図書室に入る前に、参加者は一度控室で仮面をかぶる必要がある。そのための控室として、いつも美術部と使っているこの空き教室を使わせてもらうことになった。
控室に行くと、そこには雫途くんがいた。からあげのカップを持っていて、わたしに気づくと、軽くそのカップをあげた。
「からあげ一個残ってるんだけど、椿季さん食べる?」
まるでなにもなかったかのように、いつも通り笑みを浮かべている。「大丈夫」と返事をして、雫途くんの近くにあった椅子に座った。雫途くんは最後のからあげを口に運んだ。
さっきみた光景がフラッシュバックする。
「椿季さん、そんな顔してどうしたの?」
雫途くんがわたしの顔を見て笑っている。
この人は、ずっと、笑っている。
「傷ついてないふりは、だめ、だよ」
声が震える。雫途くんはいっさい表情を変えないまま、「なんのこと?」と首を傾げた。
彼が目を細めて笑う。その顔を見るたびに、なぜか、切なさが増していく。
「さっき……廊下で、きいちゃった。好感度の、はなし……」
「あぁ、あれ。椿季さんも近くにいたんだ」
表情も、声も、いっさい変わらない。雫途くんのはずなのに、どこか遠い場所にいる人と話しているみたい。
「ああいうこと言われて、傷つかないの……?」
好感度狙ってる、とか。わたしは、そんなふうに言われるのは嫌だ。
雫途くんがそんなふうに言われているのも嫌だ。
だけどいちばんは、それを言われてへらへら笑っている雫途くんを見るのが、嫌だ。
「あいつら、仲良いからさ。すごいいじってくるんだよ、もう慣れてるし。椿季さんにはわかんないかもしれないけど、こういうの、俺たちの間ではよくあるんだ」
──椿季さんにはわかんないかもしれないけど。
突き放すような言い方だった。雫途くんの視線が逸らされる。
目が、合わない。
「俺は慣れてるからさ。椿季さんが心配するようなことは、なにもないよ」
「慣れてる、って……」
「だからこの話はもういいでしょ」
明らかにようすがおかしい。じっと見つめると、「なに」と言いながら、雫途くんは眉をさげて笑った。
「笑って誤魔化したら、だめだよ」
勝手に言葉が飛び出す。もう、止まれなかった。
「傷ついたことをなかったことにして笑ってたら、なにが嬉しくてなにが嫌か、わかんなくなっちゃうよ」
そんなふうに、笑ってばっかりじゃ。傷つくことに慣れてしまったら。
いつか心がなくなってしまう。
「笑ってごまかしても、傷は消えたりしないんだよ」
傷ついた心は消えない。笑っても、癒えない。
そんなふうに、哀しい笑みを浮かべないでほしい。これ以上自分を犠牲にしないで。
「なんで椿季さんにそんなこと言われないといけないの」
その一言で、ハッと我に返った。雫途くんは、まっすぐにわたしを見つめていた。
その瞳の圧に、尻込みしそうになる。
黙り込むわたしを睨むように見ていた雫途くんの瞳が、ふっと柔らかくなる。
「そんなふうに言われると、俺困っちゃうな」
そしてまた、笑う。
どうやったら、この人の仮面を剥ぐことができるのだろうか。
わからない。隙がないほど張り付いていて、取ることができない。
椅子から立ち上がって、彼の前に立つ。息をゆっくりと吸って、吐き出す。
なぜか、泣きそうになった。
「誰も、そんなこと求めてない。笑って誤魔化すの、求めてないよ」
その瞬間、雫途くんが立ち上がる。見下ろしていた顔が、今度は見上げる形になった。
雫途くんの顔から笑みが消える。
「じゃあ言うけど。いま、傷ついてるよ、俺」
「……っ」
「椿季さんにそんなふうに言われて、傷ついた」
鈍器で殴られたような感覚になる。心臓がぎゅっと締め付けられて、その場から動けなくなる。声が出ない。
「俺が傷ついたって知ったら、相手、気にするでしょ。それは椿季さんがいちばんわかってるんじゃないの」
「……そ、れは」
「俺がこうして笑ってると、全部がうまくいくんだよね」
からあげのカップをくしゃりと潰した雫途くんが「そろそろ時間だよ」と仮面を持った。
わたしも自分の仮面をとって、かぶる。
いまは自分の顔を見られないことに、ひどく安堵した。
図書室に足を踏み入れると、そこは別世界のようだった。カーテンを閉め切って電気を切っているから、あたりは暗い。ランプがいくつか灯っている。
これから一緒にイベントをするのに、空気が悪いままは嫌だ。
前を歩く背中に声をかける。
「が、がんばろうね」
「うん」
無視はされない。ちゃんと声が返ってくる。それでも、一度あいてしまったくぼみは修復できそうにない。
それだけは、わかってしまって。いや、わかっていた、はずなのに。
【午後の部、スタートです】
放送がかかってから少し経って、図書室の戸が開く。仮面をかぶった人たちが、ぞろぞろと図書室に入ってきた。
「いらっしゃいませ。ここは仮面読書会です」
いつもとかわらない声音で、雫途くんが進行を始める。さっきまでの出来事なんて忘れてしまったような冷静さだった。
説明を受けた参加者はペンを手に取って、各々の場所で短冊を書き始めた。
「いらっしゃいませ。ここは仮面読書会です」
「普段言えない本音をぜひ、ここに書いてみてください」
図書室の中が人でいっぱいになる。こんなに人が来るなんて。
想像以上だった。
仮面をかぶっていると、本当に誰が誰だかわからない。
本棚から本を抜き取って、なにかを挟む人。挟まっていた短冊になにやら書き込む人。ランプの写真を撮る人。本の1ページをじっくりと読んでいる人。仮面をつけて自撮りをしている人たち。
この図書室のなかに、本当にいろんな人がいる。
どんな素顔をしているのか、わからない。分かるのは、彼らの、本音だけ。
雫途くんは、入ってくるお客さんに丁寧に説明をしていた。まだまだお客さんは来そうだ。
「書かれた短冊は、16時10分になったらお返しします。それまでは他の出店を楽しんできてください。もちろん、ずっとここにいても構いません!」
声をあげると、色とりどりの仮面がいっせいにわたしを向く。スパンコールがきらきらと輝いている。
お客さんに説明をして、会場を見回る。そうしているうちに、あっという間に15時半になった。午後の部がはじまったばかりの頃よりは、お客さんの数も少なくなっている。
「副委員長」
雫途くんが急にわたしを呼んだ。どうしてそんな呼び方をするのかと思ったけれど、おそらく名前を伏せる配慮だろう。
「副委員長も参加してきていいよ。せっかくだからさ」
「でも、しっ……い、委員長は、参加しないの」
「俺は……運営するほうが楽しいから」
ひらひらと手を振られる。たしかに、参加するなら、今の人が少ない時間がチャンスかもしれない。雫途くんにうなずいて、短冊がある机に行く。
ペンを持つ。けれど、なにを書けばいいのか、なかなか出てこない。
しばらくその場で考え込んだ。ドアの付近で仕事をしている雫途くんを振り返る。
『なんで椿季さんにそんなこと言われないといけないの』
『じゃあ言うけど。いま、傷ついてるよ、俺』
雫途くんの言葉が反芻する。
ずっと、人を傷つけたくないと思っていた。自分を守るいちばんの方法は、誰とも関わらないことだと思っていた。
『友達だと思ってたのに』
中学生だったころのあの日、かつての親友にしてしまったみたいに、誰かを傷つけるのはもう嫌だった。こわかった。
でも。
『教えてくれてありがとう。うれしい』
関わることでひろがった世界と、知ったあたたかい言葉がある。
ひとりでいたら、誰かの優しさに触れることも、優しさを分けてあげることもできない。
【人を傷つけてしまうくらいなら、関わらないほうがいい。そう思っていたけど、わたしはやっぱり、誰かと関わりたい。話したい。向き合いたい】
向き合うことから、逃げたくない。
どんなに傷つけられても、傷つけてしまっても、関わることを諦めたくない。
短冊を持って、本に挟む。その本にはすでに、わたしの他にも、数枚の短冊が挟まれていた。
【本当は上京して夢を追いたい。でも、うまくいくかわからないし、親に心配をかけたくない】
【自分の将来が不安。受験がうまくいくかわからないし、そもそも自分が将来なにをしたいのかわからない】
それぞれの筆跡で、筆圧で、書かれている。短冊を裏返すと、ぎっしりと返事が書いてあった。もうわたしが書くスペースはなさそうだった。
本を閉じようとすると、ひらりと足元にピンク色の短冊が落ちた。ゆっくりとかがんで、拾い上げる。
【容姿のせいでなにもうまくいかない。生まれ変わったらこんな容姿、誰かと代わってしまいたい】
今にも声が聞こえてきそうな叫びだった。ゆっくりと裏返す。そこにも返事がいくつか書かれていた。
わたしは自分の容姿に対して何も思ったことがないから、わからない。わからないけれど、わたしとは違う悩みを持つ人がたくさんいるということを改めて痛感する。
その短冊を本に戻す。
次の本を手にとって、ぱらぱらとページをめくる。挟まっていたのは一枚だけだった。
【恋愛対象が人とは違うから、伝えられない】
裏返すと、そこにはひとりの返事しか書かれていなかった。わたしもなにか返事を書きたい。
そう思うのに、なにを書いたらいいのかわからなかった。
恋愛対象が人とは違う。それはつまり、性別が絡んでいるのだろうか。事情を知らないわたしが変な返事を書いて、傷つけることになってしまったら。伝えたほうがいいよ、とか、そんなの気にしないでください、とか。
そんなぺらぺらな言葉は届けられない。ペンを握っていた手の力が弱まる。
もう一度、短冊に視線を落とす。空白の多い裏面に、ただひとつ、書かれている返事。
【伝えられない気持ちは、私にもわかります。相手に嫌われたくないから、ためらう】
このひとことが、この短冊を書いた人に、そのままのあたたかさで伝わればいい。そう願うことしかできなかった。
本を閉じ、図書室をぐるぐると回る。本棚のコーナーを変える。恋愛小説の棚に来た。
一冊抜き出して、めくる。
数枚の短冊があった。
【今まで一度も彼氏ができたことがないから欲しい。高校生のうちに恋愛しておきたい】
【親友と好きな人がかぶりました。諦めたくないけど、僕は親友のことも大事です】
【ネット恋愛を馬鹿にされました。距離が離れているだけで、遠距離となにも変わらない。相手は私の大切な人なのに、悔しいです】
恋愛に関する短冊が多い。みんな、声に出していないだけで、いろいろな悩みを抱えている。
短冊を持つ手が震える。この本に挟まっている最後の一枚だった。
【愛情がよくわからない。家族愛も、友愛も、恋愛もよくわからない】
感情が見えない短冊だった。ぐにっと頬を引っ張って笑う母の顔が浮かぶ。
愛情。わたしは親に愛してもらえていると、認めることができる。愛されているか?なんて疑問に思う暇ないくらいに、明確に分かる。それは、疑いようもないほどに、愛をもらっているからだ。
だからこそ、この短冊には心臓を掴まれたような感覚になる。
思わずペンを握った。
【あなたは、とても、大切です】
返事としては正しくないかもしれない。なんの答えにもなっていないかもしれない。
それでも、伝えずにはいられなかった。
詳しいことを知っているわけではない。この人がどんな境遇を生きているのかわからない。
それでも、大切だ。それだけは言える。見知らぬ誰かに言われたところでかもしれないけど、それでも。
次の本には二枚の短冊があった。
【クラスではいつも盛り上げ役をしてる。明るくふるまわないといけない。そういう自分が好きだし、たまに嫌い】
【理想に近づくために危険なことをする友達を止めたい。だけど、なんて言ったらいいかわからない】
後者の短冊には共感できた。
友達だから、止めたい。だけど、止められない。友達だから。
こういう思いをしたことが、わたしにもある。
次の本にうつる。
【普通に生きるのと何かに挑戦するの、どちらが幸せだろう】
【病気になった。死ぬのがこわい】
【合わないグループで自分を誤魔化してた。でも、それはもうやめたい】
【超えられない先輩がいる。努力しても結局才能には勝てないのだとしたら、野球を続ける意味なんてないと思う】
筆跡をたどる。どれも真剣な言葉だった。
裏返すと、ぎっしりと返事が書かれている。
この短冊の持ち主が、この言葉を見て、少しでも心が軽くなればいい。
本棚に本を戻す。一枚だけ、本からはみ出している短冊があった。
手に取って、開く。
【本当の自分を見せたくない】
息が止まりそうになる。裏返すと、たくさんの返事が書き込まれていた。
【わかります。でも、この仮面読書会で、はじめて本音を吐き出せたような気がしました】
【俺も本音とか簡単に言えない。こわい】
【言ったところであなたに何がわかるの、って思ってしまいます。だから共感します】
ペンを握る。
『俺がこうして笑ってると、全部がうまくいくんだよね』
本当の自分を見せたくない。その言葉が、雫途くんの悲しい微笑みと重なった。
それでもがんばって自分をさらけ出して、ということは、できない。そのせいでわたしはさっき、雫途くんを傷つけた。雫途くんが守っていた領域に無理やり押し入って、傷つけた。
そんな暴力的な言葉は、もう紡ぎたくない。
雫途くんを見ると、こちらの視線には気づくことなく、仕事をこなしていた。
青い水滴がランプに反射して光っている。
君はいま、仮面の下でどんな顔をしているの──?
必死にペンを走らせる。そこで、放送が鳴った。
16時になる。
「これで仮面読書会を終了します。短冊の回収をするので、いったん図書室の外に出て、控室でお待ちください」
雫途くんの声が響く。それに従って、ぞろぞろと人が出ていく。
わたしは、持っていた短冊を回収ケースに入れた。すべての本から、短冊を回収していく。
想定よりはるかに多い量だった。
短冊を長机に並べていく。16時10分になった。椅子に座る。
仮面をかぶった人が入ってきて、各々の短冊をとって帰っていく。
雫途くんの顔を横目で見る。仮面をかぶっているから、表情は分からなかった。



