翌日の午後。
「エントランスは白の胡蝶蘭をメインに。ブランドカラーを邪魔しないよう、葉の緑も抑えて」
「ケータリングは一口サイズ限定。インフルエンサーの方々が、リップを直さず撮影へ戻れるように」
「フォトブースの照明、もう少し青みを足せない? ボトルのマット感が飛ぶのは絶対に避けたいの」
八階の第一会議室は、エスプレッソと高級香水と、巨額の広告予算の匂いで満ちていた。
壁面のプロジェクターに映っているのは、来週に迫った新ブランド『Blanche』関係者向けPRイベントの進行表。
会場装飾。招待客。SNS拡散。撮影導線。花。光。リップ。ハッシュタグ。
私が毎晩、地下ラボで成分や乳化安定性と泥臭く殴り合っている間に、地上では「映え」がものすごい速度で軍備を整えていた。
どうせ私には関係のない世界だ。
私は末席で存在濃度を限界まで薄め、無心で議事録を打ち続けていた。いや、正確には、頭の七割ほどは別のことで占領されていた。
(……昨日の鰆、本当に美味しかったな)
白味噌の甘み。絶妙な火入れ。昆布と鰹の旨味による完璧な相乗効果。あれは西京焼きの姿をした、調理科学の勝利だ。
次はブリがいい。
脂の乗った寒ブリの照り焼き。いや、出汁の染みたブリ大根も捨てがたい。大根を噛んだ瞬間、じゅわっと煮汁が――。
しかし、次期社長候補にして鬼の事業戦略部長を相手に、「明日のメニューはブリでお願いします」などと発注していいものだろうか。
いや、駄目な気がする。無礼にもほどがある。
だが、もし向こうから「何が食べたい」と聞かれた場合は? それなら正式な需要調査への回答であり、こちらに非はないのでは――。
私が脳内でブリの発注可否を審議している間にも、現実の会議は猛烈な速度で進んでいく。
やがて、予定された議題がすべて片づき、私が議事録を保存し、今夜の献立へ思考を止めようとしかけた――その時だった。
「そうそう。湊川さん」
黒瀬さんが、いかにも今思い出したという軽さで私を見た。
嫌な予感がした。あの人の「そうそう」は、だいたい軽くない。
脳内を泳いでいたブリが、一斉に消えた。
「来週のPRイベント、あなたにも会場へ出てもらうことにしたわ」
「……へ? 私が?」
思わず椅子から腰を浮かせた。
「でも、招待客は美容誌のライターさんや、インフルエンサーの方々ですよね」
「ええ。だからこそよ」
黒瀬さんは、にっこり微笑んだ。
「最近は、成分や処方に詳しい方も多いでしょう? 専門的な質問へ正確に答えられる、開発側の技術解説スタッフが一人ほしいの」
「あ、それ、絶対に助かります!」
PR担当の女性が、ぱっと手を打った。
「私たちでは、細かい処方まで答えられないですもんね」
「湊川さんがいてくれたら、すごく心強いです!」
必要だ。心強い。
この部署へ来てから、自分へ向けられるとは思わなかった言葉だった。
「は、はい。わかりました。そういうことなら、任せてください」
気づけば、勢いよく立ち上がっていた。
実はちょっと嬉しかった。
キラキラ組の人たちに、白組の知識を頼られるというのが。
「Blancheの成分のことなら、油剤でも粉体でも界面活性剤でも、全成分の配合目的から相互作用まで説明できます」
「さすがね」
黒瀬さんは満足そうに頷いた。
「では、今日はここまで」
会議が終わる。
資料が閉じられ、椅子が引かれ、人の波が廊下へ流れていく。
私も、浮き立つ気持ちのままノートパソコンを閉じた。
「湊川さん。少し残ってもらえる?」
黒瀬さんに呼び止められた。
最後の一人が出ていき、ドアが閉まる。二人きりになった途端、黒瀬さんは声を一段落とした。
「当日の服装のことなんだけど」
「あ、はい。新しく作った黒のスーツで――」
「ううん」
黒瀬さんは、ゆっくり首を横に振った。
「白衣がいいわ」
「……白衣、ですか」
「変に着飾らず、いつもの白衣で来てちょうだい」
戸惑う私へ、黒瀬さんは優しく微笑みかけた。
「研究者らしさって、裏方のあなたにしか出せない、素晴らしい個性でしょう? 無理に私たちへ合わせなくていいの。あなたは、あなたのままで来て」
まるで、不器用な部下を丸ごと肯定する、優しい上司の顔だった。
二人きりの会議室で、そんなふうに言われて、私は、迂闊にも胸を熱くしてしまった。
「……ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
黒瀬さんの唇の端が、ほんの一瞬だけ、三日月のように持ち上がったことにも気づかずに……。
* * *
その日の夕方。
本館八階の資料室で、私は机いっぱいにファイルを広げていた。
『過去PRイベント実施報告書』
『来場者別・想定質問集』
『美容成分Q&A』
『技術情報・社外説明ガイドライン』
積み上がったファイルは、すでに小規模な城塞と化している。
その中心で、私は付箋と蛍光ペンを両手に装備し、猛烈な勢いでページをめくっていた。
「成分に詳しいインフルエンサーの場合、最初に粒子径を説明すると長い……。先に塗布後の光学特性を見せて、それからシンヴェールの構造へ戻る……。いや、でも中空粒子の説明を飛ばすと、透明感が出る理由が――」
独り言を漏らしながら、説明の順番を書き直す。
来週の新ブランドお披露目イベント。そこで私は、技術解説スタッフとして会場に立つ。
みんなが言ってくれたのだ。
『あなたの知識が必要なの』
『専門的な質問が来ても、湊川さんがいてくれれば心強いわ』
何度思い返しても、胸の奥がむずむずする。
自分の言葉でシンヴェールを説明できる。
まだ未完成の技術ではあるけど、この五年間の成果をお披露目できるのは素直に嬉しいのだ。イベントでの説明を通じて黒瀬さんやキラキラ組から信頼されるようになれば、証拠が揃った時に蘭子さんの無実の証明をするのも、スムーズにできるかもしれない。
「うふふふふ」
一人でにやけていると、資料室の入口で、カードリーダーが短く鳴った。
顔を上げる。開いた扉の向こうから、よく知る顔が入ってきた。
座間颯真だ。
彼も私に気がつくと、こちらへ近づいてきた。
「君が資料室にいるとは珍しいな」
「そうですね、私、滅多に来たことがないので。でも偉い人がここに来るのも珍しくないですか?」
「俺は考え事をするときに来るんだ。ここなら誰もいないからな」
颯真は淡々と返し、机の上に積み上げられた分厚いファイルの山へ視線を落とした。
「で、どうしてここにいる? キラキラ組の空間から逃避でもしてきたのか」
「ふふ。そう思いますよね?」
私は、思わずにんまりと笑みを深めた。
「聞いてください! 私、来週のPRイベントに出ることになったんです!」
「君がか?」
「そうなんです。開発側の技術解説スタッフです」
私は付箋だらけのファイルを開き、颯真の前へ差し出した。
「成分に詳しいインフルエンサーや美容誌の記者から、専門的な質問が出たら私が答えるらしく。シンヴェールの光散乱をどう説明すれば伝わりやすいか、今、過去の想定質問を調べていて」
「なるほど」
私が口を閉じると、颯真は手元のファイルへ視線を落とした。
その目元はいつもよりわずかに柔らかだ。
「適任だな。今、シンヴェールについて、君以上に正確に説明できる人間はいない」
「はい」
再び、喜びが口から飛び出した。
「黒瀬さんも、同じことを言ってくれたんです。私なら正確に答えられる。知識のある人間が会場にいれば心強いって!」
「そうか」
颯真は、ほんのわずかに目を細めた。
私がこんなにも浮かれていることを、どこか満足そうに眺めている。
「ずいぶん嬉しそうだな」
「まあ、そうですね。シンヴェールは未完成で、あのサンプルのまま出ることはないと思っていますけど、頼られたからには応えようと思います」
「そうか。それは、よかったな」
「しかも服装も、いつもの白衣で出席してよいって言ってくれて――」
颯真の指が止まった。
「白衣?」
「研究者らしさを出したいから、着飾らなくていい、普段どおりの私で来てほしいそうです。黒瀬さん、多様性とか個性を尊重してくれて――」
「待て」
低い声が、私の言葉を切った。目から、先ほどまで残っていた柔らかさが消えていた。
「そのイベントは、マスコミ向けの商品発表会なのか?」
「え?」
「商品発表や技術商談が中心の催しなら、説明員が白衣を着ることはある。だが、今回もそうなのか」
「いえ、新ブランドのお披露目イベントです。会場は都心のホテルで、バイヤーと美容誌と、インフルエンサーを招待して……」
「ステージでは技術講演を?」
「たぶん、ブランド紹介とデモンストレーションが中心です」
「君の登壇時間は」
「登壇はしません。体験スペースの近くで質問に答えると聞いてますけど」
「正式な役割分担表は受け取ったか」
「まだです」
答えるたび、颯真の顔から温度が消えていく。
彼は無言でタブレットを取り出した。
社内ポータルからイベントの正式資料を開き、電子招待状、運営台本、スタッフ向けの指示書を次々と表示していく。
最初に出てきたのは、招待客と関係スタッフへ送付された案内状だった。
開催は、来週水曜日の午後六時半。
会場は、一流ホテルの大宴会場。
その一番下に、小さいが明確な文字で記されている。
『ドレスコード:関係スタッフを含めスマートカジュアル』
「スマートカジュアル? それ、白衣は入りますか?」
「入らない。下手をしたら会場にすら入れない。ここを見ろ」
颯真がページを切り替える。
そちらにはPRスタッフ用のスタイリング指示書。カラーコードは、黒、アイボリー、シルバー、白系。ブランドの世界観に合わせた服、靴、アクセサリー、ヘアメイクを指定……。
どこにも白衣とか普段通りの恰好でオッケーとは書かれていない。
「じゃあなんで、黒瀬さんは私にそんなことを言ったんですか? 嫌がらせ? 私に恥をかかせるつもりですか?」
「それもあるかもしれないが、PRイベントには役員や関連会社の管理職も集まる。アルカサスの旧研究員は場もわきまえられない、化粧品会社に勤めていながら自分の身なりすら整えられない連中。解散しても致し方ない、と印象づけるためだろう」
「つまり?」
「これは罠だ。別の言い方をすれば、白組残党の公開処刑だな」
颯真の言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、何かが落ちた。
ついさっきまで舞っていた紙吹雪が、一枚残らず床へ落ちたようだった。
机の上には、私が集めた資料が山積みになっている。
二十枚以上貼った付箋。書き直した説明の順番。想定質問。聞く人に少しでも分かりやすく伝えようと考えた言葉。そのすべてが、急にひどく滑稽なものに見えた。
「……私、結構、嬉しかったんですけどね。必要とされたと思ったんです」
声が、勝手に震えた。
「私の知識が役に立つ。白衣のままでも、表へ出ていい。五年かけて作ったものを、自分の言葉で説明できるって……」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
悔しい。完全に、引っかかった。私の研究者の気持ちまで計算し、いちばん効く言葉を選び、一番嬉しい顔で毒を飲ませられた。
「ふう……」
肺の底に溜まっていたものを、ゆっくり吐き出した。
「私も、ずいぶん舐められたものですね」
笑おうとした。けれど、喉からこぼれた声は、自分で思っていたよりも乾いていた。
「……まあ、実際、まんまと引っかかったんですから。相手の見立ては、間違っていませんけど」
悔しい。
やっぱり罠を見抜けなかったことも。浮かれて、こんなに資料を集めたことも。けれど、何より悔しいのは――『あなたが必要だ』と言われて嬉しかった、その気持ちまで罠の部品にされたことだ。
俯いた私を、漆黒の瞳がまっすぐに見下ろしていた。
冷徹で、ひどく理知的な彼の目。いつもなら、事実と感情を容赦なく切り分けるその奥に、今はごく静かな別の感情があった。
それは、私が晒し物にされることへの怒りと、私が喜んだことまで踏みにじられたことへの同情のように見えた。
「――助けはいるか?」
「え?」
「君をイベントから外すこともできる。逆に出席するなら、説明員として正式な持ち時間を設けさせることも可能だが」
「…………」
私は少しだけ考えた。
ここで頷けば、この罠は潰せる。彼なら、本当にやるだろう。黒瀬さんがどれだけ周到に舞台を整えていようと、その上から権限と正論で踏み潰し、私が傷つかない形へ作り替えてくれる。
それは、とてもありがたい。悔しいほどに、心強い。
「ありがとうございます」
私は顔を上げ、颯真の目を真正面から見返した。
「でも、お気持ちだけいただきます。颯真さんが舞台ごと作り替えてしまったら、黒瀬さんの考えを根本から否定することになりませんから」
「黒瀬の考え?」
「『自分の身なりすら整えられない白衣の集団は、美を作る我が社に相応しくない』という思い込みです」
言って、私は自分の頬へ、そっと指先で触れる。
寝不足で乾燥している角質層。Tゾーンには、少し浮いた皮脂。目の下には、ここ数週間分の疲労がたいへん正直な色で沈着している。
まあ、控えめに言って最悪のコンディション。
これが、今のすっぴんの私。黒瀬さんが、満場のカメラの前へ引きずり出して笑い者にしたい私だ。
「いつもすっぴんで白衣を着て、試験管ばかり握っているから、洒落っ気のないただの化学オタクだと思われているみたいですけど……」
私は、不敵な笑みを浮かべた。
「化粧品をゼロから作っているなら、使い方だって誰より熟知していると思いませんか?」
「エントランスは白の胡蝶蘭をメインに。ブランドカラーを邪魔しないよう、葉の緑も抑えて」
「ケータリングは一口サイズ限定。インフルエンサーの方々が、リップを直さず撮影へ戻れるように」
「フォトブースの照明、もう少し青みを足せない? ボトルのマット感が飛ぶのは絶対に避けたいの」
八階の第一会議室は、エスプレッソと高級香水と、巨額の広告予算の匂いで満ちていた。
壁面のプロジェクターに映っているのは、来週に迫った新ブランド『Blanche』関係者向けPRイベントの進行表。
会場装飾。招待客。SNS拡散。撮影導線。花。光。リップ。ハッシュタグ。
私が毎晩、地下ラボで成分や乳化安定性と泥臭く殴り合っている間に、地上では「映え」がものすごい速度で軍備を整えていた。
どうせ私には関係のない世界だ。
私は末席で存在濃度を限界まで薄め、無心で議事録を打ち続けていた。いや、正確には、頭の七割ほどは別のことで占領されていた。
(……昨日の鰆、本当に美味しかったな)
白味噌の甘み。絶妙な火入れ。昆布と鰹の旨味による完璧な相乗効果。あれは西京焼きの姿をした、調理科学の勝利だ。
次はブリがいい。
脂の乗った寒ブリの照り焼き。いや、出汁の染みたブリ大根も捨てがたい。大根を噛んだ瞬間、じゅわっと煮汁が――。
しかし、次期社長候補にして鬼の事業戦略部長を相手に、「明日のメニューはブリでお願いします」などと発注していいものだろうか。
いや、駄目な気がする。無礼にもほどがある。
だが、もし向こうから「何が食べたい」と聞かれた場合は? それなら正式な需要調査への回答であり、こちらに非はないのでは――。
私が脳内でブリの発注可否を審議している間にも、現実の会議は猛烈な速度で進んでいく。
やがて、予定された議題がすべて片づき、私が議事録を保存し、今夜の献立へ思考を止めようとしかけた――その時だった。
「そうそう。湊川さん」
黒瀬さんが、いかにも今思い出したという軽さで私を見た。
嫌な予感がした。あの人の「そうそう」は、だいたい軽くない。
脳内を泳いでいたブリが、一斉に消えた。
「来週のPRイベント、あなたにも会場へ出てもらうことにしたわ」
「……へ? 私が?」
思わず椅子から腰を浮かせた。
「でも、招待客は美容誌のライターさんや、インフルエンサーの方々ですよね」
「ええ。だからこそよ」
黒瀬さんは、にっこり微笑んだ。
「最近は、成分や処方に詳しい方も多いでしょう? 専門的な質問へ正確に答えられる、開発側の技術解説スタッフが一人ほしいの」
「あ、それ、絶対に助かります!」
PR担当の女性が、ぱっと手を打った。
「私たちでは、細かい処方まで答えられないですもんね」
「湊川さんがいてくれたら、すごく心強いです!」
必要だ。心強い。
この部署へ来てから、自分へ向けられるとは思わなかった言葉だった。
「は、はい。わかりました。そういうことなら、任せてください」
気づけば、勢いよく立ち上がっていた。
実はちょっと嬉しかった。
キラキラ組の人たちに、白組の知識を頼られるというのが。
「Blancheの成分のことなら、油剤でも粉体でも界面活性剤でも、全成分の配合目的から相互作用まで説明できます」
「さすがね」
黒瀬さんは満足そうに頷いた。
「では、今日はここまで」
会議が終わる。
資料が閉じられ、椅子が引かれ、人の波が廊下へ流れていく。
私も、浮き立つ気持ちのままノートパソコンを閉じた。
「湊川さん。少し残ってもらえる?」
黒瀬さんに呼び止められた。
最後の一人が出ていき、ドアが閉まる。二人きりになった途端、黒瀬さんは声を一段落とした。
「当日の服装のことなんだけど」
「あ、はい。新しく作った黒のスーツで――」
「ううん」
黒瀬さんは、ゆっくり首を横に振った。
「白衣がいいわ」
「……白衣、ですか」
「変に着飾らず、いつもの白衣で来てちょうだい」
戸惑う私へ、黒瀬さんは優しく微笑みかけた。
「研究者らしさって、裏方のあなたにしか出せない、素晴らしい個性でしょう? 無理に私たちへ合わせなくていいの。あなたは、あなたのままで来て」
まるで、不器用な部下を丸ごと肯定する、優しい上司の顔だった。
二人きりの会議室で、そんなふうに言われて、私は、迂闊にも胸を熱くしてしまった。
「……ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。
黒瀬さんの唇の端が、ほんの一瞬だけ、三日月のように持ち上がったことにも気づかずに……。
* * *
その日の夕方。
本館八階の資料室で、私は机いっぱいにファイルを広げていた。
『過去PRイベント実施報告書』
『来場者別・想定質問集』
『美容成分Q&A』
『技術情報・社外説明ガイドライン』
積み上がったファイルは、すでに小規模な城塞と化している。
その中心で、私は付箋と蛍光ペンを両手に装備し、猛烈な勢いでページをめくっていた。
「成分に詳しいインフルエンサーの場合、最初に粒子径を説明すると長い……。先に塗布後の光学特性を見せて、それからシンヴェールの構造へ戻る……。いや、でも中空粒子の説明を飛ばすと、透明感が出る理由が――」
独り言を漏らしながら、説明の順番を書き直す。
来週の新ブランドお披露目イベント。そこで私は、技術解説スタッフとして会場に立つ。
みんなが言ってくれたのだ。
『あなたの知識が必要なの』
『専門的な質問が来ても、湊川さんがいてくれれば心強いわ』
何度思い返しても、胸の奥がむずむずする。
自分の言葉でシンヴェールを説明できる。
まだ未完成の技術ではあるけど、この五年間の成果をお披露目できるのは素直に嬉しいのだ。イベントでの説明を通じて黒瀬さんやキラキラ組から信頼されるようになれば、証拠が揃った時に蘭子さんの無実の証明をするのも、スムーズにできるかもしれない。
「うふふふふ」
一人でにやけていると、資料室の入口で、カードリーダーが短く鳴った。
顔を上げる。開いた扉の向こうから、よく知る顔が入ってきた。
座間颯真だ。
彼も私に気がつくと、こちらへ近づいてきた。
「君が資料室にいるとは珍しいな」
「そうですね、私、滅多に来たことがないので。でも偉い人がここに来るのも珍しくないですか?」
「俺は考え事をするときに来るんだ。ここなら誰もいないからな」
颯真は淡々と返し、机の上に積み上げられた分厚いファイルの山へ視線を落とした。
「で、どうしてここにいる? キラキラ組の空間から逃避でもしてきたのか」
「ふふ。そう思いますよね?」
私は、思わずにんまりと笑みを深めた。
「聞いてください! 私、来週のPRイベントに出ることになったんです!」
「君がか?」
「そうなんです。開発側の技術解説スタッフです」
私は付箋だらけのファイルを開き、颯真の前へ差し出した。
「成分に詳しいインフルエンサーや美容誌の記者から、専門的な質問が出たら私が答えるらしく。シンヴェールの光散乱をどう説明すれば伝わりやすいか、今、過去の想定質問を調べていて」
「なるほど」
私が口を閉じると、颯真は手元のファイルへ視線を落とした。
その目元はいつもよりわずかに柔らかだ。
「適任だな。今、シンヴェールについて、君以上に正確に説明できる人間はいない」
「はい」
再び、喜びが口から飛び出した。
「黒瀬さんも、同じことを言ってくれたんです。私なら正確に答えられる。知識のある人間が会場にいれば心強いって!」
「そうか」
颯真は、ほんのわずかに目を細めた。
私がこんなにも浮かれていることを、どこか満足そうに眺めている。
「ずいぶん嬉しそうだな」
「まあ、そうですね。シンヴェールは未完成で、あのサンプルのまま出ることはないと思っていますけど、頼られたからには応えようと思います」
「そうか。それは、よかったな」
「しかも服装も、いつもの白衣で出席してよいって言ってくれて――」
颯真の指が止まった。
「白衣?」
「研究者らしさを出したいから、着飾らなくていい、普段どおりの私で来てほしいそうです。黒瀬さん、多様性とか個性を尊重してくれて――」
「待て」
低い声が、私の言葉を切った。目から、先ほどまで残っていた柔らかさが消えていた。
「そのイベントは、マスコミ向けの商品発表会なのか?」
「え?」
「商品発表や技術商談が中心の催しなら、説明員が白衣を着ることはある。だが、今回もそうなのか」
「いえ、新ブランドのお披露目イベントです。会場は都心のホテルで、バイヤーと美容誌と、インフルエンサーを招待して……」
「ステージでは技術講演を?」
「たぶん、ブランド紹介とデモンストレーションが中心です」
「君の登壇時間は」
「登壇はしません。体験スペースの近くで質問に答えると聞いてますけど」
「正式な役割分担表は受け取ったか」
「まだです」
答えるたび、颯真の顔から温度が消えていく。
彼は無言でタブレットを取り出した。
社内ポータルからイベントの正式資料を開き、電子招待状、運営台本、スタッフ向けの指示書を次々と表示していく。
最初に出てきたのは、招待客と関係スタッフへ送付された案内状だった。
開催は、来週水曜日の午後六時半。
会場は、一流ホテルの大宴会場。
その一番下に、小さいが明確な文字で記されている。
『ドレスコード:関係スタッフを含めスマートカジュアル』
「スマートカジュアル? それ、白衣は入りますか?」
「入らない。下手をしたら会場にすら入れない。ここを見ろ」
颯真がページを切り替える。
そちらにはPRスタッフ用のスタイリング指示書。カラーコードは、黒、アイボリー、シルバー、白系。ブランドの世界観に合わせた服、靴、アクセサリー、ヘアメイクを指定……。
どこにも白衣とか普段通りの恰好でオッケーとは書かれていない。
「じゃあなんで、黒瀬さんは私にそんなことを言ったんですか? 嫌がらせ? 私に恥をかかせるつもりですか?」
「それもあるかもしれないが、PRイベントには役員や関連会社の管理職も集まる。アルカサスの旧研究員は場もわきまえられない、化粧品会社に勤めていながら自分の身なりすら整えられない連中。解散しても致し方ない、と印象づけるためだろう」
「つまり?」
「これは罠だ。別の言い方をすれば、白組残党の公開処刑だな」
颯真の言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、何かが落ちた。
ついさっきまで舞っていた紙吹雪が、一枚残らず床へ落ちたようだった。
机の上には、私が集めた資料が山積みになっている。
二十枚以上貼った付箋。書き直した説明の順番。想定質問。聞く人に少しでも分かりやすく伝えようと考えた言葉。そのすべてが、急にひどく滑稽なものに見えた。
「……私、結構、嬉しかったんですけどね。必要とされたと思ったんです」
声が、勝手に震えた。
「私の知識が役に立つ。白衣のままでも、表へ出ていい。五年かけて作ったものを、自分の言葉で説明できるって……」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
悔しい。完全に、引っかかった。私の研究者の気持ちまで計算し、いちばん効く言葉を選び、一番嬉しい顔で毒を飲ませられた。
「ふう……」
肺の底に溜まっていたものを、ゆっくり吐き出した。
「私も、ずいぶん舐められたものですね」
笑おうとした。けれど、喉からこぼれた声は、自分で思っていたよりも乾いていた。
「……まあ、実際、まんまと引っかかったんですから。相手の見立ては、間違っていませんけど」
悔しい。
やっぱり罠を見抜けなかったことも。浮かれて、こんなに資料を集めたことも。けれど、何より悔しいのは――『あなたが必要だ』と言われて嬉しかった、その気持ちまで罠の部品にされたことだ。
俯いた私を、漆黒の瞳がまっすぐに見下ろしていた。
冷徹で、ひどく理知的な彼の目。いつもなら、事実と感情を容赦なく切り分けるその奥に、今はごく静かな別の感情があった。
それは、私が晒し物にされることへの怒りと、私が喜んだことまで踏みにじられたことへの同情のように見えた。
「――助けはいるか?」
「え?」
「君をイベントから外すこともできる。逆に出席するなら、説明員として正式な持ち時間を設けさせることも可能だが」
「…………」
私は少しだけ考えた。
ここで頷けば、この罠は潰せる。彼なら、本当にやるだろう。黒瀬さんがどれだけ周到に舞台を整えていようと、その上から権限と正論で踏み潰し、私が傷つかない形へ作り替えてくれる。
それは、とてもありがたい。悔しいほどに、心強い。
「ありがとうございます」
私は顔を上げ、颯真の目を真正面から見返した。
「でも、お気持ちだけいただきます。颯真さんが舞台ごと作り替えてしまったら、黒瀬さんの考えを根本から否定することになりませんから」
「黒瀬の考え?」
「『自分の身なりすら整えられない白衣の集団は、美を作る我が社に相応しくない』という思い込みです」
言って、私は自分の頬へ、そっと指先で触れる。
寝不足で乾燥している角質層。Tゾーンには、少し浮いた皮脂。目の下には、ここ数週間分の疲労がたいへん正直な色で沈着している。
まあ、控えめに言って最悪のコンディション。
これが、今のすっぴんの私。黒瀬さんが、満場のカメラの前へ引きずり出して笑い者にしたい私だ。
「いつもすっぴんで白衣を着て、試験管ばかり握っているから、洒落っ気のないただの化学オタクだと思われているみたいですけど……」
私は、不敵な笑みを浮かべた。
「化粧品をゼロから作っているなら、使い方だって誰より熟知していると思いませんか?」

