祈りを紡ぐ明日から

「どうかしましたか?」
七十代くらいの女性が声をかけてきた。白髪に眼鏡をかけたどこか安心感を与えるような柔らかな雰囲気の人だった。
「あ、あの……」
言葉がうまく出てこない。戸惑う私の顔を見た女性は、ふと目を丸くした。
「もしかして日和ちゃん……?」
「え?」
「やっぱり日和ちゃん。久しぶりね。今日はどうしたの?」
懐かしそうに笑うその表情に、胸の奥がざわめく。
「あ、あの……私、自分が何者なのかわからなくて……。知りたくて来たんです」
震える声でそう告げると、女性は驚いたように息をのみ、それから優しく微笑んだ。
「暑かったでしょう。中に入りなさい。冷たい麦茶を出しますから」
促されるまま中へ入る。木の机。壁に貼られた子どもたちの絵。どこからか聞こえる小さな笑い声。その光景を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。……懐かしい。どうしてだろう。私、この場所を知っている。席に座ると、目の前に冷えた麦茶が置かれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
何も口にせず、夢中でここまで来たせいだろう。喉はからからだった。ひんやりとしたコップを両手で包み、一口飲む。冷たい麦茶が乾いた喉を潤し、熱を帯びていた身体にゆっくりと染み渡っていく。気づけば、私は一気に飲み干していた。
「ふふ。よほど喉が渇いていたのね」
少し恥ずかしくなって、小さく頭を下げる。
「ここのことは、どうやって知ったの?」
優しい声に、私は口を開く。
「父の書斎で見ました」
短く答えると、女性は静かに頷いた。
「そう……」
少しだけ表情が曇る。
「私は……何歳のときにここへ来たんでしょうか。それと、実の母は……生きているんですか?」
そう尋ねると、女性はゆっくりと視線を落とした。
「この先を知るのは、とても辛いことかもしれません。それでも……知りたい?」
静かな問いだった。少しだけ考えてから、私は真っ直ぐ女性を見つめ返す。
「幼い頃の記憶が曖昧なんです。でも、自分のことだから……知りたいです」
女性はゆっくり立ち上がった。
「わかったわ。少し待っていてね」
奥の部屋へ向かい、しばらくして一冊の資料を抱えて戻ってくる。静かにページを開き、穏やかな声で話し始めた。
「あなたは三歳のとき、実のお母さんから虐待を受けている疑いがあって、ここへ来たの」
「虐待……」
その言葉を口の中で繰り返す。不思議と驚きはなかった。むしろ、心のどこかでずっと知っていたような気がした。あの何度も見ていた悪夢。誰かに追い詰められ、怖くて息ができなくなる夢。あれは夕燈じゃない。実の母との記憶だったのかもしれない。
「お母さんは精神的にとても追い詰められていてね。あなたを育てることが難しいと判断されたの」
私は黙って俯いた。胸の奥が重く沈んでいく。実の親なら、無条件に愛してくれると思っていた。血が繋がっているなら、どんなことがあっても守ってくれるものだと信じていた。
「あなたが悪かったわけじゃないのよ」
女性は優しく、それでもはっきりと言った。
「世の中には、血が繋がっていても子どもを愛せない親がいる。でもね、反対に、血が繋がっていなくても、自分の子どもとして大切に愛してくれる人もいるの」
私は小さく息をのむ。旅行にも連れて行ってくれた。服も買ってくれた。誕生日も祝ってくれた。名前も呼んでくれた。……でも。それは、本当に私だったのだろうか。全部、本物の”ひより”へ向けられていた愛情だったんじゃないか。私は、その空いた場所を埋めるための存在。代わりとして迎えられた、偽物だった。胸の奥がぎゅっと締めつけられ、息が苦しくなる。これ以上ここにいたら、涙が零れてしまいそうだった。
「ありがとうございました。帰ります」
精一杯それだけを言って立ち上がる。女性は少しだけ心配そうな表情を浮かべたが、静かに微笑んだ。
「そう。気をつけて帰ってね」
私は深く頭を下げ、その場所をあとにした。