光にかわる明日から



 休み時間に座席表をあらためて確認すると、そこは確かに雫途くんの席で間違いなかった。
 じゃあ昨日は、彼の席に、いったい誰が座っていたのだろう。なんのために、座る必要があったのか。偶然とは思えないほど、その席に座ってぼんやり外を見ていた姿が思い起こされる。

 けれどその真意を彼にきくことができるのは、図書委員の水曜日だけだった。それに、彼女は雫途くんとは何の関わりもないかもしれない。突然彼にこの話をすれば、不審な思いを抱かせてしまう可能性がある。

 今回は雫途くんにきくのはやめよう。わたしが介入していいとは思えない。別に彼の席に誰が座っていようと、それはわたしに関係ない。


「椿季さん」
「ひぇっ」


 そんなことを考えながら廊下を歩いていたから、ふいに後ろから名前を呼ばれ、肩が大きく跳ねた。振り向くとそこには雫途くんがいて、わたしの顔を凝視した後、笑みをこぼした。


「なにその顔、驚きすぎじゃん」
「きゅ、急に話しかけてこないで。委員会でもないし」
「図書委員の時じゃないと話しかけちゃいけない決まりなんてなくない?」
「……」


 廊下で立ち止まるなんて、クラスのどこから見られているかわからない。なにもわかっていないようにへらへらしている彼をにらんでも、少し眉をあげただけでまったく動じる様子はない。


「そんなに怖い顔しないでよ。クラスメイトじゃん」
「……ごめんなさい。わたしは図書委員以上に仲良くする気はありません」


 語尾に力がこもった。
 それまでへらへらと笑っていた雫途くんの口元が引きつる。ぐらりと瞳が揺れた。
 それを見た瞬間、頭が真っ白になる。

 自分の言葉がとがりすぎていた。彼があまりにもわたしの近い距離にこようとするから、きつい言葉が自分の口から飛び出した。
 まずい。どうしよう。


 ────完全に間違えた。わたしはまた(・・)、傷つけた?


 頭が猛烈に痛い。心臓の音がやけに近くで聞こえる。ぐわん、と頭が揺れるような感覚がして、周囲の音が消えた。手足が冷たくなる。
 足の力が抜けそうになるのをこらえるので精いっぱいだった。


『最悪』


 思い、出す。声が聞こえた。冷たくて、痛くて、二度と思い出したくない。
 わたしを見つめる目が浮かぶ。光のない瞳が、かたく引き結ばれた唇が、わたしに向いている光景がよぎる。

 なにか言わなければ。謝らなければ。あの目をされる前に。
 口、開け。ひらけ。


「ご、ごめ……」
「あっはは。そっかー、じゃあもっと俺が頑張らないとなー。こっちこそごめんね、椿季さん」


 謝罪は最後まで紡げなかった。息が詰まる。なにも言えずに彼を見つめていると、彼は「またね」と軽やかに笑って手を振った。
 姿が見えなくなってから、はじかれたように体が動き出す。足りなくなった息を一気に吸い込む。肺が満たされていく。
 頭の中に浮かんでいた映像が、砂嵐のようにかき消されていった。

 頭が痛い。手がしびれている。

 こめかみを抑えていると、「大丈夫?」と隣から声がかかった。ふわりと匂いが鼻をかすめる。それが香水の匂いだと気が付いたのは、わたしの顔をのぞくようにしている人が目に入ったからだ。
 低い声。ズボン。顔をあげると、焼けた肌と短髪が目に入る。がっしりとした体躯。
 見たことのない男子生徒だった。

 きっと彼も違うクラスだったのだろう。


「あ……だいじょうぶ、です」
「結構つらそうだったけど。保健室いかなくて平気?」


 見た目のわりにずいぶんと柔らかい喋り方をする人だな、と思った。がっしりとしているから、もっと乱暴なしゃべり方かと思ったのに。彼の声に色がついているならば、それはきっとあたたかい色だ。
 

「大丈夫です、ありがとうございます」


 お辞儀をする。下げた視線の先に、彼の上履きが映る。ラインの色が、青色だった。私たち2年生は赤色だから、同じ学年ではない。青は、たしか。


「3年生……?」


 思わず顔があがる。他学年の可能性を考えていなかった。べつにこの棟は2年生だけのものではないから、上級生がいたって何もおかしなことではない。
 彼は白い歯を見せてにかっと笑った。


「正解」


 落ち着いた雰囲気は先輩だったからなのか。妙に納得していると、彼はすらりと伸びた背を少しかがめた。
 目線が合う。今度は優しい微笑みだった。目尻にしわができている。普段からよく笑う人なのかもしれない。


「調子が悪くなったら無理せず保健室にいくのが大事。わかった?」
「わかりました。ありがとうございます」
「なんて、先輩ぶってごめんな。じゃ」


 片手を軽く上げて、去っていく。しつこさもなく、あっさりとしている。絡まれている感じがまったくしなかった。こんなにも嫌悪を抱かない人間ははじめてだ。

 焼けているということは、屋外競技の部活をしているのだろうか。どうせ先輩ならもう関わることはないだろうから訊けばよかった、なんて。
 ついそう思ってしまう人懐っこさを持つ人だった。

 ぶんぶんと首を振る。そういう甘さが、また問題につながったりするのだ。


 治まった頭痛。呼吸はいつの間にか元通りになっている。

 
 予鈴が鳴った。今日も、1日がはじまる。
 いつもどおりの1日。それなのに、朝からふたりと話すなんて。学校でこんなにも人と話すなんて、いつぶりだろうか。

 一言も話すことなく帰る日が続いていたせいか、やけにめずらしいことをしたような気持ちになる。朝の休み時間って、こんなに短かったっけ。
 ふ、と息をつく。

 教室に向かいながら窓の外をながめると、空は眩しいくらいの晴天だった。


*




 昼休憩も、わたしは基本的にひとりで過ごす。教室は男子や女子のグループが使うことが多いので、別棟の空き教室に避難しているのだ。空き教室はまったくの無人というわけではなく、学年もわからないような人たちがちらほらいる。けれど見知っている人ではないため、変に気を遣わなくていいのがありがたい。

 お弁当を広げる。今日はわたしの好きなタコさんウインナーが入っていた。
 ありがとう、というスタンプを母に送ると、すぐに既読が付く。昼休憩は約35分ほどだ。おしゃべりしているとあっという間に時間が経ってしまうのかもしれないけれど、あいにくわたしには話し相手がいないのですぐに食べ終わってしまうのだ。タコさんウインナーを口に運ぼうとしたときだった。
 戸が音を立てて、女子生徒ふたりが入ってくる。彼女たちもまた、この空き教室の使用者だ。

 ピンク色の弁当袋を持っている女子生徒が、一瞬教室内を見渡して、いつもの壁際の席に座る。目が合いそうになったのを逸らしたけれど、果たして間に合っていただろうか。
 彼女は、わたしがこの空き教室で食べ始めたときにはすでにここを使っていた。ほぼ毎日顔を合わせているため、顔は覚えた。彼女たちのクラスは知らないけれど。

 彼女はすごく印象的だ。この空き教室にいる他の人たちは、すれ違っても気づかないかもしれない。けれど彼女の顔は自然と覚えてしまった。


「今日からはちゃんと食べなよ。ねえ晴里(はれり)、まじで食べないとほんとに倒れるよ」
「うん、大丈夫。いま、追い込み期間なだけで、終わったらちゃんと食べるから」


 いつもどおりの会話が聞こえる。自分のお弁当に視線を落としていると、かたん、と椅子が動く音がした。上靴が床を叩く。
 彼女はゴミ箱の前に立ち、弁当箱をひっくり返した。中身がぱらぱらとゴミ箱に落ちていく。


「ちょ、晴里」


 友達が彼女の名前を呼ぶ。毎日こんなやりとりがあるから、名前を覚えてしまった。彼女の名前は、はれり、というらしい。
 晴里は毎日こうしてお弁当の中身を捨てている。最初見たときは驚いて声を出すこともできなかったけれど、毎日ひっくり返すようすを見て、これが彼女の日常なのだと悟った。


「あのさ、言っとくけど晴里、太ってないからね。ほんとに、普通だよ」
「でも細くないでしょ?」


 晴里の言葉に、友達が言いよどむ。その間を受けた晴里が、ためいきのような笑いを洩らした。


「晴里、ちがくて」
「いいのいいの。ここで気を遣って細いとか言われるのも嫌だし。わたしは、太ってない状態がいいんじゃなくて、誰が見ても痩せてるねって言われる体型になりたいの」
「それって、その……芸能人とか、インフルエンサーとかでしょ。なんていうか、あの人たちは別物でしょ。あれを目指してたら危険だよ、晴里」
「私は背も高いわけじゃないから、体重を落とさないと細くなれないの。骨格にも恵まれてないし」
「はれり」


 会話を聞きながら梅干しを口に運ぶ。教室に入ってきたときの晴里を思い浮かべる。彼女は太ってなどいない。けれどたしかに、細すぎるというわけでもない。これは悪い意味ではなく、もっとも健康的で素敵な体型という意味だ。これ以上削ったら、きっと体のどこかにガタが出てくる。
 けれど今の彼女にはなにを言っても通用しないと思う。理想像は人それぞれで、きれいだと思うものも状態もばらばらだからだ。


「お母さん、悲しむんじゃないの」
「……それは」
「せっかく作ったお弁当がこんなふうに捨てられてるなんて知ったら、晴里のお母さん、かわいそうだよ」
「……っ、いらないって言ってるのに、勝手に作ってるだけだし。私はちゃんと必要ないって、伝えてる!!」


 大きな声を上げた晴里に視線が集まる。晴里はきまり悪そうに視線を泳がせて、空っぽのお弁当を片手に教室を出ていった。


「晴里……!」


 残された友達が頭を抱えている。その顔は悲痛に歪められていて、わたしまで苦しくなってしまう。
 友達を心配してかけた言葉が、逆に相手を傷つける。そういう経験が、わたしにもある。言葉は厄介だ。一度発してしまえば取り返しがつかない。それでも、言葉をかけずにはいられない。友達だから。

 だからわたしは、そんなふうに傷つけるくらいなら、友達なんて。


 口の中に違和感を感じて取り出す。梅干しの種だった。梅干しを食べていたのか、と遅れて理解する。
 味がまったく気にならない思いをするのは、久しぶりだった。





*


「あ、椿季さん」


 空き教室から帰る途中、廊下の曲がり角でぶつかりそうになった人物がそう声を洩らした。顔をあげると、視線がかち合う。雫途くんだった。


「うわっ」
「うわっ、て。なにその化け物でもみたような顔は」


 鈴が鳴るように笑う。わたしがきつい言い方をしてしまったのは今朝のことだ。彼には気まずさという感情が存在していないのだろうか。


「その……今朝は、ごめん」


 ようやく口をついた謝罪に、彼は首をかしげた。


「なんのこと?」
「なにって……今日の朝、わたし」
「それよりさ、椿季さん。今度の球技大会、バレーと卓球、どっちに出るの」


 わたしの言葉をさえぎるように声が被せられる。今朝の出来事をもう忘れてしまったのだろうか。それとも、彼にとってはとるに足らないことだった?けれど、球技大会の質問から、意図的のようにも思える。ぐるぐると考え込んでいると、うつむいた顔の前ににゅっと顔が現れた。


「ぎゃっ」
「ふは、だから鬼を見たような顔しないでって」


 お腹を抱えて笑う雫途くんは、それでどっちにするの、と再度答えを促してくる。そういえば、朝礼で体育委員が種目選択の話をしていたような。


「……卓球」
「やっぱり? 椿季さん、個人競技のほうが好きそうだから、アタリ」
「それって悪い意味?」
「どう解釈したらそうなるの」


 あははは、椿季さんっておもしろいね、と涙を浮かべて笑う姿を見つめる。今朝見た肌の焼けた爽やかな先輩とはまるで違う。
 なんというか、こんなにも大爆笑されると、憎らしく思えてくる。


「もういいですか」
「ほんと、冷たいなあ。俺がどっちに出るかくらい、きいてくれたっていいのに」
「男子の競技、知りません」
「えぇ? 椿季さんって、ほんと、他人に興味ないんだね」


 くるりと身をひるがえす。まだ午後の授業は残っているのだ。こんなところで立ち話なんてしていないで、はやく教室に戻って準備をしよう。


「ちなみに俺、バスケだから!」


 背中に声が飛んでくる。知ったところでどうにもならないけれど、団体競技であることに、そうだろうな、とひそかに納得した。



















 翌週の図書当番は忙しかった。
 昼休み中、やたら本を借りに来る女子生徒が多く、雫途くんの顔を見てはきゃあっと声をあげている。本を選ぶ時間よりも、カウンターで彼と話す時間のほうが明らかに多い。わたしのことはまるで見えていないようで、雫途くんのほうばかり見ている。
 当の本人はいつもどおりにこにこスマイルで対応していた。それぞれに違う話題をふられても、ひとつひとつ丁寧に返している。

 目線を落として活字を追っていたけれど、彼と話す女子の声が直に聞こえてしまうため、全然集中できなかった。同じ行を何度も何度も読んでしまう。
 予鈴が鳴ると、彼の周りに集まっていた女子たちは「またね〜」と手を振って図書室を出ていった。

 救われたような気持ちになる。助かった。
 大きく息を吐き出して、吸い込む。ようやく呼吸ができた。
 深呼吸をするわたしの隣で、雫途くんは頬杖をついた。


「今日は人多かったねえ」


 まったく、誰のおかげか。
 呑気にあくびをしているけれど、自分が引き寄せているという自覚はないのだろうか。

 図書記録に名前を書いて、彼にまわす。彼も鉛筆で名前を書き、ぱたりとそれを閉じた。


「放課後もよろしくね、椿季さん」
「……はい」


 放課後は部活があるから、きっと女子生徒のなだれ込みはないだろう。放課後のほうが勉強したり本を読んだりする人が多いから、図書室を静かに保ちたいところだ。

 それにしても、前回の水曜日しか活動していないのに、よく情報が広まったものだ。あんなに女子が集まってくるとは想定外だった。

 ふわぁ、とあくびをする彼の横顔を見つめる。たしかに、綺麗な顔だ。それに、誰とでも等しく話す。笑顔を絶やさない。そりゃ、人気が出るのも納得か。






 今日は6限に体育があったから、少し気分が憂鬱だった。最後の授業だと、終礼に遅れないようにすばやく着替えないといけない。体育の授業は着替える余裕があるように予鈴より少し早く終わってくれるけど、それでも早着替えしないといけないプレッシャーがわたしはあまり得意ではない。
 ひとりで着替えるから、友達の着替えを待つ必要もない。けれど逆に、自分が遅れた時に待ってくれる相手がいないということだ。

 シャツのボタンを閉めて、スカートを手ではらう。体操服鞄を掴んで、更衣室を出た。
 更衣室から教室までは少しだけ距離がある。他の2年生クラスの前を通らなきゃいけないのが少しだけ嫌だ。


 チャイムが鳴る。6限目が終了した合図。2年生クラスからぞろぞろと人が出てくる。その中に、空き教室の彼女──晴里の姿もあった。目は合わない。
 クラスのプレートを確認すると、【2ー4】と書かれていた。

 俯きがちに自分の教室に戻る。人がたくさんいるところは、やっぱり落ち着かない。

 終礼後、すぐに帰ろう。そう思ったけれど、プリントやノートを抱えて先生とともに教室に入ってきた雫途くんの姿を見て、放課後も図書当番だったことを思いだした。

 教卓に運んできた荷物を置き、プリントを配る彼を見る。誰もが雑談したり、ふざけ合ったりしているこの空間で、彼はみんなのためにプリントを配っている。
 係でもないくせに。


 ……ほんとに善人じゃん。


 彼の行いに感謝するのは、きっと先生くらいだ。自分の帰りの準備も遅れてしまうはずなのに、そんなのまったく気にしていないようにプリントを配っている。それが終わると、今度はノートの名前を見て、ひとりひとりに配っていった。

 全員分の名前を覚えているのか。

 わたし、手伝えない。みんなの名前を知らないわたしでは、彼を手伝うことができない。
 ぎゅっと手に力がこもる。わたしにもノートが回ってくるのだろうか。なにか、話しかけてみようか。いや、手伝えないのになんて声をかけるつもりなの。

 ぐるぐる、思考が回る。


 彼が抱えるノートの冊数は、どんどん減っている。そろそろ自分にまわってくるかもしれない。
 気づいたら、椅子が音を立てていた。後ろのロッカーに歩き、しゃがんで鞄を掴む。わたしのロッカーは下の方にあるから、こうしないと取れないのだ。
 どく、どく、と耳から聞こえる鼓動を、しゃがんだ姿勢で受け流す。


 ふたたび席に戻ると、わたしの机にはすでにノートが置かれていた。









 放課後の図書室には、わたしのほうが早くついた。カウンターに座って、返却された本をながめる。今日の昼はミステリーだったから、恋愛小説でも読もう。最近映画化されたという本を手に取り、開く。

 図書室にはまだ人がいなくて、しん、と静まり返っている。しばらくすると戸が音を立て、背の高い人物が現れた。長い髪をおろしている。

 篠木こすもだった。彼女はいつもどおり、本を棚から抜き取って、ソファに腰掛ける。静かな空間に、ふたり。無論、彼女の世界にわたしは存在していないのだろうけど。

 10分くらい経ってから、もう一度戸が開く。次に入ってきたのは雫途くんだった。


「ごめん、遅れた」
「大丈夫」


 遅れた言い訳とか、しないんだな。自分のせいで遅れたわけじゃないのに、いっさい弁明しない。

 先生の手伝い、してたからでしょ。

 そんな言葉はぐっと呑み込んだ。代わりに、鞄をおろして息をつく彼を見つめる。すると視線に気づいた彼は、「ん?」と首を傾げた。


「なんでもない」
「ほんとに?」
「うん」


 本に視線を落とす。昼休みよりも格段に読みやすい。活字を目で追っていると、「ねぇ」と雫途くんに声をかけられた。顔を上げて、彼のほうを向く。


「今日も篠木きてる?」
「あ、うん。きてるよ」
「そっか」


 それだけ確認して、机に伏す。彼はよくわからない。
 今日は何冊か貸し出しがあった。隣で寝ている彼を起こそうかと思ったけれど、終礼前の善行を思いだすと、このまま寝かせてあげてもいいか、という気持ちになる。彼の代わりに貸し出しの手続きをする。寝ている彼の後頭部を見て笑いを洩らす人が何人かいたけれど、それは彼を知ってのことなのか、ただ爆睡している人が面白くて笑っているのかはわからなかった。

 図書室利用時間が終わると、篠木こすもは元の場所に本を戻し、図書室を出ていこうとした。カウンターで爆睡している雫途くんを一瞥し、眉を寄せてからわたしを見る。


「叩き起こしてもいいと思うよ」


 それだけを告げて、図書室を出ていく。まさか話しかけられるなんて思っていなかったから、しばらく動くことができなかった。

 わたしが固まっていると、ようやく目覚めた雫途くんが「よく寝たー」と伸びをする。
 なにか言わないと、と脳が焦る。


「……職務放棄、ですからね」
「とか言って、起こさないでいてくれてありがとう」
「ちがいます」


 いったい、なにが違うのか。起こさなかった理由を見透かされているようで、なんだかきまりが悪くなる。思わず否定が飛び出したけど、何を否定しているのか自分自身でもよくわからない。

 図書室の施錠をするために立ち上がると、彼も同じように椅子から腰を上げた。

 窓のほうに近づきながら、ふいに浮かんだ疑問をなげる。

「そういえば、雫途くんは部活、なにしてるんですか」
「俺?」

 ぴたりと、雫途くんの足が止まった。それにつられるように、わたしの足も止まる。
 目を丸くした雫途くんが自分を指さす。どうしてそんなに驚くのだろう、と首をかしげると、雫途くんは口元に手を当てた。


「いや、椿季さん、俺の部活とか全然興味ないんだろうなって思ってたから、意外で。なんか、ちょっとうれしいかも」


 そう言われて、失態に気がつく。他人の部活に興味なんてないはずなのに。どうして普通に聞いてしまったのだろう。6限が体育だったから、スポーツに影響されたのだろうか。


「べつに……興味とかではなくて、雑談」


 雫途くんがふきだす。自分でも苦しい言い訳だと思ったけれど、いまさら訂正するわけにもいかないので、窓の外を見てごまかすことにした。雫途くんがわたしの顔をのぞきこんで、雑談ね、と笑う。
 どうやら流してくれるらしい。


「俺はサッカーしてるよ、中学から」


 イメージ通りだった。コロコロ笑っているのも、人脈の広さも、妙にあふれ出る爽やかさも納得だ。


「納得って顔してる」
「え、そんなに顔に出てますか」
「超出てるよ、わかりやすい」
「わたしの帰宅部にも納得ですか」
「ふはっ、ごめん。納得」


 イメージ通りだったらしい。相変わらず、この人はずっと笑っている。
 窓の外を眺める。グラウンドでは、野球部が練習をしていた。
 
 各々ペアでボールを投げあっている。



 ガラッと雫途くんが窓を開けた。突然入ってきた風が顔にかかる。さらさらと髪がなびいた。


「ちょっ」
「ん?」
「びっくりするじゃん」


 雫途くんは窓からほんの少し身を乗り出した。


「へえ、こんなによく見えるのな」
「危ないよ」
「子供じゃないんだから。椿季さんもほら、おいでよ」


 開いた窓のスペースに手招きされる。息をついて窓に近づくと、いっそう風は強くなった。
 少しだけ身を乗り出す。このなかに、わたしの知らないクラスメイトもいるだろうか。

 手前で練習していた野球部のひとりが、ふいに顔をあげてこちらを見た。その顔には見覚えがある。彼はボールをグローブに埋めたまま、じっとこちらを見つめていた。

 この前、廊下で出会った先輩だ。よく焼けた肌の、爽やかな先輩。
 この距離から顔を認識できるということは、当然向こうからもこちらが見えているはずだ。

 未だこちらを見つめている先輩。会釈でもしたほうがいいのだろうか。いや、わたしのことなんて覚えていないかもしれない。ただ、図書室から身を乗り出す人影が物珍しいだけかも。
 ぐるぐる、ぐるぐると思考がまわる。

 その瞬間、隣にいた雫途くんがひらひらと手を振った。じっとこちらを見ていた先輩も、手を振り返す。


「ファイトーー」


 雫途くんの大声が聞こえたのか否か。先輩はくるりと身を翻して、練習に戻っていった。



「え、知り合い?」
「ん? ああ、さっきの?」
「そう、さっきの先輩」
「幼馴染みだよ」


 なんてことない顔をして告げた雫途くん。まさか、あの先輩と知り合いどころか、幼馴染みなんて。意外な接点に驚いていると、今度は彼のほうが目を丸くした。


「椿季さんこそ、知り合いなの?」
「……あ、知り合いってほどでもないんだけど。一回だけ話したことがあるくらいで」
「だったらたぶん覚えてると思うよ。絢樹(あやき)は、人の顔覚えるのが得意だから」


 名前はアヤキというのだと知った。先輩なのに、幼馴染みだから当然のように呼び捨てをしている雫途くんがなんだか不思議だ。
 幼馴染み、という響きに心がうずく。思わず顔をしかめそうになると、それをかき消すように雫途くんが首を傾げた。


「いつ話す機会なんてあったの」
「……あー、先週くらいに、廊下でちょっと」
「へぇ」


 頷いた雫途くんが、窓をしめて施錠をする。それから、窓を開けるような仕草をして、ちゃんと閉まっていることを確認した。


「うん。大丈夫、開かないよ」
「……どうしてわざわざ」
「だって、椿季さんやってたじゃん。用心深くていいなと思って。俺も真似してみた」


 同じように施錠の確認をしてくれるなんて思わなかった。わたしのことを、用心深い、なんて表現してくれるけれど。わたしの性格を細かい、面倒くさいという人もいるなかで、彼は。


「……ありがとう」
「こちらこそ?」


 視線が絡む。なんだか気恥ずかしい。どんな顔をしていいかわからず、笑みを浮かべている彼の前から身をひるがえした。
 そそくさとカウンターに戻り、水筒のお茶を飲む。冷たさが喉を通って、気分が落ち着いていく。


「椿季さん」


 窓のそばから彼がわたしの名前を呼んだ。彼に視線を投げる。


「2人で帰る?」


 その目がまっすぐにこちらを見ている。


「……か、帰りません」


 鞄を強引につかんで背負うわたしを見て、彼は目を細めて笑った。

 ……完全にからかわれている。

 図書室を出ようとすると、笑みを浮かべたまま、ひらひらと手が振られた。


「またね、椿季さん」


 透き通った声が、耳を抜けた。





✧˖









 二度目の図書当番から5日後、ついに球技大会の日がやってきた。


 図書当番の日以外は、彼と話すことはまったくない。球技大会のバスケットボールに出るという情報しか、いまのわたしの手元にはなかった。ただ、今日の朝礼後に「応援しに行くからね!」「頑張ろうな」と男女どちらもに話しかけられていたのは印象に残っている。

 彼とわたしでは、なんだか住む世界が違う。
 常にクラスの輪の中にいて、必要とされている彼。
 誰とも話すことなく、きっと休んでも気づかれないわたし。

 図書委員になっていなかったら、絶対にかかわりあうことのない正反対さに笑えてくる。

 彼はわたしに関わろうとしてくるけれど、それは彼が分け隔てなく接する性格だからだ。それに、彼のまわりに集まる人たちはみんな彼と話がしたくて、仲良くなりたくて、明るい人たち。わたしみたいな人間と接する機会が彼にはあまりないから、興味本位で近づいてきているだけなのだろう。




 無事に卓球のメンバーに入れたわたしは、午前中の間にひそやかに試合をして、負けて、役目が終了した。卓球はバスケットやバレーとは会場が違う。それらの球技とは違って、誰かに見られることが少ないからありがたかった。
 トーナメント式になっているため、負けてしまったわたしは、午後はやることがなく暇だということだ。


 一緒に昼食をとる相手はいない。いつもの空き教室で食べようと、お弁当を教室に取りに行くと、数人の女子が机をくっつけて座っていた。中央には大きなボウルと、炭酸飲料が置いてある。たくさんのフルーツとゼリーをその中に投入するようだ。袋をひっくり返したのと同時に、うわー!と声が上がる。
 そのようすを長く見すぎていたのだろうか。空になった袋を持った女子と目が合う。

 まずい。

 わたしが目を逸らしたのと、彼女が声をかけてきたのは同時だった。


「垣根さんも食べる? フルーツポンチ!」


 まさか声をかけられるとは思わず、逸らしたはずの視線が彼女たちのほうを向く。シュワシュワと音を立ててあふれる炭酸は、ボウルのなかにおさまった。色とりどりのフルーツが炭酸の泡に包まれている。
 声をかけてくれたクラスメイトとは、新学期に一度だけ話したことがある程度だ。その時はきっと名前をきいたのだと思うけれど、まったく思い出せない。そのほかのクラスメイトも、名前が全然わからない。そのなかで、唯一見たことのある顔に視線が吸い寄せられたのは必然だろう。

 篠木こすもは輪のなかから、まっすぐにわたしを見ていた。
 袋を開けるわけでもなく、炭酸を注ぐわけでもなく、ただそこに座っていた。そうして、こちらをじっと見つめている。普段、一匹狼みたいに見えていたけれど、意外とこういうのに参加したりするんだ。しかも彼女は他クラスだ。それなのにここにいるということは、この中の誰かが誘ったのだろうか。
 じっと彼女がわたしを見ている。凛とした瞳が光をたたえる。どうするのかと、なぜだか試されているような気持ちになった。


「……いや、大丈夫、です」


 その視線から逃げるようにその場を去った。わたしにも声をかけてくれた子は、きっと優しいのだろう。だいたいああいうのは、仲良しの子だけでやりたいものだ。中学でも、そういう場面は何度も見たし、味わってきた。
 きっとあれは100パーセントの善意。
 それでも断ってしまったのは、わたしにはまだ向き合う勇気がでないから。



 空き教室には誰もいなかった。みんな、クラスで催しをしているのかもしれない。球技大会は学園祭に次ぐ一大イベント。そんなことは、わかっている。

 お弁当を開けると、卵焼きとパスタのにおいが広がった。
 口に運ぶ。甘くておいしい。ふとフルーツポンチの光景がよぎったけれど、ぶんぶんと首を振って打ち消した。



 午後からは予選を勝ち上がった男子バスケットボールの試合があるらしい。クラスラインには【男子バスケットボール、勝利!】という祝福が並んでいるから、おそらく予選を勝ち上がったのだろう。
 次は準決勝ということになる。


 ……見に行ってみようか。


 そんな考えが頭をよぎる。午後はもうずっとやることがない。それならば、目立たないところで観戦するのもいいかもしれない。


「……暇だし、ね」



 体育館へと足を進める。体育館に近づくほど、歓声と熱気に包まれていく。
 すでに試合は始まっていた。ギャラリーから見下ろすと、クラスメイトの大半は、コートの隅に座って応援していた。わたしはあんなに近くじゃなくていい。このギャラリーから眺めるだけで十分だ。

 普段は図体が大きくてこわい男子たちも、ギャラリーからだと小さく見える。
 雫途くんは試合に出て、ドリブルでボールを運んでいた。サッカー部と言っていたから、普段手を使わない分、バスケットはそこまでだと思っていたのに。ボールを奪おうとしてくる敵をあざやかに躱して、パスをつないでいく。

 プレースタイルもこんなにも軽やかなんだ。誰がどこでボールを求めているのか、隙ができているのかがよく見えている。みんながボールを持てるように華麗にパスをまわして、ゴール下にパスを出した。受け取ったのは、クラスの人気者だった。飛び上がって、シュートを放つ。シュートが決まった瞬間、応援しているクラスメイト達から歓声が上がった。


 誰も不快にしないプレーをしていた。のびのびしていて、余裕があって、全体を見渡しているような。団体競技に向いている。彼は期待されるのも、その期待に応えるのもすごく上手だ。

 華麗にパスをまわして、仲間にシュートを打たせている。シュートを決めた男子たちはガッツポーズをしたり、うれしそうに頭をかいたりしていた。彼はいっこうにシュートに行かない。そのぶん、周りの男子のシュート回数が多くなっている。

 試合も終盤に差し掛かり、点差は2点差でわたしたちのチームが劣勢だった。さすが、準決勝ということもあり、接戦だ。
 残り時間が30秒を切る。

 焦る様子もなくボールをついている雫途くんに、さきほどゴール下でシュートを決めた人気者が「雫途、打ってよ」と声をとばした。人気者の彼の名前も、あとで覚えよう。ぼんやりと考えていると、それまで余裕そうにドリブルをしていた雫途くんが一気に低い姿勢をとった。前にいた相手をあっという間に抜いて、ゴールの近くに入り込む。
 そうして、外側にいた人気者の男子にボールをまわした。敵が雫途くんに引き寄せられていたから、人気者男子の前には誰もいない。
 シュートが放たれる。そのボールはがこん、とゴールにはじかれた。


「俺には無理だあ!!!」


 頭を抱えながら叫ぶ人気者。観客からも笑いと応援が混ざった声がする。
 はじかれたボールは、その人気者のもとへと戻ってきた。かろうじてつかみ、シュートのかまえを作ったように見えたけれど、彼は打たなかった。その代わりに、スリーポイントラインの外側に立っている人物へとボールを投げる。



「だからお前が打てよ、雫途!」



 その大声をきいて、彼はほんのすこし微笑んだ──ように見えた。
 彼の呼吸に合わせて、会場が一瞬静まる。次の瞬間、伸びあがって放たれたボールは、きれいな弧を描いてゴールへと吸い込まれていった。

 入ったボールがネットを抜け、コートに落ちる。その瞬間、ブザーが鳴った。
 一気に歓声があがる。コートのはじで見ていたクラスメイト達が、彼のもとに走り寄っていく。彼はその歓声に揉みくちゃにされながら、あはは、といつものように笑っていた。

 ……結局、いちばん目立つんだから。

 その場面で一度は人気者の男子にシュートを譲ったこと。最終的には、懇願されてシュートを放ったこと。
 まったく、誰かのために行動しすぎだ。

 シュートが放たれた瞬間の横顔が、目に焼き付いている。


 ふいに、彼がギャラリーを振り返った。


「……っ!」


 とっさにしゃがんで身を隠す。なんとなく、見ていることに、気づかれたくなかった。
 三十秒ほど経ってからふたたびコートを見ると、そこにはもう雫途くんはいなかった。そのことに安堵しつつ、教室へと戻る。次の試合は、もう見ない。このさきの結果なんて、わたしには関係がないことだ。


 しばらくしても、勝敗がクラスラインに送られてくることはなかった。
 祝福がないということは、負けてしまったのだろうか。まぁ決勝に出ているということがすごいので、優勝も準優勝も変わらないような気がするけど。こんなことをスポーツマンに聞かれたら、怒鳴られてしまうだろうか。


 そろそろ体育館に向かっておかないと、閉会式に遅刻してしまうかもしれない。全校生徒の前に遅刻して現れるとか、考えただけでも地獄絵図だ。
 廊下を早歩きする。もうこのへんには誰もいない。みんな決勝戦を見ていたのだろうか。それとももしかして、みんなもう行ってしまった?

 曲がり角から急に人が飛び出してきた。ぶつかりそうになったけれど、止まれないわたしとは違い、相手は軽やかにわたしを躱した。その顔を認識して、つい声が洩れる。


「びゃっ」
「またそんな変な声。いい加減慣れてくれる?」


 眉をさげて呆れ笑いを浮かべていたのは、まぎれもなく雫途くんだった。
 こちらだって、曲がり角から急に出てくるのは心臓に悪いからやめてほしい。抗議のつもりで睨んでみると、その視線の意図に気づくようすもなく、彼の片眉があがった。


「椿季さん。試合、見てたでしょ」
「え、なんで」
「俺が見逃すわけないじゃん? ばっちり、見えてましたとも」
「……さいあくかも」


 にいっと歯をみせて笑われる。まさか、見つかっていたなんて。なれないことをするもんじゃないなと反省していると、「どっちだと思う?」と急に問いかけられた。


「どっちって、なにが?」
「試合。勝ったでしょうか、負けたでしょうか」


 さあ、どっち!と相変わらずの笑顔で問題を出される。この人はうれしい時や楽しい時だけ笑うのではなく、常日頃笑っているからどちらなのかわからない。
 彼の表情から結果を導くことは、できそうになかった。



「……わかんないよ」



 そんなの。勝っていてほしいと思うけれど、ラインが動いてないということは負けてしまったのかもしれない。
 だとしたら、いまわたしはどんな言葉を彼にかけるべきなのだろうか。
 見ていたよ、とか。すごかったよ、とか。そんな言葉をかけたところで、どうにもならない。
 彼が望んでいる答えが、わからない。


「椿季さん、眉」
「え?」
「眉、寄りすぎ。そんなに真剣に考えてくれてるの?」


 あはは、と笑い声が降ってくる。見上げると、雫途くんは目を細めて微笑んでいた。


「勝ったよ」


 にっと彼の口角が上がる。勝ったよ、が心地よく耳朶を打つ。


「え、でもクラスライン、動いてないのに」
「たぶん優勝の興奮でクラスラインどころじゃなかったんだと思うよ」


 く、く、く、と彼が笑う。なにがそんなにおかしいのか、と首をかしげると、彼は口元に手を当てたままわたしを見た。


「やっぱり。勝敗、気になってたんでしょ」
「べ、べつに、そんなこと……」
「直接、伝えようと思ってさ」


 準決勝にいたことがばれていたのなら、決勝を見に行っていないことも気づかれていたのかもしれない。なんでも見通されているみたいだ。
 きまりが悪くて視線を逸らす。


「足、止めちゃってごめん。俺、いったん教室戻ってから体育館行くけど、椿季さんは先に行っといて」


 じゃ、と手をあげて、教室のほうに走っていく雫途くんの背中が小さくなっていく。
 そのとき、トンっと背中を押されるような感覚とともに、口から言葉が飛び出した。


「お、おめでとう」


 ぴた、と彼の足がとまり、くるりと振り返る。彼は、満面の笑みを浮かべていた。


「ありがと!」


 それから、教室に向かって駆け出していく。その姿はとても爽やかで、まぶしくて。

 わたしの脳裏に焼き付いて、しばらく離れなかった。