僕は、ライオンだ。
……といっても、サバンナを走る百獣の王じゃない。
デパートの片隅で売られている、ポリエステルと綿でできた、ただのぬいぐるみだ。
僕の仕事は簡単だ。
日中は君のベッドの枕元に座って、少し間抜けな顔で笑っていること。
そして夜は……君の「涙」を食べることだ。
深夜二時。
君の部屋の明かりは消えているけれど、僕は知っている。
君がまだ眠っていないことを。
布団の中で小さく丸まって、声を押し殺して泣いていることを。
「……うぅ……っ……」
微かな嗚咽が聞こえる。
さあ、僕の出番だ。
僕は音もなく動き出す。ふかふかの手足は、フローリングを歩いても音を立てない。
君の枕元へ忍び寄り、濡れた頬にそっと近づく。
君の涙は、不思議な形をしている。
頬を伝うその雫は、空気に触れると「金平糖(こんぺいとう)」のような、小さなトゲのある星の形に変わるんだ。
それはキラキラと光りながら、ポロポロと枕に落ちていく。
『今日の涙は、一段と尖っているなぁ』
僕は心の中で呟きながら、その星をひとつ、舌で掬(すく)い取る。
――カリッ。
口の中で、星が砕ける音がした。
味が広がる。
『……しょっぱい。それに、苦い』
今日の星は、「誰にも言えない不安」の味だ。
昨日の「寂しさ」よりもずっと硬く、喉に刺さるような味がする。
君は今日、会社で何か嫌なことがあったのかな?
それとも、また誰かの言葉に傷ついたのかな?
僕は夢中で、君の頬から落ちる星を食べる。
カリッ、ポリッ、ムシャムシャ。
僕が食べないと、この尖った星たちは君の心を傷つけ続けてしまうから。
「……ん……?」
君が寝返りを打つ。
僕は慌ててぬいぐるみのフリをする(本当はぬいぐるみなんだけど)。
君は半分開いた目で僕を見て、ふにゃりと力なく笑った。
そして、僕のお腹に顔を埋めてくる。
「ハル君……あったかい……」
そうだよ。
君の悲しみは、僕が食べると、お腹の中で温かな熱に変わるんだ。
だから安心して。
僕がいる限り、君の心に刺さったトゲは、全部僕が食べてあげるから。
でもね。
君は知らないんだ。
君の悲しみが深ければ深いほど、それを食べた僕の体が、少しずつ「黒く」染まっていくことを。
僕の金色のタテガミの毛先が、今夜もまた少し夜の色に変わっていく。
それから、季節がいくつか過ぎた。
君の涙の味は、日を追うごとに変わっていった。
最初の頃の「しょっぱい金平糖」は、だんだんと「鋭いガラスの破片」のように変わっていった。
『……痛いッ』
ある夜、君の涙を食べた僕は、舌に走る激痛に顔をしかめた。
今日の味は、「絶望」と「自己否定」の味だ。
「私なんて……いなくなればいいのに……」
「何もかもうまくいかない……」
君の口から漏れる言葉は、呪いのように重たい。
君は最近、会社で大きなプロジェクトを任されているらしい。
責任、プレッシャー、理不尽な評価。
大人の世界は、誰よりも傷つきやすい君には、あまりにも過酷だ。
僕は必死で、君の頬から落ちる「ガラスの破片」を噛み砕く。
バリッ、ガリッ。
喉が切れるような感覚。
でも、飲み込まなくちゃ。
君がこれ以上、自分を傷つけないように。
ふと鏡に映った自分の姿を見て、僕は息を呑んだ。
『……これが、僕?』
かつて黄金色に輝いていた僕のタテガミは、今や「墨汁(ぼくじゅう)」をかぶったように真っ黒になっていた。
ふわふわだった手足も、黒く煤(すす)けて、まるで焼け跡から拾ってきたガラクタみたいだ。
君の悲しみが、悪いわけじゃない。
ただ、僕の小さな体には、ひとりで抱えきれないほどの夜が積もっていた。
「……あれ?」
翌朝、目を覚ました君が、僕を見て首を傾げた。
「ハル君……なんか、汚れてる? 埃(ほこり)かぶっちゃったのかな?」
君は不思議そうに僕を持ち上げ、パンパンと叩いた。
ごめんね。これは埃じゃないんだ。
君の心から吸い取った「夜の闇」の色なんだよ。
「うーん……これじゃ可愛くないなぁ」
「今度、クリーニングに出さなきゃダメかな?」
君の何気ない一言が、僕の胸をチクリと刺した。
可愛くない、か。
そうだよね。真っ黒な薄汚いライオンなんて、君の綺麗な部屋には似合わない。
でもね、僕はクリーニングなんかじゃ綺麗にならないんだ。
僕が元に戻る方法は、たった一つ。
君が心から笑って、「喜びの涙」を流してくれることだけ。
その夜も、君は泣いた。
真っ黒な僕を抱きしめて、大粒の涙を流した。
『食べるよ。全部、食べるよ』
僕は黒い体を引きずって、君の涙を啜(すす)る。
僕の体はもう、限界に近かった。
お腹の中が、鉛のように重い。
視界が少しずつ、霞んでいく。
もし僕が壊れて動けなくなったら、誰が君の涙を拭うんだろう?
それが一番、怖いよ。
……といっても、サバンナを走る百獣の王じゃない。
デパートの片隅で売られている、ポリエステルと綿でできた、ただのぬいぐるみだ。
僕の仕事は簡単だ。
日中は君のベッドの枕元に座って、少し間抜けな顔で笑っていること。
そして夜は……君の「涙」を食べることだ。
深夜二時。
君の部屋の明かりは消えているけれど、僕は知っている。
君がまだ眠っていないことを。
布団の中で小さく丸まって、声を押し殺して泣いていることを。
「……うぅ……っ……」
微かな嗚咽が聞こえる。
さあ、僕の出番だ。
僕は音もなく動き出す。ふかふかの手足は、フローリングを歩いても音を立てない。
君の枕元へ忍び寄り、濡れた頬にそっと近づく。
君の涙は、不思議な形をしている。
頬を伝うその雫は、空気に触れると「金平糖(こんぺいとう)」のような、小さなトゲのある星の形に変わるんだ。
それはキラキラと光りながら、ポロポロと枕に落ちていく。
『今日の涙は、一段と尖っているなぁ』
僕は心の中で呟きながら、その星をひとつ、舌で掬(すく)い取る。
――カリッ。
口の中で、星が砕ける音がした。
味が広がる。
『……しょっぱい。それに、苦い』
今日の星は、「誰にも言えない不安」の味だ。
昨日の「寂しさ」よりもずっと硬く、喉に刺さるような味がする。
君は今日、会社で何か嫌なことがあったのかな?
それとも、また誰かの言葉に傷ついたのかな?
僕は夢中で、君の頬から落ちる星を食べる。
カリッ、ポリッ、ムシャムシャ。
僕が食べないと、この尖った星たちは君の心を傷つけ続けてしまうから。
「……ん……?」
君が寝返りを打つ。
僕は慌ててぬいぐるみのフリをする(本当はぬいぐるみなんだけど)。
君は半分開いた目で僕を見て、ふにゃりと力なく笑った。
そして、僕のお腹に顔を埋めてくる。
「ハル君……あったかい……」
そうだよ。
君の悲しみは、僕が食べると、お腹の中で温かな熱に変わるんだ。
だから安心して。
僕がいる限り、君の心に刺さったトゲは、全部僕が食べてあげるから。
でもね。
君は知らないんだ。
君の悲しみが深ければ深いほど、それを食べた僕の体が、少しずつ「黒く」染まっていくことを。
僕の金色のタテガミの毛先が、今夜もまた少し夜の色に変わっていく。
それから、季節がいくつか過ぎた。
君の涙の味は、日を追うごとに変わっていった。
最初の頃の「しょっぱい金平糖」は、だんだんと「鋭いガラスの破片」のように変わっていった。
『……痛いッ』
ある夜、君の涙を食べた僕は、舌に走る激痛に顔をしかめた。
今日の味は、「絶望」と「自己否定」の味だ。
「私なんて……いなくなればいいのに……」
「何もかもうまくいかない……」
君の口から漏れる言葉は、呪いのように重たい。
君は最近、会社で大きなプロジェクトを任されているらしい。
責任、プレッシャー、理不尽な評価。
大人の世界は、誰よりも傷つきやすい君には、あまりにも過酷だ。
僕は必死で、君の頬から落ちる「ガラスの破片」を噛み砕く。
バリッ、ガリッ。
喉が切れるような感覚。
でも、飲み込まなくちゃ。
君がこれ以上、自分を傷つけないように。
ふと鏡に映った自分の姿を見て、僕は息を呑んだ。
『……これが、僕?』
かつて黄金色に輝いていた僕のタテガミは、今や「墨汁(ぼくじゅう)」をかぶったように真っ黒になっていた。
ふわふわだった手足も、黒く煤(すす)けて、まるで焼け跡から拾ってきたガラクタみたいだ。
君の悲しみが、悪いわけじゃない。
ただ、僕の小さな体には、ひとりで抱えきれないほどの夜が積もっていた。
「……あれ?」
翌朝、目を覚ました君が、僕を見て首を傾げた。
「ハル君……なんか、汚れてる? 埃(ほこり)かぶっちゃったのかな?」
君は不思議そうに僕を持ち上げ、パンパンと叩いた。
ごめんね。これは埃じゃないんだ。
君の心から吸い取った「夜の闇」の色なんだよ。
「うーん……これじゃ可愛くないなぁ」
「今度、クリーニングに出さなきゃダメかな?」
君の何気ない一言が、僕の胸をチクリと刺した。
可愛くない、か。
そうだよね。真っ黒な薄汚いライオンなんて、君の綺麗な部屋には似合わない。
でもね、僕はクリーニングなんかじゃ綺麗にならないんだ。
僕が元に戻る方法は、たった一つ。
君が心から笑って、「喜びの涙」を流してくれることだけ。
その夜も、君は泣いた。
真っ黒な僕を抱きしめて、大粒の涙を流した。
『食べるよ。全部、食べるよ』
僕は黒い体を引きずって、君の涙を啜(すす)る。
僕の体はもう、限界に近かった。
お腹の中が、鉛のように重い。
視界が少しずつ、霞んでいく。
もし僕が壊れて動けなくなったら、誰が君の涙を拭うんだろう?
それが一番、怖いよ。

