光にかわる明日から




 あれは、桜が散ってまもない、春のことだった。


「篠木!」


 突然後ろから声をかけられて、振り向く。そこには幼馴染み──黒部雫途の姿があった。彼は手を振って近づいてくる。


「久々じゃん」
「……あんまり近く寄らないで」
「なんで」
「いろいろ誤解されたら困るから」


 横に並んでいた彼の足がとまる。わたしは気にせず歩き続けた。


「幼馴染みじゃんーー」


 一定の距離を保ったまま、後ろから声がとばされる。律儀なのか、なんなのか。少しだけ笑みがもれた。


「それ、みんな知らないから。普通に誤解されるだけなの、嫌」
「昔からずっと幼馴染みでやってきたのに」
「もう高校二年生でしょ。小学生の時みたいに仲良くとか、無理だよ。外身を考えて」


 心は仲良しな幼馴染みのままでも、成長した身体とまとっている制服は、性別の差異をこれでもかと突き付けてくる。


「ふーん。男と女って、不便だよなぁ」
「……不便」


 不便、という言葉が脳裏に響く。
 わたしが女で、黒部が男だから。周囲からの見られ方が変わるにつれて、境界線を引いていく。それはまさしく、不便なことだ。
 そこに恋愛的な感情がなくても。わたしと黒部は恋人でもなんでもないのに、恋人に見えないように境界線を引く。いつからか、わたしが引くようになった。それを黒部は不便と言った。変なの、と思った。


「篠木」
「なに」
「え、あれ」
「だから、なに」


 黒部が何を言おうとしているのかわからず振り返ると、黒部は前方を指さしていた。その指の先をたどる。

 そこには、道路脇にぐったりと体を倒している高齢の女性がいた。声を出すより先に、黒部が走り出す。


「どうしましたか!」


 駆け寄る黒部の背中を追う。女性は意識はあるが、声がうまく出せないようだった。こういう場面に出会したことがないから、どうしていいかわからない。目の前の女性は苦しそうに喘ぐだけで、立ち上がることは不可能だとすぐにわかった。


「篠木」


 黒部が振り返る。まっすぐに目があった。


「近くで水、買ってきて」
「……っ!」


 指示をされた体が、はじかれたように動き出す。スカートが揺れる。女の子の象徴。それすら世間が決めたフツウ。

 そんなことは今、関係ない。走れ。

 自販機で水とアクエリを買って戻ると、黒部は木陰に移動していた。


「サンキュ」


 アクエリを受け取った黒部がキャップを開けて女性の口元にボトルを添えた。


「おばあさん、飲み物、飲ませるからね」


 黒部の声が響く。けれど、青白い液体はポタポタと女性の顎を滑るだけで、まったく口の中に入らない。その間も、女性の呼吸は荒くなっていく。
 女性の肩が大きく上下する。

 どうしよう。どうしたらいい。
 指先が冷たくなっていく。心臓がはやくなる。


「……ちゃ」


 女性がなにかをつぶやいた。黒部が女性の口元に耳を近づける。

 そうして、黒部がふたたび振り返る。その表情は、真剣だった。


「篠木。119番、できる?」


 119番なんて、人生で一度もしたことない。状況をうまく伝えられるかもわからない。けれど、黒部の目を見たら、やるしかない、と思った。

 うなずいて、1、1、9とタップし、スマホを耳にあてる。わたしが救急車を呼んでいる間も、黒部はおばあさんに声をかけ続けていた。




────────




「……無事、だよね」
「わかんないけど、救急隊の人と、医者の人たちを信じるしかないね」
「そっか」


 リュックを背負ったまま走る。いつも余裕を持って家を出るようにしていたおかげで、ホームルームには間に合いそうだけれど、ギリギリだ。


「……あのおばあさん、なまえ、呟いてた気がするんだよね」
「え?」
「はーちゃん、って。聞き間違いかもしれないけど」


 彼が耳を近づけたときだろうか。わたしには聞こえなかった部分だ。


「名前、かな?」
「脱水症状っぽく見えたし、この時期にってことは、相当外にいたのかなって。意識朦朧としてても名前が出てくるって相当じゃない? わかんないけど」


 相変わらず、よく想像できるなと感心した。ひとつの出来事で背景まで推測する。鋭すぎるくらいに。黒部は昔からそういう人間だった。


「俺たちが想像したところで、結局答えは出ないしな。今は学校着けるかだけに集中しよ」
「うん、そうだね」


 ひとまずさきほどの一連は頭の隅に追いやって、ゆるやかな坂を駆け上がる。中学とは違って任意参加の部活には入らなかったから、走るのは久しぶりで少しくるしい。


「バテてやんの」
「……うるさい」


 スピードを上げる。散った桜が道路のわきに重なっている。


「先、行けば」


 学校の近くまで来ると、黒部は足を止めてわたしに先へ行くよう促した。


「え」
「誤解、されたくないんだろ」
「でも黒部、遅刻するよ」
「そうならないように、俺的にはできるだけはやく行ってほしいな。せっかく走ったんだし」


 ほらほら、と追いやるジェスチャーをする黒部。わかった、と返事をして、わたしは先に校門をくぐった。







 その日、黒部は何事もなかったかのように学校生活を送っていた。廊下ですれ違っても、目が合う程度で声はかけられない。
 それが彼なりの配慮なのだろうとわかっている。目立ちたくないし、距離を取れと言ったのはわたしだ。

 それでも。
 同じ幼馴染みである若上と黒部は堂々と仲良くできるのに、どうやらわたしにはそれが許されないらしい。


 ──性別が、違うから。



 お腹のあたりにスカートの金具の冷たさを感じる。はらって立ち上がると、身体がひどく重たかった。