ある雨の夜。
ついに、その時は来てしまった。
僕はもう、指一本動かせなくなっていた。
毎晩、君の「絶望」を食べ続けた僕の体は、許容量を超え、石のように硬直してしまったのだ。
かつての黄金の毛並みは見る影もなく、まるでコールタールを浴びたように漆黒に染まっている。
『……ごめん』
僕はただの、汚れた黒い塊として枕元に転がっていた。
もう、君の涙を一滴だって吸い込む隙間はない。
これじゃあ、君の悪夢を食べてあげることもできない。
深夜二時。君が部屋に帰ってきた。
ずぶ濡れで、ひどく疲れた顔をしていた。
君はベッドに倒れ込み、いつものように僕に手を伸ばした。
……けれど。
君の手が、ピタリと止まる。
「……あ」
君は、変わり果てた僕を見て、息を呑んだ。
嫌われる。捨てられる。
僕は覚悟を決めた。
こんな不気味な黒い塊、ゴミ箱行きに決まってる。
君の頬を、一滴の涙が伝った。
雫は空気に触れた途端、小さな星の形に変わった。
尖った星は僕の口元へ落ちたけれど、もう吸い込まれなかった。黒い毛の上で、かすかな音を立てて砕けた。
君は、砕けた星と、変わり果てた僕を交互に見つめた。
泣いた翌朝だけ、不思議なくらい温かかった僕のお腹。夜を重ねるたび、少しずつ黒くなっていった毛並み。
ばらばらだった記憶が、その瞬間、一つにつながった。
「……私のせいだ」
君の口から漏れたのは、拒絶の言葉じゃなかった。
震える声で、君は呟いた。
「私が辛いからって全部、ハル君に押し付けて……。私が泣くたびに、あなたが身代わりになってくれていたのに」
君は硬くて冷たい僕の体を、両手で優しく持ち上げた。
その手は震えていたけれど、僕を離そうとはしなかった。
「ごめんね。もういいよ。もう無理して食べなくていいよ」
君は僕を胸に抱きしめ、子どものように泣きじゃくった。
「どんなに汚れててもいい。あなたが私の痛みの証なら、私はこのままのハル君と一緒にいる。絶対に、捨てたりなんてしない」
――ポタリ。
君の瞳から、大粒の涙が落ちた。
それは僕の真っ黒な鼻先に落ちて、ゆっくりと染み込んでいく。
『……ありがとう』
君の言葉が、冷え切った僕の芯まで届いた。
その瞬間、体の奥で何かが弾けた。
――それは、黄金色に戻る変化じゃなかった。
僕の体を覆っていた漆黒の闇が、スゥッと透き通り始めたのだ。
黒色が、深く澄み渡った「夜空の色(ミッドナイト・ブルー)」へと変わっていく。
そして、今まで僕が食べてきた君の無数の「悲しみの涙」が、その夜空の中で一斉に輝き出した。
チカッ。キラッ。
一つ、また一つ。
苦かった涙も、辛かった涙も、全部が「星」に変わっていく。
僕の体は、満天の星空を映した宝石のように輝き始めた。
「……え?」
君が驚いて顔を上げる。
そこにいたのは、かつてのぬいぐるみではなかった。
夜空色の毛並みに無数の星を散りばめた、美しい「夜のライオン」だった。
『泣いてもいいんだよ』
僕の声は、君の心に直接届いた。
『真っ黒になった僕を、君が抱きしめてくれたから、変われたんだよ。これからは、君の涙が僕の中で星になるから』
君は呆然と僕を見つめ、それから……。
涙で濡れた顔のまま、花が咲くように笑った。
「綺麗……。私の悲しみって、こんなに綺麗だったんだね」
そうだよ。
君が今まで乗り越えてきた痛みは、なかったことにしなくていい。
その痛みは、君がここまで歩いてきた証として、夜空に輝く星になるんだ。
僕は夜空の守護獣。
君の枕元に住む、星喰いライオン。
これからも僕は、君のそばにいる。
君が涙を流すたび、僕の体には新しい星が増えていく。
だから安心して、おやすみ。
僕の大切な君。
今夜もいい夢を。
エピローグ
それから僕たちは少しだけ変わった。
相変わらず、君は外の世界で傷つくことがある。
理不尽な上司、心ない言葉、どうしようもない不安。
君はやっぱり夜になると、泣いてしまうことがある。
でも、もう以前とは違う。
「……あ、また出ちゃった」
君はベッドの上でポロリと涙をこぼすと、少し恥ずかしそうに笑って僕を見る。
僕――夜空色のライオン――は、その雫を優しく受け止める。
かつてのような「ごめんね」という罪悪感は、もうない。
僕の背中には、あの日から数え切れないほどの星が増えた。
君が泣けば泣くほど、僕の体は美しいプラネタリウムのように輝きを増していくからだ。
「今日の涙は、オリオン座みたいに光ってるね」
君は僕の背中の新しい星を、指でなぞる。
『うん。君が頑張った証拠だよ』
僕は小さく喉を鳴らし、君の心へ答えを届ける。
君はその声を聞いて、うれしそうに笑った。
黒く染まることを恐れていた僕は、もういない。
自分の感情を押し殺していた君も、もういない。
僕たちは悲しみを「なかったこと」にするのをやめた。
その代わり、二人で夜空を眺めるように、痛みを愛でることを覚えたんだ。
「ハル君がいるから、泣くのも悪くないかも」
君はそう言って、星空のような僕の毛並みに顔を埋めて、安心して眠りにつく。
悲しみは消えない。
でも愛に抱かれた悲しみは、いつか小さな光に変わる。
それが僕たちが見つけた、世界で一番優しい魔法の正体だ。
(了)
ついに、その時は来てしまった。
僕はもう、指一本動かせなくなっていた。
毎晩、君の「絶望」を食べ続けた僕の体は、許容量を超え、石のように硬直してしまったのだ。
かつての黄金の毛並みは見る影もなく、まるでコールタールを浴びたように漆黒に染まっている。
『……ごめん』
僕はただの、汚れた黒い塊として枕元に転がっていた。
もう、君の涙を一滴だって吸い込む隙間はない。
これじゃあ、君の悪夢を食べてあげることもできない。
深夜二時。君が部屋に帰ってきた。
ずぶ濡れで、ひどく疲れた顔をしていた。
君はベッドに倒れ込み、いつものように僕に手を伸ばした。
……けれど。
君の手が、ピタリと止まる。
「……あ」
君は、変わり果てた僕を見て、息を呑んだ。
嫌われる。捨てられる。
僕は覚悟を決めた。
こんな不気味な黒い塊、ゴミ箱行きに決まってる。
君の頬を、一滴の涙が伝った。
雫は空気に触れた途端、小さな星の形に変わった。
尖った星は僕の口元へ落ちたけれど、もう吸い込まれなかった。黒い毛の上で、かすかな音を立てて砕けた。
君は、砕けた星と、変わり果てた僕を交互に見つめた。
泣いた翌朝だけ、不思議なくらい温かかった僕のお腹。夜を重ねるたび、少しずつ黒くなっていった毛並み。
ばらばらだった記憶が、その瞬間、一つにつながった。
「……私のせいだ」
君の口から漏れたのは、拒絶の言葉じゃなかった。
震える声で、君は呟いた。
「私が辛いからって全部、ハル君に押し付けて……。私が泣くたびに、あなたが身代わりになってくれていたのに」
君は硬くて冷たい僕の体を、両手で優しく持ち上げた。
その手は震えていたけれど、僕を離そうとはしなかった。
「ごめんね。もういいよ。もう無理して食べなくていいよ」
君は僕を胸に抱きしめ、子どものように泣きじゃくった。
「どんなに汚れててもいい。あなたが私の痛みの証なら、私はこのままのハル君と一緒にいる。絶対に、捨てたりなんてしない」
――ポタリ。
君の瞳から、大粒の涙が落ちた。
それは僕の真っ黒な鼻先に落ちて、ゆっくりと染み込んでいく。
『……ありがとう』
君の言葉が、冷え切った僕の芯まで届いた。
その瞬間、体の奥で何かが弾けた。
――それは、黄金色に戻る変化じゃなかった。
僕の体を覆っていた漆黒の闇が、スゥッと透き通り始めたのだ。
黒色が、深く澄み渡った「夜空の色(ミッドナイト・ブルー)」へと変わっていく。
そして、今まで僕が食べてきた君の無数の「悲しみの涙」が、その夜空の中で一斉に輝き出した。
チカッ。キラッ。
一つ、また一つ。
苦かった涙も、辛かった涙も、全部が「星」に変わっていく。
僕の体は、満天の星空を映した宝石のように輝き始めた。
「……え?」
君が驚いて顔を上げる。
そこにいたのは、かつてのぬいぐるみではなかった。
夜空色の毛並みに無数の星を散りばめた、美しい「夜のライオン」だった。
『泣いてもいいんだよ』
僕の声は、君の心に直接届いた。
『真っ黒になった僕を、君が抱きしめてくれたから、変われたんだよ。これからは、君の涙が僕の中で星になるから』
君は呆然と僕を見つめ、それから……。
涙で濡れた顔のまま、花が咲くように笑った。
「綺麗……。私の悲しみって、こんなに綺麗だったんだね」
そうだよ。
君が今まで乗り越えてきた痛みは、なかったことにしなくていい。
その痛みは、君がここまで歩いてきた証として、夜空に輝く星になるんだ。
僕は夜空の守護獣。
君の枕元に住む、星喰いライオン。
これからも僕は、君のそばにいる。
君が涙を流すたび、僕の体には新しい星が増えていく。
だから安心して、おやすみ。
僕の大切な君。
今夜もいい夢を。
エピローグ
それから僕たちは少しだけ変わった。
相変わらず、君は外の世界で傷つくことがある。
理不尽な上司、心ない言葉、どうしようもない不安。
君はやっぱり夜になると、泣いてしまうことがある。
でも、もう以前とは違う。
「……あ、また出ちゃった」
君はベッドの上でポロリと涙をこぼすと、少し恥ずかしそうに笑って僕を見る。
僕――夜空色のライオン――は、その雫を優しく受け止める。
かつてのような「ごめんね」という罪悪感は、もうない。
僕の背中には、あの日から数え切れないほどの星が増えた。
君が泣けば泣くほど、僕の体は美しいプラネタリウムのように輝きを増していくからだ。
「今日の涙は、オリオン座みたいに光ってるね」
君は僕の背中の新しい星を、指でなぞる。
『うん。君が頑張った証拠だよ』
僕は小さく喉を鳴らし、君の心へ答えを届ける。
君はその声を聞いて、うれしそうに笑った。
黒く染まることを恐れていた僕は、もういない。
自分の感情を押し殺していた君も、もういない。
僕たちは悲しみを「なかったこと」にするのをやめた。
その代わり、二人で夜空を眺めるように、痛みを愛でることを覚えたんだ。
「ハル君がいるから、泣くのも悪くないかも」
君はそう言って、星空のような僕の毛並みに顔を埋めて、安心して眠りにつく。
悲しみは消えない。
でも愛に抱かれた悲しみは、いつか小さな光に変わる。
それが僕たちが見つけた、世界で一番優しい魔法の正体だ。
(了)

