラキラ組の主戦場。黒瀬さんが、もっとも美しく、もっとも強く、もっとも絶対的な女王でいられる場所。
その黒瀬さんは、会場の中央にいた。
シャンパンベージュの洗練されたオールインワン。完璧に巻かれた髪。耳元で揺れるゴールドのピアス。来賓たちの輪の中心でグラスを傾け、優雅に微笑んでいる。
今日も照明は、彼女だけを特別扱いしていた。
天井のスポットライト一同が、『本日の主役はこちらです!』と、全力で黒瀬麗奈を推薦している。
私は、会場の入り口となる重厚な大扉の前に立ち、一度だけ深く息を吸った。
逃げ隠れはしない。暗転してから、こっそり壁際へ滑り込むつもりもない。私は両手で大扉を押し開け、まばゆい光の海へ、正面から足を踏み入れた。
入り口脇の受付には、キラキラ組のPRチームの女性たちが並んでいた。
私に気づいた一人が、反射的に営業用の笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ。恐れ入りますが、お名刺を頂戴でき――」
私の顔を正面から見た瞬間、その声が途切れた。
「……え?」
「お疲れさまです」
軽く会釈すると、彼女の手からバインダーが滑り落ちかけた。
その異変に気づき、隣の女性がこちらを見る。その隣も。さらに、その隣も。
「ちょっと、あれ……」
「誰? 招待客?」
「待って。あの人って……」
「え……湊川さん?」
「うそでしょ」
囁き声が、さざ波のように広がっていく。
私は彼女たちの戸惑いのど真ん中を、何一つ弁明せず、ただまっすぐ、悠々と進んだ。
カツン、カツンと、ピンヒールがカーペットを踏みしめる音が響く。 向かう先はただ一つ。会場の中央にいて、来賓たちに囲まれ、こちらへ背を向けている黒瀬麗奈。
私はまっすぐ彼女へ近づき、その一メートル後ろで立ち止まった。
「黒瀬さん。――遅くなりました」
びくり、と肩が揺れた。声で私だと分かったのだろう。
けれど、彼女はまだ振り返らない。
「あら。うちの開発担当が来たようですわ」
来賓たちへ向けた声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。
きっと今、彼女の頭には、いつもの私が浮かんでいる。
すっぴん。
寝不足。
引っ詰め髪。
ヨレヨレの白衣。
自分が支配する完璧な舞台へ、場違いな研究員が、ようやく公開処刑されにやってきた。
黒瀬さんは、そんな勝利を確信した笑顔のまま、優雅に振り返った。
「遅かったわね、湊川さ――」
私の名前が、途中で切れた。
黒瀬さんの目が、大きく見開かれる。シャンパングラスを持った右手が、空中で停止した。
薄く開いた唇から、息だけが漏れる。グラスの中で、黄金色の液体がかすかに震えた。
――その見開かれた瞳に、今日の私が、頭の先からつま先まで映り込んでいた。
私がまとっているのは、いつものよれよれの白衣ではなかった。
肩のラインをわずかに立てた、オフホワイトのロングジャケット。同色のハイウエストのワイドパンツに、ごく淡いグレーのシルクニット。足元には、歩ける高さの黒いスリングバック……。
髪も――。目にかかっていた長い前髪は中央で分け、額の丸みに沿わせながら、耳へ向かってタイトに流している。
後ろは、襟足すれすれで束ねたローポニー。結び目は細いシルバーのメタルカフで覆い、そこから下だけを、磨き上げたサテンのような大きなS字のウェーブに整えて、背中へ流した。
中学の同級生で美容師をやっている友人に頼み込んでやってもらった。原理だけなら、いつものひとつ結びの発展版。
そして――顔。
今朝、私は珍しく朝五時に起きた。
奇跡である。
普段なら、その時刻の私は睡眠中というより、生命活動の一時停止に近い。だが今朝だけは一度目のアラームで跳ね起き、洗面台の前に陣取った。
そこへ、ずらりと並べたのは――すべて我が社、アルカサスの製品群。
化粧水。美容液。下地。コンシーラー。ファンデーション。フェイスパウダー。ハイライト。アルカサス化粧品軍、総力出撃。
今日だけは、開発者権限でフルスペックを解放した。
自分の角質層の水分量。皮脂の分泌サイクル。赤みが出やすい場所。乾燥しやすい場所。そして、どの製品のどの成分が、私の肌の上で、何時間後に、どう作用するか。
――自分自身の肌と、化粧品との相性なら、この世でいちばん熟知している。なにしろ過去五年間、開発のたびに自分の顔面をテストピースとして差し出し、何百、何千回と塗って、落として、観察して、記録してきた。
私の顔面には、五年分の実験ログが蓄積されている。
まず、徹夜明けで青黒く沈んでいた目元。ここには補色となるオレンジ系のコンシーラーを、透けも厚塗り感も出ない限界の厚みで正確に配置。
青よ、補色の前に沈黙せよ。
乾燥によって生じた微細な凹凸には、粒子径を揃えた球状シリカ。光を均一に散乱させるソフトフォーカス効果で、影の境界を視覚的に消去する。
皮脂の出やすいTゾーンには、選択吸油性パウダーを先回りして緻密に配備。
皮脂が出てから慌てるのは素人だ。私は、こいつが何時何分頃から増援を送り込んでくるかまで知っている。
そして、ホテルの強烈な照明。まともに受ければ、毛穴も小ジワも容赦なく暴き出す尋問官だ。だが、反射率を計算してパールを効かせれば、事情が変わる。
照明は敵に回せば凶器。味方につければ、会場じゅうに設置された無料のレフ板になる。私がやったのは、徹底的なノイズの除去と、光の進路制御だ。
これは変身ではない。顔面の光学設計。結果として、私の顔は今、肌の粗を一つ残らず捜索してくるホテルの高演色照明の下でも、透き通るような均一さを保っている。
頬には静かな光。目元には澄んだ立体感。肌そのものが、内側から発光しているように見える。
「え……」
黒瀬さんの口から、一音だけが零れ落ちた。
そして、止まった。完全停止だ。
いつもなら、どんな相手を前にしても一ミリの隙もなく営業スマイルを貼りつけている彼女の顔から、文字どおり、すべての表情が抜け落ちていた。
「あ、あなた……」
鮮やかなリップを引いた唇が震え、ようやく次の言葉を生成した。
「その、格好……その、顔……」
「ドレスコードは、スマートカジュアルでしたよね」
「え……ええ……」
「よかった。間違えていなくて」
私は、自分の骨格にぴたりと合わせて仕立てた純白のジャケットの襟を、指先ですっと整えた。
そして、にっこりと笑う。
「ご指定どおり――白で揃えてみました」
「…………っ」
黒瀬さんのこめかみが、ヒクッと痙攣した。
その顔は、どうしても彼女の知る湊川由芽と、目の前の人物が同一個体とは思えない、と訴えていた。
私は五年間、化粧品を作り続けてきた。
ただ、それを自分を飾るためには使ってこなかった。
今日一日だけ、ずっと眠らせていた技術を、もっとも検証データの揃ったテストピースへ投入した。それだけだ。
私は、昨日までと、何ひとつ変わっていない。ただ、黒瀬さんがこれまで一度も、私という人間を正しい条件で測定していなかっただけなのだ。
だから今日、私はここへ来た。
その誤判定を――正しいデータで、ひっくり返すために。
* * *
やがて、開演を告げるベルが鳴った。
照明が落ち、巨大スクリーンにティザー映像が流れ始める。
純白のクリームが、光の中で滑らかに広がる。その映像美に、会場のあちこちから感嘆の吐息が漏れた。
黒瀬さんがステージへ上がり、ブランドの世界観を語る。
見事なプレゼンだった。
言葉の選び方。間の取り方。スクリーンへ視線を誘導するタイミング。悔しいけど、キラキラ組の『見せる力』は本物だ。
私はステージには上がらない。持ち場は、フロアの隅にある体験スペースの脇。サンプルを並べたテーブルと来場者の間に立ち、質問が出たら答える。それだけの役割だ。
二十枚の付箋を貼って準備した想定質問集は、もう鞄の中で眠っている。
黒瀬さんの流麗な言葉が、心地よく会場を撫でていく。
「――雪のように白く、それでいて、羽のように軽い。私たちが目指したのは、肌を塗り隠す白ではありません。肌そのものが光をまとう、『透過する白』です」
プレゼンが終わると、盛大な拍手が起きた。
やがて、司会が進行を切り替えた。
「それでは、ここからは、ご来場の皆さまからのご質問にお答えする時間とさせていただきます」
最初のいくつかは、和やかなものだった。発売日。価格帯。限定色の展開。パッケージのデザイナー。黒瀬さんは、そのすべてを笑顔で完璧にさばいていく。
私が壁際で「そろそろ足が痛くなってきたな」などと考えていると、会場の中ほどで、一人の男性が手を挙げた。
仕立てのいいジャケット。手元には紙のノートと万年筆。周囲がスマホやカメラを構えている中で、明らかに毛色が違う。
司会が慌てて名前を確認した。美容専門誌の、技術系記者。
その名前を聞いた瞬間、私の背筋がぴんと伸びた。
予習にあった名前だ。処方の中身に鋭く踏み込むことで有名な記者。たしか、元・化粧品会社の研究畑出身。
この人に、世界観だけで煙幕を張るのは不可能だ。
「二点、技術的な確認をさせてください」
マイクを渡された彼は、丁寧だが、はっきりとした口調で言った。
「『透過する白』という表現から、白色顔料を使わずに可視光を散乱させるため、中空シリカなどの空隙を持った微粒子を使われていると推測します」
彼は、すっと目を細めた。
大正解。別に隠すことではないけれど、初手から心臓部へメスを入れてきた。
「しかし、塗布後に皮脂や基剤の油分と混ざれば、粒子と周囲の屈折率の差が縮まり、光の散乱効率は著しく落ちますよね。いわゆる『濡れたシャツが透ける』現象です。実際の肌という過酷な環境で、どのように光散乱性を維持しているのでしょうか」
会場の空気が、わずかに変わった。
屈折率のあたりで置き去りにされた人も、『濡れたシャツ』でどうにか追いついたらしい。
全員が理解したのは、一つ。これは、素人の質問ではない、ということ。
「加えて、もう一点」
彼は、ノートを一枚めくった。
「中空粒子を用いた製剤は、他社でも例があります。ただ、経時で粒子が凝集し、塗布膜が不均一になり、かえって白浮きするという報告が複数出ています。御社は、その分散安定性をどう担保されたのでしょうか」
――どちらも、質問としておかしくない。それどころか、ド真ん中だった。
シンヴェールという技術の、一番コアの部分。
私と蘭子さんが何度も転び、何度も這い上がった、沼の最深部へ正確にピンを刺してきた。
ステージの上で、黒瀬さんの完璧に塗られた唇が、静かに閉じた。
答えられるはずがない。彼女は世界観を作る人だ。屈折率を守ったり、粒子同士の集会を解散させたりする人ではない。
最前列のPRスタッフが、弾かれたようにこちらを振り返る。助けを求める視線が、まっすぐ私に刺さる。
――ああ、そうだった。
私は、ようやく思い出した。黒瀬さんとは違って、あのPRの人たちは、本当に私を必要としていたのだ。
黒瀬さんが、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。その目に浮かんでいたのは、強烈な屈辱。
「……開発担当者から、お答えいたします。湊川さん。お願い」
会場の視線が、一斉に私へと集まる。私は、ジャケットの襟を指先で整え、一歩前へ出た。
スタッフから差し出されたマイクを受け取る。
不思議なことに、足の痛みまで消えていた。
「――開発を担当していました、湊川由芽と申します。専門は、処方設計と粉体分散です」
会場のざわめきが、すっと静まった。
「まず、一点目のご質問から。ご推察のとおり、私たちは顔料ではなく、内部に空気を含む透明な中空粒子を使用しています」
私は、会場全体を見渡した。
「先ほどのご指摘は、化粧品開発における最大の壁です。白く見える雪も、溶ければただの透明な水になる。同じように、粒子の内部へ皮脂や油が浸入し、『空気との境界』が失われれば、光は曲がらず、白さは消えてしまいます」
空いている手で身振りを交えながら、はっきりと言葉を紡ぐ。
「そのため、シェルの表面と内部に独自の撥水撥油コーティングを施し、基剤や皮脂の浸入を防いでいます。常に内部に『空気の層』を保ち、屈折率の差を維持する設計です。いわば――『絶対に溶けない雪』を、肌の上へ降らせています」
「なるほど」
記者がマイクを持ったまま、深く頷いた。
「しかし、強い屈折率の差を保ったままでは、単なる『白浮き』になりませんか?」
「粒径をコントロールし、光の散乱ピークを青から緑の領域に設定しています。くすみを感じさせる影の波長は散乱させて飛ばし、血色感となる赤みは通す。だから肌そのものは隠さず、透明な光のヴェールだけがかかったように見えるんです」
「散乱の波長選択性を、顔料フリーで、しかも実用レベルまで引き上げたわけですか」
記者の万年筆が、猛烈な速度で動いていた。
「では、二点目を」
私は、少しだけ声の温度を落とした。
「凝集の問題は、ご指摘のとおりです。中空粒子は軽く、比重が小さい。だから処方の中で浮きます。浮けば集まる。集まればムラになる。ムラになれば白く浮く。開発者にとっては、非常に美しい地獄の四段活用です」
会場のあちこちで、小さな笑いが起きた。
「では、どう解決を?」
「粒子が浮かんでいる基剤に、ごく緩い構造を持たせました。静かに置いている間は、やわらかなゼリーのように粒子を支える。けれど、指でこすった瞬間だけ、その構造がさらっと崩れて伸びるようにしています」
「置いている間は動かない。塗るときだけ動く、と」
「はい。身近なもので言えば、ケチャップです。瓶を立てておけば落ちてこないのに、振れば出てくる。あれと同じ性質を、うんと繊細に設計することで、技術的な壁を越えました」
一流ホテルの大宴会場へ、突如としてケチャップが乱入した。
だが、その瞬間、専門知識のない人たちの顔にも「ああ」と理解の光が灯った。
私は、そこで一度、言葉を切った。
言うべきか、迷う。
だが、ここで言わなければ、私がこの場にいる意味がない。
「――ただし」
私はマイクを握り直し、はっきりと言った。
「本日お配りしているサンプルは、最終処方ではありません。安定性試験は、現在も進行中です」
黒瀬さんの表情が、ステージの上で完全に凍りついた。
「私たちが先ほどから『できた』と申し上げられるのは、温度も、湿度も、使う方の肌質も違うさまざまな条件で、同じ品質と安全性を確認できてからです」
私は、記者の目をまっすぐに見返した。
「ですから今日は、『こういう考え方で作っています』というところまでを、お話しさせてください。化粧品のレシピは、魔法の呪文ではありません。誰が使っても同じ結果へたどり着けると検証されて、初めて技術になります」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「十二時になったら崩れるものを、私たちは商品とは呼びません」
しん、と会場が静まり返る。
やがて――。
「なるほど。素晴らしい」
記者が万年筆を置き、こちらへ小さく頭を下げた。
「完成していないものを、完成したと言わない会社は信用できます」
その一言が。五年分の徹夜よりも、ずっと深いところへ届いた気がした。
* * *
歓談の時間になると、私の周りには、次々と人が集まってきた。
どうやら、明らかに玄人な記者と、丁々発止のオタク議論をやってのけたのが、インフルエンサーたちの好奇心を強く刺激したらしい。私がそれなりに着飾り、髪を整え、メイクしてきたことも大きかったのだと思う。
ふと人垣の隙間から視線を抜くと、少し離れた場所に黒瀬さんが立っていた。
彼女の周りにも来賓はいる。けれど、明らかに輪が薄い。
会場の熱の重心は、いつの間にか完全にこちら側へ移ってしまっていた。黒瀬さんがシャンパングラスを握る手に、ギリッと力を込めているのが、遠目にも分かる。
口角は上がっている。だが、目は一ミリも笑っていない。あの完璧な黒瀬さんが、今日初めて作り損ねた表情だった。
――悔しいのかもしれない。
自分が組み上げた最高の舞台。自分が選んだ花。自分が決めた照明。そのすべてが完璧に機能したのに、一番おいしい瞬間を、壁際の日陰者である私に持っていかれた。しかも、自分からマイクを渡す形で。
私は勝ち誇ったりはしない。
ただ、研究者として――自分の体の中で観測された事実だけを、正確に記しておこう。
胸の奥は――かなり、すっとした。
ふと、人垣の隙間から、会場の一番後ろへと視線が抜けた。
アルカサスの役員やメディアの幹部たちが談笑しているエリア。その中に、見慣れた黒いスーツの姿が紛れ込んでいた。
颯真だ。今日ここへ来るとは、一言も聞いていなかった。
どうせまた、私が何かやらかさないか心配になって、こっそり様子を見に来たのだろう。
なにしろ、あの人は根が『オカン』なのだ。
ふと、彼と目が合った。その瞬間――彼の口角が、ゆっくりと上がった。
笑っている。
あの、普段は検出限界以下しか表情を動かさない、鉄仮面をかぶった吸血鬼が。
今日は、誰が見ても分かるくらいの笑顔だった。
――どうだ。見たか。
私は、白いジャケットのポケットの中で、小さく拳を握った。
私は、シンデレラになったわけではない。
王子様にガラスの靴を履かせてもらった覚えもなければ、十二時になって魔法が解ける予定もない。十二時を過ぎれば、メイクは自分で落とす。
地下ラボで五年間磨き続けてきたことを、今日は、ほんの少しだけ――証明してみたくなっただけだ。
白衣は、舞台裏へ溶けて消えるための色ではない。
白は本来――受けたすべての光を、誰より強く返す色なのだから。

