わたしはきっと、恵まれているのだと思う。
「こすもちゃん!」
手を振って駆け寄ってきてくれる友人がいる。ファミレスで一緒にご飯を食べて帰ろうと、誘ってくれる友人がいる。球技大会のプチイベントに、クラスが違っても入れてくれる友人がいる。
「篠木。この調子だと、K大も充分射程圏内だと思うぞ」
一度習ったことは、大概頭に入れることができる。短期記憶に優れている。予想したことはだいたい当たる。
生まれた時から、わたしはほんの少しだけ、勘が良かった。
「あんた、べっぴんさんだねぇ」
初対面の人に褒められることが、幼い頃から多々あった。
「好きだ。俺と付き合ってほしい」
異性から、好意を向けられることも少なくなかった。
ずっと、ずっと。わたしは恵まれているのだろう。
自分の不満なんて、嘆いてはいけないほどに。
世の中の人間というものは、均衡が保たれているとわたしは信じている。
幸と不幸の量はきっと釣り合っていて、恵まれたものもあれば損をしていることだってたくさんあるのだろう。それは寿命だったり、財産だったり、地位名声だったり、容姿だったり、そういうものだ。
「こすもちゃんって完璧だよね。可愛くて頭も良くて、モテるし。羨ましいなあ」
うらやましい。幾度となくかけられてきた言葉。それは果たして、代わってほしい、と同義だろうか。代われるなら、わたしはいくらでもこの体をあなたにあげる。わたしのことを羨ましいと言うあなたに。
何度も何度もそう思った。けれど、口には出さなかった。
「篠木さんですよね。俺知ってますよ」
知らない男性から、知られていることが多かった。面識がないのに、なぜだかわたしのことは知られている。わたしが意識していない部分まで、見られていたとしたら。わたしが相手を知らないからといって、相手がわたしのことを知らないとは限らない。わたしは果たして、わたしを篠木こすもと認識する人たちの前で、篠木こすもを演れていただろうか。
「俺、一度あなたにボール、拾ってもらったことがあって。覚えてない……ですか」
覚えているわけがない。すみません、と謝ると、男は少し不機嫌そうな顔をした。
「そうですか、覚えてないんですか」
自分の認知が鏡のように反射すると思わないでほしい。たいして会話もしていない、不特定多数の男のなかのひとりを、どう、覚えろと。
「じゃあ、今おぼえてください。また声かけるんで」
口元がにやりと上がる。
気持ちが悪い、と心底思った。悪寒がする。きっと家に帰るころには顔を忘れているだろう。
廊下を歩くと視線が集まるのがわかる。できるだけ前を向いて歩いていても、「篠木さんさようなら」と声をかけられれば無視することはできない。どうも、とだけ返して早歩きをする。こうして声をかけられることも、周囲の誰かからみれば"羨ましい"のかもしれない。だからわたしはずっとずっと思っている。心の底から。
いくらでも代わってあげる、と。
学校の図書室に向かう。あの場所は、唯一わたしの居場所だった。
「お、篠木」
幼馴染みの顔を見て、今日が水曜日だということに気が付く。隣には彼と同じクラスの図書委員が座っている。隣に座る幼馴染みにはまったく興味がないようで、文庫本に視線を落としている。
めずらしいタイプだな、と思った。
最初にカウンターに座る二人を見たとき、どうせ黒部目当てなのだろうというのが率直な感想だった。今までも、彼のまわりに群がる女子たちを見ていたから。委員会はふたりきりになる絶好の機会だ。現に、そういうよこしまな理由で同じ委員会を選ばれたことがわたしにもある。
もしそんな気持ちがなかったとしても、彼とふたりきりで少なからず気分の高揚はあるに違いない。
それなのに、図書室に通って毎週彼らのようすを見ているうちに、少しちがうことがわかった。
彼女──垣根椿季は、黒部のことを好くどころか、むしろ嫌っているようにも見えた。興味のなさそうな垣根さんに話しかけるたびに、嫌そうにあしらわれる黒部を見ていると気の毒になると同時に、自分の中の好奇心が芽を出す。
見守っているうちに、彼らの距離が近くなっていくのがわかった。一緒にいるときの表情が柔らかくなっていて、黒部も垣根さんもコロコロと笑うようになった。
ふたりは、いつも読んでいる恋愛小説に出てくるふたりと同じように、距離を近づけている……ように見えた。
家に帰っても、居心地が悪いだけ。
両親の関心は、わたしが物心ついたときにはすべて兄に注がれていた。
兄は、家を継ぐから。第一優先は、兄。
べつに、虐待を受けているわけではない。ご飯だってあるし、暴力を受けるわけではない。
ただ、関心を、持たれなかっただけ。
だから愛情を理解したくて、何度も何度も恋愛小説ばかりを読んだ。けれどやっぱり、誰かを大切に思う気持ち、自分を削ってでも守りたい気持ち。そういうものが、理解できなかった。
˚✧₊⁎✧༚
昔から、わたしと、黒部、若上の3人で過ごすことが多かった。家が近かった。たったそれだけでわたしたちは友達になれた。
公園で日がくれるまで遊んでいたあの頃は、男女の隔たりなんてなにひとつなかった。
それが次第に、黒部と若上、わたしになった。ふたりとわたしの間には、性別という名の境界線が引かれるようになった。
昔はシト、アヤキ、と呼んでいたのも、中学にあがると同時に苗字呼びに直した。
中学生、高校生になると、知らない男の人に声をかけられる機会が増えた。夜道をひとりで歩くのが困難になった。
だから、ふたりのどちらかに頼むこともあった。ふたりは快くわたしを家まで送ってくれた。
そうしているうちに、登下校ではちあった時は、一緒に歩くことが自然になった。
不便だ、といった黒部の声がこだまする。
男性である。ただそれだけで獲得することのできる安心を、女性は享受することができない。守られなければ、夜道を出歩くことさえままならない。危険がともなう。
ばかみたいだ。
黒部はサッカー、若上は野球。グラウンドで練習しているようすが、図書室からも見える。毎日放課後は図書室で過ごしているから、必然とふたりの姿を目にすることも多くなった。
若上と正門の近くでばったり会った日、一緒に帰りながらたずねられたことがある。
「雫途って、好きなひととか、いんのかな」
ぼやくような声だったので、ちらと目を向ける。するとわたしの視線に気づいた若上は「あ、いや、変な意味じゃなくて、普通に、気になるじゃん。ほらあいつ、モテるし」とごにょごにょ言葉を並べた。正直はやくてうまく聞き取れなかったけれど、わたしの前ではそんなに焦る必要もないと思う。
「わかるよ、若上が黒部のこと想ってるのは」
「っ、は!?」
そう言ってみると、若上が大きな声をあげて足をとめた。
若上の顔が真っ赤に染まっていく。これは夕日のせいではないとすぐにわかった。
「は、おま、いつから」
「いつって……昔から」
「はあ!? 絶対、雫途には言うなよ」
「言わないよ」
なにを恐れているのか。頷いて見せると、安心したように一瞬顔を緩めた若上が、じっとわたしを見つめてくる。
「てか、篠木こそ、その」
「……え?」
「篠木こそ、雫途のこと好きなんじゃないのか」
若上の口から飛び出した言葉に唖然とする。それは、肯定も否定もできない。
どうしてそんなに難しいことをいうのか。とりあえず嫌いではないので、頷いてみる。すると、若上の顔が急に真剣な表情に変わった。その目、なんだかこわい。
「でも、若上のことも好きだよ」
慌てて訂正すると、呆れたように息をついた若上が頭をかいた。
「いや、そうじゃなくて、雫途のことを恋愛的な意味で好きなんじゃないのかって話だよ」
「……恋愛」
あまりしっくりこない響きだ。黒部のことも若上のことも好きだけど、恋愛、と言われると違うような気もする。
「若上は、黒部のこと、恋愛的に好きなの?」
純粋な疑問を投げかけてみると、若上は「はぁ?」と声をあげてゆでだこのように真っ赤になった。しばらく黙っていたけれど、こくりとたしかに頷く。
「ふぅん」
「え、それだけ? もっと驚いたりとかないわけ」
「どのへんに驚けばいいの?」
「いや、だから。幼馴染みだし、俺、おとこだし」
「同じ性別じゃないと、恋愛しちゃいけないの?」
わたしの疑問に、若上がぐっと詰まる。本人はすごく必死なのだろうけど、はたからみれば何を憂いているのかわからない。
だって相手はあの黒部だ。そういう基準で人を見るとは思えない。自分対男、自分対女というよりは、自分対人みたいな考え方をしているように見える。彼にとってきっと人間はすべて共通で、差異がない。
「わたしは、恋愛とかあんまりよくわかんないから、若上がなにに悩んでて、心配してるのか、わからない」
「もし、伝えて嫌われたら……こわいだろ」
「こわいの?」
「そりゃ、こわいよ。今までの関係ぶち壊すつもりでするもんだから、告白って」
「みんな、嫌われてもどうでもいいと思ってると思ってた」
「そんなわけないだろ。みんな必死に決まってる」
わたしに今まで伝えてきた人たちも、そうだったのだろうか。わたしにはわからないけれど、若上が言うということはそういうことなのだろう。
「絶対言うなよ、ほんとに」
眉をさげて念を押す若上。縁石にひょいと飛び乗って歩きながら、考える。
好き、とは。恋愛とは。わたしは自分のものにも、他人のものにもあまり興味がない。
ふわりと風が吹いて、スカートを揺らす。両手をひろげて、縁石から落ちないようにバランスをとった。
「わたしは若上の恋愛も、黒部の恋愛も、ぜんぜん興味ない」
「興味ないって、ちょっとひど……」
「──でも! でもさ」
空に声が吸い込まれていく。
「若上のことも、黒部のこともわたしは好きだから。ふたりが幸せであればいいと思うし、若上の幸せと黒部の幸せが一緒になる可能性があるなら、わたしはそれを応援するよ」
若上は一瞬止まって、わたしを見た。
誰かを好きになって、怖気付いたり、必死になったりする。
それができる若上を、ほんの少し、うらやましく感じてしまった。
˚✧₊⁎✧༚
【愛情がよくわからない。家族愛も、友愛も、恋愛もよくわからない】
自分が書いた短冊に目を落とす。裏返すと、そこにはたくさんの返事が書かれていた。
【これから分かるようになります】
【きっと愛してくれる人に出会えると思う!】
どれも無責任だ。分かるようになる保証なんて、どこにもないのに。
その中で、ひとつ、芯のある文字が目に入った。
【あなたは、とても、大切です】
その文字だけが浮かび上がって見える。
意味が分からない。答えになっていない、はずなのに。
目頭が熱くなる。
わたしは、大切。
その響きがぐるぐると頭をまわる。
ずっと、関心を持ってもらえないのは、わたしのことが大切じゃないからだと思っていた。実際、兄のほうが大切なのだろう。
それを認めるのが嫌だった。
そうだ。わたしは、大切だと言ってほしかったのだ。誰かに。
「ねえ」
いきなり、声が聞こえて振り返る。そこには、見たことのない女の子が立っていた。髪にピンク色のリボンをつけている。
彼女の瞳がわたしの目を、まっすぐに貫いている。
それが徐々に睨みつけるようなものに変わった。
彼女はわたしのもとへと歩いてきて、一枚の短冊を顔の前に突き出した。
「これ、あなたの字だよね」
なにを言われたのかわからなくて、目を見開く。そこには、【わかります】という文字が並んでいた。裏返して、元の短冊を確認する。それはたしかに、わたしが返事を書いた短冊だった。
こくりとうなずくと、彼女の顔がみるみる赤く染まっていく。
「なにが、わかりますなの。あなたにわかるわけないくせに」
絞り出すような声で言われる。
いきなり棘のある言葉をぶつけられて、驚く。どうして、わたしが返事を書いたと知っているのだろう。
「そもそも、なんでわたしって分かったの。仮面してるんだから、わかるわけないのに」
「この独特な字。わかるよ」
「そんなの、ルール違反じゃないの……?」
誰が書いたかわからない。そういうルールだったから、参加した。
なのに筆跡で当てるなんて、そんなのずるい。どうしてわたしが責められないといけないのか。
「適当に返事しないでよ。私が、どんな気持ちでこれを……」
短冊を持つ彼女の手が震えている。
しわになっている短冊をもう一度見る。
【容姿のせいでなにもうまくいかない。生まれ変わったらこんな容姿、誰かと代わってしまいたい】
彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。



