光にかわる明日から



 文化祭当日は、クラスが浮き足立っていた。
 朝、いつも美術部と使っている空き教室に呼び出される。


「椿季と黒部くんの仮面、できました!」


 にっと歯を見せて笑う日鞠から、仮面を受け取る。
 わたしの仮面は、全体的に赤がモチーフになっていた。顔の右側に、大きな椿が咲いている。仮面の花はすべて花紙で作ったと日鞠は言っていたけれど、まるで本物の椿みたいだ。
 全体に散りばめられたスパンコールがキラキラと輝いている。


「かわいい……」


 自分では絶対に作ることができなかっただろう。こんなに素敵なものが作れるなんて、本当にすごい。


「黒部くんのほうも結構こだわったんだよね。どう?」


 雫途くんの仮面を見る。黒い仮面に、ところどころ青い水が浮かんでいるようなデザイン。けれど不思議だ。青色で書かれているはずなのに、透明な水滴がきらめいているように見える。全体から受ける印象は、青だ。


「素敵な仮面だと思う。早月さん、ありがとう」
「本当にありがとう。日鞠」


 日鞠は照れたようにはにかんだ。日鞠はいつも、とても柔らかい顔をして笑ってくれる。今もだ。


「じゃあ、ふたりとも頑張ってね。あ、椿季とはこのあと一緒に出店まわるんだけど」


 日鞠の視線がわたしに向く。雫途くんが驚いたように、一瞬目を見開いた。
 わたしもびっくりだ。まさか、文化祭を一緒にまわってくれる相手ができるなんて。

 日鞠に誘われたのは、1週間前、一緒に帰った日だった。日鞠は今のグループを抜けて、わたしとまわることを選択したのだ。
 もし、椿季さえよかったら、と。そんなの、わたしに断る理由なんてひとつもない。


 去年は、ひとりぼっちだった。
 でも、今年はそうじゃない。


「じゃ、黒部くんも楽しんで。あたしたちも楽しむからさ」


 日鞠がわたしの腕を掴む。手を引かれるまま空き教室を出た。


【午前の部、スタートです】


 放送が鳴るとともに、一気に廊下が騒がしくなった。


「きゃーー1年生が頑張ってる! 出店は1年生が担当だもんね。あたしたちは楽しむだけなんて、贅沢」


 日鞠が頬に手を当てて言う。かき氷とクレープを買って、空いている教室に移動した。
 廊下には人がたくさんいるけれど、ここには比較的人が少なくて、のんびり飲食できるから安心する。


「日鞠。その……誘ってくれて、ありがとう」


 改めてぺこりと頭を下げると、日鞠は途端に吹き出した。


「ちょっと、やめてよ恥ずかしい……それに、お礼を言うのはこっちの方だし」
「え?」
「グループじゃなくて椿季を選んで良かったって思ってる」


 日鞠がストローを咥える。ズズズ、とかき氷のシロップを吸った。
 そうして、ゆっくりと息を吐き出す。


「あたしは、さ。ひとりになるのがこわくて、とりあえずグループの中に入った感じなの。昔からずっとそう」
「え」
「だから、なんていうか……椿季のこと、すごいなって思って」


 日鞠が顔の前で手を振る。
 

「嫌味とかじゃなくて、本当に。ひとりでいられるって、強いなって思って」


 わたしからしたら、誰かと関わり続けられる人の方が、ずっと。


「だからね、あたしもそんなふうになりたいって思ったんだ。たぶん、急にはなれないけど」
「日鞠も、強いよ。ううん、誰かと居られる日鞠のほうが、わたしなんかよりも」


 ひとりにならざるを得なかった。そうしないと、自分の心を守れなかった。
 わたしが1人でいるのは、そんな情けない理由だ。


「椿季は、さ。どうしてひとりでいたの?」


 日鞠の目がわたしを貫く。まっすぐな目。
 信じてもいいと、自然と思える目をしている。声をかけてくれた、あの日から。


 いままで頑なに守っていた部分を、そっとほどかれるような予感がした。



「中学の時に、友達を傷つけたことがあるんだ」


 日鞠は黙ってわたしを見つめている。


「わたしにもね、スミレっていう友達がいたの。幼稚園の頃から一緒な、すごく大切な友達」


 頭の中に顔が浮かぶ。ツバキ、と笑いかけられる瞬間だ。


 中学生の時、わたしたちは、とある友達の恋愛相談を聞いていた。とてもやさしい男の子なのだと。
 心の底からうまくいけばいいと思っていた。
 けれど、その恋はうまくいかなかった。

 スミレがその男の子と付き合ってしまったからだ。スミレが"抜け駆け"をしたというのは、たちまちわたしたちのグループにも伝わった。

 スミレは言った。わたしのほうが先に好きになった、と。
 だけど、みんなはスミレを責めた。友達の恋愛相談をどんな気持ちで聞いていたのかと、怒った。
 わたしは黙ってみんなを見ていることしかできなかった。

 どうしたらいいかわからなかった。
 どちらの気持ちも、わかるからだ。


『ツバキは、わかってくれるよね? わたし、悪くないよね?』


 そういうスミレに、うまくうなずくことができなかった。スミレの瞳孔がぎゅっと縮んだ瞬間が、忘れられない。


『最悪。ツバキも私の敵だったんだ。友達だと思ってたのに』


 その目にみるみる涙が浮かび、わたしを睨みつける。
 傷つけたのだ、と理解した瞬間、心臓が縛りあげられる。

 その日から、スミレとわたしの間には壁ができてしまって、どこの高校にいったのかもわからないまま疎遠になった。友達の情報なんて、知ろうとしなければわからない。それを痛感した。
 今、どこで何をしているのか。昔からずっと一緒にいたのに、今はもう分からない。


 関係が壊れるのなんて、いつだって突然だ。


 わたしは傷つきたくない。それと同じ強さで、傷つけたくないと思った。大切な人を。
 関わってしまえば、傷つくし、傷つける。

 わたしは自分が傷つけられる鋭さと同じもので、同じように誰かを傷つけている。
 意図的でも、そうでなくても。関わる以上は、避けられない。


「……だから、ひとりでいることにしたの。いまも……実はまだ、ちょっとこわい」


 日鞠のことも。なにかの拍子にぶつかってしまったらと思うと、不安だ。
 日鞠はわたしの手に腕を伸ばした。体温が伝わる。


「教えてくれてありがとう。うれしい」


 ただそれだけだった。
 それだけのことに、とても救われた。




★


 午前の部もそろそろ終わってしまいそうだ。午後からはイベントがあるから、日鞠ともいったん別れることになる。
 階段のそばでポテトを食べていると、隣の教室から男子の集団が出てきた。そこに、雫途くんもいた。すらりと伸びた背がよく目立つ。

 耳のすぐ横で鼓動が聞こえる。

 どうして心音がこんなに大きく打つようになってしまったのだろう。前は、こんなのじゃなかったのに。


「雫途、お前このあとイベントするらしいじゃん」
「え、まじ? なにすんの?」
「トショイインカイ、だろ? こいつが委員会入ってから、女子が図書室に殺到したらしいぜ」



 距離が近いからか、会話が聞こえてくる。彼らは廊下の反対側に移り、からあげを食べながら話を続けている。


「うわー、お前まじでモテるよな」
「ま、雫途は優しいし。この顔だしな」
「ちょっとは分けろよこのやろぉ」


 じゃれているような声だった。あはは、と笑いが起こる。その輪の中で、雫途くんもへらへらと笑っていた。この人は、いつもそうやって笑っている。泣いたり、怒ったり、取り乱したりしているところを見たことがない。
 穏やかで、軽やかで。まるでずっと、なにかを躱(かわ)すような。


「黒部ってさ、みんなにそうなの?」


 輪の中のひとりが声を上げる。喧騒の中で、それははっきりと聞こえた。
 ポテトをつまんでいた手が止まる。


「そうって、なにが?」
「だーかーらー。黒部って、みんなに優しいじゃん。委員会自分からやるって言ったり、先生の手伝いしてたり。どんな女子に話しかけられても笑顔で応じてるし」


 彼の言葉に、周囲の男子がうなずく。
 やっぱり雫途くんの優しい部分は、まわりの男子も気が付いているんだ。

 彼の善行を見ている人もいることに、なぜだか安堵とうれしさがこみあげてくる。
 次の瞬間だった。


「それってさ……ぶっちゃけ好感度狙い?」


 笑いのまざった声が耳を抜けていく。頭を殴られたような衝撃が走った。
 たしかに、彼の善行は、見返りを求めなさすぎると思って最初は怪しんでいた。けれど、彼は。
 好感度を狙うみたいな、そんな理由で動く人じゃない。

 問いかけた男子は、からあげを口の中に放り込んだ。彼に続くように、隣にいた男子が口を開く。


「女子にも優しくしてるけどさ。あんまり狙いすぎると、勘違いされて大変そうだし」
「たしかに、お前モテるから。そこの自覚持たねえと女子可哀想じゃん?」
「まぁでも、黒部だしなー」


 ぎゃはは、と笑いが起こる。
 雫途くんがうつむくのが見えた。


 傷ついたのだろうか。わからない。


 わたしだったら、こんなふうに言われたら、耐えられない。文化祭を一緒にまわっているような親密度の友人に、そんなことを言われるなんて。


「なーんて、ノリじゃん?」
「え、本気にした? マジ?」


 わからない。いちど傷つけてしまったら修復は難しい。人間関係はそれくらい脆いはずなのに。

 彼らは、本当に冗談で言ったのだろうか。これは、よくあることなのだろうか。これくらいで傷ついてしまうわたしが、おかしい?
 わからない。

 雫途くんがいま、何を考えているのかさえも。

 雫途くんが顔をあげた。泣いていたら、どうしよう。ちゃんと元通りに和解できるのだろうか。
 雫途くんの表情が見える。息を呑んだ。


──雫途くんは、笑っていた。


「お前ら、ひどすぎだから。ショックー」


 そう言って、へらへら、へらへら。まるで剥がれない仮面をまとっているように、ずっと笑っている。


「さすがに怒ったかと思って焦ったー」
「なんで俺が怒るの?」
「お前、鈍感っつーか。何言っても怒んないよなあ、ほんと」


 そんな会話をしながら離れていく。やがて彼らの姿は見えなくなった。張り詰めていた空気が緩んで、肺が満たされていく。無意識のうちに呼吸を止めていたことに気づいた。


「次、どこ行こっか。射的? フォトスポットでもいいよね」


 日鞠が食べ終わったポテトの紙袋をぐしゃっと潰して、立ち上がる。

 けれど、わたしの頭の中は、先ほど見た光景でいっぱいだった。