次の日、久住は本当に何もしなかった。
朝、教室へ入ってきた時も、俺の机には寄らない。目が合えば普通に「おはよう」と言う。それだけだった。
昨日、俺が望んだ通りだ。
勝手に仕事を減らされない。昼飯を食ったか確認されない。「平気」を数えられることもない。
自由になったはずなのに、妙に落ち着かなかった。
机の横には、今日使う青い布が重ねてある。昨日までなら、久住が反対側へ回り、俺の見落としを拾っていた。
今日は一度だけ布へ目を落とし、そのまま自分の席へ戻る。
これでいい。
口を出すなと言ったのは俺だ。なのに、見ていたなら何か言えよと思う。勝手すぎるのは、どっちだ。
「凪、これ今日まででいいんだっけ?」
「うん。俺がまとめて白石に――」
言いかけて、やめた。何でも引き受けるのは違うと、昨日あれだけ怒ったばかりだ。
「いや、健太の分は健太から渡して」
「了解。お、ちゃんと俺にも仕事くれるじゃん」
「元からお前の仕事だよ」
健太が笑う。俺もすぐに笑い返せた。
なのに、教室の反対側から聞こえる久住の声ばかり拾ってしまう。
昼休み、久住は葉山と窓際でパンを食べていた。葉山が何か言うと、久住の口元が少し緩む。
前なら、俺もあの静かな場所で、黙って塩むすびを食べていたかもしれない。
「今日、久住と食わないの?」
箸が止まりそうになり、慌てて玉子焼きを口へ入れた。
「毎日一緒じゃないって。練習で顔合わせるし」
「そっか。じゃ、放課後また二人で特訓?」
「……まあね」
嘘ではない。まだ、今日の練習をやめるとは決めていない。
俺は健太たちの話に合わせて笑った。けれど久住の低い声が聞こえるたび、意識が引っ張られた。
「安西」
呼ばれて、肩が跳ねた。
久住は俺の机の横に立っていた。顔はいつも通りだ。怒っているようにも、避けているようにも見えない。
「今日の全体練習、体育館に変更だって。白石が開始位置を先に確認したいって」
「……分かった。ありがと」
久住は短く頷き、葉山のところへ戻った。
必要な連絡を、必要な分だけ。
何も間違っていない。公の場なら、前も「安西」だった。
それでも、名字二文字が、机一つ分どころじゃない距離に聞こえた。
◇
「最初から通すよ! 前列、もう少し間隔空けて!」
白石の声が体育館に響く。
蒸し暑い。床に靴底が引っかかる。俺は開始位置につき、斜め右の久住を見ないようにした。
見なくてもできる。
昨日まで、何度も練習した。足順も隊形も覚えている。久住に数えてもらわなくても、俺はセンターだ。
音が始まる。
いつもなら、最初の四つだけは久住の口元を見る。今日は正面を見た。久住の助けがなくてもできると、まず自分に証明したかった。
一、二、三、四。
頭の中で数え、腕を上げる。前半は崩れなかった。次の隊形移動で後ろへ下がり、右へ向きを変える。
その瞬間、床を擦った誰かの靴が視界に入った。
避けようとして、足がもつれる。
「っ……」
身体が傾いた。
肘を、大きな手が支えた。
久住だった。
俺が踏み直したと分かった瞬間、手はすぐに離れた。
久住が何か言いかけたが、それも止まった。
「悪い」
久住はそれだけ言って、自分の位置へ戻る。
悪くない。助けてもらったのは俺だ。
前なら、立てたか確かめるように、もう一秒くらい手が残った気がする。
今は、触れた熱を思い出す前に消えていた。
俺がそうしてくれと言ったからだ。
胸の奥に刺さった痛みまで、自分で選んだものだった。
「凪、次くるよ!」
白石の声で我に返る。
俺は遅れた分を追い、どうにか最後まで動いた。終わった時、拍手はなかった。白石が修正点を伝え、皆が水を飲みに散っていく。
久住は俺に何も言わなかった。
できたとも、危なかったとも。
その沈黙が、失敗よりきつかった。
◇
「久住」
体育館を出ようとした背中を、俺は呼び止めた。
呼ばなければ、このまま一日が終わる。自分で遠ざけておいて、何も言わずに帰られるのは嫌だった。
久住は足を止めたが、近づいてはこない。体育館脇の通路には、俺たちしかいない。部活へ向かう生徒の声が遠く響いていた。
「何」
公の場では「安西」と呼んだくせに、二人きりになると久住の目は、前と同じように俺だけを見た。
「……なんで、そこまで俺のこと気にするんだよ」
昨日から聞きたかった。
勝手に仕事を減らすほど。怒られても、転びそうなら反射で手を出すほど。
久住は少し黙った。それから、逃げずに俺を見る。
「五月、教室の青い布が破れてただろ」
「青い布?」
「応援で使うやつ。凪、一人で直してた」
思い出した。
端が裂けていたから、残ってテープで補強した。誰かに頼まれたわけじゃない。次に使う時、困るだろうと思っただけだ。
「声かけたら、暇だっただけって笑ってた。でも、指にテープの跡が残ってた」
「……そんなの、覚えてたの」
「覚えてる。それから気になった。誰もいないところで頑張ってる凪を見つけるたび、放っておけなかった」
喉の奥が詰まった。
見られたくなかったはずなのに。
誰にも気づかれないと思っていた俺を、久住だけは見ていた。皆の前で笑う俺じゃなく、一人で指をべたべたにしていた俺を覚えていた。
嬉しい。
ずっと欲しかったものを、やっと見つけてもらえた気がした。
そう思った途端、久住が言った。
「凪が好きだから、放っておけない」
時間が止まった気がした。
好き。
久住が、俺を。
一瞬、何もかもどうでもよくなった。昨日の喧嘩も、今日ずっと苦しかったことも。俺も好きだと、そのまま返したくなった。
けれど、続いて耳に残ったのは、別の言葉だった。
放っておけない。
できない俺を。無理をする俺を。見張っていないと危ない俺を。
「それ……俺が弱いからだろ」
「違う」
「何が違うんだよ。好きだから助けたいって、結局それじゃん」
「弱いから好きになったんじゃない」
「でも、放っておけないんだろ」
久住が言葉に詰まった。その一瞬が、俺の怖さを正しいものにしてしまう。
「凪、俺は――」
「俺を見てたなら、勝手に決めないで」
声が震えた。止めたかったのに、もう止まらなかった。
「守るなら、ちゃんと俺を見ろよ。嫌だって言ってる俺も、できるって思いたい俺も。久住が守りたい俺だけで決めないで」
久住の手が、身体の横で強く握られた。
それでも、俺には伸びてこなかった。
「言い方が悪かった」
「今は聞けない」
言い直されたら、信じてしまう。
好きだと言われた喜びだけに縋って、また全部任せたくなる。久住が決めた方が正しいと、楽な方へ逃げたくなる。
そうなったら、いつか久住の前で何もできない俺だけが残る気がした。
それが怖かった。
「しばらく、二人で練習するの、やめたい」
自分で言った言葉が、一番深く刺さった。
久住はしばらく黙っていた。
やがて、短く頷く。
「分かった」
追いかけない。触れない。返事を迫らない。
昨日と同じように、久住は俺が決めた距離を守った。
男子バレー部の声がして、久住はそちらへ歩いていく。
俺は追わなかった。
好きだと告白されたのに、恋も、毎日の練習相手も、いっぺんに失くした気がした。
帰り道は一人だった。
好きだと言われた声が、何度も戻ってくる。そのたび、その後の「放っておけない」が重なった。
明日は最終リハーサルだ。
一人でもできる。
今度こそ、そう証明するしかなかった。
朝、教室へ入ってきた時も、俺の机には寄らない。目が合えば普通に「おはよう」と言う。それだけだった。
昨日、俺が望んだ通りだ。
勝手に仕事を減らされない。昼飯を食ったか確認されない。「平気」を数えられることもない。
自由になったはずなのに、妙に落ち着かなかった。
机の横には、今日使う青い布が重ねてある。昨日までなら、久住が反対側へ回り、俺の見落としを拾っていた。
今日は一度だけ布へ目を落とし、そのまま自分の席へ戻る。
これでいい。
口を出すなと言ったのは俺だ。なのに、見ていたなら何か言えよと思う。勝手すぎるのは、どっちだ。
「凪、これ今日まででいいんだっけ?」
「うん。俺がまとめて白石に――」
言いかけて、やめた。何でも引き受けるのは違うと、昨日あれだけ怒ったばかりだ。
「いや、健太の分は健太から渡して」
「了解。お、ちゃんと俺にも仕事くれるじゃん」
「元からお前の仕事だよ」
健太が笑う。俺もすぐに笑い返せた。
なのに、教室の反対側から聞こえる久住の声ばかり拾ってしまう。
昼休み、久住は葉山と窓際でパンを食べていた。葉山が何か言うと、久住の口元が少し緩む。
前なら、俺もあの静かな場所で、黙って塩むすびを食べていたかもしれない。
「今日、久住と食わないの?」
箸が止まりそうになり、慌てて玉子焼きを口へ入れた。
「毎日一緒じゃないって。練習で顔合わせるし」
「そっか。じゃ、放課後また二人で特訓?」
「……まあね」
嘘ではない。まだ、今日の練習をやめるとは決めていない。
俺は健太たちの話に合わせて笑った。けれど久住の低い声が聞こえるたび、意識が引っ張られた。
「安西」
呼ばれて、肩が跳ねた。
久住は俺の机の横に立っていた。顔はいつも通りだ。怒っているようにも、避けているようにも見えない。
「今日の全体練習、体育館に変更だって。白石が開始位置を先に確認したいって」
「……分かった。ありがと」
久住は短く頷き、葉山のところへ戻った。
必要な連絡を、必要な分だけ。
何も間違っていない。公の場なら、前も「安西」だった。
それでも、名字二文字が、机一つ分どころじゃない距離に聞こえた。
◇
「最初から通すよ! 前列、もう少し間隔空けて!」
白石の声が体育館に響く。
蒸し暑い。床に靴底が引っかかる。俺は開始位置につき、斜め右の久住を見ないようにした。
見なくてもできる。
昨日まで、何度も練習した。足順も隊形も覚えている。久住に数えてもらわなくても、俺はセンターだ。
音が始まる。
いつもなら、最初の四つだけは久住の口元を見る。今日は正面を見た。久住の助けがなくてもできると、まず自分に証明したかった。
一、二、三、四。
頭の中で数え、腕を上げる。前半は崩れなかった。次の隊形移動で後ろへ下がり、右へ向きを変える。
その瞬間、床を擦った誰かの靴が視界に入った。
避けようとして、足がもつれる。
「っ……」
身体が傾いた。
肘を、大きな手が支えた。
久住だった。
俺が踏み直したと分かった瞬間、手はすぐに離れた。
久住が何か言いかけたが、それも止まった。
「悪い」
久住はそれだけ言って、自分の位置へ戻る。
悪くない。助けてもらったのは俺だ。
前なら、立てたか確かめるように、もう一秒くらい手が残った気がする。
今は、触れた熱を思い出す前に消えていた。
俺がそうしてくれと言ったからだ。
胸の奥に刺さった痛みまで、自分で選んだものだった。
「凪、次くるよ!」
白石の声で我に返る。
俺は遅れた分を追い、どうにか最後まで動いた。終わった時、拍手はなかった。白石が修正点を伝え、皆が水を飲みに散っていく。
久住は俺に何も言わなかった。
できたとも、危なかったとも。
その沈黙が、失敗よりきつかった。
◇
「久住」
体育館を出ようとした背中を、俺は呼び止めた。
呼ばなければ、このまま一日が終わる。自分で遠ざけておいて、何も言わずに帰られるのは嫌だった。
久住は足を止めたが、近づいてはこない。体育館脇の通路には、俺たちしかいない。部活へ向かう生徒の声が遠く響いていた。
「何」
公の場では「安西」と呼んだくせに、二人きりになると久住の目は、前と同じように俺だけを見た。
「……なんで、そこまで俺のこと気にするんだよ」
昨日から聞きたかった。
勝手に仕事を減らすほど。怒られても、転びそうなら反射で手を出すほど。
久住は少し黙った。それから、逃げずに俺を見る。
「五月、教室の青い布が破れてただろ」
「青い布?」
「応援で使うやつ。凪、一人で直してた」
思い出した。
端が裂けていたから、残ってテープで補強した。誰かに頼まれたわけじゃない。次に使う時、困るだろうと思っただけだ。
「声かけたら、暇だっただけって笑ってた。でも、指にテープの跡が残ってた」
「……そんなの、覚えてたの」
「覚えてる。それから気になった。誰もいないところで頑張ってる凪を見つけるたび、放っておけなかった」
喉の奥が詰まった。
見られたくなかったはずなのに。
誰にも気づかれないと思っていた俺を、久住だけは見ていた。皆の前で笑う俺じゃなく、一人で指をべたべたにしていた俺を覚えていた。
嬉しい。
ずっと欲しかったものを、やっと見つけてもらえた気がした。
そう思った途端、久住が言った。
「凪が好きだから、放っておけない」
時間が止まった気がした。
好き。
久住が、俺を。
一瞬、何もかもどうでもよくなった。昨日の喧嘩も、今日ずっと苦しかったことも。俺も好きだと、そのまま返したくなった。
けれど、続いて耳に残ったのは、別の言葉だった。
放っておけない。
できない俺を。無理をする俺を。見張っていないと危ない俺を。
「それ……俺が弱いからだろ」
「違う」
「何が違うんだよ。好きだから助けたいって、結局それじゃん」
「弱いから好きになったんじゃない」
「でも、放っておけないんだろ」
久住が言葉に詰まった。その一瞬が、俺の怖さを正しいものにしてしまう。
「凪、俺は――」
「俺を見てたなら、勝手に決めないで」
声が震えた。止めたかったのに、もう止まらなかった。
「守るなら、ちゃんと俺を見ろよ。嫌だって言ってる俺も、できるって思いたい俺も。久住が守りたい俺だけで決めないで」
久住の手が、身体の横で強く握られた。
それでも、俺には伸びてこなかった。
「言い方が悪かった」
「今は聞けない」
言い直されたら、信じてしまう。
好きだと言われた喜びだけに縋って、また全部任せたくなる。久住が決めた方が正しいと、楽な方へ逃げたくなる。
そうなったら、いつか久住の前で何もできない俺だけが残る気がした。
それが怖かった。
「しばらく、二人で練習するの、やめたい」
自分で言った言葉が、一番深く刺さった。
久住はしばらく黙っていた。
やがて、短く頷く。
「分かった」
追いかけない。触れない。返事を迫らない。
昨日と同じように、久住は俺が決めた距離を守った。
男子バレー部の声がして、久住はそちらへ歩いていく。
俺は追わなかった。
好きだと告白されたのに、恋も、毎日の練習相手も、いっぺんに失くした気がした。
帰り道は一人だった。
好きだと言われた声が、何度も戻ってくる。そのたび、その後の「放っておけない」が重なった。
明日は最終リハーサルだ。
一人でもできる。
今度こそ、そう証明するしかなかった。



