終礼が終わってから、俺はまっすぐ体育館脇へ向かった。
向かっただけだ。急いではいない。
たまたま廊下が空いていて、たまたま足が速くなっただけである。
屋根付き通路には、まだ誰もいなかった。
昨日と同じ場所へ鞄を置き、覚えたばかりの足順を頭の中で並べる。
右。そろえる。左。そろえる。
それくらいなら、一人でできる。
久住は来ないかもしれない。
男子バレー部だし、昨日は勢いで言っただけかもしれない。そうだったら困るけど、少しだけ助かる。
今日も失敗を見られずに済むから。
「早いな」
背後から声がして、右足が変なところで止まった。
振り返ると、久住がいた。制服の袖を一度まくり、鞄を肩に掛けたまま、昨日と同じ無表情で立っている。
「……本当に来た」
「来るって言った」
「部活あるだろ」
「このあと」
「別に、一人で平気だから」
久住が人差し指を一本立てた。
「それ、今日一回目の平気」
「数えるなよ」
「多分、増える」
「増やす気で来るな」
腹が立つ。
昨日までほとんど話したこともなかった奴に、なんで俺の口癖を管理されなきゃいけないんだ。
「で、どこからできない?」
「できない前提で聞くな。昨日はたまたま」
「じゃあ、最初から」
否定を最後まで聞かず、久住は俺の正面へ立った。
背が高いから、ただ向かい合っているだけで視界が狭くなる。
「やって」
「今?」
「練習しに来た」
分かっている。分かっているけど、久住の目が俺の足元へ落ちた瞬間、両足が床へ貼りついた。
昨日はクラス全員に見られていたからだと思っていた。
一人なら、まだましだと思っていた。
違った。
一人でも、正面からじっと見られたら駄目だ。むしろ視線の逃げ場がない分、こっちの方がきつい。
「安西」
「分かってる」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「どういう顔」
「早くやれって顔」
久住は瞬きをした。
無表情だから、本当にそう見えるのが腹立たしい。
「見すぎ」
とうとう文句を言うと、久住は俺の足元から目を上げた。
笑うかと思った。面倒そうにするかもしれないとも思った。
けれど久住は何も言わず、俺の横へ移った。
二人で同じ方向を向く。目の前には、体育館の白い壁と、細く伸びた俺たちの影だけがあった。
「これなら」
「……さっきよりは」
「一、二、三、四」
低い声が、すぐ隣から落ちてくる。
俺は「一」で右足を横へ出した。
それだけだった。
けれど、ちゃんと動いた。
「今のはできた」
大げさな拍手も、子どもを褒めるみたいな声もない。
久住はただ、起きたことを言っただけだった。
俺は続きの言葉を待った。
遅いとか、固すぎるとか、せめて一つくらい笑える言葉が来ると思った。昨日は健太たちが笑って、俺も一緒に笑った。あれで失敗は冗談になったはずなのに、帰ってからもずっと苦しかった。
久住は前を向いたまま、次のカウントを待っている。
失敗を見られることと、失敗を笑われることは、同じじゃないらしい。俺には今まで、ほとんど同じだったけど。
「一歩だけだけど」
「一歩はできた」
「次で止まった」
「次は今からやる」
なんだ、その数え方。
できなかった方を見ないで、できた一歩だけ残されると、言い返しにくい。
「もう一回」
久住がまた四つ数える。
右へ一歩。左足をそろえる。今度は二つ目まで動けた。
三つ目で足が迷い、止まる。
「左」
「分かってる」
「分かってる奴の足じゃない」
「足に言えよ」
思わず久住を睨む。
久住の口元がほんの少し動いた気がしたが、笑い声はしなかった。
悔しくて、俺はもう一度最初の位置へ戻る。
「一、二、三、四」
右。そろえる。左。
最後に右足を寄せようとして、自分の左足へ引っかけた。
「うわっ」
身体が傾く。
次の瞬間、腕を強く掴まれた。反対の手が腰へ当たり、倒れかけた身体をまっすぐに戻される。
久住の肩が、思ったより近くにあった。
けれど、立てたと分かると、腕も腰もすぐに離れた。
「右足、前に出しすぎ。横」
「……うん」
「聞いてる?」
「聞いてる」
「返事、遅い」
「今のは仕方ないだろ」
もう一度同じ場所へ足を出そうとしたのに、今度はどちらが右か一瞬分からなくなった。久住は手を出さず、「そっち」と言葉だけで示す。
それでいい。今また触れられたら、足順どころではなくなる。
腰の辺りだけ、制服の上から変に意識してしまう。
別に何でもない。転びそうになったから支えられただけだ。
そう思うのに、耳が熱い。
「怪我してない?」
「してない。平――」
言い切る前に、久住が指を二本立てた。
「言ってない!」
「今、言いかけた」
「未遂は数えるな!」
久住はやっぱり笑わない。
でも、さっきより口元が緩んでいる。
失敗したのに、恥ずかしくて消えたいとは思わなかった。腹は立つけど、逃げたいとは思わない。
その後も、久住は同じ場所に立って四つ数えた。
俺は二つ目で止まり、三つ目まで進み、また最初で間違えた。
上手くなったとは言えない。それでも、久住が隣にいれば最初の四つだけは何度か動けた。
「これ、誰にも言うなよ」
「何を」
「俺が、こんなにできないこと」
「言わない」
即答だった。理由も聞かない。
俺と久住しか知らない失敗になった。それを秘密と呼ぶのは変な気もしたが、少しだけ息がしやすくなった。
体育館の中から、ネットの支柱を運ぶ音が聞こえ始める。
久住が壁の時計を見た。
「終わり」
「もう?」
口にしてから、しまったと思った。
早く帰ってほしかったはずなのに。
「三十分」
「……そっか」
「明日からも、この時間だけ残る」
「いや、そこまでしなくていい。迷惑だろ」
「俺も前列。安西と合わないと困る」
「でも、部活に遅れる」
「部活は準備時間のあと。今から行けば間に合う。体育祭係が残るのも普通」
「毎日でも?」
「必要なら」
久住は最初から決めていたみたいに言う。
親切じゃなくて、係の仕事だと言われた方が、俺も受け取りやすい。たぶん久住は、そこまで考えていないだろうけど。
「毎日三十分。ここ」
「勝手に決めるなよ」
「嫌なら来なくていい」
その言い方はずるい。
来なければ、久住だけがここで待つことになる。そんなの、気にならないわけがない。
いや。違う。
センターを引き受けたのは俺だ。できるようになりたいのも俺だ。
久住に引っ張られただけにしたくなかった。
「……じゃあ、明日もここ」
自分で言うと、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
久住は一度だけ頷く。
「分かった」
「遅れたら先に始めるから」
「俺は遅れない」
「そういう言い切るところ、ちょっとむかつく」
作っていない声がそのまま出た。
久住が俺の顔をじっと見る。
「何」
「そっちの顔の方がいい」
それだけ言って、久住は体育館へ歩いていった。
そっちって、どっちだ。
俺はどんな顔をしていたんだ。
明日も見られるのは嫌だ。失敗するのも嫌だ。
なのに、久住が来ない方がもっと嫌かもしれない。
そこまで考えて、俺は慌てて自分の頬を押さえた。
今の顔だけは、絶対に見られたくなかった。
向かっただけだ。急いではいない。
たまたま廊下が空いていて、たまたま足が速くなっただけである。
屋根付き通路には、まだ誰もいなかった。
昨日と同じ場所へ鞄を置き、覚えたばかりの足順を頭の中で並べる。
右。そろえる。左。そろえる。
それくらいなら、一人でできる。
久住は来ないかもしれない。
男子バレー部だし、昨日は勢いで言っただけかもしれない。そうだったら困るけど、少しだけ助かる。
今日も失敗を見られずに済むから。
「早いな」
背後から声がして、右足が変なところで止まった。
振り返ると、久住がいた。制服の袖を一度まくり、鞄を肩に掛けたまま、昨日と同じ無表情で立っている。
「……本当に来た」
「来るって言った」
「部活あるだろ」
「このあと」
「別に、一人で平気だから」
久住が人差し指を一本立てた。
「それ、今日一回目の平気」
「数えるなよ」
「多分、増える」
「増やす気で来るな」
腹が立つ。
昨日までほとんど話したこともなかった奴に、なんで俺の口癖を管理されなきゃいけないんだ。
「で、どこからできない?」
「できない前提で聞くな。昨日はたまたま」
「じゃあ、最初から」
否定を最後まで聞かず、久住は俺の正面へ立った。
背が高いから、ただ向かい合っているだけで視界が狭くなる。
「やって」
「今?」
「練習しに来た」
分かっている。分かっているけど、久住の目が俺の足元へ落ちた瞬間、両足が床へ貼りついた。
昨日はクラス全員に見られていたからだと思っていた。
一人なら、まだましだと思っていた。
違った。
一人でも、正面からじっと見られたら駄目だ。むしろ視線の逃げ場がない分、こっちの方がきつい。
「安西」
「分かってる」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「どういう顔」
「早くやれって顔」
久住は瞬きをした。
無表情だから、本当にそう見えるのが腹立たしい。
「見すぎ」
とうとう文句を言うと、久住は俺の足元から目を上げた。
笑うかと思った。面倒そうにするかもしれないとも思った。
けれど久住は何も言わず、俺の横へ移った。
二人で同じ方向を向く。目の前には、体育館の白い壁と、細く伸びた俺たちの影だけがあった。
「これなら」
「……さっきよりは」
「一、二、三、四」
低い声が、すぐ隣から落ちてくる。
俺は「一」で右足を横へ出した。
それだけだった。
けれど、ちゃんと動いた。
「今のはできた」
大げさな拍手も、子どもを褒めるみたいな声もない。
久住はただ、起きたことを言っただけだった。
俺は続きの言葉を待った。
遅いとか、固すぎるとか、せめて一つくらい笑える言葉が来ると思った。昨日は健太たちが笑って、俺も一緒に笑った。あれで失敗は冗談になったはずなのに、帰ってからもずっと苦しかった。
久住は前を向いたまま、次のカウントを待っている。
失敗を見られることと、失敗を笑われることは、同じじゃないらしい。俺には今まで、ほとんど同じだったけど。
「一歩だけだけど」
「一歩はできた」
「次で止まった」
「次は今からやる」
なんだ、その数え方。
できなかった方を見ないで、できた一歩だけ残されると、言い返しにくい。
「もう一回」
久住がまた四つ数える。
右へ一歩。左足をそろえる。今度は二つ目まで動けた。
三つ目で足が迷い、止まる。
「左」
「分かってる」
「分かってる奴の足じゃない」
「足に言えよ」
思わず久住を睨む。
久住の口元がほんの少し動いた気がしたが、笑い声はしなかった。
悔しくて、俺はもう一度最初の位置へ戻る。
「一、二、三、四」
右。そろえる。左。
最後に右足を寄せようとして、自分の左足へ引っかけた。
「うわっ」
身体が傾く。
次の瞬間、腕を強く掴まれた。反対の手が腰へ当たり、倒れかけた身体をまっすぐに戻される。
久住の肩が、思ったより近くにあった。
けれど、立てたと分かると、腕も腰もすぐに離れた。
「右足、前に出しすぎ。横」
「……うん」
「聞いてる?」
「聞いてる」
「返事、遅い」
「今のは仕方ないだろ」
もう一度同じ場所へ足を出そうとしたのに、今度はどちらが右か一瞬分からなくなった。久住は手を出さず、「そっち」と言葉だけで示す。
それでいい。今また触れられたら、足順どころではなくなる。
腰の辺りだけ、制服の上から変に意識してしまう。
別に何でもない。転びそうになったから支えられただけだ。
そう思うのに、耳が熱い。
「怪我してない?」
「してない。平――」
言い切る前に、久住が指を二本立てた。
「言ってない!」
「今、言いかけた」
「未遂は数えるな!」
久住はやっぱり笑わない。
でも、さっきより口元が緩んでいる。
失敗したのに、恥ずかしくて消えたいとは思わなかった。腹は立つけど、逃げたいとは思わない。
その後も、久住は同じ場所に立って四つ数えた。
俺は二つ目で止まり、三つ目まで進み、また最初で間違えた。
上手くなったとは言えない。それでも、久住が隣にいれば最初の四つだけは何度か動けた。
「これ、誰にも言うなよ」
「何を」
「俺が、こんなにできないこと」
「言わない」
即答だった。理由も聞かない。
俺と久住しか知らない失敗になった。それを秘密と呼ぶのは変な気もしたが、少しだけ息がしやすくなった。
体育館の中から、ネットの支柱を運ぶ音が聞こえ始める。
久住が壁の時計を見た。
「終わり」
「もう?」
口にしてから、しまったと思った。
早く帰ってほしかったはずなのに。
「三十分」
「……そっか」
「明日からも、この時間だけ残る」
「いや、そこまでしなくていい。迷惑だろ」
「俺も前列。安西と合わないと困る」
「でも、部活に遅れる」
「部活は準備時間のあと。今から行けば間に合う。体育祭係が残るのも普通」
「毎日でも?」
「必要なら」
久住は最初から決めていたみたいに言う。
親切じゃなくて、係の仕事だと言われた方が、俺も受け取りやすい。たぶん久住は、そこまで考えていないだろうけど。
「毎日三十分。ここ」
「勝手に決めるなよ」
「嫌なら来なくていい」
その言い方はずるい。
来なければ、久住だけがここで待つことになる。そんなの、気にならないわけがない。
いや。違う。
センターを引き受けたのは俺だ。できるようになりたいのも俺だ。
久住に引っ張られただけにしたくなかった。
「……じゃあ、明日もここ」
自分で言うと、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
久住は一度だけ頷く。
「分かった」
「遅れたら先に始めるから」
「俺は遅れない」
「そういう言い切るところ、ちょっとむかつく」
作っていない声がそのまま出た。
久住が俺の顔をじっと見る。
「何」
「そっちの顔の方がいい」
それだけ言って、久住は体育館へ歩いていった。
そっちって、どっちだ。
俺はどんな顔をしていたんだ。
明日も見られるのは嫌だ。失敗するのも嫌だ。
なのに、久住が来ない方がもっと嫌かもしれない。
そこまで考えて、俺は慌てて自分の頬を押さえた。
今の顔だけは、絶対に見られたくなかった。



