松山駅から路面電車に揺られ、市内中心部にあるオフィスビルを目指す。
ガタゴトと響く電車の音と、窓の外をゆっくりと過ぎ去っていくレトロな街並み。車内の誰もがのんびりとした時間を纏っているように見える中で、私ひとりだけが、まるで処刑台へ向かう罪人のように肩を強張らせていた。
「小野寺、顔青いぞ。大丈夫か?」
「……大丈夫。完璧に、頭の中に入ってるから」
隣に座る三波くんの声に、私は膝の上のビジネスバッグを強く握り直すことで答えた。
訪問先は、地元の老舗メーカー『伊予マテリアル』。
今回の商談は、我が社が提案する新規システムの導入プレゼンだ。準備は完璧なはずだった。プレゼン資料は何十回も読み返し、想定される質問への回答もすべてノートに書き出して丸暗記してきた。新入社員だからといって、甘えは見せられない。私がこの案件を引っ張るんだという強い思いだけが、今の私を支えていた。
通された応接室は、重厚な革張りのソファと木製の大きなローテーブルが置かれた、重々しい空間だった。
現れたのは、親しみやすい笑顔を浮かべた五十代半ばの専務取締役。そしてその隣には、厳しい目つきをしたシステム部門の責任者が同席していた。
「いやあ、陸くん! 大きくなったねえ。お父さんから連絡もらっとったよ。元気にしとった?」
専務の第一声で、場が一気に和らぐ。
三波は「ご無沙汰しております! 今日は僕たちの提案を聴いていただきたくて、東京から飛んできました」と、親戚の集まりにでも参加しているかのような爽やかな笑顔で頭を下げた。
「そうかそうか。わざわざ遠いところから、よう来たね。……で、そちらの小野寺さん、ちょっと顔が固いけん、リラックスしてね」
専務の語尾に混ざる、角のない柔らかい伊予弁。
アウェイ感とローカルな空気に包まれ、私ひとりだけが蚊帳の外に置かれたような錯覚に陥る。
(だめ、ここで飲まれちゃだめ。私が担当なんだから)
私は背筋をピンと伸ばし、あらかじめ練習してきた通りの挨拶と自己紹介を機械的に叩き込んだ。
「——はじめまして、小野寺と申します! 貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます。では、本日のプレゼンテーションに移らせていただきます」
手元のタブレットを操作し、プロジェクターに資料を映し出す。
最初の数分間は、順調だった。練習通り、滞りなく言葉が出ていた。しかし、システム部門の責任者の方が、難しそうな顔で腕を組んだ瞬間から、私の中の歯車が狂い始めた。
(……あ、顔色が険しくなった。私の説明、わかりにくかった?)
一度芽生えた焦りは、あっという間に私の頭の中を白く染めていく。
丸暗記していたはずの文章が、霧の向こうへと消えていく。喉がキュッと絞まるように狭くなり、声が上ずった。
「ええと……本システムの、その、導入メリットといたしましては……」
言葉が詰まる。沈黙が応接室を満たす。冷や汗が、背中をダラリと伝い落ちた。
やばい、どうしよう。次の言葉が出てこない。資料の何ページ目を開けばいいのかすら、分からなくなってしまった。
「——あ、専務。そこのメリットの部分なんですけど」
絶望的な沈黙を破ったのは、三波の柔らかい声だった。
彼は自然な動作で私の横に立ち、プロジェクターの画面を指さしながら、恐ろしいほどの軽やかさで話を引き継いだ。
「うちの小野寺がすごく綿密に分析してくれたデータなんですけどね。要するに、現場の職人さんたちが毎日使ってる日報入力の手間が、今の半分になるんです。ほら、伊予マテリアルさんの現場って、職人さんのこだわりが強いじゃないですか。だからこそ、機械が苦手な方でも直感的に触れるUIにこだわったんですよ」
「ほう、あの気難しい現場の連中が使えるかね?」
「そこは僕に任せてください! 今度、地元の祭りのときにでも現場に顔出して、使い方レクチャーしますから」
三波が爽やかな笑顔を浮かべると、責任者の表情がふっと緩んだ。「君は、相変わらず調子がいいなあ」と専務が笑い、応接室の空気が一瞬で和やかになる。
そこからの展開は早かった。
三波くんは私のアクシデントを完璧に覆い隠し、クライアントの警戒心を解きほぐし、商談を「前向きに検討する」という最高の形で締めくくってしまったのだ。
オフィスビルを出たとき、午後の強い日差しが私を眩しく刺した。
商談は成功した。会社としては大勝利だ。
それなのに、私の胸の中に残ったのは、泥のように重たく黒い敗北感だけだった。
「いやー、無事に終わってよかった! 小野寺の作った資料が分かりやすかったから、専務も納得してくれたよ。お疲れさま!」
大街道のアーケード街にある古びた喫茶店。
アイスコーヒーを頼み、ソファに深く腰掛けた三波は、心底ほっとした様子で笑っていた。
対する私は、アイスティーのグラスについた水滴を、ただじっと見つめていた。
氷がカランと音を立てる。その涼しげな音が、今の私には酷く不愉快だった。
「……何が『お疲れさま』よ」
「え?」
「三波は、世渡りが上手くていいよね」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど冷たく、刺々しかった。
三波は眉をひそめ、グラスを置いた。
「世渡りって……何だよそれ。俺なりにフォローしたつもりなんだけど」
「フォロー? 頼んでないよ。私は担当として、自分の言葉で伝えたかったの。三波は地元だからって調子に乗って、ヘラヘラ雑談して、美味しいところだけ持っていったじゃない」
自分でも理不尽だと分かっていた。
言葉が詰まった私を助けてくれたのは、三波だ。彼がいなければ、商談は破談していたかもしれない。
だけど、前夜から睡眠時間を削って資料を作り、プレッシャーに押し潰されそうになりながら丸暗記した私の努力は、彼の「愛嬌」と「地元のコネ」の前にあっけなく霞んでしまった。
悔しくて、情けなくて、惨めで、どうしようもなかった。
「……小野寺さ」
陸の声から柔らかさが消え、低く静かなトーンに変わる。
「お前の準備がすごかったから、俺は自信を持って提案できたんだよ。でもさ、仕事ってテストの暗記じゃないんだから。もっと肩の力抜きなよ。そんなガチガチじゃ、伝わるものも伝わんねえよ」
正論だった。正論だからこそ、一番痛いところを正確に撃ち抜かれた。
「——もういい」
私は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、不快な高音を立てる。
「私のやり方が間違ってるって言いたいんでしょ。いいよ、三波は一人で上手にやっていけばいいじゃない。……私、一人で帰るから」
「おい、小野寺! 待てって——」
引き止める三波の声を背中に受けながら、私は店を飛び出した。
鞄の紐を強く握りしめ、一度も振り返らずにアーケードの雑踏へと駆け出していく。
夕方の風が、火照った頬を撫でていく。
アーケードを抜け出すと、街はすっかり橙色の夕暮れに包まれていた。路面電車がガタゴトと音を立てて走り去っていく。
通り過ぎる人々はみんな、どこかへ帰る場所があるような顔をしている。
見知らぬ街の、見知らぬ空の下。
一人きり取り残された私は、急に強烈な虚しさと孤独感に襲われた。
(……ばかみたい)
準備した時間も、張りつめた緊張も、三波への見当違いな怒りも、全部が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
そのとき、ぐう、と情けない音が腹の底から鳴り響いた。
朝から緊張で何も喉を通らなかった胃袋が、ここに来て悲鳴を上げていた。
そういえば、機内で冷めた緑茶を飲んで以来、何も口にしていない。
「……お腹、空いたな」
ぽつりと呟いた自分の声が、夕暮れの街に消えていく。
涙が出そうになるのをぐっと堪え、私は乾いた喉を鳴らした。
そうだ。傷ついて、失敗して、落ち込んで、惨めだけど——それでも人間はお腹が空くのだ。
幼い頃、嫌なことがあった日に母が作ってくれた温かいご飯の記憶が、かすかに頭をよぎる。
私を救ってくれる魔法は、もうどこにもないのかもしれない。
だけど、このまま泣き寝入りして東京に帰るなんて絶対に嫌だ。
「……あいつの知らない美味しいものを、食べてやる」
私は涙を手の甲でゴシゴシと拭うと、一人で松山の路地裏へと歩き出した。
ガタゴトと響く電車の音と、窓の外をゆっくりと過ぎ去っていくレトロな街並み。車内の誰もがのんびりとした時間を纏っているように見える中で、私ひとりだけが、まるで処刑台へ向かう罪人のように肩を強張らせていた。
「小野寺、顔青いぞ。大丈夫か?」
「……大丈夫。完璧に、頭の中に入ってるから」
隣に座る三波くんの声に、私は膝の上のビジネスバッグを強く握り直すことで答えた。
訪問先は、地元の老舗メーカー『伊予マテリアル』。
今回の商談は、我が社が提案する新規システムの導入プレゼンだ。準備は完璧なはずだった。プレゼン資料は何十回も読み返し、想定される質問への回答もすべてノートに書き出して丸暗記してきた。新入社員だからといって、甘えは見せられない。私がこの案件を引っ張るんだという強い思いだけが、今の私を支えていた。
通された応接室は、重厚な革張りのソファと木製の大きなローテーブルが置かれた、重々しい空間だった。
現れたのは、親しみやすい笑顔を浮かべた五十代半ばの専務取締役。そしてその隣には、厳しい目つきをしたシステム部門の責任者が同席していた。
「いやあ、陸くん! 大きくなったねえ。お父さんから連絡もらっとったよ。元気にしとった?」
専務の第一声で、場が一気に和らぐ。
三波は「ご無沙汰しております! 今日は僕たちの提案を聴いていただきたくて、東京から飛んできました」と、親戚の集まりにでも参加しているかのような爽やかな笑顔で頭を下げた。
「そうかそうか。わざわざ遠いところから、よう来たね。……で、そちらの小野寺さん、ちょっと顔が固いけん、リラックスしてね」
専務の語尾に混ざる、角のない柔らかい伊予弁。
アウェイ感とローカルな空気に包まれ、私ひとりだけが蚊帳の外に置かれたような錯覚に陥る。
(だめ、ここで飲まれちゃだめ。私が担当なんだから)
私は背筋をピンと伸ばし、あらかじめ練習してきた通りの挨拶と自己紹介を機械的に叩き込んだ。
「——はじめまして、小野寺と申します! 貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます。では、本日のプレゼンテーションに移らせていただきます」
手元のタブレットを操作し、プロジェクターに資料を映し出す。
最初の数分間は、順調だった。練習通り、滞りなく言葉が出ていた。しかし、システム部門の責任者の方が、難しそうな顔で腕を組んだ瞬間から、私の中の歯車が狂い始めた。
(……あ、顔色が険しくなった。私の説明、わかりにくかった?)
一度芽生えた焦りは、あっという間に私の頭の中を白く染めていく。
丸暗記していたはずの文章が、霧の向こうへと消えていく。喉がキュッと絞まるように狭くなり、声が上ずった。
「ええと……本システムの、その、導入メリットといたしましては……」
言葉が詰まる。沈黙が応接室を満たす。冷や汗が、背中をダラリと伝い落ちた。
やばい、どうしよう。次の言葉が出てこない。資料の何ページ目を開けばいいのかすら、分からなくなってしまった。
「——あ、専務。そこのメリットの部分なんですけど」
絶望的な沈黙を破ったのは、三波の柔らかい声だった。
彼は自然な動作で私の横に立ち、プロジェクターの画面を指さしながら、恐ろしいほどの軽やかさで話を引き継いだ。
「うちの小野寺がすごく綿密に分析してくれたデータなんですけどね。要するに、現場の職人さんたちが毎日使ってる日報入力の手間が、今の半分になるんです。ほら、伊予マテリアルさんの現場って、職人さんのこだわりが強いじゃないですか。だからこそ、機械が苦手な方でも直感的に触れるUIにこだわったんですよ」
「ほう、あの気難しい現場の連中が使えるかね?」
「そこは僕に任せてください! 今度、地元の祭りのときにでも現場に顔出して、使い方レクチャーしますから」
三波が爽やかな笑顔を浮かべると、責任者の表情がふっと緩んだ。「君は、相変わらず調子がいいなあ」と専務が笑い、応接室の空気が一瞬で和やかになる。
そこからの展開は早かった。
三波くんは私のアクシデントを完璧に覆い隠し、クライアントの警戒心を解きほぐし、商談を「前向きに検討する」という最高の形で締めくくってしまったのだ。
オフィスビルを出たとき、午後の強い日差しが私を眩しく刺した。
商談は成功した。会社としては大勝利だ。
それなのに、私の胸の中に残ったのは、泥のように重たく黒い敗北感だけだった。
「いやー、無事に終わってよかった! 小野寺の作った資料が分かりやすかったから、専務も納得してくれたよ。お疲れさま!」
大街道のアーケード街にある古びた喫茶店。
アイスコーヒーを頼み、ソファに深く腰掛けた三波は、心底ほっとした様子で笑っていた。
対する私は、アイスティーのグラスについた水滴を、ただじっと見つめていた。
氷がカランと音を立てる。その涼しげな音が、今の私には酷く不愉快だった。
「……何が『お疲れさま』よ」
「え?」
「三波は、世渡りが上手くていいよね」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど冷たく、刺々しかった。
三波は眉をひそめ、グラスを置いた。
「世渡りって……何だよそれ。俺なりにフォローしたつもりなんだけど」
「フォロー? 頼んでないよ。私は担当として、自分の言葉で伝えたかったの。三波は地元だからって調子に乗って、ヘラヘラ雑談して、美味しいところだけ持っていったじゃない」
自分でも理不尽だと分かっていた。
言葉が詰まった私を助けてくれたのは、三波だ。彼がいなければ、商談は破談していたかもしれない。
だけど、前夜から睡眠時間を削って資料を作り、プレッシャーに押し潰されそうになりながら丸暗記した私の努力は、彼の「愛嬌」と「地元のコネ」の前にあっけなく霞んでしまった。
悔しくて、情けなくて、惨めで、どうしようもなかった。
「……小野寺さ」
陸の声から柔らかさが消え、低く静かなトーンに変わる。
「お前の準備がすごかったから、俺は自信を持って提案できたんだよ。でもさ、仕事ってテストの暗記じゃないんだから。もっと肩の力抜きなよ。そんなガチガチじゃ、伝わるものも伝わんねえよ」
正論だった。正論だからこそ、一番痛いところを正確に撃ち抜かれた。
「——もういい」
私は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、不快な高音を立てる。
「私のやり方が間違ってるって言いたいんでしょ。いいよ、三波は一人で上手にやっていけばいいじゃない。……私、一人で帰るから」
「おい、小野寺! 待てって——」
引き止める三波の声を背中に受けながら、私は店を飛び出した。
鞄の紐を強く握りしめ、一度も振り返らずにアーケードの雑踏へと駆け出していく。
夕方の風が、火照った頬を撫でていく。
アーケードを抜け出すと、街はすっかり橙色の夕暮れに包まれていた。路面電車がガタゴトと音を立てて走り去っていく。
通り過ぎる人々はみんな、どこかへ帰る場所があるような顔をしている。
見知らぬ街の、見知らぬ空の下。
一人きり取り残された私は、急に強烈な虚しさと孤独感に襲われた。
(……ばかみたい)
準備した時間も、張りつめた緊張も、三波への見当違いな怒りも、全部が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
そのとき、ぐう、と情けない音が腹の底から鳴り響いた。
朝から緊張で何も喉を通らなかった胃袋が、ここに来て悲鳴を上げていた。
そういえば、機内で冷めた緑茶を飲んで以来、何も口にしていない。
「……お腹、空いたな」
ぽつりと呟いた自分の声が、夕暮れの街に消えていく。
涙が出そうになるのをぐっと堪え、私は乾いた喉を鳴らした。
そうだ。傷ついて、失敗して、落ち込んで、惨めだけど——それでも人間はお腹が空くのだ。
幼い頃、嫌なことがあった日に母が作ってくれた温かいご飯の記憶が、かすかに頭をよぎる。
私を救ってくれる魔法は、もうどこにもないのかもしれない。
だけど、このまま泣き寝入りして東京に帰るなんて絶対に嫌だ。
「……あいつの知らない美味しいものを、食べてやる」
私は涙を手の甲でゴシゴシと拭うと、一人で松山の路地裏へと歩き出した。

