すっぴん白衣の逆転レシピ 〜メイクが苦手な化粧品研究員、データを盗まれたのでザマス王子の秘密ラボでキラキラ組にリベンジします〜

「あの」

 気づけば、私は右手を挙げていた。

 しまった……。
 脳が止めるより先に、研究員としての反射が勝ってしまった。
 同時に、黒瀬さんの細く整えられた眉が、露骨な不快感とともに跳ね上がる。

「……なにかしら、湊川さん?」
「その一次試作、保存安定性試験はどこまで進んでいますか」
「保存、何?」
「安定性試験です。四十度、五十度での高温保存。低温。凍結融解。遠心分離。シンヴェールは時間と温度の影響を強く受けます。今、見た目が綺麗でも、数週間後に凝集や相分離が起きる可能性があります。試験計画はどうなっていますか?」

 会議室の温度が、瞬時に五度ほど下がった。
 まただ。
 また私は、キラキラ組の多幸感あふれるお茶会へ、恒温槽の冷却水をぶちまけてしまった。

「そういう細々した確認は、外注先のラボが責任を持ってやってくれるって前に言ったと思うけど。商品として十分な品質になるよう、担保してねって指示しているわ」

 黒瀬さんが、面倒そうに息を吐く。

「その担保する『基準』はどうなっているんですか? うちのアルカサスの良品条件をクリアする試験計画になっているんでしょうか」
「私たちはブランド全体をディレクションする立場なの。試験方法にまで口を出す必要はないわ。基準は委託先の標準的なものに従っていればいいじゃない」
「それではアルカサスの企業としてのブランド……」
「湊川さん!」

 黒瀬さんのヒールが、床を鋭く叩いた。

「『何年もかけて完璧なデータを揃え、流行が終わってから発売される商品』と、『必要な確認だけにして、お客様が求める今、発売される商品』。欲しいのはどちらだと思う?」
「……その、必要な確認は、誰が、どの基準で決めたんですか」
「たとえ話よ」
「品質試験を、発売を遅らせる無駄に決めつけています。比較条件として成立しません」

 しまった。
 また反射的に噛みついた。
 黒瀬さんのこめかみが、ごくわずかに動く。

「言いたいのはね、あなたたちの基礎研究のおかげで、一般的な耐久性は出ていると委託先は言っていたということ。私たちはこの『Blanche』に、お客様が価値を感じる世界初の高価な美容成分を配合して、スピーディに世に出すの。それで十分じゃない」

「十分ではありません。世界初の成分だからこそ、注意が必要なんです。成分同士には相性があります。濃度が高すぎれば刺激になる成分もありますし、一般的な耐久性という曖昧な基準では、いずれ乳化のバランスも崩れます」

「ほら、そういうところよ」

 黒瀬さんは、完全に勝利を確信した者の笑みを浮かべた。

「そうやって、すぐリスクだ、データだ、と騒ぎ立てる。できない理由を並べて、プロジェクトにブレーキをかける」
「ブレーキではなく、安全装置です」
「同じでしょう?」
「車に乗る人間は、そこを同じに分類しません」

 しまった。また言った。しかも、今度は若干の嫌味まで混入した。

 会議室の空気が死んだ。キラキラ組の全員が、異物を見る目でこちらを見ている。白血球に包囲された細菌の気分だ。

「だから、あなたたち白組は」

 黒瀬さんの声から、最後の温度が消えた。

「五年もの時間と予算を食い潰して、結局、何ひとつ市場へ出せなかったのよ」

 周囲から、乾いた失笑が漏れる。
 喉元までせり上がった反論を、私はなんとか飲み込んだ。

「……分かりました。ただし、委託先の品質試験の計画については確認させていただきます」
「ええ、いいわよ。確認する『だけ』ならね」

 勝ち誇ったようなその響きに、私はふたたび言葉を飲み込んだ。

 ここで化学の基礎講義を始めても、意味はない。
 私たちは、使っている言語が違うのだ。
 この人たちは、データではなくストーリーで動いている。
 そして今の私には、彼女たちの思い描くストーリーを破壊できる、客観的な数値がない。

「中身の話は、このくらいにして。外側の話をしましょうか」

 黒瀬さんが、すっと声のトーンを一段上げた。

 全員の背筋が伸びる。
 伏せられていたまつげが上がる。
 瞳に光が戻る。

 起動した。彼女たちが心の底から熱を注ぐ、本当の仕事の時間。これからパッケージの話になるのだ。

 プロジェクターのスライドが切り替わる。
 同時に、黒瀬さんの合図を受けたスタッフが、テーブルの中央へ新しいモックアップを置いた。

 新ブランド『Blanche』のパッケージデザイン。それは、これまでのアルカサス製品とは明らかに違っていた。

 すりガラスを思わせる、純白のマットな質感。従来の円柱や角柱といった無難な形状を捨て、水滴が落ちる、その一瞬だけを切り取ったような、有機的で滑らかなアシンメトリーの曲線。

 キャップとの継ぎ目さえ、目を凝らさなければ分からない。過剰な効能書きも、目立つ装飾もない。中央にあるのは、銀色の箔で刻まれた『Blanche』の文字だけ。

 控えめなのに、目を奪う。化粧品の容器というより、美術館の白い展示台へ置かれた現代アートだった。

「……綺麗」

 思わず漏れた誰かの声を皮切りに、会議室の温度が一気に上がる。

「光の当たり方で、曲面の陰影が全部変わるんですよ」
「これ、置き画だけで勝てますよね。動画なら、回転させた瞬間に絶対映える」
「開封前から欲しくなるデザインです」
「一目見ただけで、今までのアルカサスとは違うって伝わりますよ。これは絶対、バズります」

 PR担当の女性たちがモックアップを囲み、次々と言葉を重ねていく。

 頬は上気し、瞳は輝き、すでに頭の中では撮影用の照明と背景布と投稿スケジュールまで組み上がっているらしい。

 悔しいが、分かる。
 地下ラボにこもる深海魚の私から見ても、圧倒的に美しい。

 形状、質感、ロゴの位置、光の拾い方。
 すべてが一つの思想で統一されている。

 彼女たちは彼女たちで、本気なのだ。この完璧な「世界観」を作り上げ、世の中へ届けることに、絶対の自信と誇りを持っている。

「今週中に、ティザー広告用の撮影へ入ります」

 黒瀬さんが、次のスライドを表示した。

 純白のボトルからクリームが押し出され、モデルの頬へ滑らかに伸びていく動画の絵コンテ。
 静止画だけではない。実際に中身を出し、光を受けた質感の変化まで見せる構成だ。

「来週の関係者向けデモンストレーションでも、モデルに実際に塗布します。そのあと、選定済みの美容系インフルエンサーへ先行体験サンプルを発送。発売前から、SNSで使用感を発信してもらう予定です」
「もう送付先のリストもできています」
「先方も楽しみにしてくださってますよ。フォロワー百万人超えの方もいます」
「初動で一気に話題を取れそうですね」

 華やかな数字と名前が、画面を流れていく。

 だが、私は別の言葉に引っかかった。

「……実際に塗ってもらうんですか。この一次試作品を?」
「そうよ」

 黒瀬さんは、ごく当然のように答えた。

「物撮りだけじゃ、中身の魅力までは伝わらないでしょう? デモで使用する分も、インフルエンサーへ送る分も、そこにある一次試作品から振り分けます」

 待ってくれ。安定性も安全性も確認していない一次試作品を、社外の人間の肌へ塗るつもりなのか? デモという名目でモニター試験まで兼ねることになるが、本当にそれでいいのか?

 黒瀬さんの視線が、芸術品のようなモックアップから外れ、テーブルの端に置かれた外注先から届いた一次試作品へ向けられる。
 『撮影用』、『デモ用』、そして、『インフルエンサーへの先行発送用』と書かれたものが十数本ある。

 どれも同じ純白のボトルに詰められている。
 そして、どの側面にも、無骨な長方形の管理ラベルが貼られていた。

「デザインが完璧なだけに、余計に気になっちゃうのよね」

 黒瀬さんが、そのうちの一本を手に取る。

「……前から言おうと思ってたんだけど、湊川さん。このシール、なんとかならない?」
「あ、私もそれ思ってました」

 PR担当の女性が、待っていましたとばかりに頷いた。

「せっかくボトルが洗練されているのに、それが貼ってあるだけで一気に試作品っぽく見えちゃうんですよね」
「そうそう。フォントも事務的だし、全然可愛くないの」
「デモのときも目立ちそうです。インフルエンサーさんの投稿写真に写り込む可能性もありますよね」

 可愛い、可愛くない、の話ではない。
 そこに印字されているのは、ロット番号、製造日、釜番号、攪拌条件、温度履歴。

 同じ処方名で作られた試作品でも、すべてが同じとは限らない。特にサンプルは、複数の釜で、条件が変わっていることもある。

 この中身が、いつ、どこで、どの条件で作られたのか。どの一本を、誰に渡したのか。

 それを示す、サンプルの戸籍。不具合が起きたとき、原因まで遡るためのカルテ。何かが壊れたときに、最後まで残るブラックボックス。

 市販品なら、ロット番号は容器の底や外箱へ印字され、工場の製造記録と紐づけられる。

 だが、これはまだ市販品ではない。外注先から届いた、一次試作品だ。
この白い管理ラベルこそが、一本一本の身元を証明する唯一の札だった。

「写真にこれが見切れると、一気に『実験室』っぽくなるのよね。変な生活感が出るっていうか」

 黒瀬さんの完璧なフレンチネイルが、管理ラベルの角へ潜り込んだ。白い角が、一ミリほど浮く。

「だから、撮影用の一本だけではなくて、デモに持っていく分も、インフルエンサーへ発送する分も、そこにあるものは、今のうちに全部剥がしたいんだけど、湊川さん、できる?」

「ちょっと待ってください。一次サンプルの製造管理ラベルを剥がせって言ってます?」

「ええ。だって投稿する人によってラベルがついていたり、ついていなかったりしたら、ブランドの見え方が揃わないでしょう?」

「剥がしたあと、管理番号はどこへ移すんですか」

 私が訊くと、黒瀬さんは不思議そうに瞬いた。

「移す?」

「別の識別ラベルを底面へ貼るか、容器へ番号を転記しないと。発送先とロットの紐づけも必要です」

「そこまでする必要ある?」

 胸の奥で、何かが鳴った。

「発送先のリストなら、PRで管理してますよ」

 担当女性が補足する。

「誰に何本送ったかは分かります」
「どの人へ、どの条件で作った試作品を送ったかも分かりますか?」
「え?」
「このトレーには、少なくとも三つの釜番号が混在しているようです。ラベルを剥がしたあと、見分けられますか」

 誰も答えなかった。

「でも、処方は同じなんでしょう? だったら、中身は同じじゃない。撮影のたびに貼ったり剥がしたりするほうが非効率よ」

 違う。

 同じ処方でも、作った釜が違えば。
 攪拌速度が違えば。
 温度が一度違えば。

 化粧品は、簡単に別の顔をすることがある。

 まして、これは安定性すら確認しきれていない一次試作品だ。

 もしデモ中、モデルの肌に異常が出たら。もしインフルエンサーへ送った一本だけが分離していたら。もし刺激や変臭や変色が報告されたら……。

 どの条件で作られたものか特定できず、同じ釜から充填された残りを回収することも、原因を調べることも、影響範囲を絞ることもできない。

 撮影用、デモ用、外部配布用。三方向へ飛んでいくサンプルの追跡可能性(トレーサビリティ)を、出発前にまとめて処刑しようとしている。

「黒瀬さん」

 私は、喉元まで飛び出しかけた「その爪を今すぐラベルから離してください!」を、奥歯でギリッと噛み殺した。

 危ない。

 あと半秒遅ければ、研究者の本能がフレンチネイルへ飛びかかるところだった。

 ここで「品質管理のIDです」「個体識別情報です」と正論の砲弾を撃ち込んでも、彼女たちの『世界観』という強固なバリアに、カァンと弾き返されるだけだ。

 ついさっき、学んだばかりじゃないか。

 必要なのは、迎撃ではない。翻訳だ。

 彼女たちの言語(ストーリー)の中に、こちらの要求(データ)を忍び込ませる。

 私は一度だけ息を吸い、研究者としてはかなり勇気のいる一言を口にした。

「そのラベル――剥がしましょう。ただ剥がすだけではなく、管理情報をブランド演出の一部にするんです」

 黒瀬さんの爪が、ぴたりと止まった。

「演出? どういうこと?」
「はい。ボトルの一つひとつに、細いサテンリボンを結ぶんです。シャンパンゴールド、シルバー、パールホワイト、淡いグレー。『Blanche』のクリーンな世界観に合う色で。サンプルの製造条件違い分だけ、別の色で揃えてください」

「リボン? そんな面倒なこと、わざわざする意味があるの?」

 黒瀬さんは即座に冷たく突き放した。
 私の発案そのものを最初から潰しにかかる、容赦のない声だ。

「意味はあります。インフルエンサーへ送るときも、ただの試作品ではなく、『あなたのために選ばれた特別なギフト』として演出できます。写真に写ったときも、可愛いアクセントになります」

 黒瀬さんが鼻で笑おうとした、まさにその時。
 彼女の隣で、PR担当の女性がハッとしたように顔を上げた。

「あ、それ、絶対に可愛いです!」
「箱を開けた瞬間に、『自分のために用意された』って感じがしますよね」
「開封動画なら、リボンをほどくところまで画になります!」
「並べて撮ったときも、色違いがアクセントになりそう」

 会議室の空気が、こちらへ傾いた。
 黒瀬さんが「え……」と小さく息を呑む。

 自分の部下たちが次々と私の提案に飛びつき、あっという間に「可愛い」の包囲網が完成していく。

 よし、食いついた。
 ここだ。

「その代わり、事前準備はこちらでやらせてください。ラベルを剥がす前に、一本ずつ撮影します。撮影されたラベルとボトルに巻くリボンの色の対応表を作り、どの試作品がどこへ行ったか追えるようにします」

 私は、さらに畳みかけた。

「皆さんは、PRで管理している配送先リストに『リボンコード』という列を一つ追加して、誰にどの色を送ったかだけ記録していただけませんか?」

「それくらいなら、今のリストに一列増やすだけでいけます」

 PR担当が即答した。

 黒瀬さんは数秒黙り、目を輝かせる部下たちを順に見た。完璧な笑みの端だけが、わずかに引きつっている。

 やがて、ラベルを引っ掻いていた爪を、未練がましくすっと離した。

「……分かったわ。そこまで言うなら、その案でいきましょう。特別感の演出として『も』、悪くないし」

 声は氷点下。こちらを見る目だけが、まったく笑っていない。

「リボンの手配と紐づけの雑務は、言い出しっぺの湊川さんが責任を持ってやってちょうだい」
「はい」

 生還。
 管理ラベル、角を一ミリめくられただけで、奇跡の生還である。

 しかし、胸を撫で下ろせたのは、ほんの三秒。
 代わりに、ぞわり、と背筋を悪寒が駆け上がる。

 ――勝った。
 いや。勝ってしまった。

 私は「可愛い」という彼女たちの言語を使い、PRチーム全体を動かすことには成功した。

 だが、その代償に――黒瀬さんのプライドという、絶対に踏んではいけない地雷を、白衣とスニーカーで盛大に踏み抜いたのだ。

 彼女は、絶対に忘れないだろう。
 この会議室で、自分の領土だったはずの「可愛い」を武器にされ、白衣を着た小生意気な部外者に主導権を奪われた、その屈辱を……。


「リボンの幅、六ミリくらいが上品じゃないですか?」
「シルバーは少し青みがある方が『Blanche』っぽいかも」
「発送中に結び目が潰れない素材を探しますね」

 方針が決まった途端、PR担当たちは一斉に動き始めた。

 速い。
 自分たちの得意領域へ入ったキラキラ組は、驚くほど速い。

 私には、六ミリと八ミリのリボンが与える印象の違いなんて分からない。だが、彼女たちは一目で「六ミリ」と断言し、色のわずかな青みまで見分け、開封動画の構図まで同時に組み上げていく。

 品質管理という正論では止まらなかった爪を、「可愛い」が止めた。

 可愛い。なんという強度だ。少なくとも、この会議室では鋼鉄より強い。私は誰にも気づかれないように安堵の息を吐いた。

 化粧品の外側を売る人と化粧品の内側を作る人。同じ会社のロゴを背負っているのに、立っている座標軸も、見ている宇宙も違う。

 彼女たちは、手に取った瞬間の「欲しい」を作る。私たちは、毎日安心して使える「使える」を作る。

 照準となる世界は違う。だが、どちらか一方だけでは商品にならない。

 だから私は、「欲しい」を生むリボンで、「使える」を守る管理情報を包んだ。本来なら混ざり合わない水と油も、適切な界面活性剤があれば、一つの系で共存できる。今日の界面活性剤は、幅六ミリのサテンリボンだった。

 これで、サンプルが完全に行方不明になる最悪の事態は避けられた。もちろん、中身の物理法則まで安定したわけではない。時限爆弾を解除したのではない。一本一本に、信じられないほど可愛い名札をつける許可を得ただけだ。だが、名札のない爆弾よりは、一億倍いい。

 次は、肝心のクリームの乳化を調べる番だ。

 ――そちらは、サテンリボン一本で機嫌を直してくれるほど、可愛げのある相手ではなさそうだけれど。

 会議室を出た私の指先には、まだ、あのざらつきが残っていた。あの外注試作。純白のボトルの中で、綺麗な顔をして眠っている、あれの正体。指先の違和感を、誰が見ても動かせない数字に変える場所は、ここにはない。

 今夜も、地下へ潜ろう。

 この外注試作を、あの“きれいなアルフレッド”と並べれば――二つの白の違いは、必ず数字に出る。