「――うるさい!」
背後から、液体窒素より冷たい声が飛んできた。振り向くと、颯真が立っていた。
いつもの、隙のない黒いスーツ――ではない。
ジャケットもネクタイもなく、白いシャツの袖を肘までまくり、その上から藍染めのエプロンを締めている。
吸血鬼系美形。創業家の御曹司。次期社長候補。事業戦略部長。私の靴のサイズと菓子パンの賞味期限を把握している監視者。三十分の懊悩を三行へ圧縮する人間要約装置。そして、正論で武装したオカン。
――そこへ、エプロン。
「……あの」
「なんだ」
「属性、まだ増えるんですか」
「意味が分からん」
颯真が歩いてくる。
彼の両手には木製のトレーが置かれていた。
トレーには、完璧な配置の一汁三菜が並んでいる。焼き魚をメインに、ふわりと湯気を立てる味噌汁、小鉢、そして艶やかなご飯。
地下ラボの空気組成が上書きされていく。エタノール。オゾン。冷たいコンクリート。そのすべてを、出汁と焦げた味噌の香りが雪崩のように押し流していく。
「……どうしたんですか、それ」
「食事だ」
「それは、見れば分かります。なぜここに? ここで夕飯食べるんですか?」
「君が食べるんだ」
「は?」
「どうせまともに食べていないだろう」
「栄養補助ブロックとコーヒーは食事とは言わない」
「なんで分かるんですか」
「休憩室のごみ箱に空袋が二枚。マグカップの内壁にコーヒーの残渣が三層」
「私、監視されてます?」
「休憩室に生活感を持ち込み過ぎてる方が悪い」
颯真は実験台へトレーを置きかけ、散乱したチップとスパチュラを見て、すぐに持ち直した。
「栄養はしっかり取った方がいい。健全な実験は、健全な肉体に宿る」
「そんな言葉、聞いたことありませんけど……」
とか言いながら、私は木製のトレーを手に休憩室へ向かう颯真のあとを、忠犬よろしく、いそいそと追った。
休憩室のテーブルに、颯真が次々と皿を並べていく。
こんがり焼けた鰆の西京焼き。豆腐となめこの味噌汁。湯気の立つ胚芽米。ほうれん草の胡麻和え。きゅうりの浅漬け。
見事なまでの、一汁三菜だった。完璧な栄養バランス。完璧すぎて、逆に怖い。
「これ、どうしたんですか」
「作った」
「誰が」
「俺が」
「嘘ですね」
「嘘をつく必要がどこにある」
「メイドさんとか家政婦さんが作ったんでしょ?」
「いない。自分の食事くらい、自分で作る」
会社の上役が、夜の地下ラボで、私に手料理を食べさせようとしている。字面にすると、ものすごく危ない。既に法務部案件の香りすらする。
しかも相手は、いまだ敵か味方か判定不能。手の内も腹の底も一ミリたりとも見せていない、色白吸血鬼系美形――通称、ザマス王子である。
危険だ。
鰆を一切れ口に運ぶごとに、返済不能の借りが複利で積み上がっていく可能性がある。味噌汁一杯で魂に抵当権を設定され、胚芽米一膳で終身契約。
食後には、血を二百ミリリットルくらい吸われるかもしれない。
しかし――。
――くううぅぅぅ……。
鳴った。
腹が。
よりによって、この緊迫した局面で、ものすごく正直に。私の胃が、本人の許可なく全面降伏を宣言した。
出汁の香りが鼻腔から侵攻し、腹の音が内側から砲撃。完璧な挟み撃ちを受けた私の警戒心は、〇・二秒で壊滅した。
もういい。吸えないい。二百ミリリットルくらい、食後に好きなだけ持っていけ。この一汁三菜を食べられるのなら、献血一回分などお安い御用だ。なんなら四百ミリリットルまで即決できる。
「……いただきます」
鰆へ箸を入れる。
口に入れるとほろりと繊維がほどけた。白味噌の甘み。魚の旨味。最後に焦げの香ばしさ。
続けて味噌汁を一口。
「おいしい……」
「そうか」
「ものすごく、おいしいんですけど」
「そうか」
颯真は向かいへ座り、動かなくなった。
私が食べる様子を、じっと見ている。正直、食べにくい。
「もう少し、しっかり噛んだ方がいい」
「は?」
「今、七回だ。一口最低三十回」
「数えてたんですか!?」
「食塊を細かくし、唾液と十分に混ぜろ。消化に良い」
「もう隠す気ないでしょう」
「何をだ」
「持ち前のオカンスピリッツ?」
「これは栄養学だ」
胚芽米を口に入れながら、私はノートPCを引き寄せた。
「ついでにこの時間に週次報告です。いま、ものすごく重要な壁にぶち当たっていまふ!」
「咀嚼しながら重要な話をしようとするな」
ごくん。
「ぶち当たっています!」
画面へ、二本のグラフを表示する。
「成分分析と、光学顕微鏡の見た目は、ほぼ完全一致です。でも、粘度、ゼータ電位、レーザー回折のデータは一致しません。工程条件を七十三通り潰しましたが、全滅でした」
「つまり?」
「頂いたサンプルは、白組の物とは性質は明らかに違います。ところが、成分は同じで、作り方を変えただけでは今のところ再現できてません」
私は箸を握ったまま、画面をびしりと示した。
「だが、物が違うことは明らかなんだな?」
「はい。サンプルの物は明らかに違う。数字で説明できる。それだけでも冤罪は主張できると思います」
「だが、君の顔はまったく納得がいった顔をしていないな」
「そうですね……。例えるとアリバイは証明できても、トリックが解けていないんです」
私は画面上で重なる赤と青の線を指でなぞった。
「成分も、配合比も、見た目も同じ。なのに、どうして物理的な強度だけが違うのか。どんな技術を使えば、見た目を変えずに、こんなものを作れるのか。犯行方法を一撃で暴く、決定的証拠がないんです」
「なるほどな」
颯真は、鰆の西京焼きと純白のサンプルを交互に見た。
「完全に同じ素材、調味料で作った二つの鰆の西京焼きがある。一方がもう一方より明らかに美味しい。君は七十三回、同じ材料で西京焼きを作ったが、美味しい方の味が出せない。味が違うから二つの料理を作った料理人は違うはずだが、どうやって美味しくしたか分からないから、料理人の潔白を証明できない」
「その通りです……」
「ただ、白組で製造されたという前提を崩せるなら、会社側の筋書きに穴を開けられるかもしれない。こちらも動くから、君も頑張ってくれ」
がんばって。
そのたった五文字が、私に深く刺さった。
「任せてください!」
強く頷いて、私は残っていた鰆を一口で頬張った。
そして、しっかりと、三十回噛んだ。
「……あの。ひとつ、聞いていいですか」
「なんだ」
「どうして、ここまでしてくれるんですか?」
颯真の手が止まった。
「疑惑のクリームをくれて、ラボ。機材。毛布。加湿器。胃薬。そして最後は鰆です」
「鰆に問題があったか?」
「最高でしたが! そこじゃありません」
勢いのまま、身を乗り出す。
「蘭子さんの不正調査も、白組の解体も……会社のトップ――役員会で決まったことなんですよね?」
とうとう、口にした。ずっと喉の奥に刺さっていたのに、抜けば何かが壊れそうで、見ないふりをしてきた一本の棘。
「あなたは次期社長候補です。むしろ、その決定を下す側の人間のはずです。それなのに、どうして――。会社の方針に逆らってまで、私にラボを貸したんですか。どうして、こうして証拠探しにつきあっているんですか?」
言い切った瞬間、自分の声がわずかに上ずっていたことに気づいた。
怖かったのだ。
この問いは、私たちの間にかろうじて張られている「単なる利害の一致」という薄い膜を、内側から突き破ってしまう。そんな予感がしていたから。
「……」
颯真は、答えなかった。
彼はテーブルに置かれた自分のマグカップへ視線を落とした。長い睫毛が伏せられ、端正な横顔から、すべての感情が消える。
空調の低い稼働音だけが、やけに耳についた。
やがて、颯真は短く息を吐き、前髪をかき上げた。
「……祖父は化学者だった。君と同じ、白衣を着ていた」
彼の視線が、私の袖口へ落ちる。
「この土地にあった四畳半の木造平屋。鍋と天秤、湯煎の道具。アルカサスは、そこから始まった」
「ここが、その跡地なんですか」
「ああ」
今はコンクリートで、周囲には最新鋭のHPLCとレオメーターが置かれているが、昔も、四畳半と鍋と天秤があったのだ。
「当時、まともな化粧品は高価だった。いいものは、金のある女性にしか届かない。祖父はそれが許せず、欧州の大手に負けない商品を昼夜を問わず作り続けた」
颯真の指が、テーブルの上に一本の線を引く。
「――すべての女性に、美を」
「創業理念……入社式で暗唱しました」
「ただの標語ではない。化学で世界に誇れるものを作り、必要とする人へ届ける。俺は、それを継ぐ人間として育てられた。だから……、品質を落としかねない基礎研究の全面外注化には賛成できない」
「だったら、止めればいいじゃないですか。役員会へバーンと入って、『外注化は中止だ』って」
私は扉を開けるように手を動かした。
「企業は小学生の学級会ではない」
颯真の黒い目に射抜かれ、私の両手が止まる。
「父は療養中だ。今、会社の実権を握っているのは専務の座馬玄蕃――俺の叔父だ。合理化を推進した張本人だ」
「身内……」
「二十年前、赤字で傾いた会社を救い、売上を三倍にした。株も、派閥も、数字もある。何より、実績がある」
「手強いですね」
「無能ではない。だから厄介なんだ。俺が正しさを叫んでも、『青臭い甥が私情で騒いでいる』の一行で処理される」
颯真は眉間に皺を寄せた。
「外注化を進めようとしていた最中、白組のサンプル流出疑惑が起きて話は一気に進んだ。流出疑惑のことを玄蕃が事前につかみ、白組廃止の口実にした」
「……やっぱり。段取りがよすぎました」
「それどころか、流出そのものに彼が関わっている可能性もある。外注先の関連会社は玄蕃が社長を務めているんだ」
「真っ黒じゃないですか!」
「黒く見えるだけでは止められない」
ぴしゃりと切られた。
「外注すれば、研究費は確実に下がる。アルカサスの開発基準は高すぎる。経営判断としては理がある。だが――」
颯真の声が、どこか悔し気に低くなる。
「安さと引き換えに品質を落とせば、祖父の理念を捨てることになる」
そして、一語ずつ噛みしめるように告げた。
「祖父の理念を取り戻すには、感情でも、正論でも勝てない。勝つには、数字と現物がいる。サンプル流出疑惑の真相が明らかになって、もしそれに叔父が関わっていることが判明すれば、」
――だから、このラボを彼は私に貸したのだ。
感情ではなく、数字で。疑惑ではなく、現物で。専務の思惑を暴くために。彼が私の証拠探しに手を貸す理由が、ようやく一本につながった。
「……ずるいですよ」
「何がだ」
「エプロン姿で鰆を食べさせて、そのうえ、あんな話まで聞かせるなんて」
「服装と話の内容に相関はない」
「大ありですよ! 先に胃袋を完全に掌握しておいて、そこへ創業理念で研究者魂まで揺さぶるなんて。こんなの、絶対に頑張るしかないじゃないですか」
「何も言わなくても、君は頑張るだろう?」
「……まあ、そうなんですけどね」
思わず、笑いがこぼれた。
そして颯真の口元にもーー、検出限界ぎりぎりの笑みが浮かんだ。
「じゃあ、もうひとつだけ」
「なんだ」
「白組には、私以外にも研究員がいます。先輩たちもいる。私より詳しい人だっている」
私は、彼をまっすぐ見た。
「どうして――私だったんですか」
ぴたり、と。
空になった皿へ伸びていた颯真の手が止まった。
ほんの〇・五秒。だが、普段の彼なら絶対に発生しない、明確な処理落ちだった。
しかし、颯真はすぐに何事もなかったように立ち上がると、食器をトレーへ重ね始めた。
「明日も朝は早い。切りのいいところで休め」
「ちょっと。今、露骨に話を逸らしましたよね?」
「睡眠の質を考えるなら、二時までには寝た方がいい」
「会話のキャッチボール!」
「加湿器の水は満タンにしてある。喉が乾燥するなら点けておけ」
「オカン業務で押し切らないでください!」
私の抗議を完璧に聞き流し、颯真はトレーを持って、さっさと休憩室を出ていった。
見事な戦略的撤退だった。
あとに残されたのは、ほんのり漂う出汁の香りと、ぬるくなったお茶。そして、肝心な答えを一つも回収できなかった私だけ。
「……なんなんだ、あの人」
だが、はぐらかしたということは、彼の中に明確な『答え』があるという何よりの証拠だ。
いつか必ず吐かせてやる。退路を塞ぎ、あの鉄壁の無表情から見事に一本取りたい。
そう決めて、ぬるいお茶を一口すすった。
久しぶりに摂った温かい食事が、体の隅々まで染み渡っている。
胃の腑は満たされ、不思議なくらい心まで温かかった。
背後から、液体窒素より冷たい声が飛んできた。振り向くと、颯真が立っていた。
いつもの、隙のない黒いスーツ――ではない。
ジャケットもネクタイもなく、白いシャツの袖を肘までまくり、その上から藍染めのエプロンを締めている。
吸血鬼系美形。創業家の御曹司。次期社長候補。事業戦略部長。私の靴のサイズと菓子パンの賞味期限を把握している監視者。三十分の懊悩を三行へ圧縮する人間要約装置。そして、正論で武装したオカン。
――そこへ、エプロン。
「……あの」
「なんだ」
「属性、まだ増えるんですか」
「意味が分からん」
颯真が歩いてくる。
彼の両手には木製のトレーが置かれていた。
トレーには、完璧な配置の一汁三菜が並んでいる。焼き魚をメインに、ふわりと湯気を立てる味噌汁、小鉢、そして艶やかなご飯。
地下ラボの空気組成が上書きされていく。エタノール。オゾン。冷たいコンクリート。そのすべてを、出汁と焦げた味噌の香りが雪崩のように押し流していく。
「……どうしたんですか、それ」
「食事だ」
「それは、見れば分かります。なぜここに? ここで夕飯食べるんですか?」
「君が食べるんだ」
「は?」
「どうせまともに食べていないだろう」
「栄養補助ブロックとコーヒーは食事とは言わない」
「なんで分かるんですか」
「休憩室のごみ箱に空袋が二枚。マグカップの内壁にコーヒーの残渣が三層」
「私、監視されてます?」
「休憩室に生活感を持ち込み過ぎてる方が悪い」
颯真は実験台へトレーを置きかけ、散乱したチップとスパチュラを見て、すぐに持ち直した。
「栄養はしっかり取った方がいい。健全な実験は、健全な肉体に宿る」
「そんな言葉、聞いたことありませんけど……」
とか言いながら、私は木製のトレーを手に休憩室へ向かう颯真のあとを、忠犬よろしく、いそいそと追った。
休憩室のテーブルに、颯真が次々と皿を並べていく。
こんがり焼けた鰆の西京焼き。豆腐となめこの味噌汁。湯気の立つ胚芽米。ほうれん草の胡麻和え。きゅうりの浅漬け。
見事なまでの、一汁三菜だった。完璧な栄養バランス。完璧すぎて、逆に怖い。
「これ、どうしたんですか」
「作った」
「誰が」
「俺が」
「嘘ですね」
「嘘をつく必要がどこにある」
「メイドさんとか家政婦さんが作ったんでしょ?」
「いない。自分の食事くらい、自分で作る」
会社の上役が、夜の地下ラボで、私に手料理を食べさせようとしている。字面にすると、ものすごく危ない。既に法務部案件の香りすらする。
しかも相手は、いまだ敵か味方か判定不能。手の内も腹の底も一ミリたりとも見せていない、色白吸血鬼系美形――通称、ザマス王子である。
危険だ。
鰆を一切れ口に運ぶごとに、返済不能の借りが複利で積み上がっていく可能性がある。味噌汁一杯で魂に抵当権を設定され、胚芽米一膳で終身契約。
食後には、血を二百ミリリットルくらい吸われるかもしれない。
しかし――。
――くううぅぅぅ……。
鳴った。
腹が。
よりによって、この緊迫した局面で、ものすごく正直に。私の胃が、本人の許可なく全面降伏を宣言した。
出汁の香りが鼻腔から侵攻し、腹の音が内側から砲撃。完璧な挟み撃ちを受けた私の警戒心は、〇・二秒で壊滅した。
もういい。吸えないい。二百ミリリットルくらい、食後に好きなだけ持っていけ。この一汁三菜を食べられるのなら、献血一回分などお安い御用だ。なんなら四百ミリリットルまで即決できる。
「……いただきます」
鰆へ箸を入れる。
口に入れるとほろりと繊維がほどけた。白味噌の甘み。魚の旨味。最後に焦げの香ばしさ。
続けて味噌汁を一口。
「おいしい……」
「そうか」
「ものすごく、おいしいんですけど」
「そうか」
颯真は向かいへ座り、動かなくなった。
私が食べる様子を、じっと見ている。正直、食べにくい。
「もう少し、しっかり噛んだ方がいい」
「は?」
「今、七回だ。一口最低三十回」
「数えてたんですか!?」
「食塊を細かくし、唾液と十分に混ぜろ。消化に良い」
「もう隠す気ないでしょう」
「何をだ」
「持ち前のオカンスピリッツ?」
「これは栄養学だ」
胚芽米を口に入れながら、私はノートPCを引き寄せた。
「ついでにこの時間に週次報告です。いま、ものすごく重要な壁にぶち当たっていまふ!」
「咀嚼しながら重要な話をしようとするな」
ごくん。
「ぶち当たっています!」
画面へ、二本のグラフを表示する。
「成分分析と、光学顕微鏡の見た目は、ほぼ完全一致です。でも、粘度、ゼータ電位、レーザー回折のデータは一致しません。工程条件を七十三通り潰しましたが、全滅でした」
「つまり?」
「頂いたサンプルは、白組の物とは性質は明らかに違います。ところが、成分は同じで、作り方を変えただけでは今のところ再現できてません」
私は箸を握ったまま、画面をびしりと示した。
「だが、物が違うことは明らかなんだな?」
「はい。サンプルの物は明らかに違う。数字で説明できる。それだけでも冤罪は主張できると思います」
「だが、君の顔はまったく納得がいった顔をしていないな」
「そうですね……。例えるとアリバイは証明できても、トリックが解けていないんです」
私は画面上で重なる赤と青の線を指でなぞった。
「成分も、配合比も、見た目も同じ。なのに、どうして物理的な強度だけが違うのか。どんな技術を使えば、見た目を変えずに、こんなものを作れるのか。犯行方法を一撃で暴く、決定的証拠がないんです」
「なるほどな」
颯真は、鰆の西京焼きと純白のサンプルを交互に見た。
「完全に同じ素材、調味料で作った二つの鰆の西京焼きがある。一方がもう一方より明らかに美味しい。君は七十三回、同じ材料で西京焼きを作ったが、美味しい方の味が出せない。味が違うから二つの料理を作った料理人は違うはずだが、どうやって美味しくしたか分からないから、料理人の潔白を証明できない」
「その通りです……」
「ただ、白組で製造されたという前提を崩せるなら、会社側の筋書きに穴を開けられるかもしれない。こちらも動くから、君も頑張ってくれ」
がんばって。
そのたった五文字が、私に深く刺さった。
「任せてください!」
強く頷いて、私は残っていた鰆を一口で頬張った。
そして、しっかりと、三十回噛んだ。
「……あの。ひとつ、聞いていいですか」
「なんだ」
「どうして、ここまでしてくれるんですか?」
颯真の手が止まった。
「疑惑のクリームをくれて、ラボ。機材。毛布。加湿器。胃薬。そして最後は鰆です」
「鰆に問題があったか?」
「最高でしたが! そこじゃありません」
勢いのまま、身を乗り出す。
「蘭子さんの不正調査も、白組の解体も……会社のトップ――役員会で決まったことなんですよね?」
とうとう、口にした。ずっと喉の奥に刺さっていたのに、抜けば何かが壊れそうで、見ないふりをしてきた一本の棘。
「あなたは次期社長候補です。むしろ、その決定を下す側の人間のはずです。それなのに、どうして――。会社の方針に逆らってまで、私にラボを貸したんですか。どうして、こうして証拠探しにつきあっているんですか?」
言い切った瞬間、自分の声がわずかに上ずっていたことに気づいた。
怖かったのだ。
この問いは、私たちの間にかろうじて張られている「単なる利害の一致」という薄い膜を、内側から突き破ってしまう。そんな予感がしていたから。
「……」
颯真は、答えなかった。
彼はテーブルに置かれた自分のマグカップへ視線を落とした。長い睫毛が伏せられ、端正な横顔から、すべての感情が消える。
空調の低い稼働音だけが、やけに耳についた。
やがて、颯真は短く息を吐き、前髪をかき上げた。
「……祖父は化学者だった。君と同じ、白衣を着ていた」
彼の視線が、私の袖口へ落ちる。
「この土地にあった四畳半の木造平屋。鍋と天秤、湯煎の道具。アルカサスは、そこから始まった」
「ここが、その跡地なんですか」
「ああ」
今はコンクリートで、周囲には最新鋭のHPLCとレオメーターが置かれているが、昔も、四畳半と鍋と天秤があったのだ。
「当時、まともな化粧品は高価だった。いいものは、金のある女性にしか届かない。祖父はそれが許せず、欧州の大手に負けない商品を昼夜を問わず作り続けた」
颯真の指が、テーブルの上に一本の線を引く。
「――すべての女性に、美を」
「創業理念……入社式で暗唱しました」
「ただの標語ではない。化学で世界に誇れるものを作り、必要とする人へ届ける。俺は、それを継ぐ人間として育てられた。だから……、品質を落としかねない基礎研究の全面外注化には賛成できない」
「だったら、止めればいいじゃないですか。役員会へバーンと入って、『外注化は中止だ』って」
私は扉を開けるように手を動かした。
「企業は小学生の学級会ではない」
颯真の黒い目に射抜かれ、私の両手が止まる。
「父は療養中だ。今、会社の実権を握っているのは専務の座馬玄蕃――俺の叔父だ。合理化を推進した張本人だ」
「身内……」
「二十年前、赤字で傾いた会社を救い、売上を三倍にした。株も、派閥も、数字もある。何より、実績がある」
「手強いですね」
「無能ではない。だから厄介なんだ。俺が正しさを叫んでも、『青臭い甥が私情で騒いでいる』の一行で処理される」
颯真は眉間に皺を寄せた。
「外注化を進めようとしていた最中、白組のサンプル流出疑惑が起きて話は一気に進んだ。流出疑惑のことを玄蕃が事前につかみ、白組廃止の口実にした」
「……やっぱり。段取りがよすぎました」
「それどころか、流出そのものに彼が関わっている可能性もある。外注先の関連会社は玄蕃が社長を務めているんだ」
「真っ黒じゃないですか!」
「黒く見えるだけでは止められない」
ぴしゃりと切られた。
「外注すれば、研究費は確実に下がる。アルカサスの開発基準は高すぎる。経営判断としては理がある。だが――」
颯真の声が、どこか悔し気に低くなる。
「安さと引き換えに品質を落とせば、祖父の理念を捨てることになる」
そして、一語ずつ噛みしめるように告げた。
「祖父の理念を取り戻すには、感情でも、正論でも勝てない。勝つには、数字と現物がいる。サンプル流出疑惑の真相が明らかになって、もしそれに叔父が関わっていることが判明すれば、」
――だから、このラボを彼は私に貸したのだ。
感情ではなく、数字で。疑惑ではなく、現物で。専務の思惑を暴くために。彼が私の証拠探しに手を貸す理由が、ようやく一本につながった。
「……ずるいですよ」
「何がだ」
「エプロン姿で鰆を食べさせて、そのうえ、あんな話まで聞かせるなんて」
「服装と話の内容に相関はない」
「大ありですよ! 先に胃袋を完全に掌握しておいて、そこへ創業理念で研究者魂まで揺さぶるなんて。こんなの、絶対に頑張るしかないじゃないですか」
「何も言わなくても、君は頑張るだろう?」
「……まあ、そうなんですけどね」
思わず、笑いがこぼれた。
そして颯真の口元にもーー、検出限界ぎりぎりの笑みが浮かんだ。
「じゃあ、もうひとつだけ」
「なんだ」
「白組には、私以外にも研究員がいます。先輩たちもいる。私より詳しい人だっている」
私は、彼をまっすぐ見た。
「どうして――私だったんですか」
ぴたり、と。
空になった皿へ伸びていた颯真の手が止まった。
ほんの〇・五秒。だが、普段の彼なら絶対に発生しない、明確な処理落ちだった。
しかし、颯真はすぐに何事もなかったように立ち上がると、食器をトレーへ重ね始めた。
「明日も朝は早い。切りのいいところで休め」
「ちょっと。今、露骨に話を逸らしましたよね?」
「睡眠の質を考えるなら、二時までには寝た方がいい」
「会話のキャッチボール!」
「加湿器の水は満タンにしてある。喉が乾燥するなら点けておけ」
「オカン業務で押し切らないでください!」
私の抗議を完璧に聞き流し、颯真はトレーを持って、さっさと休憩室を出ていった。
見事な戦略的撤退だった。
あとに残されたのは、ほんのり漂う出汁の香りと、ぬるくなったお茶。そして、肝心な答えを一つも回収できなかった私だけ。
「……なんなんだ、あの人」
だが、はぐらかしたということは、彼の中に明確な『答え』があるという何よりの証拠だ。
いつか必ず吐かせてやる。退路を塞ぎ、あの鉄壁の無表情から見事に一本取りたい。
そう決めて、ぬるいお茶を一口すすった。
久しぶりに摂った温かい食事が、体の隅々まで染み渡っている。
胃の腑は満たされ、不思議なくらい心まで温かかった。

