教室の前に立つだけで、喉が固まった。
昨日、体育館で止まった時より緊張している気がする。あの時は音が勝手に始まった。でも今日は、自分で口を開かないと何も始まらない。
家を出てから、何度も言う順番を考えた。そのたびに最後へ「まあ、なんとかなるって」と笑いを足してしまい、頭の中で消した。今日は、その一言に逃げない。
黒板の前には白石がいて、健太たちは席に着いたまま、俺を見ている。
久住は窓側の席にいた。
目が合いそうになって、逃げかける。
違う。今日は逃げない。
「昨日、降りるって言ったけど」
思ったより小さい声しか出なかった。
教室が静かになる。誰も続きを急かさない。その静けさが、かえって怖い。
「やっぱり、センターを続けたい」
一度、息を吸った。
笑えば、もう少し言いやすい。いつもの調子で「ごめん、やっぱやるわ」と言えば、みんなも笑ってくれるかもしれない。
でも、それをしたら昨日と同じだ。
「ただ、一人じゃ無理。手伝ってほしい」
最後の方は、少し声が震えた。
言ってしまった。
今すぐ席へ戻って、机の下に隠れたい。高校生用の机にそんな機能がないのが惜しい。
「何を分ける?」
白石がすぐに聞いた。
拍手も、励ましの大合唱もない。ただ、次に必要な話をしてくれる。
「連絡と、小道具の確認。それと、俺がやってた欠席した人への説明。あと……かけ声も、踊りながらだと途中で分かんなくなる」
「じゃ、かけ声は俺」
健太が手を挙げた。
「MCもやる。つーか、それ俺向きじゃん」
「声だけなら無駄に通るしね」
白石が言うと、健太が「無駄は余計」と返す。
教室に小さく笑いが起きた。
俺も笑いそうになった。でも、今は合わせなくていい。少し遅れて、本当におかしくなってから息を漏らした。
「小道具は?」
「俺がやる」
葉山が教室の後ろから言った。
「青い布、体育館まで運んで、終わったら戻す。蒼太を部活へ連れてくついででいいし」
「俺、連れてかれる側なんだ」
久住の声がして、また少し笑いが起きる。
久しぶりに、久住がみんなの中で冗談を言うのを聞いた。胸の奥がきゅっとする。でも、前みたいな痛さだけじゃない。
白石が黒板へ役割を書き出していく。
「私は振り付けと全体構成。変更の連絡は一人に集めない。前と後ろの列から二人ずつお願い」
何人かが、軽く手を挙げた。欠席した人への説明も、同じ列のやつが担当することになった。変更点は昼休みと放課後に、二人ずつ確認する。俺一人の頭に入れておかなくても、演目はちゃんと続くらしい。
「安西はセンターと、自分の動きだけ」
「うん」
短い返事が出た。
これだけでいいのか、と変な感じがした。俺が持っていた仕事が、教室のあちこちへ散っていく。それなのに、誰も嫌そうな顔をしない。
「凪、最初から言えよ」
健太が振り返る。
責められたと思って、肩が固まった。
「まあ、今言ったからいいか。明日、俺の美声で優勝させてやるよ」
「順位はあんたの声量で決まらないから」
「白石、朝から厳しくない?」
いつものやり取りが続いていく。
俺が手伝ってと言っても、輪は消えなかった。
それどころか、俺が黙っていた時間まで、みんなは責めずに残してくれた。
断ったら次はないと思っていた。できないと言ったら、任せてもらえなくなると思っていた。
でも、手放したのは仕事だけだった。俺の席も、明日の立ち位置も、ここに残っている。
チャイムが鳴る前、久住が席を立った。
「久住、ちょっと」
呼び止めると、久住はすぐに足を止めた。俺が廊下へ出ると、黙ってついてくる。
教室から少し離れた窓際で向き合った。恋の返事より先に、今は明日のための話をする。
「久住にも、頼みたいことがある」
久住は何も決めつけず、俺を見た。
「どうしてほしい」
たったそれだけで、喉の奥が少しほどけた。
「俺が止まっても、代わりに前へ出ないでほしい」
「うん」
「でも、俺を見て。俺が久住を見たら、四つ数えてほしい。俺が見てない時は、先に合図しなくていい」
久住は一度だけ頷いた。
「止まっても、代わらない。凪が俺を見たら、一、二、三、四って数える。それ以外は待つ。勝手には手を出さない」
言い換えられると、俺が選んだことが形になった気がした。
「それで、お願い」
「分かった。絶対、勝手に変えない」
その言葉が、今の久住らしくて、少しだけ笑った。
「あと、この前。久住の好きって、俺を助けたいだけなんだって決めつけた。悪かった」
「俺も、凪に聞かないで勝手に決めた。悪かった」
久住はそこで言葉を切った。
「放課後、もう一回やろう」
「うん」
今度の約束は、どちらかが勝手に決めたものじゃなかった。
◇
放課後の体育館には、窓から白い光が差していた。
青い布は葉山が運び、音源は白石が確認している。健太はマイクもないのに、端で発声練習をしていた。
「二年三組、いくぞー!」
「まだ始めてない!」
白石に怒られている。
俺が確認するものは、足元と立ち位置だけだった。
センターに立つ。
斜め右に久住がいる。
怖くないわけじゃない。昨日止まった場所を、身体はちゃんと覚えている。でも今日は、怖いままでも次にすることが分かる。
音が始まった。
健太のかけ声が体育館に響く。俺は最初の一歩を出した。
手拍子。右、左。隊形移動。
途中で視線が集まる感覚に、足が重くなった。
久住を見る。
「一、二、三、四」
低い声が届く。
久住は前へ出ない。ただ、自分の場所で数えている。
次の一歩は、俺が出した。
隊形が変わり、久住が視界の端へ遠ざかる。少し不安になった。でも、健太のかけ声が次の位置を教え、前では白石が大きく腕を振っている。俺を支えるものは、一人だけじゃなかった。
もう一度、四つ。そこから先は、音とみんなの声に乗れた。
三分間が終わる。
最後の形で止まった瞬間、体育館に息を吐く音が重なった。
「いけた!」
健太の声が一番大きい。
「明日も今の分担でいくよ」
白石がすぐに確認へ入る。葉山は青い布を畳みながら、「俺の搬出が完璧だった」と平らな声で言った。
「そこ、採点されてないから」
笑いが起きる。
俺も笑った。
今度は、誰かに合わせるためじゃなかった。
◇
片づけが終わった後、体育館脇の通路で久住を呼び止めた。
ここで何度も、四つ数えてもらった。
今さら何を緊張しているんだと思う。でも、練習の頼みより、ずっと難しい。
「この前の返事」
久住の手が、身体の横で止まった。
急かさない。何も言わず、俺が続けるのを待っている。
だから、言える。
「俺も久住が好き」
声にした瞬間、視線を置く場所がなくなった。
「告白された時、本当は嬉しかった。嬉しかったから、違ったら怖くて。助けたいだけだって、先に決めた」
言いながら、我ながら面倒だと思う。けれど久住は笑わなかった。
「助けてくれるからじゃなくて……いや、それも好きだけど。失敗しても笑わないで、俺が言うまで待ってくれる久住が好き」
久住はすぐには動かなかった。
ただ、目を少し細めた。いつもの無表情が崩れて、困ったみたいに息を吐く。
「……聞けてよかった」
「それだけ?」
「俺から何かしたら、また勝手になる」
「分かってんじゃん」
返した声が、自分でも分かるくらい軽かった。
俺は久住の横にある手へ、自分の手を伸ばした。
指先が触れる。
一度だけ迷ってから、その手を取った。
久住の大きな手が、すぐに握り返してくる。指を絡めるわけでもない、普通のつなぎ方だった。それなのに、今まで触れたどの時より落ち着かない。
「凪」
「なに」
「明日も、言った通りにする」
「うん。俺も、止まったらちゃんと見る」
この先を決める言葉は、まだ言っていない。明日が終わったら、今度は俺から続きを言いたい。
手をつないだだけなのに、明日のことまで何とかなる気がした。たぶん、何でもは無理だ。でも、無理な時は言えばいい。
明日、俺はひとりで立つ。
でも、ひとりじゃない。
昨日、体育館で止まった時より緊張している気がする。あの時は音が勝手に始まった。でも今日は、自分で口を開かないと何も始まらない。
家を出てから、何度も言う順番を考えた。そのたびに最後へ「まあ、なんとかなるって」と笑いを足してしまい、頭の中で消した。今日は、その一言に逃げない。
黒板の前には白石がいて、健太たちは席に着いたまま、俺を見ている。
久住は窓側の席にいた。
目が合いそうになって、逃げかける。
違う。今日は逃げない。
「昨日、降りるって言ったけど」
思ったより小さい声しか出なかった。
教室が静かになる。誰も続きを急かさない。その静けさが、かえって怖い。
「やっぱり、センターを続けたい」
一度、息を吸った。
笑えば、もう少し言いやすい。いつもの調子で「ごめん、やっぱやるわ」と言えば、みんなも笑ってくれるかもしれない。
でも、それをしたら昨日と同じだ。
「ただ、一人じゃ無理。手伝ってほしい」
最後の方は、少し声が震えた。
言ってしまった。
今すぐ席へ戻って、机の下に隠れたい。高校生用の机にそんな機能がないのが惜しい。
「何を分ける?」
白石がすぐに聞いた。
拍手も、励ましの大合唱もない。ただ、次に必要な話をしてくれる。
「連絡と、小道具の確認。それと、俺がやってた欠席した人への説明。あと……かけ声も、踊りながらだと途中で分かんなくなる」
「じゃ、かけ声は俺」
健太が手を挙げた。
「MCもやる。つーか、それ俺向きじゃん」
「声だけなら無駄に通るしね」
白石が言うと、健太が「無駄は余計」と返す。
教室に小さく笑いが起きた。
俺も笑いそうになった。でも、今は合わせなくていい。少し遅れて、本当におかしくなってから息を漏らした。
「小道具は?」
「俺がやる」
葉山が教室の後ろから言った。
「青い布、体育館まで運んで、終わったら戻す。蒼太を部活へ連れてくついででいいし」
「俺、連れてかれる側なんだ」
久住の声がして、また少し笑いが起きる。
久しぶりに、久住がみんなの中で冗談を言うのを聞いた。胸の奥がきゅっとする。でも、前みたいな痛さだけじゃない。
白石が黒板へ役割を書き出していく。
「私は振り付けと全体構成。変更の連絡は一人に集めない。前と後ろの列から二人ずつお願い」
何人かが、軽く手を挙げた。欠席した人への説明も、同じ列のやつが担当することになった。変更点は昼休みと放課後に、二人ずつ確認する。俺一人の頭に入れておかなくても、演目はちゃんと続くらしい。
「安西はセンターと、自分の動きだけ」
「うん」
短い返事が出た。
これだけでいいのか、と変な感じがした。俺が持っていた仕事が、教室のあちこちへ散っていく。それなのに、誰も嫌そうな顔をしない。
「凪、最初から言えよ」
健太が振り返る。
責められたと思って、肩が固まった。
「まあ、今言ったからいいか。明日、俺の美声で優勝させてやるよ」
「順位はあんたの声量で決まらないから」
「白石、朝から厳しくない?」
いつものやり取りが続いていく。
俺が手伝ってと言っても、輪は消えなかった。
それどころか、俺が黙っていた時間まで、みんなは責めずに残してくれた。
断ったら次はないと思っていた。できないと言ったら、任せてもらえなくなると思っていた。
でも、手放したのは仕事だけだった。俺の席も、明日の立ち位置も、ここに残っている。
チャイムが鳴る前、久住が席を立った。
「久住、ちょっと」
呼び止めると、久住はすぐに足を止めた。俺が廊下へ出ると、黙ってついてくる。
教室から少し離れた窓際で向き合った。恋の返事より先に、今は明日のための話をする。
「久住にも、頼みたいことがある」
久住は何も決めつけず、俺を見た。
「どうしてほしい」
たったそれだけで、喉の奥が少しほどけた。
「俺が止まっても、代わりに前へ出ないでほしい」
「うん」
「でも、俺を見て。俺が久住を見たら、四つ数えてほしい。俺が見てない時は、先に合図しなくていい」
久住は一度だけ頷いた。
「止まっても、代わらない。凪が俺を見たら、一、二、三、四って数える。それ以外は待つ。勝手には手を出さない」
言い換えられると、俺が選んだことが形になった気がした。
「それで、お願い」
「分かった。絶対、勝手に変えない」
その言葉が、今の久住らしくて、少しだけ笑った。
「あと、この前。久住の好きって、俺を助けたいだけなんだって決めつけた。悪かった」
「俺も、凪に聞かないで勝手に決めた。悪かった」
久住はそこで言葉を切った。
「放課後、もう一回やろう」
「うん」
今度の約束は、どちらかが勝手に決めたものじゃなかった。
◇
放課後の体育館には、窓から白い光が差していた。
青い布は葉山が運び、音源は白石が確認している。健太はマイクもないのに、端で発声練習をしていた。
「二年三組、いくぞー!」
「まだ始めてない!」
白石に怒られている。
俺が確認するものは、足元と立ち位置だけだった。
センターに立つ。
斜め右に久住がいる。
怖くないわけじゃない。昨日止まった場所を、身体はちゃんと覚えている。でも今日は、怖いままでも次にすることが分かる。
音が始まった。
健太のかけ声が体育館に響く。俺は最初の一歩を出した。
手拍子。右、左。隊形移動。
途中で視線が集まる感覚に、足が重くなった。
久住を見る。
「一、二、三、四」
低い声が届く。
久住は前へ出ない。ただ、自分の場所で数えている。
次の一歩は、俺が出した。
隊形が変わり、久住が視界の端へ遠ざかる。少し不安になった。でも、健太のかけ声が次の位置を教え、前では白石が大きく腕を振っている。俺を支えるものは、一人だけじゃなかった。
もう一度、四つ。そこから先は、音とみんなの声に乗れた。
三分間が終わる。
最後の形で止まった瞬間、体育館に息を吐く音が重なった。
「いけた!」
健太の声が一番大きい。
「明日も今の分担でいくよ」
白石がすぐに確認へ入る。葉山は青い布を畳みながら、「俺の搬出が完璧だった」と平らな声で言った。
「そこ、採点されてないから」
笑いが起きる。
俺も笑った。
今度は、誰かに合わせるためじゃなかった。
◇
片づけが終わった後、体育館脇の通路で久住を呼び止めた。
ここで何度も、四つ数えてもらった。
今さら何を緊張しているんだと思う。でも、練習の頼みより、ずっと難しい。
「この前の返事」
久住の手が、身体の横で止まった。
急かさない。何も言わず、俺が続けるのを待っている。
だから、言える。
「俺も久住が好き」
声にした瞬間、視線を置く場所がなくなった。
「告白された時、本当は嬉しかった。嬉しかったから、違ったら怖くて。助けたいだけだって、先に決めた」
言いながら、我ながら面倒だと思う。けれど久住は笑わなかった。
「助けてくれるからじゃなくて……いや、それも好きだけど。失敗しても笑わないで、俺が言うまで待ってくれる久住が好き」
久住はすぐには動かなかった。
ただ、目を少し細めた。いつもの無表情が崩れて、困ったみたいに息を吐く。
「……聞けてよかった」
「それだけ?」
「俺から何かしたら、また勝手になる」
「分かってんじゃん」
返した声が、自分でも分かるくらい軽かった。
俺は久住の横にある手へ、自分の手を伸ばした。
指先が触れる。
一度だけ迷ってから、その手を取った。
久住の大きな手が、すぐに握り返してくる。指を絡めるわけでもない、普通のつなぎ方だった。それなのに、今まで触れたどの時より落ち着かない。
「凪」
「なに」
「明日も、言った通りにする」
「うん。俺も、止まったらちゃんと見る」
この先を決める言葉は、まだ言っていない。明日が終わったら、今度は俺から続きを言いたい。
手をつないだだけなのに、明日のことまで何とかなる気がした。たぶん、何でもは無理だ。でも、無理な時は言えばいい。
明日、俺はひとりで立つ。
でも、ひとりじゃない。



