光にかわる明日から



 もし30秒前に戻れるとしたら、次こそは絶対に選択を間違えたりしない。そう心に誓いながら、わたしは自らの開かれた手を見つめていた。
 後悔したって仕方がないのに、3分の1の確率に勝った世界線のことを考えてしまい、辟易する。


「じゃあ、女子は垣根さんが図書委員ということで決定ですね」


 5人だったとはいえ、一人負けなんて、運がなさすぎるのではないだろうか。仕組まれたのかと疑ってしまうほど、綺麗に揃ったチョキのなか、控えめに開いた手に視線が集まった瞬間を思い出す。くやしい。
 ぱちぱちと拍手が聞こえ、わたしの図書委員が決定した。
 ふ、と静かにため息をつく。

 図書委員。仕事内容はそこまで大変ではないけれど、休み時間と放課後の時間が削られるせいで人気のない仕事。あと、男子の図書委員と一緒に仕事をするというのも、わたしにとってはかなりつらい。カウンターの仕事は基本的にふたりきりだ。昼休みと、放課後。共有する時間が必然的に増えてしまうのも、難点のひとつだった。

 なるべく、平和なひとがいい。深くかかわりすぎないで済む相手。
 最低限のコミュニケーションがとれる温厚な相手なら、だれでもよかった。

 席に着くと、スカート越しに硬い椅子の感覚がした。息をつく。その瞬間がクラスの静寂と重なって、呼吸が浮いたような気持ちになる。けれどそれはわたしの思い過ごしだというように、凛とした声がクラスに響いた。


「では、男子もじゃんけんで決めたいと思います」


 学級委員長の言葉に、まだ委員会の決まっていない男子が立ち上がる。負けた人、どうか嫌な反応をしないでほしい。せめて、少し顔をゆがめるくらいでとどめてほしい。
 風が吹く。カーテンが揺れる。その風が教卓に立っている学級委員の髪をかすかになびかせた。

 それと同時に、


「あの」


 声が響く。驚いて声がしたほうを見つめると、ぴんと伸ばされた手が彼の意思を主張していた。


「俺、やりますよ。図書委員」


 教卓に集まろうとしていた男子の動きがぴたりと止まる。しん、と静まり返る教室の中で、手をあげた彼だけがにこやかな笑みを浮かべていた。彼の言葉を理解した人から、手を叩き出す。


 これはつまり、立候補。


 パチパチと拍手が起こる。争う必要のなかった男子達は、安堵の表情を浮かべていた。
 顔を動かして、もう一度、立候補した彼を見る。彼のほうがわたしよりも後ろの列にいるから、振り向かないとみることができない。

 茶色い髪が光を受けてきらきらと輝いている。見たことのない顔だった。きっと、1年生のときは違うクラスだったのだろう。去年のクラスメイトのこともあまりよく知らないけれど、顔と名前は一致せずとも、その顔がクラスにあったかどうかくらいは分かるはずだ。見覚えがないということは、そういうことなのだろう。
 自分の交友関係の狭さに反省しながら、彼を見つめる。
 光に照らされる姿がやけにまぶしくて、逸らすように前を見た。緑色の黒板を見つめる。
 
 平和なひとだったらいいな。
 心の中でひそかに願った。



 3日後。今日の放課後には委員会がある。図書委員に立候補した彼とは、教室で一言も話すことはなかった。彼はいったい、どんな人なのだろう。登校してからも、下校の前も、常に誰かが彼の近くにいき、声をかけている。
 そんな人だ。


 あっという間に放課後になり、委員会に入っていない人たちはぞろぞろと教室を出ていく。残って談笑しているひともいるけれど、わたしは委員会に行かなければならない。
 先に行ってもいいのだろうか。並んで歩くのはあまり想像ができないけれど、同じ委員会の会場にいくのに、勝手にひとりで行って感じが悪くないだろうか。
 できれば、ひとりで行ってしまいたい。必要以上に会話をするのを避けたい。

 だけど、感じ悪く思われるのも同じくらい嫌だ。

 ぐるぐる悩みながら彼のほうをちらりと見ると、視線がかち合った。
 ピンと糸が張るように、まっすぐに目が合う。


 動揺していると、彼は男子グループから抜けて、こちらに歩いてきた。想定外の行動に、どぎまぎする。
 髪をなで、視線を足元に落とす。

 影が目の前に現れた。彼だ。


「ごめん。今日の委員会、俺出れないや」
「……え?」


 理解するのに時間がかかった。思わず顔をあげると、口元に笑みを浮かべた彼が目の前で手を合わせる。


「部活。大会近くて、そっち出ないといけないから。今回はお願いしてもいいかな」
「えっ……と」
「次の委員会は、俺が出るから」


 唖然。何も発することができずに、彼の顔を凝視してしまう。悪びれているようすもなく、ずっとうっすらと笑っている。
 たしかに、委員会にはクラスでひとりが参加すればいい決まりになっているから、彼が休むこと自体は問題ない。
 けれど、立候補したくせに。大会なのはしょうがないかもしれないけど、それってどうなの。
 もやもやした感情が広がっていく。


「さ、最初の委員会だから……決めることとか、あると思うけど」


 仕事内容や図書当番の日だって、確認しないといけない。わたしが勝手に決めたら、彼だって困るはずだ。
 彼は「あー」と少しだけ考えるそぶりをした。


「大丈夫。いつでもいいから、いいように決めといて」


 そう言って、友達が持ってきた鞄を「サンキュ!」と受け取り、教室を出ていく。
 なに、あの人。

 今日の委員会で関わることになるんじゃないかと憂鬱だったのに。立候補するくらいだから、図書委員に前向きなやる気のある人だと思っていた。

 ぜんぜん、違った。仕方ないのはわかっている。けれど、これはあんまりだ。
 少なくとも好印象ではない。


 ひとりで委員会場所に向かう。ひとりをのぞんでいたはずなのに、なんだか思っていたのと違う。
 教室に入ると、もうすでに他クラスの生徒がちらほらと座っていた。

 黒板に座席がかいてある。【2-2】と書いてあるのを確認し、その席に座った。
 まもなくして、担当の先生が入ってくる。

 チャイムが鳴り、先生が教卓に立つ。眼鏡をかけていて、温厚そうな女性の先生だった。みなさん、と呼びかける声音が優しい。
 先生は眉をほんの少しだけさげて「実は……」と言葉をつづけた。


「二年生の中から、委員長と副委員長を決めてもらうことになっているの。そんなに嫌そうな顔をしないで。ほんの少し、名前を借りるだけよ。あと、文化祭のときに少しお手伝いをお願いする程度」

 そういえば、委員長は二年生が務めるんだった。すっかり忘れていた。
 名前を借りるだけ、と言っていたけれど、委員長という名前がつくだけでなんだか荷が重い。
 まわりを見まわしてみたけれど、当然ながら立候補はなかった。


「それじゃあ悪いのだけれど、じゃんけんで決めてもらってもいいかしら」


 心臓が縮むような感覚がした。
 うまくいかない予感は、だいたい当たる。じゃんけんをする前から、なんだか結果が決まっているように思えてくる。
 どうしよう。何を出せばいい。わたしが負けたら、同じクラスの図書委員である彼も必然的に役職を背負うことになる。じゃんけんをするわたしに責任があるのだから、もし敗北したら、わたしが委員長で、彼が副委員長だ。


 クラス代表が集まる。拳を中央に集めて、掛け声に合わせて手の形を変えた。
 ポン、と一発で勝負が決まる。


 結果を理解した途端、ごめん部活だから、と笑う彼の顔が浮かんだ。

 申し訳なさと悔しさが同時に襲ってくる。


「じゃあ2年2組さん、お願いしますね」


 ──副委員長になってしまったといったら、彼はいったいどんな顔をするのだろう。








 翌日、わたしたちの当番は毎週水曜日に決まったことと、負けて委員長副委員長になってしまったことを報告した。彼は「水曜日、ちょうど部活オフだ。ラッキー」とガッツポーズをする。
 わたしはそんな彼のもとから一刻もはやく離れてしまいたかった。


「……ほんとにごめんなさい」
「なにが? 水曜日なんて、いちばんいい曜日を選んでくれて、むしろありがとうだよ」
「そうじゃなくて、副委員長……じゃんけん、負けちゃって」


 か細くなる。今にも消えてしまいたいと思っていると、「副委員長?」と声が落ちてきた。


「え?」
「副委員長って、俺のこと? 委員長がしたいの?」
「そんなこと、ない」


 ぶんぶんと首を振る。ただ、じゃんけんをしたのはわたしなのだから、メインの役目を務めるべきだ。
 すると彼は少し笑って、「俺委員長やるよ」と告げた。


「……いいんですか」
「べつにいいよ」


 嫌がるそぶりもなくあっさりと告げられる。
 もしすごく嫌な顔をされたら。責められたら。そう心配していた昨日の自分がなんだか馬鹿らしく思えてくる。


「委員会ありがと。じゃ」


 ひらひらと手を振って、廊下を歩いていく。
 やる気があるのか、無責任なのかわからない。どこに感情があって、なにを思っているのかもつかめない。けれど少なくとも、怒ってはいなさそうだった。

 ため息をつく。水曜日がくるのが、なんだか少しこわかった。




 ほんの少しの憂鬱と不安で迎えた水曜日。
 もしかしたら図書当番まで何か理由をつけて休むつもりなんじゃないかと疑ったけれど、そんなことはなく、わたしよりも先に彼は図書室の椅子に腰かけていた。


「よろしくね、椿季さん」


 は、と声が洩れそうになる。もう名前を把握されている。しかも、普段苗字で呼ばれることばかりだから、いきなり名前で呼ぶ距離の近さに少々の嫌悪さえ感じざるを得なかった。


「……どうも」
「冷たくない?」

 わたしの顔をのぞきこむ彼の髪がさらりと揺れる。冷たくない?と寄せられた眉が左右均一だ。
 クラスでみたときはたいして何も思わなかったのに、こうして近くで見るとなんとも整った顔だ。

 反射的に身を引く。顔と顔の距離がわずかに保たれて、安堵する。大丈夫。パーソナルスペースはちゃんと守っている。自分自身で。
 彼はわたしが距離をとったことなどまるで気にしないように、笑みを絶やさないまま首を傾げた。


「俺の名前、わかる?」
「いや……」
「雫途(しと)っていうんだけど」


 その名前を聞いて、思い出す。たしか、一年のころからその名前は有名だった。噂の中で、やたら容姿を褒められていたからだ。それに、今まで出会ったことのない珍しい名前だから、印象に残っていた。けれどそれがまさか、彼だったとは。名前と顔が今になって一致する。騒がれている理由がなんとなくわかった気がした。
 先ほどからまったく表情を変えない。まるでお面を張り付けているみたいな笑顔のまま、彼は続ける。


「せっかく同じ図書委員になったんだから仲良くしてよ」
「……べつに、なりたくてなったわけではないので。立候補したあなたとは違いますよ」


 ためいきが洩れる。すると、彼は頬杖をついて遠くを見つめた。その横顔に小さく影が落ちる。


「べつに俺も、好きで図書委員になったわけではないけどね」
「どういうこと? じゃあどうして、立候補なんて」


 彼の長いまつ毛がわたしを刺すように向いた。しん、と空気が張ったその瞬間、彼はふにゃりと顔を崩して笑った。


「そのほうが丸く収まるじゃん? 平和的解決」


 とんでもない善人だ、と思った。じゃんけんをすれば、他の誰かが図書委員になる可能性だってじゅうぶんあるというのに。自らそれをつぶすなんて、理解できない。

「てなわけで、俺がここにいるのは本目当てではないってこと。本なんて読んだことないし、カウンターの仕事もやりたいわけじゃないよ」
「え、じゃあなんで立候補したの」
「話が堂々巡りしてない? さっきも言ったじゃん。みんな嫌がってたから、平和的解決のために」

 へらへらと笑う彼の言っていることは、意味は分かるけれど理解できない。たまにいる、自分を犠牲にしても周りに幸福でいてほしいというタイプの人間なのだろうか。たしかに、自己犠牲型の人間は世の中に存在する。わたしにはわからない感情だ。

「だ、か、ら。このまま退屈するのも嫌じゃん。そこで、俺は椿季さんと仲良くなりたいってわけ。友達になろうよ」
「むりです」
「冷たいなぁ」
「冷たくない」

 仲良くなんてできない。彼とは根本の考え方から違う気がする。こんな善の塊みたいな人間と関わったら、きっと。

 黙って前を向くと、隣で小さくため息をつくのが聞こえた。これから一週間に一度、彼とこうしてふたりでカウンターに座ると思うと、気が滅入る。

 窓の外は晴天だ。はやく陽が落ちてほしい。そうしたら、この時間から解放される。


 放課後の図書室は、がらんとしている。数人が本を読んでいたり勉強しているだけだ。広い空間に、ぽつりぽつりと存在している彼らは、わたしたちの会話などまったく気にしていないようだ。

 その時、急に戸が音を立てた。反射的に戸を振り返ってしまい、現れた人物と一瞬目が合う。

 端正な顔立ちの女性。彼女の名前は、わたしも知っていた。

 篠木(しのぎ)こすも。クラスが違っても、彼女は有名だった。目を引く容姿と、学年トップを争う頭脳。去年の文化祭のクラスムービーに出演したことで、顔と名前が瞬く間に知られていった。わたしもそのクラスムービーで彼女を知ったひとりだ。

 無論、話したことはない。わたしが一方的に知っているだけなのだけど。

 図書室で勉強だろうか。やはり、学年トップを維持するのは日頃の努力の賜物か。彼女は本棚を数秒見つめた後、近寄って一冊の本を抜き取り、ソファに身を沈めた。

 勉強じゃなくて、読書か。まぁ読書のイメージもあるから、充分納得できる。


 わたしもカウンターの横にある返却済みボックスから、適当に一冊を選んで広げる。活字を目でたどっていると、隣の彼の気配は次第に気にならなくなった。


 どれくらい、時間が経っただろうか。物語から現実へとわたしの意識を呼び戻したのは、18時を知らせるチャイムだった。今日は本を借りに来る人はおらず、どうやら図書室で過ごすことが目的の人たちばかりだったらしい。隣を見ると、善人の彼は顔を伏せて寝ていた。業務放棄も甚だしい。とはいえ、この静かな空間で本も読まずにじっと起きているほうが難しいだろう。


「あの」


 声をかけても、返事がない。よほど深い眠りについているようだ。


「ねえちょっと」


 仕方がないので肩に手をかけて軽くゆする。


「ぜ……善人」


 声をかけたところで、彼の頭が動き、ほんの少し目が覗いた。その目がわたしを捉えてから、ぱちぱちとまばたきをして、起き上がる。


「ふはっ……善人って」


 口に手を当てて笑いを洩らす、善人。
 その呼び方はまずかったかな、と思いつつ、苗字を知らないので仕方がないと自分に言い聞かせた。


「名前で呼んでよ。椿季さん」
「……」
「あ、もしかして名前忘れた? もっかい言うけど、俺の名前は──」
「分かる。雫途……くん」
「そうそう」


 満足げにうなずく彼を見ていたときだった。彼の視線が、横にスッと流れる。


「よっ」


 ふと、カウンターを通り抜けようとした人物に、雫途くんが声をかけた。彼から視線をうつして、思わず声が洩れそうになる。

 夕日で輝く横顔。すらりと伸びた背。艶のある長い髪。
 そこにいたのは、篠木こすもだった。

 驚いて雫途くんのほうを見ると、彼は篠木こすものほうをまっすぐにみてにこやかな笑みを浮かべていた。


「……どうも」
「読書、好きだったっけ」
「まぁ、嫌いではないよ」
「へぇー、じゃあまた今度おすすめ教えてよ」


 篠木こすもはこくりと頷くと、一瞬だけ、わたしに視線を向けた。突然の視線に、どきりと心臓がはねる。わたしが動揺していると、彼女はすぐに図書室を出ていった。

 委員会記録に名前を書きながら、隣に座る雫途くんに話しかける。

「友達、なんだね。他クラスなのに」

 彼はこちらを向いて、少しだけ目を細めた。

「まーね」
「顔、広いね」
「そう?」

 わたしなんて、同じクラスにも友達と呼べるような相手、いないのに。彼は男女、クラス問わず広い人脈だ。

 彼が名前を書いている間に、席を立って窓のほうへ歩く。窓から外を見ると、陸上部が走っていた。こんなに遠くから見ても早いのだから、近くで見たらそれはもう風みたいな速さなのだろう。

 窓を閉めて、鍵をかける。カチャッ、と音がした後に確認をすると、当然ながら窓はもう開かなかった。


「すごい用心深いんだね、椿季さん」


 振り返ると、机上の整頓をしている雫途くんが笑っていた。


「結構みんなするんじゃないの? ほんとに開かないか、心配になるじゃん」
「俺は確認とかあんまりしないタイプだからさ、椿季さん、ミスとかあんましないんだろうなー、って」
「……べつに、そういうわけじゃ」


 よく見ているな、と思った。そんなこまかい仕草のひとつを、よく。

 雫途くんが鞄を持って、カウンターから出た。わたしも鞄を掴んで、忘れ物がないかを確認する。鞄の中に視線を落としていると、急に「椿季さん」と声が降ってきた。


「2人で帰る?」


 顔を上げると、まっすぐに射抜かれる。凛とした光の中に、わたしがいる。その明るさに、わたしは触れてはいけないのに。


「……結構です」
「相変わらず冷たいなぁ」


 へへ、と力なく笑った雫途くんは、「じゃあね」とあっさり告げて図書室を出ていった。

 ゆっくりと、息をする。
 危なかった。雫途くんは、わたしが長年守ってきたスペースに、するすると入ろうとしてくる。これは、よくない。


 廊下に飾ってある美術部の絵を見ながら歩く。ネームプレートを見ても、誰一人としてわからない。自分の人脈のなさにほんの少しだけ切なくなる。
 吹奏楽部の音を耳で受けながら教室の前を通りかかったときだった。思わず足が止まる。

 暗がりの教室の中に、ひとつの影を見つけたからだ。

 その人物は窓際の席に座り、頬杖をついていた。長い髪の毛が机までまっすぐに伸びている。じっと窓を見つめているから、わたしに気づいてはいないようだった。
 暗いし、向こうを向いているから誰が座っているのかも、何をしているのかもわからなかった。
 わたしには彼女に声をかける勇気がない。

 気づかれないように、そっと教室の前を通り抜けた。




*



 翌日、登校すると教室には半分ほど生徒がいた。その生徒の間を縫って、とある席を探す。



「窓際、か……」


 あれはたしか、窓際、三つ目の席。
 座席の配置なんて、まったく気にしたことがなかったけれど、なんとなく昨日の光景がよぎり、その席へと視線が吸い寄せられる。その席にはまだ誰も座っていなかった。教卓にある座席表を見ることもできない。そんなことをしたら、今この教室にいるクラスメイトの視線を浴びかねない。しかたなく座って鞄から物を取り出し、準備をはじめることにした。

 高校二年生になってまだ二週間ほど。それはつまり、クラス替えが行われてから二週間ということでもある。一年生のときも、クラス全員の名前を覚えることができないまま一年が終わってしまった。まあ、覚えようと思っていたわけではないから当然かもしれないけれど。
 このクラスで知っているのは、一年生の時に少しだけ交流のあった人たちと、図書委員をともにする雫途くんくらいだ。


『友達になろうよ』


 ふいにそんな言葉がフラッシュバックして、慌てて首を横に振る。人脈の広い人気者。そんな人と関わったら、絶対に、めんどくさいことになるにきまっている。

 わたしはただ……平和に、過ごしたいだけなのだ。


「あ、雫途きた!」
「おー、雫途おはよ」


 頭に浮かんでいた人物の名前が耳を抜けて、どきりと心臓が音を立てる。


「雫途にしてはおっそいじゃん。寝坊か?」
「寝坊じゃなくて、道路にさ、おばあさん倒れてたから救急車呼んでた」
「はあ? そんな見え見えの嘘じゃなくて、ちゃんと寝坊を認めろよ」
「いやーがちだってば」
「おまえ嘘つきだなー、ほら、女子も引いてんじゃん。しかもぎり間に合う時間にきやがって。それがほんとならちゃんと遅刻しろよな」
「誰も信じてくれてないの? ひっでぇのー」


 頭をわしゃわしゃ撫でられながら、リュックを背負った彼が前を通り過ぎる。数人の男女に囲まれるようにして、彼は窓際の席に座った。


「……え」


 窓際、三つ目の席。昨日の、女の子が座っていた、席。
 何度も目で確認するけれど、彼が座っているのはたしかに昨日、わたしが女の子をみた席だった。

 すると、たわむれていた彼の視線が、ふいにわたしのものと絡み合う。ざわめく教室の音が消え、見えない一本の線がまっすぐに、つながったような気がした。その瞬間、彼がふっと笑う。形のよい瞳がきれいに細められたのを、たしかに見た。


 慌てて目を逸らす。


 意味が、わからない。自分が昨日見たものも、先ほどの笑みの意味も、やけに速くなる心音も。


 壁側に顔をむけ、下を向く。髪が長くてよかった、と心底思った。