「……これが、そうなんですね」
私は、ガラス管の中で沈黙する純白を見つめた。
「蘭子さんが持ち出したとされている、未発表製品。会社が彼女を告発する根拠になった――そのバルクなんですね?」
返事はなかった。
空調の低い駆動音だけが、やけに大きく耳の奥を震わせる。
颯真は何も答えない。
ただ、氷のように静かな目で、ガラス管の中の純白を見下ろしている。漆黒の瞳には、肯定も否定もない。焦りも、迷いも、こちらの出方を窺う気配さえない。
沈黙だけで、相手に言葉を引っ込めさせる。会社を動かす側の人間が纏う、圧倒的な圧力。
普段の私なら、とうに目を逸らしていた。何か余計なことを言ったのだろうかと不安になり、愛想笑いで誤魔化し、自分から質問を取り下げていたかもしれない。
けれど――今夜は、絶対に退けない。
「答えてください」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「機材を使わせてくれたこと。このラボへ連れてきてくれたこと。それには、感謝しています。でも、ここから先は別です。私がこれから全霊をかけて分析する検体が、いったい何なのか。そこだけは、始める前に確定してもらいます」
もし私が膨大な時間を費やし、真実を炙り出した後。
『ご苦労だった。だが確認したところ、それは別件のサンプルだったようだ』
その一言だけで、私が積み上げたすべての試験結果は、最初から存在しなかったことにされる。
梯子を外される。分析データだけを回収される。
白組の五年間の血と汗も、蘭子さんのこれからの人生も、都合よく切り捨てられる。
そんな結末だけは、絶対に許さない。
「はっきりさせてください」
私は半歩、颯真へ踏み込んだ。
威圧するための沈黙なら、もう効かない。
逃げ道を残すための沈黙なら、なおさら逃がさない。
「これは間違いなく――」
ガラス管の中の純白を、指先で示す。
「会社が『西城蘭子が持ち出した』と主張し、彼女を告発する根拠にした未発表製品。その中身と同一のバルクですね?」
颯真の瞳を、真正面から射抜く。
「『はい』か『いいえ』で、答えてください」
やがて、颯真は深く、重い息を吐く音がした。
「……そうだ」
ようやく、認めた。
その一言を絞り出すまでに、葛藤があったのだろう。彼の横顔は少し緊張が走っていた。
私はそれを聞いて、心からホッとした。
だったら、やっぱりサンプルを持ち出したのは蘭子さんじゃない。
そう確信することができたから。
「だったら――蘭子さんは無実です」
私は、揺るぎない確信を持って顔を上げた。
「なぜそう言える?」
「全くの別物だからです。さっきから言っていた通り、このサンプルと白組が五年間作ってきたものは、違いますから」
私の指が、純白のサンプル管を真っ直ぐに指し示した。
「これにはきっと、未知の成分の添加。粒子表面への特殊なコーティング処理。全く新しい分散技術。あるいは、既存設備とは異なる超音波混合などのプロセス。何かが、必ず足されています。シャボン玉を壊さず、しかも互いに接触させず、完璧な等間隔に並べるための――『見えない手』が」
「『見えない手』……」
「そうです」
私は黒い天板から手を離した。
「HPLCで成分の種類を調べるだけでは、製造プロセスまでは分からないかもしれない。電子顕微鏡で形を見ても、なぜその形を保てたかまでは映らないかもしれません。でも、必ず証明します」
私は、颯真の黒い目を真っ向から見上げた。
彼は瞬き一つせず、私の言葉を受け止めている。
「――サイエンスで」
放たれた言葉がラボに響き渡った。
周囲に静寂が落ちる。
無機質な空調の駆動音と、LED照明の微かなハム音だけが、耳鳴りのように響き続ける。
颯真は瞬き一つせず、組んだ腕のまま、彫像のように私を見つめ返していた。
何を考えているのか、その底知れない瞳からは一切の感情が読み取れない。
数秒か、あるいは数十秒か。
永遠にも思える静寂のあと、颯真は組んでいた長い指をゆっくりと解いた。
「それが証明できれば――」
低い声が、彼は続ける。
「それができれば――西城蘭子が白組の技術を盗み、競合へ流したという、会社側が組み上げた告発のストーリーは、根底から破壊できるな」
颯真の漆黒の瞳に、鋭い刃のような光が走った。
私は、ハッと息を呑んだ。
今、この人は何と言った? 『会社側』が組み上げた?
目の前にいる颯真は、経営陣の一角だ。
本来ならば、誰よりも強固な「会社側」に属しているはずの人間だ。それなのに今の響きは、自社が下した告発を、まるで対峙すべき敵の謀略であるかのような口ぶりだった。
しかも――『覆せる』ではなく、『破壊できる』と。
この人が味方なのか、私を自分の目的のために利用しようとしているだけなのかは、まだ分からない。
でも、彼の中には経営者としての穏便な事態収拾ではなくて、明確な敵意がある。
私と彼の前には、どうやら共通の敵が立っている。
だとしたら、颯真が敵として見据えている「会社側」とは、いったい誰なんだ?
「君の言う『見えない手』が何かを科学的に特定し、その特殊な技術を持つ者がどこにいるのかを割り出せれば――」
颯真は低い声で続けた。
「蘭子を罠に嵌めた、『本当の仕掛け人』にたどり着ける」
「本当の、仕掛け人……」
その瞬間。
私の頭の中で、これまでバラバラだった不自然な事実が一本の線に繋がり始めた。
颯真が見据えているのは、単なる蘭子さんの無罪証明ではなかったのだ。
もっとその先。この事件の根源だ。
蘭子さんにスパイの濡れ衣を着せたこと。その責任を問う形で、白組を強制的に閉鎖へ追い込んだこと。そして、私たちが五年間血を吐く思いで積み上げてきたデータを、合法的にすべて強奪したこと。
それらは、すべてが繋がっている。
最初から白組を潰し、アルフレッドのデータを奪い取るために、社内の何者かが書き上げた悪辣なストーリーだ。
きっと、颯真の敵はその筋書きを引いた黒幕だ。
そしてそれは――白組のすべてを奪われた、私自身の敵でもある。
ばちり、と。
二人の思考の歯車が、目にも止まらぬ速度で、完璧に同じ場所で噛み合った気がした。
「君に、その『見えない手』から、決定的な証拠になる指紋を見つけることはできるか?」
背筋が伸びる。
深部体温が上がる。
指先へ、一気に熱い血が巡る。
「言われなくても」
私は白衣の袖を、力強くまくり上げた。
「それを見つけるために、私はここにいます」
私は、レーザー回折式粒度分布測定装置のメインスイッチを押し込んだ。
低い駆動音とともに、スリープ状態だった暗いモニターへ、青白い光の波形が走る。
化学は、嘘をつかない。
データは、絶対に裏切らない。
この完璧なアルフレッドが本当に『見えない手』の産物であるなら、その指紋は、必ず実験によって炙り出せる。
「期待している」
それだけ告げると、颯真は踵を返した。
ビニール手袋をはめたままの両手をスーツのポケットへ滑り込ませ、地下ラボを横切って階段へ向かっていく。
相変わらず、必要なことしか語らない男だ。
彼が完全に味方なのかは、まだ分からない。何を考え、何を目的に会社の告発を壊そうとしているのかも。
それでも、今だけは同じ方向を見ている。
それが分かっただけで、十分だった。
一段目に足をかけた颯真が、ふと止まった。
肩越しに振り返る。
「一つ、聞いていいか」
「なんですか」
「君はさっき、化粧は社会へ飛び込むための装甲だと言ったな」
「はい」
「なら、なぜ君はいつもすっぴんなんだ?」
サンプル管へ伸ばしかけた手が、ぴたりと止まった。
「肌に自信があるのか?」
「まあ、朝が壊滅的に弱いのと、ずっと地下にこもっていたせいで紫外線ダメージが少ないのもありますが……」
「それだけか」
私はマイクロピペットを、そっと実験台へ置いた。
「一番大きいのは――私には、他にもあるから」
「何が」
「装甲が」
私は白衣の胸元に、片手を当てる。
「私にとっての装甲は、これなんです」
白衣の袖を握りしめる。
薬品の匂いが染み込んだ、洗いざらしの生地。
「白衣の袖に腕を通して、実験台の前に立てば――私はまだ、研究者でいられる。これを着た瞬間だけは、自分を疑わずに済むんです」
階段に立つ颯真を、真っ直ぐに見上げる。
「これを着た私なら、私のままで、世界と真正面から殴り合える」
私は片手で拳を作る。
颯真はしばらく私を見つめ、やがて短く息を吐いた。
「……君は、そう言うと思った」
彼は前を向き、階段を上り始めた。
前を向く直前――。その薄い唇が微かに綻んだ気がしたのは、幻だったかもしれない。
「……なんだ、あいつ」
誰もいなくなった階段へ、悪態を投げつける。
「最後まで、かっこつけやがって」
そう言う私の口角も、いつの間にか上がっていた。
緩んだ頬を両手でぱん、と叩くと、私は再びマイクロピペットを握り直す。
グリップが、今はやけに手に馴染んだ。
――さあ、始めよう。
今夜の私の装甲は、ちゃんとここにある。
私は、ガラス管の中で沈黙する純白を見つめた。
「蘭子さんが持ち出したとされている、未発表製品。会社が彼女を告発する根拠になった――そのバルクなんですね?」
返事はなかった。
空調の低い駆動音だけが、やけに大きく耳の奥を震わせる。
颯真は何も答えない。
ただ、氷のように静かな目で、ガラス管の中の純白を見下ろしている。漆黒の瞳には、肯定も否定もない。焦りも、迷いも、こちらの出方を窺う気配さえない。
沈黙だけで、相手に言葉を引っ込めさせる。会社を動かす側の人間が纏う、圧倒的な圧力。
普段の私なら、とうに目を逸らしていた。何か余計なことを言ったのだろうかと不安になり、愛想笑いで誤魔化し、自分から質問を取り下げていたかもしれない。
けれど――今夜は、絶対に退けない。
「答えてください」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「機材を使わせてくれたこと。このラボへ連れてきてくれたこと。それには、感謝しています。でも、ここから先は別です。私がこれから全霊をかけて分析する検体が、いったい何なのか。そこだけは、始める前に確定してもらいます」
もし私が膨大な時間を費やし、真実を炙り出した後。
『ご苦労だった。だが確認したところ、それは別件のサンプルだったようだ』
その一言だけで、私が積み上げたすべての試験結果は、最初から存在しなかったことにされる。
梯子を外される。分析データだけを回収される。
白組の五年間の血と汗も、蘭子さんのこれからの人生も、都合よく切り捨てられる。
そんな結末だけは、絶対に許さない。
「はっきりさせてください」
私は半歩、颯真へ踏み込んだ。
威圧するための沈黙なら、もう効かない。
逃げ道を残すための沈黙なら、なおさら逃がさない。
「これは間違いなく――」
ガラス管の中の純白を、指先で示す。
「会社が『西城蘭子が持ち出した』と主張し、彼女を告発する根拠にした未発表製品。その中身と同一のバルクですね?」
颯真の瞳を、真正面から射抜く。
「『はい』か『いいえ』で、答えてください」
やがて、颯真は深く、重い息を吐く音がした。
「……そうだ」
ようやく、認めた。
その一言を絞り出すまでに、葛藤があったのだろう。彼の横顔は少し緊張が走っていた。
私はそれを聞いて、心からホッとした。
だったら、やっぱりサンプルを持ち出したのは蘭子さんじゃない。
そう確信することができたから。
「だったら――蘭子さんは無実です」
私は、揺るぎない確信を持って顔を上げた。
「なぜそう言える?」
「全くの別物だからです。さっきから言っていた通り、このサンプルと白組が五年間作ってきたものは、違いますから」
私の指が、純白のサンプル管を真っ直ぐに指し示した。
「これにはきっと、未知の成分の添加。粒子表面への特殊なコーティング処理。全く新しい分散技術。あるいは、既存設備とは異なる超音波混合などのプロセス。何かが、必ず足されています。シャボン玉を壊さず、しかも互いに接触させず、完璧な等間隔に並べるための――『見えない手』が」
「『見えない手』……」
「そうです」
私は黒い天板から手を離した。
「HPLCで成分の種類を調べるだけでは、製造プロセスまでは分からないかもしれない。電子顕微鏡で形を見ても、なぜその形を保てたかまでは映らないかもしれません。でも、必ず証明します」
私は、颯真の黒い目を真っ向から見上げた。
彼は瞬き一つせず、私の言葉を受け止めている。
「――サイエンスで」
放たれた言葉がラボに響き渡った。
周囲に静寂が落ちる。
無機質な空調の駆動音と、LED照明の微かなハム音だけが、耳鳴りのように響き続ける。
颯真は瞬き一つせず、組んだ腕のまま、彫像のように私を見つめ返していた。
何を考えているのか、その底知れない瞳からは一切の感情が読み取れない。
数秒か、あるいは数十秒か。
永遠にも思える静寂のあと、颯真は組んでいた長い指をゆっくりと解いた。
「それが証明できれば――」
低い声が、彼は続ける。
「それができれば――西城蘭子が白組の技術を盗み、競合へ流したという、会社側が組み上げた告発のストーリーは、根底から破壊できるな」
颯真の漆黒の瞳に、鋭い刃のような光が走った。
私は、ハッと息を呑んだ。
今、この人は何と言った? 『会社側』が組み上げた?
目の前にいる颯真は、経営陣の一角だ。
本来ならば、誰よりも強固な「会社側」に属しているはずの人間だ。それなのに今の響きは、自社が下した告発を、まるで対峙すべき敵の謀略であるかのような口ぶりだった。
しかも――『覆せる』ではなく、『破壊できる』と。
この人が味方なのか、私を自分の目的のために利用しようとしているだけなのかは、まだ分からない。
でも、彼の中には経営者としての穏便な事態収拾ではなくて、明確な敵意がある。
私と彼の前には、どうやら共通の敵が立っている。
だとしたら、颯真が敵として見据えている「会社側」とは、いったい誰なんだ?
「君の言う『見えない手』が何かを科学的に特定し、その特殊な技術を持つ者がどこにいるのかを割り出せれば――」
颯真は低い声で続けた。
「蘭子を罠に嵌めた、『本当の仕掛け人』にたどり着ける」
「本当の、仕掛け人……」
その瞬間。
私の頭の中で、これまでバラバラだった不自然な事実が一本の線に繋がり始めた。
颯真が見据えているのは、単なる蘭子さんの無罪証明ではなかったのだ。
もっとその先。この事件の根源だ。
蘭子さんにスパイの濡れ衣を着せたこと。その責任を問う形で、白組を強制的に閉鎖へ追い込んだこと。そして、私たちが五年間血を吐く思いで積み上げてきたデータを、合法的にすべて強奪したこと。
それらは、すべてが繋がっている。
最初から白組を潰し、アルフレッドのデータを奪い取るために、社内の何者かが書き上げた悪辣なストーリーだ。
きっと、颯真の敵はその筋書きを引いた黒幕だ。
そしてそれは――白組のすべてを奪われた、私自身の敵でもある。
ばちり、と。
二人の思考の歯車が、目にも止まらぬ速度で、完璧に同じ場所で噛み合った気がした。
「君に、その『見えない手』から、決定的な証拠になる指紋を見つけることはできるか?」
背筋が伸びる。
深部体温が上がる。
指先へ、一気に熱い血が巡る。
「言われなくても」
私は白衣の袖を、力強くまくり上げた。
「それを見つけるために、私はここにいます」
私は、レーザー回折式粒度分布測定装置のメインスイッチを押し込んだ。
低い駆動音とともに、スリープ状態だった暗いモニターへ、青白い光の波形が走る。
化学は、嘘をつかない。
データは、絶対に裏切らない。
この完璧なアルフレッドが本当に『見えない手』の産物であるなら、その指紋は、必ず実験によって炙り出せる。
「期待している」
それだけ告げると、颯真は踵を返した。
ビニール手袋をはめたままの両手をスーツのポケットへ滑り込ませ、地下ラボを横切って階段へ向かっていく。
相変わらず、必要なことしか語らない男だ。
彼が完全に味方なのかは、まだ分からない。何を考え、何を目的に会社の告発を壊そうとしているのかも。
それでも、今だけは同じ方向を見ている。
それが分かっただけで、十分だった。
一段目に足をかけた颯真が、ふと止まった。
肩越しに振り返る。
「一つ、聞いていいか」
「なんですか」
「君はさっき、化粧は社会へ飛び込むための装甲だと言ったな」
「はい」
「なら、なぜ君はいつもすっぴんなんだ?」
サンプル管へ伸ばしかけた手が、ぴたりと止まった。
「肌に自信があるのか?」
「まあ、朝が壊滅的に弱いのと、ずっと地下にこもっていたせいで紫外線ダメージが少ないのもありますが……」
「それだけか」
私はマイクロピペットを、そっと実験台へ置いた。
「一番大きいのは――私には、他にもあるから」
「何が」
「装甲が」
私は白衣の胸元に、片手を当てる。
「私にとっての装甲は、これなんです」
白衣の袖を握りしめる。
薬品の匂いが染み込んだ、洗いざらしの生地。
「白衣の袖に腕を通して、実験台の前に立てば――私はまだ、研究者でいられる。これを着た瞬間だけは、自分を疑わずに済むんです」
階段に立つ颯真を、真っ直ぐに見上げる。
「これを着た私なら、私のままで、世界と真正面から殴り合える」
私は片手で拳を作る。
颯真はしばらく私を見つめ、やがて短く息を吐いた。
「……君は、そう言うと思った」
彼は前を向き、階段を上り始めた。
前を向く直前――。その薄い唇が微かに綻んだ気がしたのは、幻だったかもしれない。
「……なんだ、あいつ」
誰もいなくなった階段へ、悪態を投げつける。
「最後まで、かっこつけやがって」
そう言う私の口角も、いつの間にか上がっていた。
緩んだ頬を両手でぱん、と叩くと、私は再びマイクロピペットを握り直す。
グリップが、今はやけに手に馴染んだ。
――さあ、始めよう。
今夜の私の装甲は、ちゃんとここにある。

