光にかわる明日から



 図書室のカウンターに座って、深く息を吐き出す。イベントが終わり、張り詰めていた意識がようやく緩む。
 椿季さんは美術部展示の片づけを手伝うと言って、5分前に図書室を出ていった。
 仮面を作ってもらったせめてものお礼なのだと言っていたから、俺も行こうとした。けれど、俺は図書室に残って片づけをしてと言われた。
 そう俺に呼びかける声はどこか硬い。

 今までとは違った。ため息が洩れる。


 イベント前の出来事が思い起こされる。

 
『椿季さんにそんなふうに言われて、傷ついた』


 最悪だ。いちばんやりたくなかった方法で、彼女を傷つけた。
 あまりに図星だったから、いつもみたいに躱すことができなかった。
 ださい。余裕がなくて、みっともない。


「……情(なさ)けな」


 嫌われた、だろうか。
 これからどんなに俺が笑って話しかけても、もう彼女は心を開こうとしないかもしれない。俺に近づくことを恐れるようになるかもしれない。

 だって彼女は、そういう子だから。

 すぐに分かった。彼女が人を遠ざけている理由。それは尖ったものではなくて、ただ、恐れているだけなのだと。
 似ているから、よく分かる。


 自分が傷ついたことを相手に悟らせてしまうのは、心苦しい。


『雫途。お母さんとお父さん、ちょっと喧嘩しちゃってさ。お母さん、少しの間おうちから出ていくことになったから。ごめんね』


 歪む母の顔を見た瞬間、笑わなければ、と思った。
 俺まで傷ついた顔をしたら、この人は、きっと今以上につらい顔をする。


『うん。大丈夫。待ってるね』


 俺が笑っていれば、周囲が安心する。俺は、周囲が傷つくのをみるよりは、自分が傷つくほうが、ずっとずっと楽だった。
 痛みには、慣れてしまえばいい。よくあることとして流せるようになればいい。


 人から言われることなんて、全部どうでもいい。人のことも、どうでもいい。


 だから何を言われても、俺は別に傷つかない。傷ついてないよ、と示すために俺は笑う。
 慣れている、と自分に言いきかせながら、生きてきた。


『傷ついてないふりは、だめ、だよ』


 椿季さんの言葉がよみがえる。
 まさか、見破られるなんて思わなかった。彼女の目には、俺が笑って誤魔化すように映っていたのだろうか。
 いままで誰にもばれたことがなかったのに。


 回収ボックスに残った、2枚の短冊に視線を落とす。

 ひとつは、俺のものだ。イベントが始まる前に、自分の短冊をこっそり本に忍ばせておいた。

 仮面読書会。顔を隠して、本音を見せ合う場所。
 それを開催しているのは俺なのに。


【本当の自分を見せたくない】


 本音を言いたくないというのが、本音。
 自分が思っていることをいうなんて、そんな感覚、とうに忘れてしまった。

 裏側を見ると、いろいろな筆跡が残されている。どれも、俺に共感するような内容だった。けれど、この仮面読書会を通じて、少し話せるようになった、と前向きな意見もあった。

 俺はいつになったら本音で話せるときがくるんだろう。誰かに話せるときがくるんだろうか。

 書き込まれたたくさんの言葉を目でたどる。
 ひとつ、端のほうに書き込まれた言葉に目が吸い込まれる。


 すべての音が消える。自分の呼吸音だけが耳に届く。


【あなたが本当の自分を見せない選択をしたとして、それであなたが幸せなら、それもきっと正解です】


 しばらく、動くことができなかった。
 この返事を書いた人は、いったいどういう気持ちで、この言葉を選んだのだろうか。

 これは、俺の選択なのだ。へらへら笑うという選択を、した。誰に対しても同じ温度で接することを、選んだ。
 その選択を、この人は。

 この生き方は、間違っているわけじゃない。そう、言われているような気がした。


 残されているもう片方の短冊を手に取る。これはきっと、美術部の手伝いに行っている、彼女の。
 おそるおそる、そこに書かれた文字を見た。


【人を傷つけてしまうくらいなら、関わらないほうがいい。そう思っていたけど、わたしはやっぱり、誰かと関わりたい。話したい。向き合いたい】


 彼女の声で再生される。
 裏返すと、それは白紙だった。彼女はイベント終盤になって参加していたから、返事がつかなかったのかもしれない。


 彼女は最初から、壁をつくっていた。話しかけたときも、冷たく返される。
 人間と関わるのが嫌いなのだろうか、と思ったときもあった。

 でも。
 打ち解けていくうちに、彼女は本当にころころと笑うようになった。自分から、声をかけてくれるようになった。
 それで、気づいた。

 俺と同じで、おびえているだけなのだと。
 笑って誤魔化す俺と、壁を作る椿季さん。そうやって、自分を守っている。



 傷つけたくないと思った。
 今まで、人を傷つけてこなかったのは、その顔を見て自分が傷つきたくないから。面倒くさいことを引き受けるのは、それで周囲が笑ってくれるなら。俺を慕ってくれるなら、楽だから。
 すべて打算的で、自己中心的。
 でも、彼女のことは違った。俺が平和に生きるためとか、楽に生きるためじゃない。

 傷つけたくないから、彼女に笑っていてほしいから、優しくあろうとした。



その時、突然図書室の戸が開いた。


「雫途」


 俺の名前を呼んだのは、幼馴染みの絢樹だった。


「今、いい?」
「いいけど……珍しいじゃん、どしたの」


 沈黙が降りた。こんなに黙り込んでいる絢樹を見たことがなくて、戸惑う。


「雫途」


 もう一度、強く名前を呼ばれる。振り向くと、凛とした双眸が俺を見ていた。


「今言わないと、俺はたぶんもう……一生言えない気がするから」


 その声があまりに切実で、息を呑む。組んでいた指をおろして、背筋を伸ばした。カウンターの前に立つ絢樹を見つめる。同じほど強い視線が返ってきた。


「なに?」


 窓から入ってきた風が頬を撫でた。

 絢樹は、視線を揺らして、それからゆっくりと足元に落とした。沈黙が降りる。
 うるさいくらいの静寂だった。

 何秒、経っただろうか。

 それを掻き切るように、絢樹の声が聞こえる。その声は、震えていた。


「俺……俺、は。なんか、好きらしいんだわ。雫途の、こと」


 それだけ言って、うつむく。

 これまで、幾度となく告白をされてきた。その誰もが、こんなふうに、返事を聞くのを恐れるような顔をする。

 息を吸って、声を出す。喉が詰まったように感じるのは、久しぶりだった。


「俺……絢樹の気持ちには応えられない。ごめん」


 絢樹はゆっくりと視線を落とした。その動きに合わせるようにして、言葉が落とされる。



「それは……俺が男だから?」



 首をかしげた絢樹に一歩近づく。ヒュッと息を呑んだ。互いの呼吸がぶつかる。
 呆れに近い笑いが込み上げてきた。


「まさか。そんなこと、思ってもないくせに」


 もう少し早く、言われていたとしたら。
 そうしたら、どうなっていたかなんてわからない。俺にとっては、性別なんて関係なく、すべての人間が等しい。


「男か女かなんて、そんなの俺が気にしないってことくらい、絢樹がいちばんわかってんじゃないの」


 長い間、一緒に過ごしてきたのだから。絢樹の気持ちも、薄々感づいてはいた。だけどこれまでどおりの距離で幼馴染みを続けてきたのは、彼の気持ちをなんとも思わなかったからだ。喜びも、嫌悪もない。これまでされた告白や好意と同じだった。
 絢樹が息をつく。かたく結ばれた口が、わずかにほころぶ。絢樹は静かに首肯した。


「だけど……今は無理だよ」


 はっきりと言える。もう今の俺は、誰でもいいわけじゃない。


「好きなやつが、いるからか……?」


 ゆっくりと視線をあげる。幼馴染みの顔を真っ向から見つめた。
 傷ついたように顔をゆがめられると、俺も苦しくなる。まるで自分が悪人になったような気持ちになるから、できるだけお願いを受け入れてきた。はじめは受けることしかできなかった告白も、成長するにつれて傷つけずにかわせるようにへらへら断れるようになった。徐々に、誰とも付き合わないということが周囲に知られるようになって、安堵した。
 全部、自分が傷つきたくないからだ。人の苦しそうな顔を見たくない。

 記憶の中の絢樹は、いつも笑っている。俺と篠木のそばで、ずっとずっと笑っている。爽やかで、いいやつで、お人好しで、強くて、優しいやつで。
 けれど。

 そういうんじゃないよ、と笑うことはもうできないのだろう。彼女に出会ってからの俺には。
 彼女じゃないと……嫌だ。そう思うようになってしまった。


 そうだ、俺は。椿季さんのことが。



「そうだよ」


 はっきりと言葉にした。
 目の前で顔を歪ませる幼馴染みに、心臓が縮みあげられたような感覚になる。


「ごめん。ほんと、ごめんな」


 選択するということは、どちらかを切り捨てるということだ。俺はそれがずっと苦手で、すべてを受け入れて生きてきた。天秤にかけたときに、特別に傾くものなど持ち合わせていなかったから。すべてに同じ対応をしているほうが、はるかに楽だったから。
 だけど、俺は出会ってしまったのだ。自分のなかの天秤が傾く存在に、気が付いてしまった。


「だけど、俺」


 もう一度、短冊を見る。


【人を傷つけてしまうくらいなら、関わらないほうがいい。そう思っていたけど、わたしはやっぱり、誰かと関わりたい。話したい。向き合いたい】


 壁を作っていた彼女が、そう、言っている。
 関わりたい、と言っている。


『傷ついてないふりは、だめ、だよ』


 あの瞬間、いったいどれほどの感情が、彼女のなかで動いたのだろう。どれほどの勇気で、彼女は俺に告げたのだろう。

 向き合いたい、という最後の文字。
 彼女は、必死に俺と向き合おうとしてくれていた。それなのに、俺は。
 焦って、逃げて。


 ──あろうことか、傷つけて。


 本音を隠す生き方は、俺にとって、とても大切だった。誤魔化して笑っていたことで、救われた部分もたくさんある。そうやって、避けてきた衝突ばかりだ。でもその生き方は今、誰かが肯定してくれた。

 これからも、へらへら笑ってしまうかもしれない。身体に染みついてしまった生き方は変わらないかもしれない。


 だけど、今は。今だけは。
 俺は──椿季さんと、ちゃんと向き合いたい。

 傷を差し出してくれた彼女に、同じものを差し出したい。


 勢いよく立ち上がる。ガタン、と椅子が鳴った。
 絢樹が俺を見る。


「頑張れ」


 伸びてきた腕が、俺の肩を叩く。絢樹は、目を細めて笑っていた。


「ありがと」


 俺は短冊を握りしめたまま、夢中で図書室を飛び出した。


 
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「椿季? さっきまで手伝ってくれてたけど、さっき終わったからもうここにはいないよ」


 早月さんが首を横に振る。美術部の展示はきれいに片付けられていた。
 いったい、どこにいったのだろう。もしかして、もう帰ったのだろうか。

 荷物を確かめるために、教室にかけこむ。

 彼女のロッカーにはポツンと鞄が置いたままだった。
 静まり返る教室が、文化祭の終わりを告げている。


 ぐるぐると校内をまわったけれど、椿季さんの姿は見つからない。

 控室ものぞいてみたけれど、そこにはたくさんの仮面が置いてあるだけだった。
 もう一度図書室の戸を開ける。すると、カウンターに座っている人物が、驚いた顔で俺を見た。


「雫途くん……」


 彼女が、俺の名前を呼ぶ。
 走ったから、息が苦しい。肩が上下する。


「椿季さん、なんでここに」
「美術部の片づけが終わってから、1年生の片づけも手伝ってたから。それが終わって帰ってきたら雫途くんいないし、片付け終わってないし……焦った」
「焦った?」
「うん。雫途くん、怒って帰っちゃったのかと思って」
「そんなことするわけ、ないよ」


 だよね、と椿季さんがうなずく。
 少しして、椿季さんが息を吐きだすのが聞こえた。


 言わないと。伝えないと。そう思うのに、うまく言葉にできない。
 実際に椿季さんの顔を前にすると、無理だ。

 口を開いたのは、椿季さんだった。


「……ごめんね。勝手に、入りこんで。雫途くんの気持ちも、優しさも、なんにも気づかないで傷つけて、ごめん」


 違うよ、と声が洩れた。
 うつむいていた椿季さんの顔が、ゆっくりとあがる。まっすぐに、目が合う。


 仮面が割れる音がした。