陽キャのふりは、君にだけバレる

体育祭まで、あと八日。

昼休み、健太が俺の机を指で叩いた。

「今日、三分通しだって。凪、ついにセンター覚醒の日じゃん」

「全然いける。昨日も家でやったし」

返事だけは、考えるより先に出た。

膝の横で、指が勝手に一、二、三、四と動いている。途中までならできる。隊形移動も、一度は成功した。

でも、三分間はまだ一度も最後まで通せていない。

「指、止まってないけど」

声に顔を上げると、いつの間にか久住が近くに立っていた。

「これはただの指の運動」

「昼休みに?」

「健康のため」

自分でも苦しい。

健太が笑ったので、俺も笑った。いつもの速さで、いつもの顔を作る。

けれど久住は笑わなかった。俺の指先を見てから、短く言う。

「放課後、先に通路」

「分かってる」

俺は素っ気なく返した。

そのくせ、昼休みが終わった瞬間から、放課後まであと何時間か数えていた。



終礼後、体育館脇の通路には、湿った風が抜けていた。

俺が着いた時、久住はもう壁際に鞄を置いていた。

「早いじゃん」

「安西も」

「今日は待ってないから」

「まだ何も言ってない」

先回りして墓穴を掘った。

久住は追及せず、俺の隣へ立つ。二人で正面を向き、いつもの足順を確認した。

一、二、三、四。

俺は間違えない。久住の低い声だけなら、足は素直に動く。

「できてる」

「ここではね」

体育館の方から、椅子を引く音や笑い声が聞こえてくる。もうすぐ全員が集まる。

それを考えただけで、肩に力が入った。

「今日、途中で止まったら最悪だな」

「止まっても、やり直せばいい」

「全員待たせて?」

「待つだろ」

久住は簡単に言う。俺には、その簡単が難しい。

「……やっぱ無理かも」

声が小さくなった。

久住は少し考えるように俺を見てから、立ち位置へ戻った。

「じゃあ、俺が先に失敗する」

「は?」

「見てろ」

久住が真顔で構える。

「一、二、三、四」

一で逆の足を出した。二で両腕を横に伸ばし、三で急に片足を上げる。最後はなぜか、両手を頭の上で合わせたまま固まった。

無表情で。

「何それ!」

考える前に笑っていた。

誰かが笑ったか確かめる前でも、二拍待ってからでもない。声がそのまま外へ出た。

「久住、下手すぎ。応援っていうか、変な銅像じゃん」

「力抜けた?」

「あ……」

言われて、気づく。

さっきまで上がっていた肩が、ちゃんと下りていた。

久住が俺を見つめる。いつもの切れ長の目が、少しだけ柔らかい。

「……かわいい」

笑いの残りが、喉で止まった。

「今、なんて?」

「もう一回、最初からやるぞ」

久住は何も言い直さず、正面を向いた。

聞き間違いだ。たぶん。

緊張すると、人は都合のいい音まで拾うらしい。

「待って。次、俺がその変なやつやる」

「やるのか」

「正解だけやって終われるか」

今度は俺が、わざと逆の足を出した。久住の真似をして片足を上げたら、思ったよりふらつく。

隣から伸びた腕が、触れる寸前で止まった。俺が自分で踏ん張ると、久住はその手を下ろす。

「安西の方が下手」

「元祖に言われたくない」

また笑った。

二人だけなら、間違えても次がある。格好悪くても、笑ったあとでもう一回できる。

今日もそうなればいい。

さっきまでより少しだけ、本気でそう思えた。



体育館の床は蒸していた。

なのに、靴の中の足先だけが冷たい。

「今日は三分、音を止めないからね」

白石が全員を見回す。

「誰かが間違えても続ける。周りもつられない。最後まで通すよ」

返事と手拍子が重なった。

俺も口を開いたけれど、ちゃんと声になったか分からない。

白石が俺を見る。

「凪、通す?」

逃げるなら、今だった。

腹が痛いとか、少し確認したいとか、使えそうな言い訳はいくつも浮かぶ。

それでも俺は、センターへ立った。

「通す。最後までやる」

斜め右には、久住がいる。

前の練習では、あいつだけを見て前半を越えた。今日も同じでいいはずだ。

でも、今日はその先がある。

「久住」

呼ぶと、すぐに目が合った。

「四つ、ちゃんと数えて。音で聞こえなくても分かるくらい、口も動かして」

「分かった」

それだけだった。

平気だとは言われなかった。代わりにやるとも言われなかった。

俺が頼んだことだけを、久住は受け取った。

音楽が始まる。

一、二、三、四。

手拍子が体育館の壁に跳ね返る。

最初の足運び。腕を上げる。半歩下がる。前列が左右へ開き、俺は中央を抜ける。

できた。

ここまでは前にもできた。

次は、まだ一度も全員の中で通せていない部分だ。

視界の端に人が増える。靴の音が一斉に近づいて、頭の中の順番が揺れた。

次は右だったか、左だったか。

足が床へ落ちかける。

斜め右を見る。

久住の口が、大きく動いた。

一、二、三、四。

右だ。

踵が止まりきる前に、俺は右へ踏み出した。

そのまま腕を振る。次の列へ移る。後ろから声が重なり、最後の手拍子へつながっていく。

まだ終わらない。

でも、もう怖くなかった。

四つ進めば、また四つ来る。

久住の口元を見て、足を出す。それを繰り返しているうちに、最後の音が鳴った。

全員の腕が上がる。

音楽が切れた。

一瞬だけ、体育館が静かになった。

次の瞬間、声と拍手が一気に上がった。

「通った!」

「安西、止まってないじゃん!」

「やったー!」

白石が俺のところまで走ってくる。

「できたじゃん、凪。三分、全部」

「俺、最後までいた?」

「いたよ。途中でちょっと迷ったけど、自分で戻った」

自分で戻った。

その言葉を聞いた途端、胸の奥に溜めていたものが、一気にほどけた。

「ありがと」と言うより先に、周りの声が遠くなる。

俺はまず、久住を探した。

人の頭の向こうに、少し高い黒髪が見える。

久住は俺を見ていた。

いつもの小さな頷きじゃない。年相応の顔で、俺より嬉しそうに笑っているように見えた。

自分でも分かるくらい、俺も笑っていた。

気づいたら、走っていた。

「久住、できた!」

三歩で届いた身体に、そのまま抱きつく。

胸にぶつかり、両腕を背中へ回したところで、ようやく自分が何をしたか分かった。

――俺、今、何してる?

全身が固まる。

一拍遅れて、久住の腕が俺の背中へ回った。強く引き寄せるのではなく、勢いのまま倒れないように受け止める腕だった。

「うん。できた」

耳の近くで声がした。

俺は弾かれたように離れた。

抱き合っていたのは、たぶん数秒もない。

それでも背中には、久住の腕があった場所だけが残っている気がした。

周りを見る余裕なんてない。誰が見ていたか確かめる前に、飲み物を取るふりをして体育館の脇へ逃げる。

顔を冷やしたかったのに、外の風まで生ぬるかった。

「凪」

後ろから呼ばれた。

たった一語で、足が止まる。

振り返ると、久住が立っていた。

「……今、俺のこと」

「凪」

「それ、もう一回言って」

素直すぎる言葉が出た。止める暇もなかった。

久住の口元が、少しだけ緩む。

「凪。三分、全部できたな」

安西じゃない。

久住の声で、俺の名前が呼ばれた。

さっき俺が真っ先に久住を探した理由も、考える前に抱きついた理由も、急に全部つながった。

練習が楽しいからじゃない。

失敗を笑わないから、それだけでもない。

俺は、久住が好きなんだ。



帰り道、車が横を通るたび、音がやけに大きく聞こえた。

自分の靴が地面を踏む音までうるさい。

それなのに頭の中では、久住に呼ばれた「凪」だけが、何度もはっきり聞こえていた。

三分間を踊り切ったことより、そっちを先に思い出してしまう。

もう、練習相手だから会いたい、では説明できなかった。