体育祭まで、あと八日。
昼休み、健太が俺の机を指で叩いた。
「今日、三分通しだって。凪、ついにセンター覚醒の日じゃん」
「全然いける。昨日も家でやったし」
返事だけは、考えるより先に出た。
膝の横で、指が勝手に一、二、三、四と動いている。途中までならできる。隊形移動も、一度は成功した。
でも、三分間はまだ一度も最後まで通せていない。
「指、止まってないけど」
声に顔を上げると、いつの間にか久住が近くに立っていた。
「これはただの指の運動」
「昼休みに?」
「健康のため」
自分でも苦しい。
健太が笑ったので、俺も笑った。いつもの速さで、いつもの顔を作る。
けれど久住は笑わなかった。俺の指先を見てから、短く言う。
「放課後、先に通路」
「分かってる」
俺は素っ気なく返した。
そのくせ、昼休みが終わった瞬間から、放課後まであと何時間か数えていた。
◇
終礼後、体育館脇の通路には、湿った風が抜けていた。
俺が着いた時、久住はもう壁際に鞄を置いていた。
「早いじゃん」
「安西も」
「今日は待ってないから」
「まだ何も言ってない」
先回りして墓穴を掘った。
久住は追及せず、俺の隣へ立つ。二人で正面を向き、いつもの足順を確認した。
一、二、三、四。
俺は間違えない。久住の低い声だけなら、足は素直に動く。
「できてる」
「ここではね」
体育館の方から、椅子を引く音や笑い声が聞こえてくる。もうすぐ全員が集まる。
それを考えただけで、肩に力が入った。
「今日、途中で止まったら最悪だな」
「止まっても、やり直せばいい」
「全員待たせて?」
「待つだろ」
久住は簡単に言う。俺には、その簡単が難しい。
「……やっぱ無理かも」
声が小さくなった。
久住は少し考えるように俺を見てから、立ち位置へ戻った。
「じゃあ、俺が先に失敗する」
「は?」
「見てろ」
久住が真顔で構える。
「一、二、三、四」
一で逆の足を出した。二で両腕を横に伸ばし、三で急に片足を上げる。最後はなぜか、両手を頭の上で合わせたまま固まった。
無表情で。
「何それ!」
考える前に笑っていた。
誰かが笑ったか確かめる前でも、二拍待ってからでもない。声がそのまま外へ出た。
「久住、下手すぎ。応援っていうか、変な銅像じゃん」
「力抜けた?」
「あ……」
言われて、気づく。
さっきまで上がっていた肩が、ちゃんと下りていた。
久住が俺を見つめる。いつもの切れ長の目が、少しだけ柔らかい。
「……かわいい」
笑いの残りが、喉で止まった。
「今、なんて?」
「もう一回、最初からやるぞ」
久住は何も言い直さず、正面を向いた。
聞き間違いだ。たぶん。
緊張すると、人は都合のいい音まで拾うらしい。
「待って。次、俺がその変なやつやる」
「やるのか」
「正解だけやって終われるか」
今度は俺が、わざと逆の足を出した。久住の真似をして片足を上げたら、思ったよりふらつく。
隣から伸びた腕が、触れる寸前で止まった。俺が自分で踏ん張ると、久住はその手を下ろす。
「安西の方が下手」
「元祖に言われたくない」
また笑った。
二人だけなら、間違えても次がある。格好悪くても、笑ったあとでもう一回できる。
今日もそうなればいい。
さっきまでより少しだけ、本気でそう思えた。
◇
体育館の床は蒸していた。
なのに、靴の中の足先だけが冷たい。
「今日は三分、音を止めないからね」
白石が全員を見回す。
「誰かが間違えても続ける。周りもつられない。最後まで通すよ」
返事と手拍子が重なった。
俺も口を開いたけれど、ちゃんと声になったか分からない。
白石が俺を見る。
「凪、通す?」
逃げるなら、今だった。
腹が痛いとか、少し確認したいとか、使えそうな言い訳はいくつも浮かぶ。
それでも俺は、センターへ立った。
「通す。最後までやる」
斜め右には、久住がいる。
前の練習では、あいつだけを見て前半を越えた。今日も同じでいいはずだ。
でも、今日はその先がある。
「久住」
呼ぶと、すぐに目が合った。
「四つ、ちゃんと数えて。音で聞こえなくても分かるくらい、口も動かして」
「分かった」
それだけだった。
平気だとは言われなかった。代わりにやるとも言われなかった。
俺が頼んだことだけを、久住は受け取った。
音楽が始まる。
一、二、三、四。
手拍子が体育館の壁に跳ね返る。
最初の足運び。腕を上げる。半歩下がる。前列が左右へ開き、俺は中央を抜ける。
できた。
ここまでは前にもできた。
次は、まだ一度も全員の中で通せていない部分だ。
視界の端に人が増える。靴の音が一斉に近づいて、頭の中の順番が揺れた。
次は右だったか、左だったか。
足が床へ落ちかける。
斜め右を見る。
久住の口が、大きく動いた。
一、二、三、四。
右だ。
踵が止まりきる前に、俺は右へ踏み出した。
そのまま腕を振る。次の列へ移る。後ろから声が重なり、最後の手拍子へつながっていく。
まだ終わらない。
でも、もう怖くなかった。
四つ進めば、また四つ来る。
久住の口元を見て、足を出す。それを繰り返しているうちに、最後の音が鳴った。
全員の腕が上がる。
音楽が切れた。
一瞬だけ、体育館が静かになった。
次の瞬間、声と拍手が一気に上がった。
「通った!」
「安西、止まってないじゃん!」
「やったー!」
白石が俺のところまで走ってくる。
「できたじゃん、凪。三分、全部」
「俺、最後までいた?」
「いたよ。途中でちょっと迷ったけど、自分で戻った」
自分で戻った。
その言葉を聞いた途端、胸の奥に溜めていたものが、一気にほどけた。
「ありがと」と言うより先に、周りの声が遠くなる。
俺はまず、久住を探した。
人の頭の向こうに、少し高い黒髪が見える。
久住は俺を見ていた。
いつもの小さな頷きじゃない。年相応の顔で、俺より嬉しそうに笑っているように見えた。
自分でも分かるくらい、俺も笑っていた。
気づいたら、走っていた。
「久住、できた!」
三歩で届いた身体に、そのまま抱きつく。
胸にぶつかり、両腕を背中へ回したところで、ようやく自分が何をしたか分かった。
――俺、今、何してる?
全身が固まる。
一拍遅れて、久住の腕が俺の背中へ回った。強く引き寄せるのではなく、勢いのまま倒れないように受け止める腕だった。
「うん。できた」
耳の近くで声がした。
俺は弾かれたように離れた。
抱き合っていたのは、たぶん数秒もない。
それでも背中には、久住の腕があった場所だけが残っている気がした。
周りを見る余裕なんてない。誰が見ていたか確かめる前に、飲み物を取るふりをして体育館の脇へ逃げる。
顔を冷やしたかったのに、外の風まで生ぬるかった。
「凪」
後ろから呼ばれた。
たった一語で、足が止まる。
振り返ると、久住が立っていた。
「……今、俺のこと」
「凪」
「それ、もう一回言って」
素直すぎる言葉が出た。止める暇もなかった。
久住の口元が、少しだけ緩む。
「凪。三分、全部できたな」
安西じゃない。
久住の声で、俺の名前が呼ばれた。
さっき俺が真っ先に久住を探した理由も、考える前に抱きついた理由も、急に全部つながった。
練習が楽しいからじゃない。
失敗を笑わないから、それだけでもない。
俺は、久住が好きなんだ。
◇
帰り道、車が横を通るたび、音がやけに大きく聞こえた。
自分の靴が地面を踏む音までうるさい。
それなのに頭の中では、久住に呼ばれた「凪」だけが、何度もはっきり聞こえていた。
三分間を踊り切ったことより、そっちを先に思い出してしまう。
もう、練習相手だから会いたい、では説明できなかった。
昼休み、健太が俺の机を指で叩いた。
「今日、三分通しだって。凪、ついにセンター覚醒の日じゃん」
「全然いける。昨日も家でやったし」
返事だけは、考えるより先に出た。
膝の横で、指が勝手に一、二、三、四と動いている。途中までならできる。隊形移動も、一度は成功した。
でも、三分間はまだ一度も最後まで通せていない。
「指、止まってないけど」
声に顔を上げると、いつの間にか久住が近くに立っていた。
「これはただの指の運動」
「昼休みに?」
「健康のため」
自分でも苦しい。
健太が笑ったので、俺も笑った。いつもの速さで、いつもの顔を作る。
けれど久住は笑わなかった。俺の指先を見てから、短く言う。
「放課後、先に通路」
「分かってる」
俺は素っ気なく返した。
そのくせ、昼休みが終わった瞬間から、放課後まであと何時間か数えていた。
◇
終礼後、体育館脇の通路には、湿った風が抜けていた。
俺が着いた時、久住はもう壁際に鞄を置いていた。
「早いじゃん」
「安西も」
「今日は待ってないから」
「まだ何も言ってない」
先回りして墓穴を掘った。
久住は追及せず、俺の隣へ立つ。二人で正面を向き、いつもの足順を確認した。
一、二、三、四。
俺は間違えない。久住の低い声だけなら、足は素直に動く。
「できてる」
「ここではね」
体育館の方から、椅子を引く音や笑い声が聞こえてくる。もうすぐ全員が集まる。
それを考えただけで、肩に力が入った。
「今日、途中で止まったら最悪だな」
「止まっても、やり直せばいい」
「全員待たせて?」
「待つだろ」
久住は簡単に言う。俺には、その簡単が難しい。
「……やっぱ無理かも」
声が小さくなった。
久住は少し考えるように俺を見てから、立ち位置へ戻った。
「じゃあ、俺が先に失敗する」
「は?」
「見てろ」
久住が真顔で構える。
「一、二、三、四」
一で逆の足を出した。二で両腕を横に伸ばし、三で急に片足を上げる。最後はなぜか、両手を頭の上で合わせたまま固まった。
無表情で。
「何それ!」
考える前に笑っていた。
誰かが笑ったか確かめる前でも、二拍待ってからでもない。声がそのまま外へ出た。
「久住、下手すぎ。応援っていうか、変な銅像じゃん」
「力抜けた?」
「あ……」
言われて、気づく。
さっきまで上がっていた肩が、ちゃんと下りていた。
久住が俺を見つめる。いつもの切れ長の目が、少しだけ柔らかい。
「……かわいい」
笑いの残りが、喉で止まった。
「今、なんて?」
「もう一回、最初からやるぞ」
久住は何も言い直さず、正面を向いた。
聞き間違いだ。たぶん。
緊張すると、人は都合のいい音まで拾うらしい。
「待って。次、俺がその変なやつやる」
「やるのか」
「正解だけやって終われるか」
今度は俺が、わざと逆の足を出した。久住の真似をして片足を上げたら、思ったよりふらつく。
隣から伸びた腕が、触れる寸前で止まった。俺が自分で踏ん張ると、久住はその手を下ろす。
「安西の方が下手」
「元祖に言われたくない」
また笑った。
二人だけなら、間違えても次がある。格好悪くても、笑ったあとでもう一回できる。
今日もそうなればいい。
さっきまでより少しだけ、本気でそう思えた。
◇
体育館の床は蒸していた。
なのに、靴の中の足先だけが冷たい。
「今日は三分、音を止めないからね」
白石が全員を見回す。
「誰かが間違えても続ける。周りもつられない。最後まで通すよ」
返事と手拍子が重なった。
俺も口を開いたけれど、ちゃんと声になったか分からない。
白石が俺を見る。
「凪、通す?」
逃げるなら、今だった。
腹が痛いとか、少し確認したいとか、使えそうな言い訳はいくつも浮かぶ。
それでも俺は、センターへ立った。
「通す。最後までやる」
斜め右には、久住がいる。
前の練習では、あいつだけを見て前半を越えた。今日も同じでいいはずだ。
でも、今日はその先がある。
「久住」
呼ぶと、すぐに目が合った。
「四つ、ちゃんと数えて。音で聞こえなくても分かるくらい、口も動かして」
「分かった」
それだけだった。
平気だとは言われなかった。代わりにやるとも言われなかった。
俺が頼んだことだけを、久住は受け取った。
音楽が始まる。
一、二、三、四。
手拍子が体育館の壁に跳ね返る。
最初の足運び。腕を上げる。半歩下がる。前列が左右へ開き、俺は中央を抜ける。
できた。
ここまでは前にもできた。
次は、まだ一度も全員の中で通せていない部分だ。
視界の端に人が増える。靴の音が一斉に近づいて、頭の中の順番が揺れた。
次は右だったか、左だったか。
足が床へ落ちかける。
斜め右を見る。
久住の口が、大きく動いた。
一、二、三、四。
右だ。
踵が止まりきる前に、俺は右へ踏み出した。
そのまま腕を振る。次の列へ移る。後ろから声が重なり、最後の手拍子へつながっていく。
まだ終わらない。
でも、もう怖くなかった。
四つ進めば、また四つ来る。
久住の口元を見て、足を出す。それを繰り返しているうちに、最後の音が鳴った。
全員の腕が上がる。
音楽が切れた。
一瞬だけ、体育館が静かになった。
次の瞬間、声と拍手が一気に上がった。
「通った!」
「安西、止まってないじゃん!」
「やったー!」
白石が俺のところまで走ってくる。
「できたじゃん、凪。三分、全部」
「俺、最後までいた?」
「いたよ。途中でちょっと迷ったけど、自分で戻った」
自分で戻った。
その言葉を聞いた途端、胸の奥に溜めていたものが、一気にほどけた。
「ありがと」と言うより先に、周りの声が遠くなる。
俺はまず、久住を探した。
人の頭の向こうに、少し高い黒髪が見える。
久住は俺を見ていた。
いつもの小さな頷きじゃない。年相応の顔で、俺より嬉しそうに笑っているように見えた。
自分でも分かるくらい、俺も笑っていた。
気づいたら、走っていた。
「久住、できた!」
三歩で届いた身体に、そのまま抱きつく。
胸にぶつかり、両腕を背中へ回したところで、ようやく自分が何をしたか分かった。
――俺、今、何してる?
全身が固まる。
一拍遅れて、久住の腕が俺の背中へ回った。強く引き寄せるのではなく、勢いのまま倒れないように受け止める腕だった。
「うん。できた」
耳の近くで声がした。
俺は弾かれたように離れた。
抱き合っていたのは、たぶん数秒もない。
それでも背中には、久住の腕があった場所だけが残っている気がした。
周りを見る余裕なんてない。誰が見ていたか確かめる前に、飲み物を取るふりをして体育館の脇へ逃げる。
顔を冷やしたかったのに、外の風まで生ぬるかった。
「凪」
後ろから呼ばれた。
たった一語で、足が止まる。
振り返ると、久住が立っていた。
「……今、俺のこと」
「凪」
「それ、もう一回言って」
素直すぎる言葉が出た。止める暇もなかった。
久住の口元が、少しだけ緩む。
「凪。三分、全部できたな」
安西じゃない。
久住の声で、俺の名前が呼ばれた。
さっき俺が真っ先に久住を探した理由も、考える前に抱きついた理由も、急に全部つながった。
練習が楽しいからじゃない。
失敗を笑わないから、それだけでもない。
俺は、久住が好きなんだ。
◇
帰り道、車が横を通るたび、音がやけに大きく聞こえた。
自分の靴が地面を踏む音までうるさい。
それなのに頭の中では、久住に呼ばれた「凪」だけが、何度もはっきり聞こえていた。
三分間を踊り切ったことより、そっちを先に思い出してしまう。
もう、練習相手だから会いたい、では説明できなかった。



