光にかわる明日から



 野球部には、エースがいる。若上絢樹(わかうえあやき)という3年生。
 夏が終わり、引退してしまった先輩だ。

 いつもチームのことを考えて動き、私たち野球部マネージャーにも丁寧に接してくれた。よく笑って、周囲の空気を明るくしてしまう先輩。


 いつものように部活を終えて帰っていると、帰り道にあるベンチに座って、アイスを食べている人を見かけた。帰るためには必然的にそのベンチを通らないといけない。あまり顔を見られたくないな、と考えながら歩く。ベンチに座っている人の顔が近づくにつれ、徐々に鮮明になる。それは。


「若上先輩……?」


 間違いなく、彼だった。
 声をかけると、先輩は驚いたように立ち上がる。「吉田」と苗字が呼ばれる。


「あ、驚かせてしまってすみません。こんなところで会うの、めずらしくて」
「アイス、あるの見つけて、つい」


 照れたようにはにかむ先輩。おつかれさまです、と礼をして帰ろうとすると、「吉田」と再び呼ばれた。


「は、はい」
「アイス、食っていかない? もちろん、俺の奢り」


 思わず息を呑む。そんなことをいわれたのはうまれてはじめてだった。
 いいのだろうか。奢ってもらったことなどないので、どうしていいかわからなくなる。


「それで、吉田の時間が大丈夫なら……少し、話に付き合ってほしいんだけど」


 どうして私なのか、という疑問が浮かぶ。動けないでいると、「時間は、大丈夫?」ともう一度確認されたのでこくりとうなずいた。それを見た若上先輩が立ち上がり、アイス販売機の前に立つ。手招きをされた。
 そろり近づくと「何味がいい?」とにっこりされる。グラウンドで見ていたものと同じだ。


「ストロベリーで、お願いします」
「おっけい」


 ピ、と機械が音を立てる。出てきたアイスを若上先輩が差し出した。


「ありがとうございます、すみません」
「全然。むしろ、呼びとめてごめんな。びっくりさせて」
「いえ……」


 ベンチに腰掛けた若上先輩。少し離れたところを、トン、と叩かれる。座っていいということなのだろうか。

 控えめに腰かけてみる。アイスのパッケージを剥いで「いただきます」とつぶやいた。
 唇にアイスが触れる。冷たくて、気持ちいい。

 かじると、いちごの甘さが広がった。自然と顔がほころぶ。
 けれど隣に若上先輩がいることを思い出し、途端に顔が引き締まった。

 先輩は黙って前を見つめている。


「アイス食べながらでいいから、情けない独り言だと思ってきいてほしいんだけど」


 ぽつりぽつり、先輩は話し始める。


「部活引退して、なにしていいかわかんなくなったっていうか。今まで野球ばっかやってきたから、それがいきなりなくなって、どうしたらいいかわかんないっていうかさ。その熱量を、どこに向けたらいいかわかんなくて」


 複雑に組まれた先輩の指先が、何度も動いて、組み直される。そしてその手は、若上先輩の頭へと移動した。
 大きく息を吐きだす先輩。


「たまにさ、思ってしまうんだ。野球してる後輩みると、羨ましいって、猛烈に。後輩たちも俺も、高校で野球できる年数は同じ。時期がずれてるだけで、同じなのにさ」
「……」
「廊下ですれ違うときも、みんないいやつだから挨拶してくれるし、近況報告だってしてくれる。けど、羨ましく感じてる自分が、汚くて、情けないよ」


 こんなにも小さくなっている若上先輩を初めて見た。チームを引っ張って、常に自信と実力で私たちを率いてくれた若上先輩が、こんなにも弱気になっている。そして、この弱さを私に見せてくれる意味もわからない。
 たしかに、若上先輩は誰にでも分け隔てなく接していた。けれど、弱みさえも誰にだって見せることができるのだろうか。


 私だったら嫌だ。
 自分の汚い部分なんて、誰にも見せられない。むしろ、距離が近くなればなるほど、見せられなくなる。家族や、親友、恋人。強い自分でいたくて、どうしても強がってしまう。


「……だから、ですか」
「え?」
「距離が遠いから。私と先輩、そんなに親密じゃないから、話しやすかったんですか?」


 これしか考えられない。私なんて、マネージャーのひとりで、きっと引退した先輩とは今後関わることなどないだろう。先輩が卒業したら、もっとだ。だからどんなに自分の気持ちを吐露したところで、先輩にとっては恥じらいも何もないのかもしれない。



「吉田」
「よく、相談事とかされるんですよね。なんでだろ、関係ない私には話しやすいんですかね。みんな」



 先輩の声をかき消す。
 交友関係も偏りがあるから、噂が広まる心配もないし、そもそも性格的に受容することが多い。だから私にはなんでも言いやすいのかもしれない。

 座ったまま、ズボンをぎゅっと握る。


 私はそんな、都合のいい存在。


「吉田」


 強く、呼ばれた。叱るような声だった。驚いて顔を上げると、眉間にしわを寄せた先輩の鋭い目が私を見ていた。


「そういうふうに自分を考えるのはやめよう」
「え」
「少なくとも俺は、そういうふうに思ってはない、よ。うまく説明できないけど、吉田に言おうと思えたのは、吉田の雰囲気というかさ。わかるだろ、話しやすい雰囲気とか、優しい表情とか」


 わかるようで、よくわからない。
 先輩は、とにかく、と咳払いをした。


「吉田には話せる気がした。吉田なら、馬鹿にしたりせず、ちゃんと聞いてくれるような気がしたんだよ」


 飛行機の音が通り抜けた。
 アイスクリームの冷たさが喉を通る。


「だから、そんなにマイナスに考えないほうがいい、と思う。って、誰目線って感じだけど」
「……っ」


 ベンチに座ったまま足を伸ばす先輩。ぷらぷらと揺らす。
 アイスクリームのコーンの先端を口に放り込む。立ち上がり、パッケージをゴミ箱に捨てる。

 ふたたび戻ってくると、若上先輩は口を引き結んで下を向いていた。


「若上、先輩」


 先輩は壁打ちでいいって言っていたけれど。弱い部分の吐露は、きっとなにか、こたえがほしい時だ。


「誰かを羨ましいと思うことは、悪いことなんでしょうか」



 羨ましい。妬ましい。ずるい。
 その感情は、私にもある。

 これは、押し殺すべき悪いものなのだろうか。


「好き……だったら。そういう感情が出るのは、仕方ない、っていうか。だってそう思えるほど、好きなんですよね、野球が」


 先輩がハッとしたように顔を上げる。


「好き……なら、その感情は、自然、です」


 暗がりに私の声が響く。あたりがあまりに静寂だから、近くの家に聞こえているのではないかと心配になってしまうほどに。


「そうか。俺、好きだったのか、野球」


 確認するように呟く先輩に、うなずく。先輩は私を見て少しはにかんだ。


「ありがとう、吉田。この気持ちになる自分を、許せるような気がする」


 真面目だから、自分の中の黒い感情が人に向くのが許せない。先輩らしい。

 私とは、違う。


「結構暗くなっちゃったな。申し訳ない」
「全然。塾とかで慣れてるので」


 首を横に振ると、先輩は安堵したように息を吐く。けれど私には違う心配事が浮かび上がった。


「こんなふうにしていて、誰かに見られたりしても大丈夫なんでしょうか……たとえばその、彼女さんとか」


 そろそろ帰らないと。暗がりで長い時間話していると、どんなことを言われるかわからない。もし、誰かに見られていたら。
 それにもし、あの人に見られたら。誤解をされたら、私はきっと耐えられない。誤解もなにも、私なんて覚えられてすらいないと思うのに、要らぬ心配をしてしまう自分が嫌になる。

 彼は静かに息を吐いたあと、「いないよ」と告げた。


「え」
「恋人でしょ? そんな相手、いないよ」


 うそだ。若上先輩みたいな人、女子が放っておくはずがない。浮かそうとした腰が下がる。ベンチのかたさが伝わる。


「そんなに驚かなくても。俺が誰かと歩いてるとこ、見たことあった?」
「ないです、けど」


 たしかに、一度もないけれど。まさか彼女がいないなんて。
 屈託のない笑顔と鍛えられた身体。明るくて前向きな性格。
 これを前にして、狙う女子が一人もいないとは思えない。


「あ、じゃあ好きなひとがいるとか、ですか」


 そう聞いてしまってから、後悔した。親密な間柄でもないのに、失礼すぎる。


「あ、いや、ごめんなさ……」
「いるよ」


 いるよ、の3文字がやけにはっきりと聞こえた。息を呑む。
 風は吹かなかった。しん、と静まり返る空間に、先輩の声だけが響く。


「もうずっと、長いんだ。これでも」


 妙に納得してしまう。


「なにか言いたそうだね」
「あ、いや、その」
「なに。なんでも聞いてよ」
「……こ、告白は、しないんですか」


 純粋な疑問だ。若上先輩なんて、告白したらすぐに付き合えそうな気がする。無責任に相手の気持ちを解釈して申し訳ないけれど、たとえばもう彼氏がいるとか、好きなひとがいるとか、そういう場合ではない限り受け入れられるのではないだろうか。



「俺、結構びびりだからさ。できないんだわ」


 眉を寄せて、困ったように若上先輩が笑う。その顔は、笑っているのにどこか悲しそうだった。


「逆に、吉田はどうなんだ?」


 その顔のまま、先輩が言う。心臓が音を立てる。
 先輩の話を聞いたのだから、次は私に話が振られるのは当然か。


「……そう、ですね」


 うまく言葉が出てこない。あの人の顔が浮かぶ。
 もし私が、自分の気持ちを伝えたら。あの人はどんな顔をするだろうか。
 私の気持ちは、許されるものなのだろうか。


「ごめん。嫌な気持ちにさせる質問だったかな」
「いえ、そういうわけではないんですけど……」


 しばらく、黙り込んだままでいる。先輩は、急かすことなく、静かに私の言葉の続きを待ってくれていた。
 ぎゅっと拳を握る。唇をかんだ。


「好きだって言ったら……相手を困らせてしまいそうです。私がこういうふうに想うのは、許されていない、気がしてしまうので」
「どういう意味?」
「私なんかが、好きになっていいとは、思えない」


 もし、好きだということがばれてしまって、嫌われたとしたら。そう思うと、好きだということを認めることすら、悪いことのように思えてしまう。

 たぶん、先輩にはわからない。先輩は、好きでいる、ということが許されるし、伝えることも許される。だから私みたいに、伝えることが許されない人の気持ちなんて、わかるわけない。

 "気持ちがわからない"ということは、"恵まれている"ということと同義だ。


 先輩は視線をさまよわせた。困惑か、哀れみか。それとも、懐疑か。
 その視線は、やがて彼の足元へと落ちた。


「好きになるのが許されない恋なんて、ない。迷惑がられる想いなんて、存在しない」


 ほら。想像通りの言葉が返ってきて、つい苦笑してしまう。
 恵まれている人間には、わからない。相手の言葉を否定するしかないのだ。だって、共感しようとしても、"わからない"のだから。


「って、言いたいけど……今の俺には言えないよ」


 驚いて顔をあげる。彼の表情は、私が想像していたどれとも違った。目を伏せて、口を引き結んでいる。なにかをこらえるような表情だった。


「俺は吉田の気持ち、わかるよ」


 わかるわけない。私のこんな惨めな気持ち、わかるわけないんだ。わかられてたまるか。
 そう思うのに、彼の悲痛に歪む顔が、私の思考を停止させる。



「好きなやつに好きって言えるのは……すごく、恵まれたやつだけだ」



 夜空に浮かんだ月だけが、先輩の横顔を照らし続けていた。