雨は、屋根を叩く音だけが妙に大きかった。
体育館脇の通路には、雨音と、遠くから聞こえる部活の声しかなかった。俺は柱にもたれ、手にした二本のペットボトルを何度も持ち替える。
左手にレモン炭酸。右手に麦茶。
昨日、久住が自動販売機で迷わず麦茶を選んだのを覚えていた。だから二本買った。そこまでは認める。
別に、久住を待っているわけじゃない。
練習は毎日三十分と決めただけだ。だから先に来ているのも普通だし、飲み物が二本あるのにも、ちゃんとした理由がある。
たぶん。
久住は一昨日も昨日も、時間どおりに来た。今日だけ来ない理由はない。それでも通路の角へ足音が近づくたび、いちいち顔を上げてしまう。
我ながら落ち着きがない。
「安西」
声がして、反射で通路の時計を見た。
四時七分。時間どおりだ。
……いや、今時計を見る必要あったか、俺。
「早いな」
「今来たとこ」
嘘を重ねた。久住は濡れた傘を閉じ、俺の前まで来る。
顔を見た瞬間、胸の奥にあった小さな力が抜けた。来ると分かっていたのに、来たことが嬉しい。そんなの、顔に出たら困る。
「これ」
ごまかすように麦茶を差し出すと、久住が俺とペットボトルを交互に見た。
「俺に?」
「二本セットだった」
「自販機で?」
「今日はそういう日」
自分でも苦しい。自動販売機にセット販売の日なんかない。
久住は追及せず、麦茶を受け取った。指先が一瞬触れたけれど、それより口元が少しだけ緩んだことの方が気になった。
「何」
「別に」
「今、笑っただろ」
「笑ってない」
絶対に笑った。けれど、俺が何を言っても認める気はないらしい。
こういう時だけ無表情が便利なの、ずるくないか。
「始めるぞ」
「はいはい」
俺はレモン炭酸を柱の下へ置き、通路の真ん中へ出た。
前半の足運びは、一人ならできるようになった。
右へ一歩。左を寄せる。手拍子。次は反対。
誰も見ていない時に何度もやった。昨日も家で、ベッドへ足をぶつけながらやった。努力の方向が、あまり格好よくない。
「一人でやってみる」
「分かった」
久住は壁際まで下がった。俺の顔ではなく、足元を見る。
正面から見られていない。それだけで、足は動く。
「一、二、三、四」
自分で小さく数える。前半を終え、最後の手拍子まで入れた。
できた。
久住を見ると、短く頷く。
「昨日より速い」
「まあね。俺、やればできるんで」
「今のは本当っぽい」
「どういう意味?」
聞き返しながらも、少し嬉しかった。
褒められたからじゃない。結果だけじゃなく、昨日との差を見ていたからだ。
次は久住が隣へ立った。雨の音に合わせるみたいに、低い声で四つ数える。
後半はまだ足が迷う。二度目で左右を間違え、三度目で手拍子が一つ抜けた。
「今のなし」
「もう一回」
「笑わないの?」
「どこで?」
「そこから説明させるの、地味にきつい」
久住はやっぱり笑わなかった。
四度目で、なんとか最後まで足が動く。
「できた」
「危なかったけどね」
「できた」
「はい」
言い切られると、俺もそれ以上は否定できない。
休憩にして、二人で壁際へ座った。雨はさっきより強くなっていた。体育館から聞こえていた声も、ほとんど雨音に消されている。
すぐ隣にいるのに、ここだけ学校から切り離されたみたいだった。普段なら沈黙が怖い。今日は、雨が代わりにしゃべってくれている。
俺はレモン炭酸の蓋を開けた。ぷしゅっと鳴った音だけが、妙に近い。
「安西」
「何」
「教室だと、返事が半秒早い」
危うく炭酸をこぼしかけた。
「何それ。久住、時間測ってんの?」
笑って返した。いつもの、何でもない顔で。
「今のも作った」
笑いが止まった。
怒るより先に、背中が冷えた。
作っていることがばれたからじゃない。その先まで見つかりそうで怖かった。
本当の俺は、話題もすぐに出ない。面白い返しもできない。黙っている時間の方が長い。
そんな俺といても、たぶん誰も楽しくない。
久住だって、面倒だと思うかもしれない。練習だけなら付き合えても、何もない俺と話す理由はない。
「……観察しすぎ。普通に怖いけど」
「悪い」
久住はそう言って、麦茶のラベルへ目を落とした。
言い訳もしない。俺の顔を覗き込もうともしない。
雨音だけが続いた。
何か言わないと。空気を戻さないと。
いつもなら、相手が困る前に笑って、適当な話題を足す。それをしない俺は、たぶんかなりつまらない。
そう思うのに、久住は沈黙を埋めなかった。
「無理に話さなくても、俺は困らない」
顔を上げると、久住はまだ前を向いていた。
「……久住は困らなくても、普通は困るだろ」
「普通って誰」
「みんな」
「今、ここにいない」
それだけだった。
人見知りだとか、考えすぎだとか、直した方がいいとか。そういう診断は一つもない。
雨が全部を隠してくれている気がした。
「中学の時さ」
口を開いてから、自分で驚いた。
久住は何も言わない。ただ、続きを待っている。
「放課後、何人かで駅前のゲームセンターに行こうって誘われたことがあって。その日だけ、家の用事で断った」
「うん」
「次から、誘われなくなった」
言葉にすると、本当に小さい話だった。
仲間外れにされたわけでもない。昼休みには普通に話したし、たぶん、いつも行けるやつ同士で予定を決めるようになっただけだ。相手に悪気なんてなかったと思う。
「俺が一回断ったから、もう誘わなくていいって思われたのかなって。勝手にへこんだだけ」
久住は急かさない。
そのせいで、もう少し話せてしまう。
「次に誘われた時は、行きたくなくても行った。よく分かんなくても笑って、頼まれたらやる。そうしてたら、次も呼ばれるから」
自分で決めたやり方だった。実際、それで高校では輪の中にいられる。
間違いだと言われたら、今まで頑張った分まで否定されそうで怖い。
レモン炭酸の泡は、もうほとんど消えていた。
「まあ、今は治療中だから」
最後だけ明るく言った。逃げ道くらい残しておきたい。
久住は笑わなかった。
「治すものなの、それ」
「え」
「断れないのも、早く返事するのも。安西が困ってるなら変えればいいけど」
そこで言葉を切り、久住は麦茶を一口飲んだ。
「静かなのまで治す必要ある?」
答えが出なかった。
静かな俺でもいいなんて、考えたことがなかったから。
「久住って、たまに変なこと言うよな」
「安西よりは普通」
「それは絶対ない」
今度の笑いは、作る前に出た。
雨脚が少し弱くなる。遠くの声が戻ってきて、三十分の終わりも近づいていた。
立ち上がろうとすると、久住が言った。
「明日、昼一緒に食う?」
「行け――」
反射で答えかけて、止まった。
行ける。いつもなら、そう言う。
「中庭の端。あそこ、昼も静かだから」
久住は俺の続きを取らない。
「嫌なら断れ」
「……嫌じゃない」
「じゃあ?」
また待たれる。
俺は手の中のペットボトルを見た。今度こそ、早く正解を返すためじゃなく、自分がどうしたいかを考える。
久住は急かさない。雨が止みかけても、俺の返事を勝手に決めない。
「今回は、行きたい」
言えた途端、明日の昼休みが急に近くなった。
楽しみにしている自分を見つけても、今度はごまかせなかった。
それでも、俺の中の臆病なやつが聞いてくる。
次に断ったら、どうなる。
一度断っても終わらないと、誰かに言ってもらえたら。そんな簡単な約束を、今まで誰もしてくれなかった。
久住は、そんな俺の心配まで見ていたみたいに、短く言った。
「断っても、また誘う」
体育館脇の通路には、雨音と、遠くから聞こえる部活の声しかなかった。俺は柱にもたれ、手にした二本のペットボトルを何度も持ち替える。
左手にレモン炭酸。右手に麦茶。
昨日、久住が自動販売機で迷わず麦茶を選んだのを覚えていた。だから二本買った。そこまでは認める。
別に、久住を待っているわけじゃない。
練習は毎日三十分と決めただけだ。だから先に来ているのも普通だし、飲み物が二本あるのにも、ちゃんとした理由がある。
たぶん。
久住は一昨日も昨日も、時間どおりに来た。今日だけ来ない理由はない。それでも通路の角へ足音が近づくたび、いちいち顔を上げてしまう。
我ながら落ち着きがない。
「安西」
声がして、反射で通路の時計を見た。
四時七分。時間どおりだ。
……いや、今時計を見る必要あったか、俺。
「早いな」
「今来たとこ」
嘘を重ねた。久住は濡れた傘を閉じ、俺の前まで来る。
顔を見た瞬間、胸の奥にあった小さな力が抜けた。来ると分かっていたのに、来たことが嬉しい。そんなの、顔に出たら困る。
「これ」
ごまかすように麦茶を差し出すと、久住が俺とペットボトルを交互に見た。
「俺に?」
「二本セットだった」
「自販機で?」
「今日はそういう日」
自分でも苦しい。自動販売機にセット販売の日なんかない。
久住は追及せず、麦茶を受け取った。指先が一瞬触れたけれど、それより口元が少しだけ緩んだことの方が気になった。
「何」
「別に」
「今、笑っただろ」
「笑ってない」
絶対に笑った。けれど、俺が何を言っても認める気はないらしい。
こういう時だけ無表情が便利なの、ずるくないか。
「始めるぞ」
「はいはい」
俺はレモン炭酸を柱の下へ置き、通路の真ん中へ出た。
前半の足運びは、一人ならできるようになった。
右へ一歩。左を寄せる。手拍子。次は反対。
誰も見ていない時に何度もやった。昨日も家で、ベッドへ足をぶつけながらやった。努力の方向が、あまり格好よくない。
「一人でやってみる」
「分かった」
久住は壁際まで下がった。俺の顔ではなく、足元を見る。
正面から見られていない。それだけで、足は動く。
「一、二、三、四」
自分で小さく数える。前半を終え、最後の手拍子まで入れた。
できた。
久住を見ると、短く頷く。
「昨日より速い」
「まあね。俺、やればできるんで」
「今のは本当っぽい」
「どういう意味?」
聞き返しながらも、少し嬉しかった。
褒められたからじゃない。結果だけじゃなく、昨日との差を見ていたからだ。
次は久住が隣へ立った。雨の音に合わせるみたいに、低い声で四つ数える。
後半はまだ足が迷う。二度目で左右を間違え、三度目で手拍子が一つ抜けた。
「今のなし」
「もう一回」
「笑わないの?」
「どこで?」
「そこから説明させるの、地味にきつい」
久住はやっぱり笑わなかった。
四度目で、なんとか最後まで足が動く。
「できた」
「危なかったけどね」
「できた」
「はい」
言い切られると、俺もそれ以上は否定できない。
休憩にして、二人で壁際へ座った。雨はさっきより強くなっていた。体育館から聞こえていた声も、ほとんど雨音に消されている。
すぐ隣にいるのに、ここだけ学校から切り離されたみたいだった。普段なら沈黙が怖い。今日は、雨が代わりにしゃべってくれている。
俺はレモン炭酸の蓋を開けた。ぷしゅっと鳴った音だけが、妙に近い。
「安西」
「何」
「教室だと、返事が半秒早い」
危うく炭酸をこぼしかけた。
「何それ。久住、時間測ってんの?」
笑って返した。いつもの、何でもない顔で。
「今のも作った」
笑いが止まった。
怒るより先に、背中が冷えた。
作っていることがばれたからじゃない。その先まで見つかりそうで怖かった。
本当の俺は、話題もすぐに出ない。面白い返しもできない。黙っている時間の方が長い。
そんな俺といても、たぶん誰も楽しくない。
久住だって、面倒だと思うかもしれない。練習だけなら付き合えても、何もない俺と話す理由はない。
「……観察しすぎ。普通に怖いけど」
「悪い」
久住はそう言って、麦茶のラベルへ目を落とした。
言い訳もしない。俺の顔を覗き込もうともしない。
雨音だけが続いた。
何か言わないと。空気を戻さないと。
いつもなら、相手が困る前に笑って、適当な話題を足す。それをしない俺は、たぶんかなりつまらない。
そう思うのに、久住は沈黙を埋めなかった。
「無理に話さなくても、俺は困らない」
顔を上げると、久住はまだ前を向いていた。
「……久住は困らなくても、普通は困るだろ」
「普通って誰」
「みんな」
「今、ここにいない」
それだけだった。
人見知りだとか、考えすぎだとか、直した方がいいとか。そういう診断は一つもない。
雨が全部を隠してくれている気がした。
「中学の時さ」
口を開いてから、自分で驚いた。
久住は何も言わない。ただ、続きを待っている。
「放課後、何人かで駅前のゲームセンターに行こうって誘われたことがあって。その日だけ、家の用事で断った」
「うん」
「次から、誘われなくなった」
言葉にすると、本当に小さい話だった。
仲間外れにされたわけでもない。昼休みには普通に話したし、たぶん、いつも行けるやつ同士で予定を決めるようになっただけだ。相手に悪気なんてなかったと思う。
「俺が一回断ったから、もう誘わなくていいって思われたのかなって。勝手にへこんだだけ」
久住は急かさない。
そのせいで、もう少し話せてしまう。
「次に誘われた時は、行きたくなくても行った。よく分かんなくても笑って、頼まれたらやる。そうしてたら、次も呼ばれるから」
自分で決めたやり方だった。実際、それで高校では輪の中にいられる。
間違いだと言われたら、今まで頑張った分まで否定されそうで怖い。
レモン炭酸の泡は、もうほとんど消えていた。
「まあ、今は治療中だから」
最後だけ明るく言った。逃げ道くらい残しておきたい。
久住は笑わなかった。
「治すものなの、それ」
「え」
「断れないのも、早く返事するのも。安西が困ってるなら変えればいいけど」
そこで言葉を切り、久住は麦茶を一口飲んだ。
「静かなのまで治す必要ある?」
答えが出なかった。
静かな俺でもいいなんて、考えたことがなかったから。
「久住って、たまに変なこと言うよな」
「安西よりは普通」
「それは絶対ない」
今度の笑いは、作る前に出た。
雨脚が少し弱くなる。遠くの声が戻ってきて、三十分の終わりも近づいていた。
立ち上がろうとすると、久住が言った。
「明日、昼一緒に食う?」
「行け――」
反射で答えかけて、止まった。
行ける。いつもなら、そう言う。
「中庭の端。あそこ、昼も静かだから」
久住は俺の続きを取らない。
「嫌なら断れ」
「……嫌じゃない」
「じゃあ?」
また待たれる。
俺は手の中のペットボトルを見た。今度こそ、早く正解を返すためじゃなく、自分がどうしたいかを考える。
久住は急かさない。雨が止みかけても、俺の返事を勝手に決めない。
「今回は、行きたい」
言えた途端、明日の昼休みが急に近くなった。
楽しみにしている自分を見つけても、今度はごまかせなかった。
それでも、俺の中の臆病なやつが聞いてくる。
次に断ったら、どうなる。
一度断っても終わらないと、誰かに言ってもらえたら。そんな簡単な約束を、今まで誰もしてくれなかった。
久住は、そんな俺の心配まで見ていたみたいに、短く言った。
「断っても、また誘う」



