体育祭まで五日。
週が明けても、金曜日の三分間はまだ効いていた。
あの日、俺は三分間を初めて踊り切った。
その勢いで久住に抱きついて、初めて「凪」と呼ばれた。
週末の間、何度思い出しても落ち着かなかったのに、月曜の教室では何もなかったみたいに振る舞った。
久住も、抱擁の意味を聞いてはこなかった。
「凪、あの隊形よかったよな」
「本番もあれなら余裕じゃん」
朝から何度も声をかけられる。
そのたびに俺は「だろ?」と笑った。
本当は、久住の口が動くのを追うので精いっぱいだった。でも、今さらそんなことは言えない。
「安西、明日の昼、休んでた二人に変更したところ教えてくれる?」
「いいよ。俺やっとく」
「青い布、数はあるけど、結び目が緩いの混じってるかも」
「それも見とく」
「今日の練習場所、教室から体育館に変わったって連絡も――」
「俺やっとくよ」
頼られるたび、胸の中が少し明るくなる。
頼れるセンター。そう思われているなら、金曜日の成功はまぐれじゃなくなる気がした。
俺が一人で踊ったわけじゃない。それでも、みんなの中で俺の評価が少し上がった気がした。
その評価を下げたくなかった。
反対に、ひとつでも断ったらどうなるんだろうとも思う。
やっぱり安西には無理だった。誰かにそう思われるくらいなら、全部持っていた方がいい。
「凪、持ちすぎじゃない」
白石が、俺の顔と机に集まった青い布を交互に見た。
「余裕。平気だから」
「その返事がもう怪しいんだけど」
「気のせい。センター様を信じて」
わざと胸を張ると、白石は呆れた顔で離れていった。
少し離れた席で、久住がこっちを見ていた。
目が合う前に、俺は青い布へ視線を落とした。
◇
昼休みになっても、俺の弁当は鞄の中だった。
教室の前では白石が隊形を確認している。体育館へ移るまでに、布の確認だけでも終わらせたかった。
昼休みは四十五分ある。でも、食べる時間を引けば短い。
机の上に青い布を広げ、端を引いて確かめる。二十四枚のうち、緩んでいた結び目は三つ。ほつれが一つ。これを直したら欠席していた二人を探して、そのあと練習場所を伝えて――。
「まだ食ってない」
顔を上げると、久住が机の横に立っていた。
「これ終わったら食う。平気」
「今日二回目」
「数えなくていいから」
前なら、見抜かれたことが少し嬉しかった。
誰も気づかないところまで、久住だけは見ている。それが特別みたいで、勝手に喜んでいた。
なのに今日は、見つけてもらったより、見つかったと思った。
名前のあとに心配する言葉ばかり続くと、弱いところに印をつけられている気がした。
「布は俺がやる」
「いい。体育祭係はほかにも仕事あるだろ」
「でも」
「本当に平気だから」
三回目。
自分で言ってから気づいたけど、久住は数えなかった。
久住は口を閉じ、青い布を一枚見下ろした。それから「分かった」とも言わずに、教室を出ていった。
引き止める理由はない。
ないのに、その背中が見えなくなるまで目で追ってしまった。
◇
翌日の昼休み、廊下で健太に呼び止められた。
「凪、今日から欠席組への説明、俺がやるわ」
「……なんで?」
「久住に言われた。俺なら同じ部活の奴もいるし、捕まえやすいだろって」
初めて聞いた。
「凪はセンターと小道具あるし。俺、今まで盛り上げてただけだから、全然やるよ」
健太は、頼まれたから引き受けただけだ。
悪いところなんて一つもない。
それに、正直、助かった。
二人を探して説明する時間がなくなれば、昼飯を食べられる。青い布も今日中に終わる。
そう考えた瞬間、腹の奥がすっと軽くなった。
その自分が、すぐ嫌になった。
「久住、凪の保護者みたい」
健太が軽く笑う。
「うける。俺、高二なんだけど」
「だよな。まあ、任せろって。説明くらい余裕」
「ありがと」と返した声は、いつも通り明るかった。
場も変にならなかった。健太も笑ったまま教室へ戻っていった。
そのすぐあと、欠席していた二人が廊下の向こうから来た。
健太は手を振って呼び止め、床に足順を示しながら説明を始めた。俺が昨日探しても捕まらなかった二人だ。
本当に、健太へ頼んだ方が早かった。
なのに、保護者という言葉だけが残った。
久住の隣に立つ俺は、そんなふうに見えるのか。
対等な相手じゃなくて、放っておけない弱いやつに。
昼休み、俺は久しぶりに塩むすびを最後まで食べた。
仕事も昨日より早く進んだ。
それでも、気持ちは軽くならなかった。
◇
放課後、俺は体育館脇の通路で久住を待った。
帰ることもできた。
何も言わず、健太に任せたままにすることもできた。
でも、それをしたら、また笑って流したことになる。
足音が近づく。久住が俺を見つけ、歩く速さを少し上げた。
「凪。今日は――」
「勝手に決めるな」
久住の足が止まった。
「藤田のことか」
「俺の仕事だろ。なんで俺に言わない」
「言ったら、凪は断る」
「だからって、お前が決めるな」
「無理って言わないから」
「言っても無駄だから、聞かなかったってこと?」
「平気って言うのが分かってた」
低い声だった。責めているというより、事実を置くみたいな言い方だった。
だから、余計に苛立った。
「言わないのと、決めていいのは別」
言った途端、喉の奥が狭くなった。
こんな声を久住に向けたのは初めてだった。
久住は黙った。逃げずに、俺を見ている。
「昨日、昼食ってなかった。布も終わってなかった。藤田に頼めば回ると思った」
「それで?」
「凪が楽になるなら、それが正しいと思ってた」
謝らないんだ、と思った。
たぶん久住は、本当に俺のためにやった。今も、仕事を減らしたこと自体は間違いだと思っていない。
「……楽になったよ」
認めるのが悔しかった。
「今日は飯も食えた。布も進んだ。助かった。だから余計に腹立つ」
久住の眉がわずかに動いた。
「俺が頼んでないのに、結果よかったから正解ってされたくない。俺のことなら、俺に決めさせろ」
「弱いと思ってやったんじゃない」
「じゃあ、先に聞けよ」
「聞いて、また平気って言ったら?」
「それでも聞け。無理してると思うなら、そう言えばいい。俺の代わりに返事するな」
久住の視線が、ほんの少し下がった。
俺だって、平気ばかり言ってきた。何も伝えず、気づけと押しつけていたところはある。
でも、それと勝手に決められていいかは別だった。
久住の手が一度だけ動いた。
でも、俺に伸びてくることはなかった。
体育館から、ボールの弾む音が響く。
しばらくして、久住が口を開いた。
「青い布、あと六枚だろ」
「……そうだけど」
「今日は、手伝っていいか」
初めて聞かれた。
ここで頷けば、たぶん二人でいつものように作業をして、練習もできる。
それでも怒りは消えていなかった。
「今日はいい」
久住は少し黙ってから、頷いた。
「分かった」
それだけだった。
断ってもまた誘うと言った久住が、今日は一度で引いた。
俺が求めた通りに。
言い訳もしない。俺の前を塞がない。部活へ向かう足音が、今度こそ遠ざかっていく。
俺は一人で青い布を広げた。
誰にも見られない。何をするかも、いつ終えるかも、全部自分で決められる。
望んだ通りのはずだった。
久住が引いたのに、困ったのは俺だった。
週が明けても、金曜日の三分間はまだ効いていた。
あの日、俺は三分間を初めて踊り切った。
その勢いで久住に抱きついて、初めて「凪」と呼ばれた。
週末の間、何度思い出しても落ち着かなかったのに、月曜の教室では何もなかったみたいに振る舞った。
久住も、抱擁の意味を聞いてはこなかった。
「凪、あの隊形よかったよな」
「本番もあれなら余裕じゃん」
朝から何度も声をかけられる。
そのたびに俺は「だろ?」と笑った。
本当は、久住の口が動くのを追うので精いっぱいだった。でも、今さらそんなことは言えない。
「安西、明日の昼、休んでた二人に変更したところ教えてくれる?」
「いいよ。俺やっとく」
「青い布、数はあるけど、結び目が緩いの混じってるかも」
「それも見とく」
「今日の練習場所、教室から体育館に変わったって連絡も――」
「俺やっとくよ」
頼られるたび、胸の中が少し明るくなる。
頼れるセンター。そう思われているなら、金曜日の成功はまぐれじゃなくなる気がした。
俺が一人で踊ったわけじゃない。それでも、みんなの中で俺の評価が少し上がった気がした。
その評価を下げたくなかった。
反対に、ひとつでも断ったらどうなるんだろうとも思う。
やっぱり安西には無理だった。誰かにそう思われるくらいなら、全部持っていた方がいい。
「凪、持ちすぎじゃない」
白石が、俺の顔と机に集まった青い布を交互に見た。
「余裕。平気だから」
「その返事がもう怪しいんだけど」
「気のせい。センター様を信じて」
わざと胸を張ると、白石は呆れた顔で離れていった。
少し離れた席で、久住がこっちを見ていた。
目が合う前に、俺は青い布へ視線を落とした。
◇
昼休みになっても、俺の弁当は鞄の中だった。
教室の前では白石が隊形を確認している。体育館へ移るまでに、布の確認だけでも終わらせたかった。
昼休みは四十五分ある。でも、食べる時間を引けば短い。
机の上に青い布を広げ、端を引いて確かめる。二十四枚のうち、緩んでいた結び目は三つ。ほつれが一つ。これを直したら欠席していた二人を探して、そのあと練習場所を伝えて――。
「まだ食ってない」
顔を上げると、久住が机の横に立っていた。
「これ終わったら食う。平気」
「今日二回目」
「数えなくていいから」
前なら、見抜かれたことが少し嬉しかった。
誰も気づかないところまで、久住だけは見ている。それが特別みたいで、勝手に喜んでいた。
なのに今日は、見つけてもらったより、見つかったと思った。
名前のあとに心配する言葉ばかり続くと、弱いところに印をつけられている気がした。
「布は俺がやる」
「いい。体育祭係はほかにも仕事あるだろ」
「でも」
「本当に平気だから」
三回目。
自分で言ってから気づいたけど、久住は数えなかった。
久住は口を閉じ、青い布を一枚見下ろした。それから「分かった」とも言わずに、教室を出ていった。
引き止める理由はない。
ないのに、その背中が見えなくなるまで目で追ってしまった。
◇
翌日の昼休み、廊下で健太に呼び止められた。
「凪、今日から欠席組への説明、俺がやるわ」
「……なんで?」
「久住に言われた。俺なら同じ部活の奴もいるし、捕まえやすいだろって」
初めて聞いた。
「凪はセンターと小道具あるし。俺、今まで盛り上げてただけだから、全然やるよ」
健太は、頼まれたから引き受けただけだ。
悪いところなんて一つもない。
それに、正直、助かった。
二人を探して説明する時間がなくなれば、昼飯を食べられる。青い布も今日中に終わる。
そう考えた瞬間、腹の奥がすっと軽くなった。
その自分が、すぐ嫌になった。
「久住、凪の保護者みたい」
健太が軽く笑う。
「うける。俺、高二なんだけど」
「だよな。まあ、任せろって。説明くらい余裕」
「ありがと」と返した声は、いつも通り明るかった。
場も変にならなかった。健太も笑ったまま教室へ戻っていった。
そのすぐあと、欠席していた二人が廊下の向こうから来た。
健太は手を振って呼び止め、床に足順を示しながら説明を始めた。俺が昨日探しても捕まらなかった二人だ。
本当に、健太へ頼んだ方が早かった。
なのに、保護者という言葉だけが残った。
久住の隣に立つ俺は、そんなふうに見えるのか。
対等な相手じゃなくて、放っておけない弱いやつに。
昼休み、俺は久しぶりに塩むすびを最後まで食べた。
仕事も昨日より早く進んだ。
それでも、気持ちは軽くならなかった。
◇
放課後、俺は体育館脇の通路で久住を待った。
帰ることもできた。
何も言わず、健太に任せたままにすることもできた。
でも、それをしたら、また笑って流したことになる。
足音が近づく。久住が俺を見つけ、歩く速さを少し上げた。
「凪。今日は――」
「勝手に決めるな」
久住の足が止まった。
「藤田のことか」
「俺の仕事だろ。なんで俺に言わない」
「言ったら、凪は断る」
「だからって、お前が決めるな」
「無理って言わないから」
「言っても無駄だから、聞かなかったってこと?」
「平気って言うのが分かってた」
低い声だった。責めているというより、事実を置くみたいな言い方だった。
だから、余計に苛立った。
「言わないのと、決めていいのは別」
言った途端、喉の奥が狭くなった。
こんな声を久住に向けたのは初めてだった。
久住は黙った。逃げずに、俺を見ている。
「昨日、昼食ってなかった。布も終わってなかった。藤田に頼めば回ると思った」
「それで?」
「凪が楽になるなら、それが正しいと思ってた」
謝らないんだ、と思った。
たぶん久住は、本当に俺のためにやった。今も、仕事を減らしたこと自体は間違いだと思っていない。
「……楽になったよ」
認めるのが悔しかった。
「今日は飯も食えた。布も進んだ。助かった。だから余計に腹立つ」
久住の眉がわずかに動いた。
「俺が頼んでないのに、結果よかったから正解ってされたくない。俺のことなら、俺に決めさせろ」
「弱いと思ってやったんじゃない」
「じゃあ、先に聞けよ」
「聞いて、また平気って言ったら?」
「それでも聞け。無理してると思うなら、そう言えばいい。俺の代わりに返事するな」
久住の視線が、ほんの少し下がった。
俺だって、平気ばかり言ってきた。何も伝えず、気づけと押しつけていたところはある。
でも、それと勝手に決められていいかは別だった。
久住の手が一度だけ動いた。
でも、俺に伸びてくることはなかった。
体育館から、ボールの弾む音が響く。
しばらくして、久住が口を開いた。
「青い布、あと六枚だろ」
「……そうだけど」
「今日は、手伝っていいか」
初めて聞かれた。
ここで頷けば、たぶん二人でいつものように作業をして、練習もできる。
それでも怒りは消えていなかった。
「今日はいい」
久住は少し黙ってから、頷いた。
「分かった」
それだけだった。
断ってもまた誘うと言った久住が、今日は一度で引いた。
俺が求めた通りに。
言い訳もしない。俺の前を塞がない。部活へ向かう足音が、今度こそ遠ざかっていく。
俺は一人で青い布を広げた。
誰にも見られない。何をするかも、いつ終えるかも、全部自分で決められる。
望んだ通りのはずだった。
久住が引いたのに、困ったのは俺だった。



