全員が同じ青いクラスTシャツを着ている。校庭のあちこちで、その青が動いていた。
蒸し暑い。朝からずっと鳴っているスピーカーの音と歓声で、地面まで落ち着かない気がした。
「二年三組、次だよ。布、左右に分けて!」
白石の声で、何人もの手に青い布が渡っていく。葉山もその端を抱え、近くの男子へ指示を出していた。
少し前では、健太がマイクを握っている。
「よーし、三組! 声だけは優勝してこーぜ!」
「そこ、演技もって言ってよ」
白石に突っ込まれ、周りが笑う。
俺も笑おうとした。でも、口がうまく動かなかった。
指先だけが冷たい。
昨日、俺から久住の手を取った。好きだとも言った。それでも、俺たちはまだ恋人じゃない。
本番が終わったら、今度こそ曖昧にしない。
そう決めてきたのに、まずは目の前の三分間で足が震えていた。
「凪」
呼ばれて振り向く。久住が、俺の斜め右に立っていた。
「……怖い」
言ってから、逃げたくなった。
昨日はできた。役割も皆で分け直した。手伝ってほしいと自分で言って、最後まで通せた。
だから怖くない顔をするべきだと思った。でも、もういらない。
「人、多いし。音もでかい。途中で、分かんなくなるかもしれない」
「うん」
「その時も、見てて。俺が止まっても、前に出ないで。戻るまで見てて」
久住の手が、俺の肩を一度だけ軽く押した。
「一、二、三、四」
低い声が、騒がしい校庭の中でもはっきり届く。
「凪なら戻れる」
絶対とは言わなかった。
だから、信じられた。
「……うん。行ってくる」
「俺も出る」
「知ってる」
思わず言い返すと、久住が少し笑った。
その顔を見たら、冷たかった指がやっと動いた。
◇
健太のかけ声で、三分間が始まった。
手拍子。右足。左足。腕を上げて、隊形を変える。
前半は進んだ。
周り全部を見ようとしない。斜め右にいる久住と、昨日決めた場所だけを見る。
青い布が左右から広がった。何人もの腕で持ち上げられ、風を含んで大きく揺れる。
次は前へ二歩。
分かっていた、その時だった。
スピーカーが一度、鋭く鳴った。別の組から大きな歓声が上がる。
健太の声も、曲の音も、一瞬だけ全部遠くなった。
次、どっちだ。
右足が出ない。
皆が動いたあとで、俺だけが一拍遅れた。
喉が詰まる。
失敗した。
たぶん、見られた。センターだから、気づいた人もいる。
その言葉だけで、頭の中が白くなる。前なら、ここで笑ってごまかすか、誰かが助けてくれるのを待っていた。
でも、今は本番だ。
誰が俺を見たか数えるのはやめる。今、必要なのは次の一拍だけだ。
失敗はもう消せない。だからって、俺まで消えなくていい。
斜め右を見る。
久住は俺の前へ出なかった。俺の振りを代わろうともせず、自分の位置で動きながら、俺を見ている。
その唇が、声を出さずに動いた。
一、二、三、四。
俺は一つ目を捨てた。
二つ目で息を吸う。
三つ目で足を上げる。
四つ目で、次の動きへ入った。
ずれた一拍を取り返したわけじゃない。俺が、自分で新しい一拍を選んだ。
そこから先は、足元だけを追わなかった。
健太の声が聞こえる。白石が腕を伸ばす。皆が青い布を持ち上げる。久住が斜め右で動いている。
俺も、センターで動いている。
最初に手を挙げた日の俺は、ここまで来ると思っていなかった。できるふりで始めた役なのに、今はできないことを隠さず、皆と同じ校庭に立っている。
最後のかけ声を出し、両腕を上げた。
三分間が終わった。
完璧じゃなかった。失敗した事実も残っている。
それでも俺は、失敗したまま最後まで立っていた。
一瞬遅れて、音が一気に戻ってくる。
「終わったー!」
健太がマイクなしでも響く声で叫んだ。
「凪、最後までいった!」
白石が笑っている。
俺も笑った。今度は、誰かに合わせたんじゃない。
近くに落ちた青い布へ手を伸ばす前に、葉山と何人かが持ち上げた。
「安西は次の整列。こっちはやる」
「……頼む」
それだけ言えば、ちゃんと任せられた。
俺は人の輪の向こうにいる久住を見つけた。
久住も、俺を見ていた。
◇
「久住、ちょっと来て」
本番の片づけが一段落してから、俺は久住を体育館の裏へ連れ出した。
校庭の声は聞こえるけれど、ここまで来る生徒は少ない。閉じた場所でもない。熱い風が、体育館の角を抜けていく。
向き合った途端、何を言うつもりだったのか分からなくなった。
「戻ったな」
久住が先に言った。
「……うん。久住が数えてくれたから」
そこで終わりそうになって、首を振る。
「でも、それだけじゃない。俺も戻れた」
「知ってる。見てたから」
短い答えなのに、胸の奥がゆっくりほどけた。
「俺、この前、好きって言っただろ」
「言った」
「今日は、その続き」
また喉が詰まりそうになる。けれど、怖いなら怖いまま言えばいい。
「俺、久住と付き合いたい。助けてもらえるからじゃなくて、一緒にいたい。俺の隣にいてほしい」
久住はすぐに口を開かなかった。
その沈黙に焦りかけた時、目元が少しだけ緩む。
「俺も、凪と付き合いたい」
「……本当に?」
「それを言うために、ずっと待ってた」
前なら、その言葉の裏を探したと思う。
今は、そのまま受け取れた。
息を吐くと、笑いまで一緒にこぼれた。
「じゃあ、今日から恋人?」
「今日から」
「……蒼太」
初めて呼んだ名前に、久住――蒼太の動きが止まった。
唇まで少し開いたままだ。
「そんな驚く?」
「もう一回」
「調子に乗るから、今は言わない」
「もう乗ってる」
蒼太が一歩、近づいた。
俺も動けずに見上げる。
あと少しのところで、蒼太は止まった。
何を待っているのかは、もう分かる。
俺は青いTシャツを掴んだ。蒼太の指も、俺の袖を軽くつかむ。
二人で残った距離を縮めた。
唇が途中で出会う。
短く触れて、すぐに離れた。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が一つも出てこない。
「凪、真っ赤」
「蒼太もだから」
下の名前で言い返したら、今度こそ蒼太が声をなくした。
おかしくなって笑うと、蒼太の腕が背中へ回る。
俺もTシャツを掴んだまま、少しだけ抱き返した。
もう、嬉しい時まで隠さなくていい。
◇
六月二十九日、月曜日の昼休み。
机を寄せた輪の中で、俺は塩むすびの包みを開いていた。土曜日と同じ顔が集まっているのに、今日は校庭の音も、急いで笑う理由もない。
「でさ、葉山がマイクまで小道具だと思って、俺から回収しようとしたわけ!」
「終わった後もずっとしゃべってたからだろ」
健太の話に、いつもの輪が笑う。
俺も反射で、今だ、と思った。
口元を上げかけて、やめる。
「あのさ」
「ん?」
「今日は聞いてるだけでいい?」
言うと、健太は一度だけ瞬きをした。
「いいけど。何、土曜にしゃべりすぎて充電切れ?」
「たぶん」
「じゃ、勝手に充電してて。続きな、葉山が真顔で――」
会話はそのまま続いた。
誰も俺を輪から外さない。気まずそうにもしない。
黙っている俺まで、最初から輪の一人として扱われている。
少しして、空いていた隣の椅子が引かれた。
「ここ、いい?」
蒼太だ。
「もう座ってるじゃん」
「嫌なら立つ」
「いて」
短く言うと、蒼太は何も足さずに隣へ残った。
健太が、葉山の無表情を大げさに真似する。全然似ていない。
今度は考える前に、笑いが出た。
二拍早くも、二拍遅くもない。俺が本当に面白いと思った、その時だった。
笑うのは、笑いたい時でいい。蒼太の隣なら、俺は俺の速さでいられる。
蒸し暑い。朝からずっと鳴っているスピーカーの音と歓声で、地面まで落ち着かない気がした。
「二年三組、次だよ。布、左右に分けて!」
白石の声で、何人もの手に青い布が渡っていく。葉山もその端を抱え、近くの男子へ指示を出していた。
少し前では、健太がマイクを握っている。
「よーし、三組! 声だけは優勝してこーぜ!」
「そこ、演技もって言ってよ」
白石に突っ込まれ、周りが笑う。
俺も笑おうとした。でも、口がうまく動かなかった。
指先だけが冷たい。
昨日、俺から久住の手を取った。好きだとも言った。それでも、俺たちはまだ恋人じゃない。
本番が終わったら、今度こそ曖昧にしない。
そう決めてきたのに、まずは目の前の三分間で足が震えていた。
「凪」
呼ばれて振り向く。久住が、俺の斜め右に立っていた。
「……怖い」
言ってから、逃げたくなった。
昨日はできた。役割も皆で分け直した。手伝ってほしいと自分で言って、最後まで通せた。
だから怖くない顔をするべきだと思った。でも、もういらない。
「人、多いし。音もでかい。途中で、分かんなくなるかもしれない」
「うん」
「その時も、見てて。俺が止まっても、前に出ないで。戻るまで見てて」
久住の手が、俺の肩を一度だけ軽く押した。
「一、二、三、四」
低い声が、騒がしい校庭の中でもはっきり届く。
「凪なら戻れる」
絶対とは言わなかった。
だから、信じられた。
「……うん。行ってくる」
「俺も出る」
「知ってる」
思わず言い返すと、久住が少し笑った。
その顔を見たら、冷たかった指がやっと動いた。
◇
健太のかけ声で、三分間が始まった。
手拍子。右足。左足。腕を上げて、隊形を変える。
前半は進んだ。
周り全部を見ようとしない。斜め右にいる久住と、昨日決めた場所だけを見る。
青い布が左右から広がった。何人もの腕で持ち上げられ、風を含んで大きく揺れる。
次は前へ二歩。
分かっていた、その時だった。
スピーカーが一度、鋭く鳴った。別の組から大きな歓声が上がる。
健太の声も、曲の音も、一瞬だけ全部遠くなった。
次、どっちだ。
右足が出ない。
皆が動いたあとで、俺だけが一拍遅れた。
喉が詰まる。
失敗した。
たぶん、見られた。センターだから、気づいた人もいる。
その言葉だけで、頭の中が白くなる。前なら、ここで笑ってごまかすか、誰かが助けてくれるのを待っていた。
でも、今は本番だ。
誰が俺を見たか数えるのはやめる。今、必要なのは次の一拍だけだ。
失敗はもう消せない。だからって、俺まで消えなくていい。
斜め右を見る。
久住は俺の前へ出なかった。俺の振りを代わろうともせず、自分の位置で動きながら、俺を見ている。
その唇が、声を出さずに動いた。
一、二、三、四。
俺は一つ目を捨てた。
二つ目で息を吸う。
三つ目で足を上げる。
四つ目で、次の動きへ入った。
ずれた一拍を取り返したわけじゃない。俺が、自分で新しい一拍を選んだ。
そこから先は、足元だけを追わなかった。
健太の声が聞こえる。白石が腕を伸ばす。皆が青い布を持ち上げる。久住が斜め右で動いている。
俺も、センターで動いている。
最初に手を挙げた日の俺は、ここまで来ると思っていなかった。できるふりで始めた役なのに、今はできないことを隠さず、皆と同じ校庭に立っている。
最後のかけ声を出し、両腕を上げた。
三分間が終わった。
完璧じゃなかった。失敗した事実も残っている。
それでも俺は、失敗したまま最後まで立っていた。
一瞬遅れて、音が一気に戻ってくる。
「終わったー!」
健太がマイクなしでも響く声で叫んだ。
「凪、最後までいった!」
白石が笑っている。
俺も笑った。今度は、誰かに合わせたんじゃない。
近くに落ちた青い布へ手を伸ばす前に、葉山と何人かが持ち上げた。
「安西は次の整列。こっちはやる」
「……頼む」
それだけ言えば、ちゃんと任せられた。
俺は人の輪の向こうにいる久住を見つけた。
久住も、俺を見ていた。
◇
「久住、ちょっと来て」
本番の片づけが一段落してから、俺は久住を体育館の裏へ連れ出した。
校庭の声は聞こえるけれど、ここまで来る生徒は少ない。閉じた場所でもない。熱い風が、体育館の角を抜けていく。
向き合った途端、何を言うつもりだったのか分からなくなった。
「戻ったな」
久住が先に言った。
「……うん。久住が数えてくれたから」
そこで終わりそうになって、首を振る。
「でも、それだけじゃない。俺も戻れた」
「知ってる。見てたから」
短い答えなのに、胸の奥がゆっくりほどけた。
「俺、この前、好きって言っただろ」
「言った」
「今日は、その続き」
また喉が詰まりそうになる。けれど、怖いなら怖いまま言えばいい。
「俺、久住と付き合いたい。助けてもらえるからじゃなくて、一緒にいたい。俺の隣にいてほしい」
久住はすぐに口を開かなかった。
その沈黙に焦りかけた時、目元が少しだけ緩む。
「俺も、凪と付き合いたい」
「……本当に?」
「それを言うために、ずっと待ってた」
前なら、その言葉の裏を探したと思う。
今は、そのまま受け取れた。
息を吐くと、笑いまで一緒にこぼれた。
「じゃあ、今日から恋人?」
「今日から」
「……蒼太」
初めて呼んだ名前に、久住――蒼太の動きが止まった。
唇まで少し開いたままだ。
「そんな驚く?」
「もう一回」
「調子に乗るから、今は言わない」
「もう乗ってる」
蒼太が一歩、近づいた。
俺も動けずに見上げる。
あと少しのところで、蒼太は止まった。
何を待っているのかは、もう分かる。
俺は青いTシャツを掴んだ。蒼太の指も、俺の袖を軽くつかむ。
二人で残った距離を縮めた。
唇が途中で出会う。
短く触れて、すぐに離れた。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が一つも出てこない。
「凪、真っ赤」
「蒼太もだから」
下の名前で言い返したら、今度こそ蒼太が声をなくした。
おかしくなって笑うと、蒼太の腕が背中へ回る。
俺もTシャツを掴んだまま、少しだけ抱き返した。
もう、嬉しい時まで隠さなくていい。
◇
六月二十九日、月曜日の昼休み。
机を寄せた輪の中で、俺は塩むすびの包みを開いていた。土曜日と同じ顔が集まっているのに、今日は校庭の音も、急いで笑う理由もない。
「でさ、葉山がマイクまで小道具だと思って、俺から回収しようとしたわけ!」
「終わった後もずっとしゃべってたからだろ」
健太の話に、いつもの輪が笑う。
俺も反射で、今だ、と思った。
口元を上げかけて、やめる。
「あのさ」
「ん?」
「今日は聞いてるだけでいい?」
言うと、健太は一度だけ瞬きをした。
「いいけど。何、土曜にしゃべりすぎて充電切れ?」
「たぶん」
「じゃ、勝手に充電してて。続きな、葉山が真顔で――」
会話はそのまま続いた。
誰も俺を輪から外さない。気まずそうにもしない。
黙っている俺まで、最初から輪の一人として扱われている。
少しして、空いていた隣の椅子が引かれた。
「ここ、いい?」
蒼太だ。
「もう座ってるじゃん」
「嫌なら立つ」
「いて」
短く言うと、蒼太は何も足さずに隣へ残った。
健太が、葉山の無表情を大げさに真似する。全然似ていない。
今度は考える前に、笑いが出た。
二拍早くも、二拍遅くもない。俺が本当に面白いと思った、その時だった。
笑うのは、笑いたい時でいい。蒼太の隣なら、俺は俺の速さでいられる。



