弘文 side
掛上弘文(かけがみ ひろふみ)、五十六歳。弁護士として働いている。依頼人の人生を左右する仕事だからこそ責任は重い。それでも、人の力になれるこの仕事に誇りを持ち、忙しくも充実した毎日を送っていた。家に帰れば、穏やかで料理上手な妻・京子が待っている。
双子の朝陽と夕燈。そして末娘のひより。絵に描いたような幸せな家庭だった。毎朝、食卓には温かい朝食が並び、丁寧に詰められた弁当が用意されている。アイロンのかかったワイシャツには、洗剤と柔軟剤の優しい香りが残っていた。
「お仕事、頑張ってね。いつもありがとう、弘文さん」
そう笑って送り出してくれる京子は、穏やかで優しく、自慢の妻だった。
京子と出会ったのは大学時代。控えめで、どこか放っておけない雰囲気の彼女に一目惚れした。何度も話しかけ、少しずつ距離を縮め、やがて恋人になり、結婚した。夫婦になってからも、大きな喧嘩をしたことは一度もない。静かで、穏やかな時間が流れる毎日。そんな幸せが、この先もずっと続くのだと信じていた。弁護士として独り立ちし、生活が落ち着いた頃に子どもたちが生まれた。朝陽は要領がよく、勉強も運動も器用にこなすしっかり者だった。夕燈は喘息があり、何度も入退院を繰り返した。それでも図鑑を渡すと、目を輝かせながら夢中でページをめくる。その姿を見るのが好きだった。ひよりは甘えん坊で、いつも京子のあとを小さな足で追いかけていた。
「おとうさん!」そう言って飛びついてくる娘を抱き上げる時間が、何より幸せだった。仕事は忙しかった。それでも休日は家族で出かけ、誕生日にはケーキを囲み、何気ない日常を大切にしてきた。
この幸せは、ずっと続く。そう信じて疑わなかった。――ひよりを失う、その日までは。
「ひよりが見当たらない」
その一言で、世界が音を立てて崩れた。家族総出で探し回った。警察にも連絡した。祈るような気持ちで走り続けた。
そして――。祠の窪みで、小さな身体を見つけた。名前を呼んでも返事はない。冷たい身体を抱きしめ、何度も呼びかけた。
「ひより……!」
必死に胸を押し、何度も名前を呼び続けた。戻ってきてほしかった。ただ、それだけだった。けれど、その願いは叶わなかった。あの日から、京子は壊れてしまった。
「私のせい……」
何度も何度もそう繰り返し、自分を責め続けた。泣いて、叫んで、食器を投げ、部屋は荒れ果てていく。やがて、自ら命を絶とうとまでした。
「お願い……死なせて」
涙でぐしゃぐしゃになった顔。頬はこけ、目の下には濃い隈ができていた。あれほど穏やかだった笑顔は、もうどこにもなかった。朝陽は自分を責めて口数が減った。夕燈も喘息が悪化し、再び入院することになった。家族みんなが、少しずつ壊れていく。それでも、自分だけは立ち止まれなかった。残された者は、生きなければならない。朝陽も夕燈も、まだ幼い。父親である自分が支えなければ、この家族は本当に壊れてしまう。
生活を守るためには働かなければならない。どんなに悲しくても。どんなに苦しくても。前を向かなければならなかった。
掛上弘文(かけがみ ひろふみ)、五十六歳。弁護士として働いている。依頼人の人生を左右する仕事だからこそ責任は重い。それでも、人の力になれるこの仕事に誇りを持ち、忙しくも充実した毎日を送っていた。家に帰れば、穏やかで料理上手な妻・京子が待っている。
双子の朝陽と夕燈。そして末娘のひより。絵に描いたような幸せな家庭だった。毎朝、食卓には温かい朝食が並び、丁寧に詰められた弁当が用意されている。アイロンのかかったワイシャツには、洗剤と柔軟剤の優しい香りが残っていた。
「お仕事、頑張ってね。いつもありがとう、弘文さん」
そう笑って送り出してくれる京子は、穏やかで優しく、自慢の妻だった。
京子と出会ったのは大学時代。控えめで、どこか放っておけない雰囲気の彼女に一目惚れした。何度も話しかけ、少しずつ距離を縮め、やがて恋人になり、結婚した。夫婦になってからも、大きな喧嘩をしたことは一度もない。静かで、穏やかな時間が流れる毎日。そんな幸せが、この先もずっと続くのだと信じていた。弁護士として独り立ちし、生活が落ち着いた頃に子どもたちが生まれた。朝陽は要領がよく、勉強も運動も器用にこなすしっかり者だった。夕燈は喘息があり、何度も入退院を繰り返した。それでも図鑑を渡すと、目を輝かせながら夢中でページをめくる。その姿を見るのが好きだった。ひよりは甘えん坊で、いつも京子のあとを小さな足で追いかけていた。
「おとうさん!」そう言って飛びついてくる娘を抱き上げる時間が、何より幸せだった。仕事は忙しかった。それでも休日は家族で出かけ、誕生日にはケーキを囲み、何気ない日常を大切にしてきた。
この幸せは、ずっと続く。そう信じて疑わなかった。――ひよりを失う、その日までは。
「ひよりが見当たらない」
その一言で、世界が音を立てて崩れた。家族総出で探し回った。警察にも連絡した。祈るような気持ちで走り続けた。
そして――。祠の窪みで、小さな身体を見つけた。名前を呼んでも返事はない。冷たい身体を抱きしめ、何度も呼びかけた。
「ひより……!」
必死に胸を押し、何度も名前を呼び続けた。戻ってきてほしかった。ただ、それだけだった。けれど、その願いは叶わなかった。あの日から、京子は壊れてしまった。
「私のせい……」
何度も何度もそう繰り返し、自分を責め続けた。泣いて、叫んで、食器を投げ、部屋は荒れ果てていく。やがて、自ら命を絶とうとまでした。
「お願い……死なせて」
涙でぐしゃぐしゃになった顔。頬はこけ、目の下には濃い隈ができていた。あれほど穏やかだった笑顔は、もうどこにもなかった。朝陽は自分を責めて口数が減った。夕燈も喘息が悪化し、再び入院することになった。家族みんなが、少しずつ壊れていく。それでも、自分だけは立ち止まれなかった。残された者は、生きなければならない。朝陽も夕燈も、まだ幼い。父親である自分が支えなければ、この家族は本当に壊れてしまう。
生活を守るためには働かなければならない。どんなに悲しくても。どんなに苦しくても。前を向かなければならなかった。

