幼い頃から、食べることが大好きだった。
悲しいことや嫌なことがあっても、大好きなものを口いっぱいに頬張っている瞬間だけは、世界が優しく塗り変わる。そんな魔法みたいな時間が、私には確かにあったはずだった。
だけど、社会人になってからの私には、もうその魔法がない。
仕事を覚えることに必死で、いつの間にか食事は「作業」になり、緊張で味が分からなくなる日が増えた。お腹を満たすためだけに、コンビニのおにぎりを胃に流し込む毎日。いつの間にか私は、自分がどうやって「美味しくご飯を食べていたか」すら忘れてしまっていた。
「小野寺、肩に力入りすぎ。首なくなっとるやん」
羽田空港の搭乗ゲート前。冷房の風がかすかに吹き抜けるベンチで、タブレットの画面と睨めっこしていた私の耳に、間の抜けた声が届いた。
顔を上げると、同期の三波がアイスコーヒーのストローを咥えたまま、退屈そうにこちらを見下ろしている。
「……ちゃんとあります。最終確認をしてるだけ」
「真面目だねえ。でもさ、今日の訪問先って俺の地元の会社でしょ? 担当の専務さん、うちの親父の知り合いなんだよね。昨日『陸くん、来るんだって?』って連絡あったよ」
「えっ……もう連絡取ったの?」
指先が画面の上で止まる。
三波は「まあね」と短く返し、スマホの画面をちらりとこちらに向けた。そこには『また今度飲みに行こう』という、拍子抜けするほどフランクなやり取りが残されていた。
胸の奥で、小さな棘がちくりと刺さる。
私と三波は、春に営業部へ配属されたばかりの同期だ。
私はいつだって、前夜から入念に資料を作り込み、想定問答を丸暗記して、石橋を叩いて渡るように泥臭く仕事に挑む。対する三波はといえば、持ち前の愛嬌とどこか掴みどころのない世渡りの上手さで、いつの間にか人の懐に入り込んで成果をさらっていく。
社内でも「三波くんは要領がいい」「現場の空気を読むのが巧い」と評価されていた。
ぬかりのない準備で勝負したい私にとって、彼のその軽やかさは羨ましく、そして少しだけ眩しすぎた。
今回の愛媛出張は、二人で任された初めての案件だ。
彼の「地元コネ」だけで終わらせたくない。私が担当として、きちんとした仕事を証明してみせるのだと、自分に言い聞かせていた。
「小野寺、そろそろ乗るよ」
搭乗ゲートをくぐり抜ける陸の背中を追いかけながら、私は小さなビジネスバッグの持ち手を強く握りしめた。
機内に乗り込むと、夏の陽射しを反射した翼が眩しく目を射た。
三人掛けの普通席。窓側に私が座り、中央に陸が腰を下ろす。ベルト着用サインが消えても、私は膝の上でタブレットを開いている。今日の商談の流れを、頭の中で繰り返していた。
「……小野寺さ」
「なに? 私、今プレゼンの冒頭を叩き込んでるんだけど」
「いや、飲み物何にするのかなって。ほら、スープかジュースか」
通路を通るドリンクサービスのカートを指さしながら、陸は呑気に言った。彼の膝の上には、機内誌と空港で買ったと思われる文庫本が転がっている。
「……緑茶でいい」
「了解。すみませーん、緑茶と……あ、僕はコンソメスープで」
CAさんから紙コップを受け取ると、陸はふうふうと息を吹きかけながらスープを啜った。
「やっぱり飛行機のドリンクって美味いよね。なんか、出張って感じがする」
「三波くんは気楽でいいよね。私はこれからプレゼンだから、それどころじゃないんだけど」
思わず、刺のある言葉が口をついて出た。陸はスープのコップを持ったまま、少し目を丸くしてから、苦笑いを浮かべると、
「気楽にしてるわけじゃないけどさ。小野寺、飛行機乗ってる間くらい力抜いたら? 準備はもう十分やってきたじゃん」
「足りないの。完璧にしとかないと不安なの」
ぴしゃりと言い放ち、私は画面に目を戻した。
三波くんはそれ以上何も言わず、「そっか」と呟いて文庫本を開いた。
横目でちらりと見ると、彼はスープを少しずつ飲みながら、実にリラックスした様子でページをめくっている。
窓の外を見やると、雲の隙間から穏やかな瀬戸内海の青と、ぽつぽつと浮かぶ緑の島影が見え始めていた。
自分だけがガチガチに緊張して、空回りしているような焦燥感。
離陸のときの浮遊感とは違う、重たい胸騒ぎが腹の底に溜まっていくのを、冷めた緑茶で喉の奥へと押し流した。
羽田を飛び立って、約一時間半。松山空港のタラップを降りると、八月の濃密な湿気と、どこか潮の匂いが混ざった風が肌にまとわりつく。
「なんか、柑橘の匂いしない?」
「気のせいでしょう。空港の空気だよ」
「冷たいなあ。折角だから、美味いもんでも食べて行こうよ」
三波が、肩をすくめて笑う。
着陸した途端、どこか纏っていた緊張感を解いたような彼の顔を見ると、私は余計に心を閉ざしてしまうのだった。
「結構です。商談が終わるまで、お腹なんて空かないから」
仕事を完璧にやり遂げるまで、自分にご褒美をあげるわけにはいかない。
その意地が、自分自身を追い詰めていることに気がつくことができなかった。
悲しいことや嫌なことがあっても、大好きなものを口いっぱいに頬張っている瞬間だけは、世界が優しく塗り変わる。そんな魔法みたいな時間が、私には確かにあったはずだった。
だけど、社会人になってからの私には、もうその魔法がない。
仕事を覚えることに必死で、いつの間にか食事は「作業」になり、緊張で味が分からなくなる日が増えた。お腹を満たすためだけに、コンビニのおにぎりを胃に流し込む毎日。いつの間にか私は、自分がどうやって「美味しくご飯を食べていたか」すら忘れてしまっていた。
「小野寺、肩に力入りすぎ。首なくなっとるやん」
羽田空港の搭乗ゲート前。冷房の風がかすかに吹き抜けるベンチで、タブレットの画面と睨めっこしていた私の耳に、間の抜けた声が届いた。
顔を上げると、同期の三波がアイスコーヒーのストローを咥えたまま、退屈そうにこちらを見下ろしている。
「……ちゃんとあります。最終確認をしてるだけ」
「真面目だねえ。でもさ、今日の訪問先って俺の地元の会社でしょ? 担当の専務さん、うちの親父の知り合いなんだよね。昨日『陸くん、来るんだって?』って連絡あったよ」
「えっ……もう連絡取ったの?」
指先が画面の上で止まる。
三波は「まあね」と短く返し、スマホの画面をちらりとこちらに向けた。そこには『また今度飲みに行こう』という、拍子抜けするほどフランクなやり取りが残されていた。
胸の奥で、小さな棘がちくりと刺さる。
私と三波は、春に営業部へ配属されたばかりの同期だ。
私はいつだって、前夜から入念に資料を作り込み、想定問答を丸暗記して、石橋を叩いて渡るように泥臭く仕事に挑む。対する三波はといえば、持ち前の愛嬌とどこか掴みどころのない世渡りの上手さで、いつの間にか人の懐に入り込んで成果をさらっていく。
社内でも「三波くんは要領がいい」「現場の空気を読むのが巧い」と評価されていた。
ぬかりのない準備で勝負したい私にとって、彼のその軽やかさは羨ましく、そして少しだけ眩しすぎた。
今回の愛媛出張は、二人で任された初めての案件だ。
彼の「地元コネ」だけで終わらせたくない。私が担当として、きちんとした仕事を証明してみせるのだと、自分に言い聞かせていた。
「小野寺、そろそろ乗るよ」
搭乗ゲートをくぐり抜ける陸の背中を追いかけながら、私は小さなビジネスバッグの持ち手を強く握りしめた。
機内に乗り込むと、夏の陽射しを反射した翼が眩しく目を射た。
三人掛けの普通席。窓側に私が座り、中央に陸が腰を下ろす。ベルト着用サインが消えても、私は膝の上でタブレットを開いている。今日の商談の流れを、頭の中で繰り返していた。
「……小野寺さ」
「なに? 私、今プレゼンの冒頭を叩き込んでるんだけど」
「いや、飲み物何にするのかなって。ほら、スープかジュースか」
通路を通るドリンクサービスのカートを指さしながら、陸は呑気に言った。彼の膝の上には、機内誌と空港で買ったと思われる文庫本が転がっている。
「……緑茶でいい」
「了解。すみませーん、緑茶と……あ、僕はコンソメスープで」
CAさんから紙コップを受け取ると、陸はふうふうと息を吹きかけながらスープを啜った。
「やっぱり飛行機のドリンクって美味いよね。なんか、出張って感じがする」
「三波くんは気楽でいいよね。私はこれからプレゼンだから、それどころじゃないんだけど」
思わず、刺のある言葉が口をついて出た。陸はスープのコップを持ったまま、少し目を丸くしてから、苦笑いを浮かべると、
「気楽にしてるわけじゃないけどさ。小野寺、飛行機乗ってる間くらい力抜いたら? 準備はもう十分やってきたじゃん」
「足りないの。完璧にしとかないと不安なの」
ぴしゃりと言い放ち、私は画面に目を戻した。
三波くんはそれ以上何も言わず、「そっか」と呟いて文庫本を開いた。
横目でちらりと見ると、彼はスープを少しずつ飲みながら、実にリラックスした様子でページをめくっている。
窓の外を見やると、雲の隙間から穏やかな瀬戸内海の青と、ぽつぽつと浮かぶ緑の島影が見え始めていた。
自分だけがガチガチに緊張して、空回りしているような焦燥感。
離陸のときの浮遊感とは違う、重たい胸騒ぎが腹の底に溜まっていくのを、冷めた緑茶で喉の奥へと押し流した。
羽田を飛び立って、約一時間半。松山空港のタラップを降りると、八月の濃密な湿気と、どこか潮の匂いが混ざった風が肌にまとわりつく。
「なんか、柑橘の匂いしない?」
「気のせいでしょう。空港の空気だよ」
「冷たいなあ。折角だから、美味いもんでも食べて行こうよ」
三波が、肩をすくめて笑う。
着陸した途端、どこか纏っていた緊張感を解いたような彼の顔を見ると、私は余計に心を閉ざしてしまうのだった。
「結構です。商談が終わるまで、お腹なんて空かないから」
仕事を完璧にやり遂げるまで、自分にご褒美をあげるわけにはいかない。
その意地が、自分自身を追い詰めていることに気がつくことができなかった。

