夕方四時。夜には帰れる時間なのに、足は重かった。来た道を戻り、電車に揺られて最寄り駅へ着く。それでも――。
「帰りたくないな……」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。胸の奥が重い。私は誰からも愛されてなんていなかった。この世界で、ひとりぼっちなんだ。遠くで花火が上がる音が響く。見上げると、夜空に色鮮やかな光が咲いては消えていく。浴衣姿の子どもたちがはしゃぎ、恋人たちは寄り添い、家族連れは笑い合いながら歩いていく。みんな、大切な人がいる。必要とされて、愛されている。そんな当たり前が、私にはなかった。気づけば、足は祠へ向かっていた。石畳をゆっくり渡る。月明かりに照らされた祠は、昼間とは違う幻想的な空気をまとっていた。中央には、ぽっかりと窪みがある。けれど、そこにあるはずのものだけが欠けていた。
まるで――私みたいだ。夕燈がお供えしたお酒と米が置かれ、小皿の水は少し濁っている。私は鞄から、まだ口をつけていないペットボトルの水を取り出した。小皿を軽くすすぎ、新しい水をそっと注ぐ。静かに手を合わせた。神様なんて信じていない。「よく神様は乗り越えられる試練しか与えない」なんて言うけれど、そんな言葉も信じない。世界は、誰にでも平等に優しいわけじゃない。だって私は――。実の母には愛されなかった。そして私を迎えてくれた家族も、本当に見ていたのは私じゃない。
……そういえば。ひよりちゃんは、この場所で亡くなったんだ。窪みを覗き込む。底には雨水が薄く溜まり、その中で何かがかすかに光った。……あれ?思わず腕を伸ばした、その瞬間だった。ふっと、意識が沈む。誰かに引き寄せられるように。
暗闇の向こうから、記憶が一気に流れ込んできた。赤ん坊の私を抱え、父と激しく言い争う母。父が家を出ていく。静まり返った部屋。それからの母は、まるで別人だった。
『お前なんか、生まれなければよかった』幼い私へ向けられる、冷たい言葉。お腹が空いて、戸棚を開ける。食パンの耳をかじり、水道の水で流し込む。『勝手に食べるな!』怒鳴り声が響く。首に手がかかる。苦しい。息ができない。やめて。私、何もしてない。どうして。どうして愛してくれないの。私は、お母さんが好きなのに。もっといい子になるから。もっと頑張るから。だから――。その瞬間、近くにあったコップを夢中で掴み、母へ向かって投げつけた。ガシャン、と割れる音。よろめいた隙に、私は家を飛び出した。裸足のまま。外は雪だった。足が痛い。寒い。怖い。それでも止まれなかった。死にたくなかった。必死に走って――。キキッ、とブレーキの音が響く。強い衝撃。身体が宙に浮き、頭を地面へ打ちつけた。そこで意識は途切れた。目を覚ましたとき、私は保護されていた。そのまま児童養護施設へ預けられた。事故の後遺症だったのか、それ以前の記憶は少しずつ薄れ、曖昧になっていった。施設の職員さんたちは優しかった。温かいご飯も、眠る場所も、笑顔もくれた。
……でも。そこは、家族ではなかった。
「帰りたくないな……」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。胸の奥が重い。私は誰からも愛されてなんていなかった。この世界で、ひとりぼっちなんだ。遠くで花火が上がる音が響く。見上げると、夜空に色鮮やかな光が咲いては消えていく。浴衣姿の子どもたちがはしゃぎ、恋人たちは寄り添い、家族連れは笑い合いながら歩いていく。みんな、大切な人がいる。必要とされて、愛されている。そんな当たり前が、私にはなかった。気づけば、足は祠へ向かっていた。石畳をゆっくり渡る。月明かりに照らされた祠は、昼間とは違う幻想的な空気をまとっていた。中央には、ぽっかりと窪みがある。けれど、そこにあるはずのものだけが欠けていた。
まるで――私みたいだ。夕燈がお供えしたお酒と米が置かれ、小皿の水は少し濁っている。私は鞄から、まだ口をつけていないペットボトルの水を取り出した。小皿を軽くすすぎ、新しい水をそっと注ぐ。静かに手を合わせた。神様なんて信じていない。「よく神様は乗り越えられる試練しか与えない」なんて言うけれど、そんな言葉も信じない。世界は、誰にでも平等に優しいわけじゃない。だって私は――。実の母には愛されなかった。そして私を迎えてくれた家族も、本当に見ていたのは私じゃない。
……そういえば。ひよりちゃんは、この場所で亡くなったんだ。窪みを覗き込む。底には雨水が薄く溜まり、その中で何かがかすかに光った。……あれ?思わず腕を伸ばした、その瞬間だった。ふっと、意識が沈む。誰かに引き寄せられるように。
暗闇の向こうから、記憶が一気に流れ込んできた。赤ん坊の私を抱え、父と激しく言い争う母。父が家を出ていく。静まり返った部屋。それからの母は、まるで別人だった。
『お前なんか、生まれなければよかった』幼い私へ向けられる、冷たい言葉。お腹が空いて、戸棚を開ける。食パンの耳をかじり、水道の水で流し込む。『勝手に食べるな!』怒鳴り声が響く。首に手がかかる。苦しい。息ができない。やめて。私、何もしてない。どうして。どうして愛してくれないの。私は、お母さんが好きなのに。もっといい子になるから。もっと頑張るから。だから――。その瞬間、近くにあったコップを夢中で掴み、母へ向かって投げつけた。ガシャン、と割れる音。よろめいた隙に、私は家を飛び出した。裸足のまま。外は雪だった。足が痛い。寒い。怖い。それでも止まれなかった。死にたくなかった。必死に走って――。キキッ、とブレーキの音が響く。強い衝撃。身体が宙に浮き、頭を地面へ打ちつけた。そこで意識は途切れた。目を覚ましたとき、私は保護されていた。そのまま児童養護施設へ預けられた。事故の後遺症だったのか、それ以前の記憶は少しずつ薄れ、曖昧になっていった。施設の職員さんたちは優しかった。温かいご飯も、眠る場所も、笑顔もくれた。
……でも。そこは、家族ではなかった。

