放課後、誰も教室にいないのを確認して、教室に足を踏み入れる。他教室に入ると、いつも少し緊張してしまうのはなぜだろう。明かりはつけないまま、窓際の席へと近づく。
ゆっくりと椅子を引く。かたん、という音がわずかに立って、ドキリと心臓が跳ねた。
こんなこと、だめだってわかっている。誰かに見られたら、きっとすぐに噂になり、私の居場所はなくなるだろう。
だけど、だけど。
──彼の席から見える世界を、私も見てみたかった。
もう何度、こんな行為を繰り返したか分からない。けれど、やめられない。身体が勝手に動いてしまう。こうしている間だけは、彼のそばにいられるような気がした。
私が彼と付き合う未来は絶対に来ない。だから、これだけは許してほしい。
なんにも迷惑はかけていない。この放課後のひそやかな行いだけは。
いつも、この時間はみんな部活動にいっていて、この棟にはこない。だからしばらくこうしていれば、満たされる。
そうして、すぐに帰宅する。もちろん、悪さはしない。彼に害を与えて嫌われるのは避けたいからだ。
それなのに、今日だけは違った。
「……あの」
突然声がして、息が止まった。反射的に振り返ると、そこにはひとりの女の子が立っていた。
見られて、いる。私が彼の席に座っているところを、見られている。
理解が追いつくより先に、がたっと椅子が音を立てる。鈍い痛みが膝に走った。
「これはっ」
言い訳をしようと口を動かしてみたけれど、言葉が続かない。説明しようとすればするほど、気持ち悪さが露呈してしまいそうだ。
口を引き結んで、彼女を見つめる。そこで、気づいた。彼女を、私は知っている。
空き教室でいつもひとりでお弁当を食べている人だ。名前はわからない。
でもひとりでご飯を食べているのだから、もしかするとそんなに友達がいないのかもしれない。見られてしまったけれど、言いふらされることはないかもしれない。きちんと彼女に口止めさえすれば。
そう理解してしまうと、焦っていた気持ちが落ち着いていく。冷えた汗がこめかみを伝う。
「このこと、黒部くんには内緒にしておいてくれないかな」
彼女が瞬きをする。あまりにもキョトンとした顔をするから、こちらの意図が伝わっているのか不安になる。そもそも、わたしがどうして黒部くんの席に座っていたか、理解できていないのかもしれない。だとすれば、必要以上の弁解はすべきじゃない。
「あの……」
彼女がか細い声をあげた。相変わらず不思議そうな表情をしている。
「なに?」
首をかしげると、彼女は、私が座っていた場所を指さした。
「そこ……もう、黒部くんの席じゃないですよ」
「……え?」
「今日席替えしたので……」
椅子の名前を確認すると、そこはたしかに、黒部くんの席ではなかった。ぞわりと鳥肌が立つ。
私は何も知らずに、ただ彼の席に座っていると思い込んで……。
私のようすをうかがうように見ている彼女と目が合う。どういうつもりで席替えを教えて、私のことをどう思っているのか。まったくわからない。
「空き教室で……食べてる子、でしょ」
彼女の目が見開かれた。こくりとうなずいたのを見て、ふたたび問いかける。
「このクラスなの?」
「……うん」
「そうなんだ」
だから、席替えのことも知っていたのか。
「はれり、さん……だよね」
突然名前を呼ばれて驚いた。わたしは彼女の名前を知らないのに、彼女はわたしの名前を知っている。
「空き教室で、友達が呼んでるの、きいたことあるから」
まさかそれがきっかけだったなんて。というか、そこまで認識があるなら、私がいつもごみ箱にお弁当を捨てていることも、見ている可能性は十分にある。
なんだか弱みを握られているような気持ちになる。私だけ、彼女のことをなにも知らない。
それだと不公平だ。
「名前は?」
「垣根、椿季です」
「どうして、ここにきたの」
「あっ……スマホを、忘れちゃって」
思い出したように彼女が歩き出して、引き出しの中を漁る。スマホをポケットに入れ、また私のほうを見た。
「部活、なにかしてるの?」
彼女は首を横に振る。
「図書委員会のことで、居残りしてて」
「図書委員会?」
つい反応してしまう。放課後にはほとんど野球部の活動があるから、図書室に行ったことはなかったけれど。
黒部くんが図書委員になったという噂は、ばっちりと耳にしていたからだ。
「黒部くんと、同じ委員会なの?」
たずねると、しばしの沈黙のあとで、彼女がうなずく。その瞬間、お腹のあたりがぐっと熱くなった。
うらやましい。同じクラスなだけでなく、委員会まで一緒だなんて。
歯を食いしばる。
「この前、野球部の人と、ベンチで座ってるの、見た」
何を言われたのかわからなかった。数秒経って、"野球部の人"が若上先輩のことだと理解する。あの日、話していたのを見られていたなんて。
「だからわたし、ふたりが付き合ってるんだと思ってました」
「なっ……ちが!!」
「わかりました。それが間違ってたってこと」
自分の想いの行き先を知られてしまった羞恥に包まれる。
「お、おなじ委員会だからって、そんなに近づきすぎちゃだめだからね。黒部くんは誰にでも優しいから、勘違いしやすいし。それに……」
頭の中に、綺麗な髪をなびかせて、すらりと立つ人物の姿が浮かぶ。心臓が痛い。
「黒部くんにはちゃんと、特別な人がいるから」
「え?」
「この前、篠木こすもと一緒に帰っていくところみた。黒部くん、誰かと一緒に帰るなんてしたことないのに」
くやしい。憎らしい。うらやましい。
泣きそうになるのをぐっと堪える。目頭が熱い。
「だから、同じ委員会だからって、勘違いはしないほうがいいよ」
自分の声が脳内にこだまする。握った拳に力が入る。
彼女──椿季は、目を何度か瞬かせて、「そっか」とつぶやく。そうして、教室を出て行った。
ひとり取り残された教室は、ひどく静かで、気味が悪いほどだった。



