すっぴん白衣の逆転レシピ 〜メイクが苦手な化粧品研究員、データを盗まれたのでザマス王子の秘密ラボでキラキラ組にリベンジします〜

「――うるさい!」

 背後から、液体窒素より冷たい声が飛んできた。振り向くと、颯真が立っていた。

 いつもの、隙のない黒いスーツ――ではない。

 ジャケットもネクタイもなく、白いシャツの袖を肘までまくり、その上から藍染めのエプロンを締めている。

 吸血鬼系美形。創業家の御曹司。次期社長候補。事業戦略部長。私の靴のサイズと菓子パンの賞味期限を把握している監視者。三十分の懊悩を三行へ圧縮する人間要約装置。そして、正論で武装したオカン。

 ――そこへ、エプロン。

「……あの」
「なんだ」
「属性、まだ増えるんですか」
「意味が分からん」

 颯真が歩いてくる。
 彼の両手には木製のトレーが置かれていた。
 トレーには、完璧な配置の一汁三菜が並んでいる。焼き魚をメインに、ふわりと湯気を立てる味噌汁、小鉢、そして艶やかなご飯。

 地下ラボの空気組成が上書きされていく。エタノール。オゾン。冷たいコンクリート。そのすべてを、出汁と焦げた味噌の香りが雪崩のように押し流していく。

「……どうしたんですか、それ」
「食事だ」
「それは、見れば分かります。なぜここに? ここで夕飯食べるんですか?」
「君が食べるんだ」
「は?」
「どうせまともに食べていないだろう」
「栄養補助ブロックとコーヒーは食事とは言わない」
「なんで分かるんですか」
「休憩室のごみ箱に空袋が二枚。マグカップの内壁にコーヒーの残渣が三層」
「私、監視されてます?」
「休憩室に生活感を持ち込み過ぎてる方が悪い」

 颯真は実験台へトレーを置きかけ、散乱したチップとスパチュラを見て、すぐに持ち直した。

「栄養はしっかり取った方がいい。健全な実験は、健全な肉体に宿る」
「そんな言葉、聞いたことありませんけど……」

 とか言いながら、私は木製のトレーを手に休憩室へ向かう颯真のあとを、忠犬よろしく、いそいそと追った。

 休憩室のテーブルに、颯真が次々と皿を並べていく。

 こんがり焼けた鰆の西京焼き。豆腐となめこの味噌汁。湯気の立つ胚芽米。ほうれん草の胡麻和え。きゅうりの浅漬け。

 見事なまでの、一汁三菜だった。完璧な栄養バランス。完璧すぎて、逆に怖い。

「これ、どうしたんですか」
「作った」
「誰が」
「俺が」
「嘘ですね」
「嘘をつく必要がどこにある」
「メイドさんとか家政婦さんが作ったんでしょ?」
「いない。自分の食事くらい、自分で作る」

 会社の上役が、夜の地下ラボで、私に手料理を食べさせようとしている。字面にすると、ものすごく危ない。既に法務部案件の香りすらする。

 しかも相手は、いまだ敵か味方か判定不能。手の内も腹の底も一ミリたりとも見せていない、色白吸血鬼系美形――通称、ザマス王子である。

 危険だ。

 鰆を一切れ口に運ぶごとに、返済不能の借りが複利で積み上がっていく可能性がある。味噌汁一杯で魂に抵当権を設定され、胚芽米一膳で終身契約。
 食後には、血を二百ミリリットルくらい吸われるかもしれない。

  しかし――。

 ――くううぅぅぅ……。

 鳴った。
 腹が。

 よりによって、この緊迫した局面で、ものすごく正直に。私の胃が、本人の許可なく全面降伏を宣言した。

 出汁の香りが鼻腔から侵攻し、腹の音が内側から砲撃。完璧な挟み撃ちを受けた私の警戒心は、〇・二秒で壊滅した。

 もういい。吸えないい。二百ミリリットルくらい、食後に好きなだけ持っていけ。この一汁三菜を食べられるのなら、献血一回分などお安い御用だ。なんなら四百ミリリットルまで即決できる。

「……いただきます」

 鰆へ箸を入れる。
 口に入れるとほろりと繊維がほどけた。白味噌の甘み。魚の旨味。最後に焦げの香ばしさ。

 続けて味噌汁を一口。

「おいしい……」
「そうか」
「ものすごく、おいしいんですけど」
「そうか」

 颯真は向かいへ座り、動かなくなった。

 私が食べる様子を、じっと見ている。正直、食べにくい。

「もう少し、しっかり噛んだ方がいい」
「は?」
「今、七回だ。一口最低三十回」
「数えてたんですか!?」
「食塊を細かくし、唾液と十分に混ぜろ。消化に良い」
「もう隠す気ないでしょう」
「何をだ」
「持ち前のオカンスピリッツ?」
「これは栄養学だ」

 胚芽米を口に入れながら、私はノートPCを引き寄せた。

「ついでにこの時間に週次報告です。いま、ものすごく重要な壁にぶち当たっていまふ!」
「咀嚼しながら重要な話をしようとするな」

 ごくん。

「ぶち当たっています!」

 画面へ、二本のグラフを表示する。

「成分分析と、光学顕微鏡の見た目は、ほぼ完全一致です。でも、粘度、ゼータ電位、レーザー回折のデータは一致しません。工程条件を七十三通り潰しましたが、全滅でした」
「つまり?」
「頂いたサンプルは、白組の物とは性質は明らかに違います。ところが、成分は同じで、作り方を変えただけでは今のところ再現できてません」

 私は箸を握ったまま、画面をびしりと示した。

「だが、物が違うことは明らかなんだな?」
「はい。サンプルの物は明らかに違う。数字で説明できる。それだけでも冤罪は主張できると思います」
「だが、君の顔はまったく納得がいった顔をしていないな」
「そうですね……。例えるとアリバイは証明できても、トリックが解けていないんです」

 私は画面上で重なる赤と青の線を指でなぞった。

「成分も、配合比も、見た目も同じ。なのに、どうして物理的な強度だけが違うのか。どんな技術を使えば、見た目を変えずに、こんなものを作れるのか。犯行方法を一撃で暴く、決定的証拠(スモーキング・ガン)がないんです」

「なるほどな」

 颯真は、鰆の西京焼きと純白のサンプルを交互に見た。

「完全に同じ素材、調味料で作った二つの鰆の西京焼きがある。一方がもう一方より明らかに美味しい。君は七十三回、同じ材料で西京焼きを作ったが、美味しい方の味が出せない。味が違うから二つの料理を作った料理人は違うはずだが、どうやって美味しくしたか分からないから、料理人の潔白を証明できない」

「その通りです……」

「ただ、白組で製造されたという前提を崩せるなら、会社側の筋書きに穴を開けられるかもしれない。こちらも動くから、君も頑張ってくれ」

 がんばって。
 そのたった五文字が、私に深く刺さった。

「任せてください!」

 強く頷いて、私は残っていた鰆を一口で頬張った。
 そして、しっかりと、三十回噛んだ。


「……あの。ひとつ、聞いていいですか」
「なんだ」
「どうして、ここまでしてくれるんですか?」

 颯真の手が止まった。

「疑惑のクリームをくれて、ラボ。機材。毛布。加湿器。胃薬。そして最後は鰆です」
「鰆に問題があったか?」
「最高でしたが! そこじゃありません」

 勢いのまま、身を乗り出す。

「蘭子さんの不正調査も、白組の解体も……会社のトップ――役員会で決まったことなんですよね?」

 とうとう、口にした。ずっと喉の奥に刺さっていたのに、抜けば何かが壊れそうで、見ないふりをしてきた一本の棘。

「あなたは次期社長候補です。むしろ、その決定を下す側の人間のはずです。それなのに、どうして――。会社の方針に逆らってまで、私にラボを貸したんですか。どうして、こうして証拠探しにつきあっているんですか?」

 言い切った瞬間、自分の声がわずかに上ずっていたことに気づいた。

 怖かったのだ。

 この問いは、私たちの間にかろうじて張られている「単なる利害の一致」という薄い膜を、内側から突き破ってしまう。そんな予感がしていたから。

「……」

 颯真は、答えなかった。

 彼はテーブルに置かれた自分のマグカップへ視線を落とした。長い睫毛が伏せられ、端正な横顔から、すべての感情が消える。

 空調の低い稼働音だけが、やけに耳についた。

 やがて、颯真は短く息を吐き、前髪をかき上げた。

「……祖父は化学者だった。君と同じ、白衣を着ていた」

 彼の視線が、私の袖口へ落ちる。

「この土地にあった四畳半の木造平屋。鍋と天秤、湯煎の道具。アルカサスは、そこから始まった」

「ここが、その跡地なんですか」
「ああ」

 今はコンクリートで、周囲には最新鋭のHPLCとレオメーターが置かれているが、昔も、四畳半と鍋と天秤があったのだ。

「当時、まともな化粧品は高価だった。いいものは、金のある女性にしか届かない。祖父はそれが許せず、欧州の大手に負けない商品を昼夜を問わず作り続けた」

 颯真の指が、テーブルの上に一本の線を引く。

「――すべての女性に、美を」
「創業理念……入社式で暗唱しました」

「ただの標語ではない。化学で世界に誇れるものを作り、必要とする人へ届ける。俺は、それを継ぐ人間として育てられた。だから……、品質を落としかねない基礎研究の全面外注化には賛成できない」

「だったら、止めればいいじゃないですか。役員会へバーンと入って、『外注化は中止だ』って」

 私は扉を開けるように手を動かした。

「企業は小学生の学級会ではない」

 颯真の黒い目に射抜かれ、私の両手が止まる。

「父は療養中だ。今、会社の実権を握っているのは専務の座馬玄蕃――俺の叔父だ。合理化を推進した張本人だ」
「身内……」
「二十年前、赤字で傾いた会社を救い、売上を三倍にした。株も、派閥も、数字もある。何より、実績がある」
「手強いですね」
「無能ではない。だから厄介なんだ。俺が正しさを叫んでも、『青臭い甥が私情で騒いでいる』の一行で処理される」

 颯真は眉間に皺を寄せた。

「外注化を進めようとしていた最中、白組のサンプル流出疑惑が起きて話は一気に進んだ。流出疑惑のことを玄蕃が事前につかみ、白組廃止の口実にした」

「……やっぱり。段取りがよすぎました」
「それどころか、流出そのものに彼が関わっている可能性もある。外注先の関連会社は玄蕃が社長を務めているんだ」
「真っ黒じゃないですか!」
「黒く見えるだけでは止められない」

 ぴしゃりと切られた。

「外注すれば、研究費は確実に下がる。アルカサスの開発基準は高すぎる。経営判断としては理がある。だが――」

 颯真の声が、どこか悔し気に低くなる。

「安さと引き換えに品質を落とせば、祖父の理念を捨てることになる」

 そして、一語ずつ噛みしめるように告げた。

「祖父の理念を取り戻すには、感情でも、正論でも勝てない。勝つには、数字と現物がいる。サンプル流出疑惑の真相が明らかになって、もしそれに叔父が関わっていることが判明すれば、」

 ――だから、このラボを彼は私に貸したのだ。

 感情ではなく、数字で。疑惑ではなく、現物で。専務の思惑を暴くために。彼が私の証拠探しに手を貸す理由が、ようやく一本につながった。

「……ずるいですよ」
「何がだ」
「エプロン姿で鰆を食べさせて、そのうえ、あんな話まで聞かせるなんて」
「服装と話の内容に相関はない」
「大ありですよ! 先に胃袋を完全に掌握しておいて、そこへ創業理念で研究者魂まで揺さぶるなんて。こんなの、絶対に頑張るしかないじゃないですか」
「何も言わなくても、君は頑張るだろう?」
「……まあ、そうなんですけどね」

 思わず、笑いがこぼれた。
 そして颯真の口元にもーー、検出限界ぎりぎりの笑みが浮かんだ。

「じゃあ、もうひとつだけ」
「なんだ」
「白組には、私以外にも研究員がいます。先輩たちもいる。私より詳しい人だっている」

 私は、彼をまっすぐ見た。

「どうして――私だったんですか」

 ぴたり、と。

 空になった皿へ伸びていた颯真の手が止まった。

 ほんの〇・五秒。だが、普段の彼なら絶対に発生しない、明確な処理落ちだった。

 しかし、颯真はすぐに何事もなかったように立ち上がると、食器をトレーへ重ね始めた。

「明日も朝は早い。切りのいいところで休め」
「ちょっと。今、露骨に話を逸らしましたよね?」
「睡眠の質を考えるなら、二時までには寝た方がいい」
「会話のキャッチボール!」
「加湿器の水は満タンにしてある。喉が乾燥するなら点けておけ」
「オカン業務で押し切らないでください!」

 私の抗議を完璧に聞き流し、颯真はトレーを持って、さっさと休憩室を出ていった。
 見事な戦略的撤退だった。

 あとに残されたのは、ほんのり漂う出汁の香りと、ぬるくなったお茶。そして、肝心な答えを一つも回収できなかった私だけ。

「……なんなんだ、あの人」

 だが、はぐらかしたということは、彼の中に明確な『答え』があるという何よりの証拠だ。

 いつか必ず吐かせてやる。退路を塞ぎ、あの鉄壁の無表情から見事に一本取りたい。

 そう決めて、ぬるいお茶を一口すすった。

 久しぶりに摂った温かい食事が、体の隅々まで染み渡っている。
 胃の腑は満たされ、不思議なくらい心まで温かかった。