六月二十五日、木曜日。
体育祭まで、あと二日。
一人でもできる。
家を出る前から、俺はそればかり考えていた。
昨日まで久住と練習した動きは、全部身体に入っている。昨夜も部屋の机を端へ寄せて、足順を何度も確かめた。
久住がいなくてもできる。
できなきゃ困る。
「凪、おはよ。聞いてくれよ、昨日の帰りにさ」
「うける」
「いや、まだ何も言ってねえけど」
健太が目を丸くする。
しまった。笑うのが早すぎた。
「先に面白さを察知した」
「何その無駄な特殊能力」
「欲しいだろ?」
「いらねえ」
今度は健太が笑ってから、俺も笑った。
いつもより大きな声が出た。
教室の端にいた白石が、一度だけこっちを見る。すぐ手元へ視線を戻したから、何を思ったのかは分からない。
久住は見ない。
見たら、昨日の声を思い出す。
好きだから、放っておけない。
「安西」
背中が勝手に固くなった。
振り返らないわけにもいかず、俺は椅子の背へ腕を回したまま顔だけを向ける。
「今日の最終リハ、四時十分から。体育館の入口に集合。本番と同じ三分で通す」
「りょーかい。体育祭係、お疲れ」
「……ああ」
必要な連絡だけだった。
久住はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていく。
一人でもできる。
俺がそうしてほしいと言ったんだから、これでいい。
◇
放課後の体育館には、二年三組以外の生徒もいた。
壁際で次の順番を待つクラス。二階から様子を見ている生徒。入口近くには先生が二人いる。
靴底が床を擦る音まで、やけに大きく聞こえた。
「今日は本番と同じつもりでやるよ」
白石が全員を見回す。
「途中で多少ずれても続ける。隊形だけは崩さないで」
俺はセンターに立った。
久住は前列、俺の斜め右だ。
「凪、今日決めようぜ」
後ろから健太に言われ、俺はすぐ親指を立てた。
「任せろ。完璧にやる」
言い切れば、本当にできる気がした。ほんの一秒だけ。
見ない。
正面だけを見る。
壁に掛かった時計。畳まれたバスケットゴール。その下に並ぶ、知らない顔。
音が始まった。
最初の手拍子。右足。左足。腕を上げる。
動ける。ちゃんと覚えている。
一、二、三、四。
頭の中で数える。
次は右へ二歩。身体を返して、青い布を受け取る。
一、二――
誰かの靴が鳴った。
壁際から笑い声がした。
音楽が体育館の天井で跳ね返る。
三は、どこだ。
足を出せないまま、周りだけが左右へ開いた。
俺一人が、真ん中に残る。
次の動きは分かっている。
分かっているのに、身体が一つも動かない。
斜め右で、久住が俺を見た。
腰の横にあった右手が一瞬開き、すぐに閉じる。
声はなかった。
合図もなかった。
久住は前へ出なかった。
俺が、それを望んだからだ。
「止めて!」
白石の声と同時に、音が切れた。
残ったのは、広い体育館の静けさと、真ん中で固まった俺だけだった。
「ごめん。今の、俺だけ回線が――」
冗談にするつもりだった。
でも、口元が動かない。
誰かが笑うより先に笑ってみせることもできなかった。
平気。
いつもの二文字が喉まで来て、出てこなかった。
「凪」
白石が俺を呼ぶ。
責める声ではなかった。それが余計につらい。
「もう一回、頭からやる?」
「……いや」
俺は床の白い線を見た。
センターの目印みたいに、つま先の前を真っ直ぐ横切っている。
「俺、降りる」
体育館が、さっきより静かになった。
「は?」
健太が一番に声を出した。
「本番でまた止まるより、今替えた方がいいだろ」
「いや、でも今日一回じゃん」
「一回で十分。次は本番だし」
声だけは、妙に落ち着いていた。
これなら誰も困らない。俺がいなくなれば、動けるやつが真ん中に立てる。
健太が困ったように頭をかく。
「無理なら仕方ないけどさ。でも、別に誰も責めてねえぞ」
無理なら仕方ない。
その言葉だけが、きれいな出口みたいに見えた。
「うん。だから、降りる」
久住は何も言わなかった。
俺を見たまま、一度だけ口を開きかける。けれど、そのまま閉じた。
前なら、俺より先に何かを決めていた。
今は、俺が決めたことを奪わない。
分かっている。
なのに、止めてほしかったと思った自分が、一番勝手だった。
「今日はここまで」
白石が手を叩いた。
「センターのことは明日決める。今ここで代わりを決めても、まとまらないから」
皆はまだ何か言いたそうだったが、白石に促されて片付けを始めた。
「安西」
青い布を畳んでいた葉山に呼ばれた。
「何」
「蒼太、あれでも止まってるから」
「……何の話」
「お前が嫌なら、あいつは止まる。止まり方が下手なだけで」
葉山はそれ以上説明せず、久住へ「部活行くぞ」と声を掛けた。
止まっているのは、俺だけじゃないらしい。
降りれば楽になるはずだった。
もう三分間の真ん中に立たなくていい。視線に固まることも、足順を間違えることもない。
それなのに、胸の中だけが空になった。
◇
鞄を取りに戻った教室には、誰もいなかった。
窓の外から、運動部の掛け声が聞こえる。
久住は来なかった。
廊下の向こうへ消えた二人分の足音も、もう聞こえない。
ちゃんと距離を守っている。
その事実が、今日は痛かった。
「凪」
教室の後ろから白石が入ってきた。
俺は机の横に立ったまま、鞄の持ち手を握る。
「なに」
「一人で全部やるか、全部やめるかしかないの?」
いきなり痛いところへ来る。
「だって、止まったの俺だし」
「だから?」
「センターが一人で立てないなら、意味ないだろ」
「センターって、一人で作るものじゃないけど」
白石は俺の隣へ来ず、二つ向こうの机に鞄を置いた。
「助けてって言うのと、投げるのは違う」
「……簡単に言うなよ」
「簡単じゃないよ」
白石の返事は早かった。
「私も最初、振り付けも構成も連絡も、全部自分でやろうとした。人に頼むより、その方が早いと思ってたから」
「できてたじゃん」
「できてない。凪がセンターやるって手を挙げてくれなかったら、今も私が抱えてた」
白石は少し眉を寄せた。
「あの時、普通に助かった」
「……俺が?」
「他に誰がいるの」
思い出す。
皆が黙った教室で、白石だけに仕事が集まりそうだった。
だから手を挙げた。
白石を弱いと思ったわけじゃない。
一人で頑張っていたから、少し持とうと思っただけだ。
「私が弱いから、凪は手を挙げたの?」
「違う」
「じゃあ、凪が誰かに手伝ってもらうのも同じでしょ」
何も返せなかった。
助けてもらう側になった途端、俺はそれを弱さに変えていた。
できないと言えば居場所を失う。頼れば、役に立たない奴になる。
そう決めていたのは、誰でもない俺だった。
「今日はもう決めなくていい」
白石が鞄を肩に掛ける。
「でも明日、降りるかどうかじゃなくて、何をしたいか言って」
それだけ残して、白石は教室を出ていった。
一人になった教室で、俺は自分の席に座る。
俺はセンターをやめたいわけじゃない。
失敗したまま消えたくもない。
一人でできないと知られるのが、怖かっただけだ。
怖さは消えない。
明日、皆の顔を見たら、また笑って逃げたくなると思う。
それでも、一晩だけ逃げない。
自分が何を続けたいのか、自分の口で言う。
明日、俺は笑わずに教室へ戻る。
体育祭まで、あと二日。
一人でもできる。
家を出る前から、俺はそればかり考えていた。
昨日まで久住と練習した動きは、全部身体に入っている。昨夜も部屋の机を端へ寄せて、足順を何度も確かめた。
久住がいなくてもできる。
できなきゃ困る。
「凪、おはよ。聞いてくれよ、昨日の帰りにさ」
「うける」
「いや、まだ何も言ってねえけど」
健太が目を丸くする。
しまった。笑うのが早すぎた。
「先に面白さを察知した」
「何その無駄な特殊能力」
「欲しいだろ?」
「いらねえ」
今度は健太が笑ってから、俺も笑った。
いつもより大きな声が出た。
教室の端にいた白石が、一度だけこっちを見る。すぐ手元へ視線を戻したから、何を思ったのかは分からない。
久住は見ない。
見たら、昨日の声を思い出す。
好きだから、放っておけない。
「安西」
背中が勝手に固くなった。
振り返らないわけにもいかず、俺は椅子の背へ腕を回したまま顔だけを向ける。
「今日の最終リハ、四時十分から。体育館の入口に集合。本番と同じ三分で通す」
「りょーかい。体育祭係、お疲れ」
「……ああ」
必要な連絡だけだった。
久住はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていく。
一人でもできる。
俺がそうしてほしいと言ったんだから、これでいい。
◇
放課後の体育館には、二年三組以外の生徒もいた。
壁際で次の順番を待つクラス。二階から様子を見ている生徒。入口近くには先生が二人いる。
靴底が床を擦る音まで、やけに大きく聞こえた。
「今日は本番と同じつもりでやるよ」
白石が全員を見回す。
「途中で多少ずれても続ける。隊形だけは崩さないで」
俺はセンターに立った。
久住は前列、俺の斜め右だ。
「凪、今日決めようぜ」
後ろから健太に言われ、俺はすぐ親指を立てた。
「任せろ。完璧にやる」
言い切れば、本当にできる気がした。ほんの一秒だけ。
見ない。
正面だけを見る。
壁に掛かった時計。畳まれたバスケットゴール。その下に並ぶ、知らない顔。
音が始まった。
最初の手拍子。右足。左足。腕を上げる。
動ける。ちゃんと覚えている。
一、二、三、四。
頭の中で数える。
次は右へ二歩。身体を返して、青い布を受け取る。
一、二――
誰かの靴が鳴った。
壁際から笑い声がした。
音楽が体育館の天井で跳ね返る。
三は、どこだ。
足を出せないまま、周りだけが左右へ開いた。
俺一人が、真ん中に残る。
次の動きは分かっている。
分かっているのに、身体が一つも動かない。
斜め右で、久住が俺を見た。
腰の横にあった右手が一瞬開き、すぐに閉じる。
声はなかった。
合図もなかった。
久住は前へ出なかった。
俺が、それを望んだからだ。
「止めて!」
白石の声と同時に、音が切れた。
残ったのは、広い体育館の静けさと、真ん中で固まった俺だけだった。
「ごめん。今の、俺だけ回線が――」
冗談にするつもりだった。
でも、口元が動かない。
誰かが笑うより先に笑ってみせることもできなかった。
平気。
いつもの二文字が喉まで来て、出てこなかった。
「凪」
白石が俺を呼ぶ。
責める声ではなかった。それが余計につらい。
「もう一回、頭からやる?」
「……いや」
俺は床の白い線を見た。
センターの目印みたいに、つま先の前を真っ直ぐ横切っている。
「俺、降りる」
体育館が、さっきより静かになった。
「は?」
健太が一番に声を出した。
「本番でまた止まるより、今替えた方がいいだろ」
「いや、でも今日一回じゃん」
「一回で十分。次は本番だし」
声だけは、妙に落ち着いていた。
これなら誰も困らない。俺がいなくなれば、動けるやつが真ん中に立てる。
健太が困ったように頭をかく。
「無理なら仕方ないけどさ。でも、別に誰も責めてねえぞ」
無理なら仕方ない。
その言葉だけが、きれいな出口みたいに見えた。
「うん。だから、降りる」
久住は何も言わなかった。
俺を見たまま、一度だけ口を開きかける。けれど、そのまま閉じた。
前なら、俺より先に何かを決めていた。
今は、俺が決めたことを奪わない。
分かっている。
なのに、止めてほしかったと思った自分が、一番勝手だった。
「今日はここまで」
白石が手を叩いた。
「センターのことは明日決める。今ここで代わりを決めても、まとまらないから」
皆はまだ何か言いたそうだったが、白石に促されて片付けを始めた。
「安西」
青い布を畳んでいた葉山に呼ばれた。
「何」
「蒼太、あれでも止まってるから」
「……何の話」
「お前が嫌なら、あいつは止まる。止まり方が下手なだけで」
葉山はそれ以上説明せず、久住へ「部活行くぞ」と声を掛けた。
止まっているのは、俺だけじゃないらしい。
降りれば楽になるはずだった。
もう三分間の真ん中に立たなくていい。視線に固まることも、足順を間違えることもない。
それなのに、胸の中だけが空になった。
◇
鞄を取りに戻った教室には、誰もいなかった。
窓の外から、運動部の掛け声が聞こえる。
久住は来なかった。
廊下の向こうへ消えた二人分の足音も、もう聞こえない。
ちゃんと距離を守っている。
その事実が、今日は痛かった。
「凪」
教室の後ろから白石が入ってきた。
俺は机の横に立ったまま、鞄の持ち手を握る。
「なに」
「一人で全部やるか、全部やめるかしかないの?」
いきなり痛いところへ来る。
「だって、止まったの俺だし」
「だから?」
「センターが一人で立てないなら、意味ないだろ」
「センターって、一人で作るものじゃないけど」
白石は俺の隣へ来ず、二つ向こうの机に鞄を置いた。
「助けてって言うのと、投げるのは違う」
「……簡単に言うなよ」
「簡単じゃないよ」
白石の返事は早かった。
「私も最初、振り付けも構成も連絡も、全部自分でやろうとした。人に頼むより、その方が早いと思ってたから」
「できてたじゃん」
「できてない。凪がセンターやるって手を挙げてくれなかったら、今も私が抱えてた」
白石は少し眉を寄せた。
「あの時、普通に助かった」
「……俺が?」
「他に誰がいるの」
思い出す。
皆が黙った教室で、白石だけに仕事が集まりそうだった。
だから手を挙げた。
白石を弱いと思ったわけじゃない。
一人で頑張っていたから、少し持とうと思っただけだ。
「私が弱いから、凪は手を挙げたの?」
「違う」
「じゃあ、凪が誰かに手伝ってもらうのも同じでしょ」
何も返せなかった。
助けてもらう側になった途端、俺はそれを弱さに変えていた。
できないと言えば居場所を失う。頼れば、役に立たない奴になる。
そう決めていたのは、誰でもない俺だった。
「今日はもう決めなくていい」
白石が鞄を肩に掛ける。
「でも明日、降りるかどうかじゃなくて、何をしたいか言って」
それだけ残して、白石は教室を出ていった。
一人になった教室で、俺は自分の席に座る。
俺はセンターをやめたいわけじゃない。
失敗したまま消えたくもない。
一人でできないと知られるのが、怖かっただけだ。
怖さは消えない。
明日、皆の顔を見たら、また笑って逃げたくなると思う。
それでも、一晩だけ逃げない。
自分が何を続けたいのか、自分の口で言う。
明日、俺は笑わずに教室へ戻る。



