陽キャのふりは、君にだけバレる

六月二十五日、木曜日。

体育祭まで、あと二日。

一人でもできる。

家を出る前から、俺はそればかり考えていた。

昨日まで久住と練習した動きは、全部身体に入っている。昨夜も部屋の机を端へ寄せて、足順を何度も確かめた。

久住がいなくてもできる。

できなきゃ困る。

「凪、おはよ。聞いてくれよ、昨日の帰りにさ」

「うける」

「いや、まだ何も言ってねえけど」

健太が目を丸くする。

しまった。笑うのが早すぎた。

「先に面白さを察知した」

「何その無駄な特殊能力」

「欲しいだろ?」

「いらねえ」

今度は健太が笑ってから、俺も笑った。

いつもより大きな声が出た。

教室の端にいた白石が、一度だけこっちを見る。すぐ手元へ視線を戻したから、何を思ったのかは分からない。

久住は見ない。

見たら、昨日の声を思い出す。

好きだから、放っておけない。

「安西」

背中が勝手に固くなった。

振り返らないわけにもいかず、俺は椅子の背へ腕を回したまま顔だけを向ける。

「今日の最終リハ、四時十分から。体育館の入口に集合。本番と同じ三分で通す」

「りょーかい。体育祭係、お疲れ」

「……ああ」

必要な連絡だけだった。

久住はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていく。

一人でもできる。

俺がそうしてほしいと言ったんだから、これでいい。



放課後の体育館には、二年三組以外の生徒もいた。

壁際で次の順番を待つクラス。二階から様子を見ている生徒。入口近くには先生が二人いる。

靴底が床を擦る音まで、やけに大きく聞こえた。

「今日は本番と同じつもりでやるよ」

白石が全員を見回す。

「途中で多少ずれても続ける。隊形だけは崩さないで」

俺はセンターに立った。

久住は前列、俺の斜め右だ。

「凪、今日決めようぜ」

後ろから健太に言われ、俺はすぐ親指を立てた。

「任せろ。完璧にやる」

言い切れば、本当にできる気がした。ほんの一秒だけ。

見ない。

正面だけを見る。

壁に掛かった時計。畳まれたバスケットゴール。その下に並ぶ、知らない顔。

音が始まった。

最初の手拍子。右足。左足。腕を上げる。

動ける。ちゃんと覚えている。

一、二、三、四。

頭の中で数える。

次は右へ二歩。身体を返して、青い布を受け取る。

一、二――

誰かの靴が鳴った。

壁際から笑い声がした。

音楽が体育館の天井で跳ね返る。

三は、どこだ。

足を出せないまま、周りだけが左右へ開いた。

俺一人が、真ん中に残る。

次の動きは分かっている。

分かっているのに、身体が一つも動かない。

斜め右で、久住が俺を見た。

腰の横にあった右手が一瞬開き、すぐに閉じる。

声はなかった。

合図もなかった。

久住は前へ出なかった。

俺が、それを望んだからだ。

「止めて!」

白石の声と同時に、音が切れた。

残ったのは、広い体育館の静けさと、真ん中で固まった俺だけだった。

「ごめん。今の、俺だけ回線が――」

冗談にするつもりだった。

でも、口元が動かない。

誰かが笑うより先に笑ってみせることもできなかった。

平気。

いつもの二文字が喉まで来て、出てこなかった。

「凪」

白石が俺を呼ぶ。

責める声ではなかった。それが余計につらい。

「もう一回、頭からやる?」

「……いや」

俺は床の白い線を見た。

センターの目印みたいに、つま先の前を真っ直ぐ横切っている。

「俺、降りる」

体育館が、さっきより静かになった。

「は?」

健太が一番に声を出した。

「本番でまた止まるより、今替えた方がいいだろ」

「いや、でも今日一回じゃん」

「一回で十分。次は本番だし」

声だけは、妙に落ち着いていた。

これなら誰も困らない。俺がいなくなれば、動けるやつが真ん中に立てる。

健太が困ったように頭をかく。

「無理なら仕方ないけどさ。でも、別に誰も責めてねえぞ」

無理なら仕方ない。

その言葉だけが、きれいな出口みたいに見えた。

「うん。だから、降りる」

久住は何も言わなかった。

俺を見たまま、一度だけ口を開きかける。けれど、そのまま閉じた。

前なら、俺より先に何かを決めていた。

今は、俺が決めたことを奪わない。

分かっている。

なのに、止めてほしかったと思った自分が、一番勝手だった。

「今日はここまで」

白石が手を叩いた。

「センターのことは明日決める。今ここで代わりを決めても、まとまらないから」

皆はまだ何か言いたそうだったが、白石に促されて片付けを始めた。

「安西」

青い布を畳んでいた葉山に呼ばれた。

「何」

「蒼太、あれでも止まってるから」

「……何の話」

「お前が嫌なら、あいつは止まる。止まり方が下手なだけで」

葉山はそれ以上説明せず、久住へ「部活行くぞ」と声を掛けた。

止まっているのは、俺だけじゃないらしい。

降りれば楽になるはずだった。

もう三分間の真ん中に立たなくていい。視線に固まることも、足順を間違えることもない。

それなのに、胸の中だけが空になった。



鞄を取りに戻った教室には、誰もいなかった。

窓の外から、運動部の掛け声が聞こえる。

久住は来なかった。

廊下の向こうへ消えた二人分の足音も、もう聞こえない。

ちゃんと距離を守っている。

その事実が、今日は痛かった。

「凪」

教室の後ろから白石が入ってきた。

俺は机の横に立ったまま、鞄の持ち手を握る。

「なに」

「一人で全部やるか、全部やめるかしかないの?」

いきなり痛いところへ来る。

「だって、止まったの俺だし」

「だから?」

「センターが一人で立てないなら、意味ないだろ」

「センターって、一人で作るものじゃないけど」

白石は俺の隣へ来ず、二つ向こうの机に鞄を置いた。

「助けてって言うのと、投げるのは違う」

「……簡単に言うなよ」

「簡単じゃないよ」

白石の返事は早かった。

「私も最初、振り付けも構成も連絡も、全部自分でやろうとした。人に頼むより、その方が早いと思ってたから」

「できてたじゃん」

「できてない。凪がセンターやるって手を挙げてくれなかったら、今も私が抱えてた」

白石は少し眉を寄せた。

「あの時、普通に助かった」

「……俺が?」

「他に誰がいるの」

思い出す。

皆が黙った教室で、白石だけに仕事が集まりそうだった。

だから手を挙げた。

白石を弱いと思ったわけじゃない。

一人で頑張っていたから、少し持とうと思っただけだ。

「私が弱いから、凪は手を挙げたの?」

「違う」

「じゃあ、凪が誰かに手伝ってもらうのも同じでしょ」

何も返せなかった。

助けてもらう側になった途端、俺はそれを弱さに変えていた。

できないと言えば居場所を失う。頼れば、役に立たない奴になる。

そう決めていたのは、誰でもない俺だった。

「今日はもう決めなくていい」

白石が鞄を肩に掛ける。

「でも明日、降りるかどうかじゃなくて、何をしたいか言って」

それだけ残して、白石は教室を出ていった。

一人になった教室で、俺は自分の席に座る。

俺はセンターをやめたいわけじゃない。

失敗したまま消えたくもない。

一人でできないと知られるのが、怖かっただけだ。

怖さは消えない。

明日、皆の顔を見たら、また笑って逃げたくなると思う。

それでも、一晩だけ逃げない。

自分が何を続けたいのか、自分の口で言う。

明日、俺は笑わずに教室へ戻る。