夕焼けがしっとりと街を包み込み、街灯がぽつぽつと橙色の光を灯し始める。
大街道の賑やかなアーケードを外れ、古い木造建築が並ぶ路地裏へと足を進めた。あてがあるわけではない。ただ、賑やかなチェーン店や流行りのカフェではなく、この街の生活の匂いがする場所へ吸い寄せられていた。
風に乗って、出汁の甘い香りが漂ってくる。
ふと足を止めたのは、小さな木製の看板と、藍色の短い暖簾が揺れる一軒の和食店だった。看板には、達筆な文字で『鯛めし』とだけ書かれている。
暖簾の隙間から覗くと、使い込まれた白木のカウンター席と、数名のお客さん。派手さはないけれど、丁寧で温かい空気が店内に満ちていた。
いつもなら、事前にネットで口コミを検索し、評価とメニューを隅々までチェックしなければ店に入れない。石橋を叩いて渡るのが、私の主義だった。
だけど、今の私は傷つき、疲れ果てている。自分を縛るあらゆるルールから逃げ出したかった。
「……すみません、一人ですけどいいですか」
ガラガラと引き戸を開けると、使い込まれた木の香りと香ばしい醤油の匂いが胸いっぱいに広がった。
「いらっしゃい! カウンターの端っこ、どうぞ」
割烹着を着た白髪の店主が、威勢のいい声で迎えてくれる。
カウンターの端に腰を下ろし、手渡されたおしぼりで温まりながら、壁に掲げられたお品書きを見上げた。
『鯛めし 定食』
迷う理由はなかった。
「鯛めしをお願いします」と告げると、店主は「はいよ!」と嬉しそうに頷き、素早い手つきで調理に取りかかった。
包丁がまな板を叩くトントンという心地よい音。氷でキュッと締められる魚の気配。
カウンター越しに聞こえる調理の音に耳を傾けているうちに、あんなに張りつめていた身体と心が、少しずつ和らいでいくのを感じた。
「はい、お待たせしました。鯛めしね」
運ばれてきたお盆を見て、私は小さく息をのんだ。
大きな陶器の小鉢には、角が綺麗に立った新鮮な鯛の刺身が美しく並べられている。その横には、出汁と醤油が合わさった深みのあるタレと、ぷっくりと盛り上がった濃い黄身の生卵。さらに、刻み海苔、白ごま、細かく刻まれた大葉、そして少しのわさび。
お茶碗に盛られたご飯は、炊きたてで湯気を上げ、ツヤツヤと真珠のように光っていた。
「食べ方はわかるかい?」
「あ、ええと……」
戸惑う私に、店主が優しく微笑みかける。
「タレの鉢に卵をといてね、薬味を全部入れるんだ。そこに鯛の刺身をくぐらせて、タレごと温かいご飯の上にぶっかける。あとはガッツリかきこむだけだよ」
「……はい、ありがとうございます」
教えてもらった通り、箸で生卵の黄身を突く。とろりと溢れ出た黄色が、琥珀色のタレと混ざり合っていく。そこに薬味を投入し、薄桃色の綺麗な鯛の刺身を数切れ浸した。
しっかりとタレを纏わせた鯛を、ご飯の上にそっと乗せる。
仕上げに、卵と出汁の混ざったタレをれんげですくい、ご飯全体に回しかけた。
甘く香ばしい醤油と海苔の香りが、一気に鼻腔をくすぐる。
ゴクリと喉が鳴った。私は箸を握り直し、ご飯と一緒に鯛を大きめの一口で頬張った。
——その瞬間。
「……んん……っ!」
思わず、目をつむっていた。
弾力のある鯛のプリッとした食感が、歯を押し返してくる。噛みしめるたびに、鯛本来の淡泊で上品な甘みと、少し甘めの特製タレが口いっぱいに広がっていく。
そこに、濃厚な卵黄のまろやかさと、大葉とわさびの爽やかな風味が重なり合う。
温かいご飯がタレを吸い込み、すべてを優しく包み込んでいく。
「……おいしい……」
声にならない呟きが漏れた。
二口目、三口目。もう一口の大きさを気にする余裕なんてなかった。夢中で箸を動かし、お茶碗を手に取ってガツガツとかきこむ。
喉を通り過ぎるたびに、お腹の底からじわじわと温かい熱が広がり、全身の細胞が吹き返していくような感覚。
言葉が詰まって情けなかった商談のことも。
三波に言われた「暗唱じゃない」という正しい言葉の痛さも。
完璧にできない自分への惨めさも。
溢れるほどの旨味と多幸感の中で、それらがサーッと遠のいていく。
ただ「美味しい」ということ。
目の前にある命の恵みを、温かいご飯を、お腹いっぱい食べているということ。
その単純で圧倒的な幸せが、私の心を埋め尽くしていく。
(……あぁ、これだ)
口の中で溶けていく鯛の甘みを感じながら、胸の奥が熱くなった。
幼い頃、悲しいことがあった日に母が作ってくれたご飯。嫌なことを全部忘れさせてくれた、あの「食の魔法」。
社会人になってから、失敗するのが怖くて、評価されることに必死で、いつの間にか自分で自分を追い詰めて捨ててしまっていた大切な時間が、今、ここにあった。
私はロボットじゃない。完璧な機械でもない。
傷ついて、失敗して、落ち込んでも、こうやって美味しいものを食べて笑うことができる、ただの人間なのだ。
出張先で見知らぬ街の路地裏に入り、思い切って暖簾をくぐったからこそ出会えた、たった一杯の奇跡。
「お客さん、いい食べっぷりだねえ!」
カウンター越しに、店主が目を細めて笑いかけてくれた。
「はい……! すごく美味しいです」
泣きそうなのを堪えながら笑うと、店主は「おかわり、遠慮なく言いなよ」と、温かいお茶を淹れてくれた。
付け合わせのお吸い物を啜り、漬物をかじる。
最後の一粒までお茶碗の米粒をきれいに集めて食べ終えたとき、私の心とお腹は、これ以上ないほどの満足感で満たされていた。
はぁー、美味しかった……と、深く満足の息をついたその時だった。
「……お前、本当に美味そうに食うよな」
背後から聞き覚えのありすぎる声が降ってきて、私は「ひっ」と情けない声を上げて固まった。
ゆっくりと振り向くと、そこには湯呑みを片手にニヤニヤとこちらを見つめる——三波の姿があった。
「み、三波……!? なんで、ここに……!?」
「なんでって……」
彼は呆れたように肩をすくめると、自分のポケットから何かを取り出し、トン、と私の目の前のカウンターに置いた。
それは、私がさっきの喫茶店に置き忘れてきたはずの、私のスマートフォンだった。
大街道の賑やかなアーケードを外れ、古い木造建築が並ぶ路地裏へと足を進めた。あてがあるわけではない。ただ、賑やかなチェーン店や流行りのカフェではなく、この街の生活の匂いがする場所へ吸い寄せられていた。
風に乗って、出汁の甘い香りが漂ってくる。
ふと足を止めたのは、小さな木製の看板と、藍色の短い暖簾が揺れる一軒の和食店だった。看板には、達筆な文字で『鯛めし』とだけ書かれている。
暖簾の隙間から覗くと、使い込まれた白木のカウンター席と、数名のお客さん。派手さはないけれど、丁寧で温かい空気が店内に満ちていた。
いつもなら、事前にネットで口コミを検索し、評価とメニューを隅々までチェックしなければ店に入れない。石橋を叩いて渡るのが、私の主義だった。
だけど、今の私は傷つき、疲れ果てている。自分を縛るあらゆるルールから逃げ出したかった。
「……すみません、一人ですけどいいですか」
ガラガラと引き戸を開けると、使い込まれた木の香りと香ばしい醤油の匂いが胸いっぱいに広がった。
「いらっしゃい! カウンターの端っこ、どうぞ」
割烹着を着た白髪の店主が、威勢のいい声で迎えてくれる。
カウンターの端に腰を下ろし、手渡されたおしぼりで温まりながら、壁に掲げられたお品書きを見上げた。
『鯛めし 定食』
迷う理由はなかった。
「鯛めしをお願いします」と告げると、店主は「はいよ!」と嬉しそうに頷き、素早い手つきで調理に取りかかった。
包丁がまな板を叩くトントンという心地よい音。氷でキュッと締められる魚の気配。
カウンター越しに聞こえる調理の音に耳を傾けているうちに、あんなに張りつめていた身体と心が、少しずつ和らいでいくのを感じた。
「はい、お待たせしました。鯛めしね」
運ばれてきたお盆を見て、私は小さく息をのんだ。
大きな陶器の小鉢には、角が綺麗に立った新鮮な鯛の刺身が美しく並べられている。その横には、出汁と醤油が合わさった深みのあるタレと、ぷっくりと盛り上がった濃い黄身の生卵。さらに、刻み海苔、白ごま、細かく刻まれた大葉、そして少しのわさび。
お茶碗に盛られたご飯は、炊きたてで湯気を上げ、ツヤツヤと真珠のように光っていた。
「食べ方はわかるかい?」
「あ、ええと……」
戸惑う私に、店主が優しく微笑みかける。
「タレの鉢に卵をといてね、薬味を全部入れるんだ。そこに鯛の刺身をくぐらせて、タレごと温かいご飯の上にぶっかける。あとはガッツリかきこむだけだよ」
「……はい、ありがとうございます」
教えてもらった通り、箸で生卵の黄身を突く。とろりと溢れ出た黄色が、琥珀色のタレと混ざり合っていく。そこに薬味を投入し、薄桃色の綺麗な鯛の刺身を数切れ浸した。
しっかりとタレを纏わせた鯛を、ご飯の上にそっと乗せる。
仕上げに、卵と出汁の混ざったタレをれんげですくい、ご飯全体に回しかけた。
甘く香ばしい醤油と海苔の香りが、一気に鼻腔をくすぐる。
ゴクリと喉が鳴った。私は箸を握り直し、ご飯と一緒に鯛を大きめの一口で頬張った。
——その瞬間。
「……んん……っ!」
思わず、目をつむっていた。
弾力のある鯛のプリッとした食感が、歯を押し返してくる。噛みしめるたびに、鯛本来の淡泊で上品な甘みと、少し甘めの特製タレが口いっぱいに広がっていく。
そこに、濃厚な卵黄のまろやかさと、大葉とわさびの爽やかな風味が重なり合う。
温かいご飯がタレを吸い込み、すべてを優しく包み込んでいく。
「……おいしい……」
声にならない呟きが漏れた。
二口目、三口目。もう一口の大きさを気にする余裕なんてなかった。夢中で箸を動かし、お茶碗を手に取ってガツガツとかきこむ。
喉を通り過ぎるたびに、お腹の底からじわじわと温かい熱が広がり、全身の細胞が吹き返していくような感覚。
言葉が詰まって情けなかった商談のことも。
三波に言われた「暗唱じゃない」という正しい言葉の痛さも。
完璧にできない自分への惨めさも。
溢れるほどの旨味と多幸感の中で、それらがサーッと遠のいていく。
ただ「美味しい」ということ。
目の前にある命の恵みを、温かいご飯を、お腹いっぱい食べているということ。
その単純で圧倒的な幸せが、私の心を埋め尽くしていく。
(……あぁ、これだ)
口の中で溶けていく鯛の甘みを感じながら、胸の奥が熱くなった。
幼い頃、悲しいことがあった日に母が作ってくれたご飯。嫌なことを全部忘れさせてくれた、あの「食の魔法」。
社会人になってから、失敗するのが怖くて、評価されることに必死で、いつの間にか自分で自分を追い詰めて捨ててしまっていた大切な時間が、今、ここにあった。
私はロボットじゃない。完璧な機械でもない。
傷ついて、失敗して、落ち込んでも、こうやって美味しいものを食べて笑うことができる、ただの人間なのだ。
出張先で見知らぬ街の路地裏に入り、思い切って暖簾をくぐったからこそ出会えた、たった一杯の奇跡。
「お客さん、いい食べっぷりだねえ!」
カウンター越しに、店主が目を細めて笑いかけてくれた。
「はい……! すごく美味しいです」
泣きそうなのを堪えながら笑うと、店主は「おかわり、遠慮なく言いなよ」と、温かいお茶を淹れてくれた。
付け合わせのお吸い物を啜り、漬物をかじる。
最後の一粒までお茶碗の米粒をきれいに集めて食べ終えたとき、私の心とお腹は、これ以上ないほどの満足感で満たされていた。
はぁー、美味しかった……と、深く満足の息をついたその時だった。
「……お前、本当に美味そうに食うよな」
背後から聞き覚えのありすぎる声が降ってきて、私は「ひっ」と情けない声を上げて固まった。
ゆっくりと振り向くと、そこには湯呑みを片手にニヤニヤとこちらを見つめる——三波の姿があった。
「み、三波……!? なんで、ここに……!?」
「なんでって……」
彼は呆れたように肩をすくめると、自分のポケットから何かを取り出し、トン、と私の目の前のカウンターに置いた。
それは、私がさっきの喫茶店に置き忘れてきたはずの、私のスマートフォンだった。

