光にかわる明日から



 球技大会からしばらく経って、図書当番にもだいぶ慣れてきた。雫途くんは相変わらず起きていたり、寝ていたりする。この前は起きて雑誌を読んでいたけれど、今日は気持ちよさそうに寝ている。
 図書室の中は涼しくて快適だし、静かな空間だから眠たくなるのも分からなくはないけれど。

 窓の外を眺めると、燦々と太陽が降り注いでいた。見ているだけでも暑そうだ。

 季節はいつのまにか夏に変わろうとしている。もう少し春が長くたっていいのに。夏は暑いし、汗をかいて髪もぐちゃぐちゃになるし、憂鬱だ。冬は着込めるからいいけど、夏は自己調節にも限度がある。エアコンのある時代にうまれてよかった、と心底思う。
 

 ミーンミンミン、と蝉の声が聞こえた。


 あと1ヶ月も経たないうちに夏休みが来る。もう2年生の1学期が終わるなんて、信じられない。


 時計を見ると、午後6時をさしている。下校時刻になった。


「雫途くん」


 呼びかけると、彼は起き上がった。


「おはよ」
「今日が1学期最後の当番だったのに、結局寝るんだね」
「怒ってる?」
「怒っては、ないけど」


 もう慣れているし、仕事内容も大変じゃないから別にいいのだけど。
 今日は夏休み前最終日ということで、貸出冊数がいつもよりも多かった。いつもこの図書室で本を読むだけの篠木こすもも、今日は本を3冊借りていった。貸出カードを書いている間も、雫途くんは寝ていた。篠木こすもの冷ややかな視線をものともしない姿勢は尊敬に値する。


「あれ、篠木借りてったの?」


 貸出カードの箱から何枚か取り出し、目を丸くする雫途くん。


「うん。さっき、借りていったよ」
「えー起こしてよ」
「起きる気なさそうなくらい寝てたし」
「篠木と話すためなら起きるって」


 ──話すためなら起きる。
 妙に引っかかりを覚えて心臓がざわめくけれど、詳しく聞いてはいけない気がする。彼らの関係について、わたしは微塵も知らない。


「はは、篠木って独特な字書くんだよな。ほら、この"す"って字、丸い部分が超でかいの。"ま"の丸い部分もほら。ボールくっついてるみたいな字なんだよ、昔から」
「そう……なんだ」
「あ、これ言うと篠木、怒るから。内緒な」



 字体をからかったことがあるみたいな口調だ。それに、昔から。
 彼と彼女の関係がうまく掴めない。深入りはしないほうがいい。平和でいい。何も知らなくていい。
 そんなこと、わかっているはずなのに。


 聞いてみたい。もやもやする感情を晴らしてしまいたい。


「椿季さん、眉。眉、寄ってる」
「え」


 彼に指摘されて眉に手を当てる。目を閉じてゆっくりと息を吐く。
 落ち着いて。聞くべきじゃない。人に深入りしてはいけない。そう、自分で決めたことだ。あの日から。


 ゆるりと目を開けると、雫途くんの顔が映る。
 彼はいつもどおりにこにこ笑っている。けれどふいに、思いついたように首を傾げた。


「そういえば、椿季さんって誕生日いつ?」
「8月20日……だけど」


 あまり聞かれることがないから、動揺してしまう。逆に、家族以外の誕生日も知らない。

 わたしの誕生日を聞いた雫途くんは、目を丸くした。


「夏休み中じゃん」


 すごく深刻な顔をしていうから、なんだかおかしくなって笑みがこぼれた。たしかに、わたしの誕生日は毎年夏休みと被ってしまうから、誕生日に友達と学校で会う、みたいな体験はしたことがない。
 まぁ、毎年誕生日は家で家族に祝ってもらうくらいで、誰かと会ったり、祝ってもらうわけではない。仮に誕生日の日が学校だったとしても、さして変わらないだろう。むしろ夏休み中だから安心している部分もある。




「てか、夏休み会えないの、ちょっと悲しくない?」
「……顔、忘れちゃうかも」


 ちいさな冗談を言ったつもりだったけど、冷静に考えたらひどすぎたかもしれない。沈黙が降りる。やばい、と思って彼のほうを向くと、彼はスマホを持ったままにんまりしていた。


「そうそう。俺としても、椿季さんに顔を忘れられたら困る。そこで、提案なんだけど」


 雫途くんが、手にしていたスマホの画面をこちらに向けてくる。


「連絡先、交換しない?」


 びっくりして、息を呑む。


──れんらくさき、こうかんしない?


 頭の中でリピートする。まさかそんなことを言われるなんて思っていなかった。
 ゆっくりとうなずくと、彼ははにかんだ。彼のスマホに表示されたQRコードを、おずおずと読み込む。
 すると彼のプロフィールと名前が液晶画面にあらわれた。


「……クラスラインから追加すればよかったのに」


 わざわざ、聞かなくても。クラスラインに入っているのだから、やろうと思えばいつだって追加できたはずだ。きっとクラスのみんなも、そうやってつながっているはずだ。そのほうが楽だし、手っ取り早いから。


「椿季さん、そういうの嫌でしょ」


 語りかけるような声音だった。スマホの画面から、彼へと視線を上げる。彼の瞳の中に、わたしがいた。
 彼の形の良い唇が動き、言葉を紡いでいく。


「椿季さんが嫌がることは俺したくないよ。そうやって無理やり繋ぐとか、したくなかったから。だからこうやってきいたんだ」


 ドキリとする。クラスラインから追加すればよかったなんて、本当は微塵も思っていない。そんなことをされたら、わたしはきっと即座にブロックしていただろう。
 連絡先を交換しようと言われたことで動揺して、ついくだらない嘘が出てしまった。それなのに、彼は。


 俯いていると、ピロンとスマホが音を立てた。通知からトーク画面に飛ぶ。雫途くんから、スタンプが送られてきていた。サングラスをかけたカエルがピースをしている。


「ふふ、なにこのスタンプ」
「いいでしょー。俺のお気に入り」


 お返しにうさぎが大泣きしているスタンプを送ると、「なんで泣いてるの!」と彼は笑った。


「かわいいでしょ、これ」
「たしかにね。びゃっ、って感じで泣いてる。椿季さんみたい」
「全然似てないよ」


 初めて言われた、と伝えると、「そりゃ椿季さんが悲鳴あげるの俺の前だけだし」と返される。

 たしかに、彼以外に叫んだり驚いたりすることはない。


「あ、俺そろそろ行かないと。最後電気切るの、お願いしてもいい?」
「うん。わかった」


 鞄を背負い直した彼が、わたしを見る。


「連絡先ありがとう。また連絡するから」


 スマホを振って、彼が図書室を出ていく。ぎゅっ、とスマホを握る手に力がこもった。


 電気を消して、息を吐き出す。


 その日、わたしのトーク欄に、新しい名前が加わった。









 ラインが動き出したのは、8月に入って10日ほど経った日の夜だった。
 連絡するね、といっていたくせに、夏休み開始からずいぶん経っても音沙汰ないので、あの言葉は社交辞令だったのかとひそかに落胆していた矢先のこと。

 勉強を中断し、ベッドの上に放り投げたスマホを手に取る。おやすみモードを解除すると、その間に送られてきたメッセージ通知がいっせいに届いた。


【久しぶり。元気?】


 その中に、そんな通知が残っていることに気が付く。じっと画面を凝視する。それは間違いなく、彼からのメッセージだった。送られてきたのは、27分前。



【うん、元気だよ|】


【うん、元|】


【|メッセージを入力してください】



 少しフレンドリーすぎるのでは。もっと硬い文章にすべきか。
 もう一度スマホを覗き込む。


【はい。元気です】


 これも削除する。小学生時代の健康観察みたいだ。
 彼と最後に会ったのは夏休み前のあの日だ。あれからずいぶん時間が経ってしまって、彼との距離感がつかめなくなってしまった。

 それに、顔が見えないのは、なんだか少しだけこわい。わたしの文章ひとつひとつで、彼の表情がどう変わるのか、読み取れないからだ。

 返信に迷っていると、彼が一番最初に送ったサングラスかえるのスタンプが目に入る。そうだ、こういうときのためにスタンプがあるんだった。

 逡巡したのち、うさぎが手をあげているスタンプを送る。この前の大泣きうさぎと同じものだ。
 しばらくじっとトーク画面を見つめていると、既読がつく。驚いて、トーク一覧画面に戻った。


【なんでスタンプなの】
【もしかしてそのスタンプお気に入りなの?笑】
【俺、椿季さんの言葉で聞きたいんだけど】


 返答に迷ってしまったことは伝わっていないみたいだ。安堵する。
 うさぎスタンプがお気に入りなのかという変な勘違いをされてしまったけど、まあ、いいか。


【とっても元気だよ】


 打ってから、削除する。これは送信すべきでないと判断した。
 とっても、というと元気が有り余っているみたいだ。平和に過ごしてはいるけれど、冷房のきいた部屋で毎日のんびりしているだけなので、外出したりアクティブに活動しているわけではない。誤解を生む可能性がある。


【まあまあです】


 誤字脱字を確認してから送る。すぐに既読が付いて、爆笑するサングラスかえるのスタンプが送られてきた。


【ちゃんと外には出てる?】


 どこかから監視しているのだろうか。わたしの習性を熟知されている。


【まあまあです】


 同じ言葉を打つ。母の買い物に付き合うときもあるし、散歩に行くこともある。外に出ていないと言ったらうそになってしまう。どきどきしながら雫途くんの返答を待っていると、


【それ、噓でしょ】


 核心をつかれた。まるでわたしの表情が見えているみたいだ。わたしには彼が今どんな顔をしているのか、まったく見えないというのに。知らず知らずのうちに画面が消えてしまっていたようだ。バイブとともにメッセージがきた。
 暗証番号を入力してロックを解除する。


【椿季さん、夏休み中ずっと家にいそう笑】


 見破られている。部屋をきょろきょろと見まわしてみた。何も仕掛けられていないことはわかっているのに、こうでもしないとおさまらない。
 そうしていると、新たな吹き出しが現れた。


【だから俺から椿季さんに、提案があります】


 提案?
 なにを言われるのかわからなくて、息を呑む。だけど不思議なことに、恐怖は感じなかった。
 人からなにかお願いされたり、申し出をされることは苦手だ。自分にやりきる自信がなくても、断ることが難しいから。
 だけど、彼の「提案」には、そんな強制を感じない。

 むしろ、胸の奥にかすかな期待がうまれる。



 けれどいくら待っていても、彼から次のメッセージが送られてくることはなかった。


「椿季ちゃん。買い物付き合ってちょうだい」


 ドアの外から母の声が聞こえる。夕方の買い物の時間だ。


「はーい、いま行くね」


 彼の提案とはなんなのか。とても気になるけれど、急かすわけにもいかない。メッセージが送られてこない限りは、知ることができないのだから。わたしにはどうしようもない。

 スマホをポケットに押し込み、自室をあとにした。





★



「今日はなにが食べたい? はーちゃん」
「冷やし中華とかいいと思う。ママ、作るの大変じゃない?」


 牛乳コーナーで女性二人の会話が聞こえた。どうやら親子らしい。こちらに背を向けているので顔は見えない。


「全然大変じゃないよ。冷やし中華、いいねえ。パパも喜びそうだし、おばあちゃんも好きよね。ナイス、はーちゃん」
「じゃあ、私、化粧品のコーナーに行ってきてもいい?」
「いいわよ。買い物がひととおり終わったら連絡するわね」


 ふんわりとしたスカートを履いている女性が、牛乳コーナーを離れていく。その横顔が一瞬見えた。
 息を呑む。その顔を、知っているような気がしたからだ。


 隣にいた母に文房具を見てくると告げ、その場を離れる。
 化粧品コーナーの棚の影から顔をのぞかせると、彼女の横顔が見える。化粧品の前で、じっくりと商品を見ている。
 ふいに彼女がこちらを向いた。とっさに隠れる。こちらの姿は見えていないみたいだ。

 けれど今のではっきりとわかった。

 彼女は、空き教室でいつもお弁当を捨てている、晴里という女の子だ。
 はーちゃん、と呼ばれていたのも納得できる。

 化粧水、日焼け止め、汗拭きシート、ニキビケア、パック、ヘアオイル。
 次々と彼女の見るコーナーは変わっていく。

 くるくると場所が移動するから、気を抜くと見つかってしまいそうだ。
 そのとき、いきなりスマホが鳴った。即座にポケットから取り出して応答する。

 耳を母の声が通り抜ける。それと同時に、母からの着信だったのだと理解した。


「うん、わかった。いま合流するね」


 彼女──晴里は、幸いなことにわたしに気づいていない。
 通話を切って、レジへと足を進める。

 レジの前にはかごを持った母がいた。文房具は買わなくていいの?と首をかしげる。


「欲しいの、なかったから。大丈夫」


 わかった、とうなずいた母はレジに並ぶ。そのかごのなかには、わたしの好きなグミが入っていた。


 レジを終え、車に乗り込む。荷物を膝の上に乗せた。
 母がエンジンをかけ、車が動き出す。フロントガラスのむこうにはオレンジ色に染まる空が広がっている。


「夏休みの課題は終わったの?」
「うん。いまはテスト勉強をしてるところ」
「さすが椿季ちゃんね。本当にえらいわ」


 車を運転しながら、母がにこりと笑う。
 全然すごくなんてない。毎日、何も予定がないから必然的に課題をする時間が増えるだけだ。部活にも入っていない、友達と外出することもない。削られる時間が少ないのは当然だ。

 信号が赤になる。


「褒められたら暗い顔する癖、やめなさーい」


 母の手が伸びてきて、わたしの頬を引っ張った。昔から、母はよくこうやってわたしのほっぺたを伸ばす。


「ふふふ、ずっと変わらないわね。椿季ちゃんのほっぺ、おもちみたいにやわらかい」
「もう、やめてよお母さん」


 顔を見合わせて、ぷっと吹き出す。にかっと笑う母。そういえば中学生の時、学校に行きたくないと駄々をこねたとき、車で海に連れて行ってくれたことがあった。助手席で黙っているわたしに見せた笑顔も、こんな笑顔だった。

 中学校は、苦しいの連続だった。学校に行きたくないと思ったことも何度もあった。そのたびにこうして母のやさしさに救われ、必死に、今まで繋いできた。


「……ありがとね、お母さん」
「ん? なぁに急に」


 青信号になる。車が発車した。








★


 家に帰っても、雫途くんからのメッセージはなかった。
 彼からの連絡を心待ちにしているわけではないけれど、いきなり連絡が途絶えると、いったいどんな提案なのか気になってしまう。


 買ったものを冷蔵庫に入れて、アイスは冷凍庫へ。
 することがなくなってしまったので、自分の部屋に戻って勉強でもしよう。

 自室のドアノブに手をかけたときだった。


 ピロン、とスマホが音を立てる。ドアノブから手を放して、スマホをポケットから取り出し、画面に視線を落とす。
 彼からの通知だった。

 急いで部屋に入り、ベッドに腰掛ける。
 深呼吸をして、通知をタップした。トーク画面が開く。


【もしよかったら椿季さんの誕生日、会わない?】


 どきりと心臓が跳ねる。今まででいちばん大きな提案だった。瞬きをしても、文章は変わらない。
 会う、とは。

 なんて返信していいかわからない。トーク画面を閉じる。近くにあったクッションをおでこに押し当てる。
 なにを考えているかわからない。ずいぶん時間が空いたと思ったら、こんなことを送ってくるなんて。

 どうしよう、どうしよう。


 ろくに返信をしないまま、お風呂に入る。湯船につかりながら、考える。

 彼はどういう気持ちで誘ってきたのだろうか。会うって、どこで。会ってなにをするのだろう。

 考え込んでいると、ふいに、ははは、と笑う彼の顔が思い浮かぶ。
 そうだ、彼はきっと部屋にこもりきりのわたしを気の毒に思ったのだろう。彼は善人だから。部屋にこもって夏休みの思い出がひとつもないわたしに、ささやかな思い出を与えてくれようとしたに違いない。
 だったら、そんなに重く考えすぎないでいいのかもしれない。彼の誘いに乗らなければ、わたしはきっと本当に一度も出かけることなく夏休みを終えることになっていた。
 それを阻止してくれようとしている彼は善人すぎる。


【会います】


 お風呂からあがりすぐに返信をする。既読がついたのはそれから約5分後のことだった。








 当日は忙しかった。前日に服装は決めていたとはいえ、髪型や小物を考えるのを忘れていた。
 母に悟られないように自室で素早く準備する。夏だから髪の毛は結んでいこう。シンプルな服装だから、アクセサリーをつけてみてもいいかもしれない。彼は夕方に集まろうと言っていた。そんなに長く時間をとるわけじゃないから安心して、という文言を添えて。

 待ち合わせ場所まで徒歩で向かう。



 時間にはまだ余裕がありそうだった。
 スマホのカメラで顔を確認する。リップを塗り直しておこう。

 学校とさほど変わらないとはいえ、血色がないと思われるのは嫌だったのでほんの少しだけメイクをした。

 ぱちぱちと瞬きをする。おかしなところはなさそうだ。


 待ち合わせ場所に行くと、もうすでに雫途くんの姿があった。
 わたしの姿をみつけて、「よっ」と軽く手をあげる。もう片方の手には白い袋が握られていた。


「おまたせ」


 ぴたりと足をとめる。雫途くんの視線がわたしの頭から足元へと流れる。肩に自然と力が入った。どこか変なところはなかっただろうか。


「学校となんか雰囲気違うね、びっくりした」
「そう、かな」


 風で髪がなびく。


「いいと思う」


 一拍おいて、雫途くんが言う。どんな顔をしていいのかわからなくて、うつむく。雫途くんの靴が見える。


『褒められたら暗い顔する癖、やめなさーい』


 どこからか母の声が聞こえる。わたしの悪い癖をたしなめる声。わたしはまた、暗い顔をしてしまっていた。視線が落ちてしまっていた。
 ゆっくりと顔をあげると、雫途くんとまっすぐに目が合った。一本の線でつながる。このまま、凛とした彼の目まで、視線に乗った心の声が届いてしまいそうだ。
 

 雫途くんは、ふ、と息を吐きだした。そのあとで、唇をかすかに動かす。


「……かと思ってた」
「え?」
「断られるかと思ってた」


 断るなんて考え、微塵もなかった。目を丸くすると、彼のほうが驚いたような顔をする。


「だって、椿季さん絶対こういうの、来ないでしょ」


 たしかに、今までのわたしだったら絶対に断っていた。どうして、彼から誘いを受けたとき、断る選択肢が出てこなかったのかわからない。どういう意図で会おうといってきてくれたのか、どこで、どうやって。そういうことは幾度も考えたけれど、会うか会わないか、その選択肢が最初からなかったのはなぜだろうか。


「……わかんない」


 今までの自分では考えられない選択をしている。ただ、それだけはわかる。
 あと、彼が誘ってくれた理由も、なんとなく予想はできた。やはり、これ以外にないと思う。


「でも、今日雫途くんが誘ってくれたのは、夏休み中部屋にこもるわたしがかわいそうだから、慈悲の心で誘ってくれたんでしょ」
「……は?」
「わかるよ。おかげでこうして外に出てこれたし。ありがとう」


 ぺこりとお辞儀をすると、雫途くんは天を仰いだ。


「だとしたらやばすぎでしょ。そんなわけないし」
「え」
「とにかく、椿季さんを誘ったのは、べつにかわいそうだからとか、俺の慈悲だとかなんだとか、そういうのじゃないから。そんな言い方されるなんてショックだなーー。俺、これでも結構楽しみにしてたんだからさ」


 おどけたように笑う彼の顔に光が当たる。笑っているはずなのに、どこか寂しげに見えてしまう。

 ──俺、これでも結構楽しみにしてたんだからさ。

 彼の言葉がやけに頭のなかで響く。天を仰ぐと、橙色の空をカラスが一羽飛んでいた。
 静けさの中で、くしゃりと、彼が袋を握り直した音が聞こえた。

 視線を白い袋に向ける。中からパッケージがほんの少しだけはみ出していた。


「これ。楽しいかな、と思って」


 雫途くんが袋から取り出したものは、花火セットだった。
 小さいけれど、ふたりでするには十分なほどの。


「もっと暗くなってからじゃなくていいの?」
「うーん。まぁこれくらい明るいほうが、なにかと安全だしさ」
「え?」
「んーん、こっちの話」


 雫途くんは公園の蛇口でバケツに水を入れた。
 こぼれるぎりぎりまで注いでいるのに、見事にこぼれない。


「俺、うまいっしょ」
「……ふふ、どうかなぁ」


 小学生みたい。学校でも雫途くんは笑っているけれど、今日は少し違う。無邪気というか、無防備というか。いつもの仮面みたいな笑顔とはなんだか違うような気がした。


「椿季さん、最初にやっていいよ」


 ろうそくに火をともした雫途くんが花火を一本渡してくれる。


「いいの?」
「うん」


 シュワシュワと音を立てて花火が燃える。
 ピンク色だった火がオレンジ色に変わった。


「きれい」


 思わずつぶやいてしまう。
 鮮やかでとてもきれいだけど、手元にはしっかりと熱が伝わってくる。

 雫途くんも花火をろうそくに近づけた。音がはじける。


「すげーこんな勢いあんの」


 ははは、と雫途くんが無邪気に笑う。




 夢中で花火をしていて、気づけば残りは線香花火だけになっていた。


 先端に火を灯す。


 ろうそくの近くに2人でしゃがむ。パチパチと小さな音が弾けた。

 顔を上げると、すぐそばに雫途くんの顔がある。
 今なら、言えるような気がした。


「さっきは……慈悲とか、言ってごめんね。どうして誘ってくれたのか、わかんなくて。うれしかったのに、そんな言い方しかできなくて、ごめん。わたしも……わたしもね」


 息を吸う。声が震える。
 それでも、伝えたいと思った。


「今日、たのしみにしてたんだよ」


 雫途くんは何も言わない。ただじっと、わたしを見ていた。ゆらり、彼の瞳が揺れる。

 静寂が訪れる。けれど気まずさはなかった。
 心地よい風が頬を撫でる。


 雫途くんは何かを言おうとして、少し微笑んだ。けれどその続きを押し込めるように、口を結ぶ。その口角がきゅっとあがる。


「うれしい」


 そっと紡がれた4文字が、耳に届いた。


「誕生日おめでとう、椿季さん」


 線香花火を持ちながら、雫途くんがつぶやく。至近距離で名前を呼ばれて、おどろいてしまう。


「そんなの動いたら落ちちゃうよ」
「雫途くんがそんなこと、言うから」
「えー、俺なのー?」


 ポタ、と花火が落ちる。


 続くように、雫途くんのも落ちた。








「近くまで送っていくよ」


 花火を片付けながら雫途くんがそう言った。


「全然、ひとりでも帰れるよ」
「迷惑?」
「そういうわけじゃない、けど……悪いし」


 雫途くんの家がどのあたりにあるかはわからないけれど、わたしを送ってからでは帰りが遅くなってしまう。それにまだ、心配されるほど真っ暗なわけではない。


「暗くなりだしてから呼び出しちゃったのは俺だから。送らせて」


 優しい口調だった。


「一緒に歩いてるとこ、誰かに見られちゃうかもだし」


 彼はとてもよく目立つし人気だから、わたしが目の敵にされてしまうのはごめんだ。すると彼は呆れたように笑った。


「さっきまで一緒に花火してたのに、そこ渋るって。椿季さん、やっぱおもしろいね」


 ハッとする。たしかに、さっきまで一緒に花火をしていたのだ。その瞬間を見られていたらおしまいだ。あんなに夢中で遊べたのだから、隣を歩くことなんて。


「それに暗いから顔もよく見えないって。ほら、行こ」


 いつのまにか花火を片付けた雫途くんが、バケツを持ってわたしを促す。
 わたしと彼との間にあるバケツが、ゆらゆらと揺れている。


「こっち通るとちょっと近道になるんだ」


 彼のあとをついていく。

 しばらくして、新たな公園を発見した。この近くには公園が多いみたいだ。
 残念ながら、この公園の看板には大きく【花火禁止】の文字とイラストがかかれていた。


「ここもいいかなって思ったんだけど、花火禁止だったからさ」


 雫途くんの話を聞きながら、公園に視線を向ける。公園には誰もいなかった。その代わり、公園のフェンス越しに、ベンチが見える。人影が二つ。暗くてあたりはよくわからないけれど、そのふたりの顔は街灯に照らされて浮かび上がっている。


「……え」


 男女を、知っていた。すぐに角を曲がってしまったから、見えたのは一瞬だった。けれど、そこに座っていたのは、たしかに空き教室の女子──晴里と、雫途くんの幼馴染みであり爽やかな野球部の先輩でもある──アヤキさんだった。


「……椿季さん?」


 雫途くんの目には入っていなかったようで、黙り込むわたしの顔を訝しげに見ている。


 見間違いだろうか。暗かったから、わたしが間違えた?
 そんなふうには思えなかった。あれは何度も見た晴里の横顔だったし、体格のよい先輩とも合致する。

 けれど、あのふたりはどこかで接点があるのだろうか。
 先輩と、後輩。雫途くんのように幼馴染みでもなければ、わたしのように一瞬話したことがある……にしてはやけに親密そうな感じだった。



「ちょっと、そんなに考え込まれると俺、不安なんだけど。何考えてるかはわかんないけどさ。今は俺といるよね、椿季さん」
「あ、ご、ごめん」
「あはは、なんてね」


 雫途くんが笑う。今度は、仮面みたいな笑顔だった。
 無邪気な笑顔と、仮面みたいな笑顔。どっちが本物の彼の笑顔なのか、まだ今のわたしではわからない。


 けれど今はそれよりも、公園のベンチで見たふたりの影が、まぶたの裏に浮かんで離れなかった。