朝は、敵である。強敵である。ラスボスである。
スマホのアラームが三度目の断末魔を上げたところで、私はようやく片目を開けた。
時刻は七時十二分。人類が会社員として許される、ぎりぎり最後の起床時刻だ。
「……起きよう」
ついに私は布団を蹴った。
目覚ましに負けたわけではない。アルフレッドに呼ばれたのだ。
アルフレッドとは昨日ラボで仕込んだ試作品(新規保湿素材「シンヴェール」の最新サンプル)の愛称だ。あいつ、昨夜は乳化が甘くて少し機嫌が悪かった。絶対に何か私に言いたいことがある顔(濁り方)をしていた。
寝癖より乳化。朝食より安定性。恋より粒子径。それが私、湊川由芽という人間だ。
鏡の前の自分は、すっぴんで髪はひとつ結び。肌は寝不足で実験動物のような真剣味を帯びている。化粧品を作る人間なのに化粧は苦手。ファンデは落ち着かないし、ビューラーはまつ毛専用ギロチンに見える。
ジーンズにパーカーを羽織り、五秒で身支度を終える。「どうせ白衣になるから」という完璧な理論を胸に、私は足早に寮を出た。
* * *
私が勤めるのは国内大手総合化粧品メーカー「アルカサス」。
大通りへ出る角を曲がると、今日も本館勤務の花形部署『キラキラ組』の面々が完璧なメイクとヒールの音を響かせて歩いていた。あちらは朝から光を反射し、こちらは寝癖で光を吸収している。
社内カースト頂点の彼女たちに対し、私が所属する研究開発部――通称『白組』はカースト地下二階だ。
でも、私は裏方の白組が好きだった。華やかな商品の中身を作るのは私たちだ。
今日こそアルフレッドの機嫌を直す。そう意気込んで研究棟の裏口へと角を曲がった――その瞬間。
私の日常は、あっけなく爆発した。
研究棟の前に、パトカーが停まっていた。
一台ではない。赤色灯が、朝の光の中で無音のまま回っている。
いつもは静かな搬入口に社員たちが遠巻きに集まり、ひそひそ声が空気の表面を這っていた。
そのとき、エントランスから濃紺のスーツを着た見慣れない男たちが出てきた。
彼らに前後を挟まれて歩く女性の横顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「……西城さん?」
西城蘭子。白組の母であり、私に化粧品のすべてを教えてくれた尊敬する先輩だ。
いつも肩で風を切って歩くあの人が、今日は小さく丸まり、刑事に囲まれてパトカーへ向かっている。
「先輩っ!」
駆け出そうとした腕を、営業部の三村さんにぐっと掴まれた。
「行くな。今は、ダメだ」
「なんでですか! なんで西城さんが?!」
「……新素材データを外にリークしたって。会社が警察に告発したらしい」
「……はあっ?!」
新素材。データ。リーク。
どのワードも蘭子さんと結びつかない。あの人が白組のデータを売る? 絶対にありえない。化粧品は嘘をつかないと言っていたあの人が、そんなことをするはずがない。
「蘭子さんが、そんなことするわけない。嘘でしょ?!」
震える声で叫んでも、現実は止まらない。
蘭子さんがパトカーに乗せられようとしている。
私は、すがるように彼女の横顔を追った。
――こっちを見て。私を見て。先輩。
しかし、蘭子さんはパトカーに乗る直前まで、こちらを見なかった。私が呼んだのに。すぐそこにいるのに。一度も、目を合わせなかった。
その横顔は、冷たかったのではない。固かった。何かを必死で飲み込んでいる顔だった。
蘭子さんを乗せたパトカーのドアが閉まる。
見てもらえなかった事実が、冷たい石のように胸の奥に落ちていく。
その時――。
誰かに見られている気がした。首の後ろが、ちり、とした。
振り返り、研究棟のガラス壁を見上げる。吹き抜け二階の回廊に、一人の男が立っていた。
黒いスーツ。長身。血の気が薄いほどの白い肌。
腹が立つほど整ったその顔立ちは、王子様というより、古い洋館の奥から夜だけ出てきそうな吸血鬼のようだった。
彼が、創業家の御曹司、座馬颯真。姓と、黒スーツの吸血鬼じみた風貌をもじって、社内では密かに『ザマス王子』と呼ばれている。
彼は笑っていない。ただガラス越しに、車寄せの騒ぎを悠然と見下ろしている。まるでこの騒ぎを、始まる前から知っていたみたいに。
そして、彼の視線がゆっくりと動いた。
向けられた先は、動き出したパトカーでもなく、刑事でもなく……。
彼の目は、私をまっすぐ捉えていた。
目が合った。背筋がぞわりとした。
中身まで見透かされているような、冷たくて鋭い視線。
彼が見ていたのは、連行される蘭子さんではなかった。
立ち尽くす私だった。
まるで――次に私が何をするのか、確かめているように。
* * *
人混みをかき分け、私は研究棟に駆け込んだ。
ロッカーで白衣に着替えて地下のラボへ。アルフレッドのところへ。
けれど、階段を降りきった瞬間、私は三秒ほど呼吸を忘れた。
ラボの扉に黄色いテープが貼られている。
大きな×印。立入禁止。
カードキーをかざす。
ピッ、ではなく、ヴッ。そして赤いランプ。
もう一度。ヴッ。
「……嘘でしょ。昨日まで入れましたよね?」
昨日まで、ここは私の家だった。聖域だった。実験台の右端にはアルフレッドがいたはずなのに。そこへのアクセスが一晩で拒絶されていた。
すると、廊下の奥からカラカラと台車の音が近づいてきた。
振り向いた私は、ぽかんと口を開けた。
明るい色のスーツの集団が、台車を押していた。
『キラキラ組』だった。香水、ヒール、完璧なメイク。この地下においてあまりにもアンマッチな彼女たちが、封鎖されたラボの隣、資料室から段ボールや実験機材を次々と運び出していた。
集団の奥から、ひとりの女性が進み出る。
黒瀬麗奈――。キラキラ組のエースだ。毛先まで完璧に巻かれた髪。服も靴も、すべてが「私は朝から勝っています」と主張している。
「あの……引っ越し、ですか?」
「違うわよ。データの移管よ」
黒瀬さんは冷凍庫で三日寝かせたような声で言った。
「今日から研究データはぜんぶ、うちの新プロジェクト推進室が管理することになったの。決定事項よ」
「研究データを、キラキラ組が?」
「新プロジェクト推進室」
黒瀬さんの完璧な笑顔が、一ミリだけ硬くなった。
それを無視して、私は目の前を運ばれていく段ボールを見る。あの箱の中身は、白組の五年間だ。
「それ……私たちのデータですけど」
「あなたたちの、じゃないわ。会社の資産よ。あなたたちは会社のお金で、好きな実験をしていただけ」
「でもだからって、白組が管理するべきものです」
「そうね。でも、研究開発部はなくなるの」
黒瀬さんは、今日の天気でも告げるみたいにさらりと言った。
「……は?」
「今回の機密流出を受けて、昨日の役員会議で決まったのよ。白組は解散。開発はこれから外部委託。そのほうが安くて早くて安心だから」
「そんな、馬鹿な話が……! 蘭子さんは、そんなことしてない!」
「決めるのは警察と会社。私じゃないから」
言い返す代わりに、私は運ばれていく段ボールをもう一度見つめた。
あの中には、失敗の山がある。その失敗を見なければ、絶対に分からない危険がある。
「待ってください! あの新素材は、まだ安定性試験の途中です。外注先の撹拌条件では、粒子が凝集して乳化系まで崩れる可能性があります。保存中に微生物汚染が起きれば、深刻な肌トラブルにつながります。まだ人の肌に出せる段階じゃありません!」
「……で?」
空気が死んだ。私の言葉も死んだ。
「専門的なことは、専門の外注さんがやってくれるから。心配してくれて、ありがとう」
マイナス八十度の「ありがとう」を残し、黒瀬さんは踵を返した。女王蜂に続くように、キラキラ組がぞろぞろと台車を押して去っていく。
私ははっとした。
さっき黒瀬さんは「今日からうちが管理する」と言っていた。
慌ててスマホを取り出し、昨日まで使っていた共有リンクを履歴から開く。
――『このフォルダへのアクセス権限がありません』
データが消えたわけではない。私たちの側から、見えなくされたのだ。
本当に情報流出が起きたのなら、データは立派な証拠品だ。情報システム部や監査部門が保全するなら分かる。でも、今、それを管理しているのは、一介の事業部署であるキラキラ組だ。
ふと思い立ち、社内ワークフローの申請履歴を開いた。白組のデータ管理担当である私には、申請内容を閲覧する権限が残っている。
『変更実行――昨日 二十三時四十五分』
『移管申請――三日前 九時十二分』
「……三日前?」
黒瀬さんは、昨日の役員会議で決まったと言った。
なのに、白組からデータを取り上げる申請は、その二日前に出されている。
異動先の決定。機材を運び出す台車の手配。そして、深夜に行われたデータ権限の移行。
いくらなんでも、弊社にこんな機動力はない。稟議書の判子一つに三日かかる会社なのだ。
背筋が粟立った。
蘭子さんが連れていかれたから、白組が解体されたんじゃない。
誰かは、蘭子さんが犯人にされる前から――白組を消す準備をしていた。
スマホのアラームが三度目の断末魔を上げたところで、私はようやく片目を開けた。
時刻は七時十二分。人類が会社員として許される、ぎりぎり最後の起床時刻だ。
「……起きよう」
ついに私は布団を蹴った。
目覚ましに負けたわけではない。アルフレッドに呼ばれたのだ。
アルフレッドとは昨日ラボで仕込んだ試作品(新規保湿素材「シンヴェール」の最新サンプル)の愛称だ。あいつ、昨夜は乳化が甘くて少し機嫌が悪かった。絶対に何か私に言いたいことがある顔(濁り方)をしていた。
寝癖より乳化。朝食より安定性。恋より粒子径。それが私、湊川由芽という人間だ。
鏡の前の自分は、すっぴんで髪はひとつ結び。肌は寝不足で実験動物のような真剣味を帯びている。化粧品を作る人間なのに化粧は苦手。ファンデは落ち着かないし、ビューラーはまつ毛専用ギロチンに見える。
ジーンズにパーカーを羽織り、五秒で身支度を終える。「どうせ白衣になるから」という完璧な理論を胸に、私は足早に寮を出た。
* * *
私が勤めるのは国内大手総合化粧品メーカー「アルカサス」。
大通りへ出る角を曲がると、今日も本館勤務の花形部署『キラキラ組』の面々が完璧なメイクとヒールの音を響かせて歩いていた。あちらは朝から光を反射し、こちらは寝癖で光を吸収している。
社内カースト頂点の彼女たちに対し、私が所属する研究開発部――通称『白組』はカースト地下二階だ。
でも、私は裏方の白組が好きだった。華やかな商品の中身を作るのは私たちだ。
今日こそアルフレッドの機嫌を直す。そう意気込んで研究棟の裏口へと角を曲がった――その瞬間。
私の日常は、あっけなく爆発した。
研究棟の前に、パトカーが停まっていた。
一台ではない。赤色灯が、朝の光の中で無音のまま回っている。
いつもは静かな搬入口に社員たちが遠巻きに集まり、ひそひそ声が空気の表面を這っていた。
そのとき、エントランスから濃紺のスーツを着た見慣れない男たちが出てきた。
彼らに前後を挟まれて歩く女性の横顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「……西城さん?」
西城蘭子。白組の母であり、私に化粧品のすべてを教えてくれた尊敬する先輩だ。
いつも肩で風を切って歩くあの人が、今日は小さく丸まり、刑事に囲まれてパトカーへ向かっている。
「先輩っ!」
駆け出そうとした腕を、営業部の三村さんにぐっと掴まれた。
「行くな。今は、ダメだ」
「なんでですか! なんで西城さんが?!」
「……新素材データを外にリークしたって。会社が警察に告発したらしい」
「……はあっ?!」
新素材。データ。リーク。
どのワードも蘭子さんと結びつかない。あの人が白組のデータを売る? 絶対にありえない。化粧品は嘘をつかないと言っていたあの人が、そんなことをするはずがない。
「蘭子さんが、そんなことするわけない。嘘でしょ?!」
震える声で叫んでも、現実は止まらない。
蘭子さんがパトカーに乗せられようとしている。
私は、すがるように彼女の横顔を追った。
――こっちを見て。私を見て。先輩。
しかし、蘭子さんはパトカーに乗る直前まで、こちらを見なかった。私が呼んだのに。すぐそこにいるのに。一度も、目を合わせなかった。
その横顔は、冷たかったのではない。固かった。何かを必死で飲み込んでいる顔だった。
蘭子さんを乗せたパトカーのドアが閉まる。
見てもらえなかった事実が、冷たい石のように胸の奥に落ちていく。
その時――。
誰かに見られている気がした。首の後ろが、ちり、とした。
振り返り、研究棟のガラス壁を見上げる。吹き抜け二階の回廊に、一人の男が立っていた。
黒いスーツ。長身。血の気が薄いほどの白い肌。
腹が立つほど整ったその顔立ちは、王子様というより、古い洋館の奥から夜だけ出てきそうな吸血鬼のようだった。
彼が、創業家の御曹司、座馬颯真。姓と、黒スーツの吸血鬼じみた風貌をもじって、社内では密かに『ザマス王子』と呼ばれている。
彼は笑っていない。ただガラス越しに、車寄せの騒ぎを悠然と見下ろしている。まるでこの騒ぎを、始まる前から知っていたみたいに。
そして、彼の視線がゆっくりと動いた。
向けられた先は、動き出したパトカーでもなく、刑事でもなく……。
彼の目は、私をまっすぐ捉えていた。
目が合った。背筋がぞわりとした。
中身まで見透かされているような、冷たくて鋭い視線。
彼が見ていたのは、連行される蘭子さんではなかった。
立ち尽くす私だった。
まるで――次に私が何をするのか、確かめているように。
* * *
人混みをかき分け、私は研究棟に駆け込んだ。
ロッカーで白衣に着替えて地下のラボへ。アルフレッドのところへ。
けれど、階段を降りきった瞬間、私は三秒ほど呼吸を忘れた。
ラボの扉に黄色いテープが貼られている。
大きな×印。立入禁止。
カードキーをかざす。
ピッ、ではなく、ヴッ。そして赤いランプ。
もう一度。ヴッ。
「……嘘でしょ。昨日まで入れましたよね?」
昨日まで、ここは私の家だった。聖域だった。実験台の右端にはアルフレッドがいたはずなのに。そこへのアクセスが一晩で拒絶されていた。
すると、廊下の奥からカラカラと台車の音が近づいてきた。
振り向いた私は、ぽかんと口を開けた。
明るい色のスーツの集団が、台車を押していた。
『キラキラ組』だった。香水、ヒール、完璧なメイク。この地下においてあまりにもアンマッチな彼女たちが、封鎖されたラボの隣、資料室から段ボールや実験機材を次々と運び出していた。
集団の奥から、ひとりの女性が進み出る。
黒瀬麗奈――。キラキラ組のエースだ。毛先まで完璧に巻かれた髪。服も靴も、すべてが「私は朝から勝っています」と主張している。
「あの……引っ越し、ですか?」
「違うわよ。データの移管よ」
黒瀬さんは冷凍庫で三日寝かせたような声で言った。
「今日から研究データはぜんぶ、うちの新プロジェクト推進室が管理することになったの。決定事項よ」
「研究データを、キラキラ組が?」
「新プロジェクト推進室」
黒瀬さんの完璧な笑顔が、一ミリだけ硬くなった。
それを無視して、私は目の前を運ばれていく段ボールを見る。あの箱の中身は、白組の五年間だ。
「それ……私たちのデータですけど」
「あなたたちの、じゃないわ。会社の資産よ。あなたたちは会社のお金で、好きな実験をしていただけ」
「でもだからって、白組が管理するべきものです」
「そうね。でも、研究開発部はなくなるの」
黒瀬さんは、今日の天気でも告げるみたいにさらりと言った。
「……は?」
「今回の機密流出を受けて、昨日の役員会議で決まったのよ。白組は解散。開発はこれから外部委託。そのほうが安くて早くて安心だから」
「そんな、馬鹿な話が……! 蘭子さんは、そんなことしてない!」
「決めるのは警察と会社。私じゃないから」
言い返す代わりに、私は運ばれていく段ボールをもう一度見つめた。
あの中には、失敗の山がある。その失敗を見なければ、絶対に分からない危険がある。
「待ってください! あの新素材は、まだ安定性試験の途中です。外注先の撹拌条件では、粒子が凝集して乳化系まで崩れる可能性があります。保存中に微生物汚染が起きれば、深刻な肌トラブルにつながります。まだ人の肌に出せる段階じゃありません!」
「……で?」
空気が死んだ。私の言葉も死んだ。
「専門的なことは、専門の外注さんがやってくれるから。心配してくれて、ありがとう」
マイナス八十度の「ありがとう」を残し、黒瀬さんは踵を返した。女王蜂に続くように、キラキラ組がぞろぞろと台車を押して去っていく。
私ははっとした。
さっき黒瀬さんは「今日からうちが管理する」と言っていた。
慌ててスマホを取り出し、昨日まで使っていた共有リンクを履歴から開く。
――『このフォルダへのアクセス権限がありません』
データが消えたわけではない。私たちの側から、見えなくされたのだ。
本当に情報流出が起きたのなら、データは立派な証拠品だ。情報システム部や監査部門が保全するなら分かる。でも、今、それを管理しているのは、一介の事業部署であるキラキラ組だ。
ふと思い立ち、社内ワークフローの申請履歴を開いた。白組のデータ管理担当である私には、申請内容を閲覧する権限が残っている。
『変更実行――昨日 二十三時四十五分』
『移管申請――三日前 九時十二分』
「……三日前?」
黒瀬さんは、昨日の役員会議で決まったと言った。
なのに、白組からデータを取り上げる申請は、その二日前に出されている。
異動先の決定。機材を運び出す台車の手配。そして、深夜に行われたデータ権限の移行。
いくらなんでも、弊社にこんな機動力はない。稟議書の判子一つに三日かかる会社なのだ。
背筋が粟立った。
蘭子さんが連れていかれたから、白組が解体されたんじゃない。
誰かは、蘭子さんが犯人にされる前から――白組を消す準備をしていた。
