祈りを紡ぐ明日から

「これ、夕燈にあげといて」
朝陽が青虫のぬいぐるみをぶっきらぼうに差し出す。
「なんで? 朝陽が取ったんだから朝陽があげなよ」
「別にいいじゃん、誰が渡そうが」
仲が悪いわけじゃないのに、こういうところだけ妙に素っ気ない。
「なら二人で渡しにいこう」
そう提案すると、
「あっそ」
短い返事。そのまま二人で歩いて家に帰った。春の風は、夜になると少しひんやりしている。家の前に着くと、カーテンの隙間から部屋の明かりが柔らかく漏れていた。その光が、なんだか安心する。玄関のドアを開ける。母がちらりとこちらを見る。
「二人ともおかえり。お風呂、早く入っちゃいなさい」
「はーい」
玄関で靴を揃えてから、朝陽を見る。相変わらず返事もせず、仏頂面。
「朝陽おさき〜」
軽く手を振って、私は脱衣所へ向かった。ワイシャツを脱いで洗濯機へ放り込み、制服のスカートはカゴに置く。ふと鼻を近づけると——
「うわ、油の匂いすご……」
ラーメン屋の背脂の香りがしっかり染みついていた。あとで消臭スプレーしないと。下着も脱いで洗濯ネットに入れ、湯気の立つ浴室へ足を踏み入れる。頭と身体を洗ってから湯船に浸かる。今日の疲れがじわっと溶けていく気がした。
はあー……すっきりした。お風呂から上がり、髪をタオルで軽く拭きながら声をかける。
「朝陽いいよー」
「ああ」
リビングから出てきた朝陽が、じろりと私を見る。
「なに?」
「髪ぐらい乾かせよ」
「え、いいよ。タオルで拭くし、あとは自然乾燥で」
そう言うと、朝陽は無言でドライヤーを手に取り、コンセントに差し込む。スイッチが入ると、温かい風がふわっと広がった。
「自分でやるよ」
「大人しくしてろ」
言葉とは裏腹に、手つきは丁寧。風に揺れる髪の音だけが、しばらく二人の間に流れた。
「できた」
「ありがとうー」
「ほらさっさとでろ、風呂入る」
「はいはい」
「覗くなよ」
「誰が」
軽口をたたきながら背中を押される。リビングに向かうと、夕燈がソファでこちらを振り返った。
「ひよ、おかえり」
「夕燈、ただいま。病院どうだった?」
喘息持ちなので、定期的に受診している。
「大丈夫だよ。薬もらってきただけだから」
読んでいた本をスッと閉じる。
「そっか、よかった〜」
私は夕燈の隣に腰を下ろす。
「髪ちゃんと乾いてるね」
そっと髪に触れ、柔らかく微笑む夕燈。同じ顔なのに、話し方も雰囲気もまるで違う。
「うん。朝陽がやってくれた」
「そっか」
夕燈は目線をそっと落とす。その視線の先にある一冊の本を私は指さす。
「夕燈、また難しい本読んでるね」
すると夕燈は顔を上げて表紙をこちらに向けた。
「これ?そんなに難しくないよ」
表紙には 日本経済と情勢における〜 と長いタイトルが並んでいる。
「いやいや。よく読めるなー。私、活字無理」
そう言って項垂れると、夕燈はくすっと笑いながら頬をかいた。
「俺は文字読んでると落ち着くけどね」
その言い方が、いつもの柔らかい夕燈らしくて、なんだか安心する。
「そうだ、あとで良いものあげるね」
「なんだろう。楽しみだな」
夕燈はふふっと笑う。その笑顔に胸がほんのり温かくなる。