一匹狼(勘違い)は恋を知らない

 翌日——校門をくぐった瞬間から、僕、天野遥を取り巻く世界は昨日までとは確実に変わっていた。
 いや、正確には世界が変わったわけじゃない。
 変わったのは、僕が必死に守り抜いてきた平穏なぼっち生活のほうだ。

「おはよ、天野!」
「……っ、お、おはよう」

 昇降口で突然クラスメイトに声をかけられ、反射的に肩がびくっと跳ねる。
 昨日までなら軽い会釈だけで切り抜けられたはずなのに、なぜか今日の相手は含みのある笑みを浮かべていた。

「昨日、神宮寺と一緒に西棟のほう走ってたよな?」
「えっ」
「なんか珍しい組み合わせだなと思ってさー」
「あ、あれは、その……物理の課題のプリントが……」
「へえ……じゃ、また教室で」
「あ……うん」

 軽やかに去っていく背中を見送りながら、僕はその場にまるで石像のように立ち尽くした。

(ま、まさか、見られてた!?)

 正確には走っていたわけではなくただの早歩きだったけれど、そんな事は今の僕にとって問題ではない。
 僕と神宮寺が一緒にいたという事実。それがすでに他の生徒の記憶に刻まれている。

(……今日は絶対、何があっても空気になるぞ!)

 固い決意を胸に教室へ足を踏み入れた僕はいつもの一番奥の窓際の席へと滑り込み、教科書とノートを広げて視線を固定する。
 これぞ、誰をも寄せ付けない『話しかけるなオーラ』の全開状態である。
 その時だった。

「遥」
(――来たっ!)

 聞き慣れた声とともに、教壇から一直線に伸びてくる足音。
 顔を上げれば、爽やかな笑みを浮かべた学級委員長・神宮寺暁が立っていたのである。

「今日、移動教室多いだろ。今のうちに準備しとけよ」
「わ、分かってるよ」
「昨日も同じ事、言って忘れてただろ?」
「忘れてないよ、ただ、タイミングを見計らってただけ」
「それを世間では『出遅れた』って言うんだよ」

 神宮寺は呆れたように小さく息を吐くと、近くの空いていた椅子をガラガラと引っ張り、当然のように僕の隣へと座った。

「えっ、ちょ……なんで座るの」
「座っちゃいけない決まりでもあったか?」
「駄目っていうか……」

 周囲を見渡せば、あちこちからヒソヒソと話し声が聞こえてくる。

「なあ、最近さ、神宮寺ってやけに天野と仲良くない?」
「分かる。昨日も一緒に旧校舎のほうから歩いてたし」
「ていうか、天野にあんな普通に話しかけられるのって神宮寺くらいじゃね?」

 聞こえている、聞こえております、余すところなく全部!
 僕は居心地の悪さに、今すぐ机の上に突っ伏したくなった。

「神宮寺、みんな見てるからお願いだから離れて、ほしいデス」
「別にいいだろ、見られたって」
「よくない! 目立ちたくないんだよ僕は!」

 必死に小声で抗議しながら教科書を並べようとするが、動揺のせいでノートがずれ、プリントが床へ滑り落ちた。

「あっ……」
「ほら、慌てるから」

 僕が拾うより早く、神宮寺の手がスッとそれを拾い上げる。

「物理の予習、ここまでだぞ」
「じ、自分でできるから……」
「はいはい」
「こ、子ども扱いしないでほしい……」
「してないって」
「してる!」

 むっと睨みつけると、神宮寺はふっと悪戯っぽく笑い、僕の顔を至近距離で覗き込んだ。

「な、何だよ……」
「遥、また変な汗かいてるぞ?」
「誰のせいで冷や汗かいてると思ってのさっ!?」

 思わず声が大きくなり、周囲のクラスメイト数人が一斉にこちらを振り返る。
 僕は条件反射で即座に机の影へと頭を引っ込めた。

「ああ、もう駄目だ……もう終わった……」
「何がだ?」
「僕の静かな高校生活が終わる……」
「朝からスケールが壮大だな、それ」

 僕の言葉に対し、神宮寺は全く悪びれず、楽しそうに笑う。
 そうして――ぽん、と大きな温かい手が僕の頭の上に優しく乗せられた。

「大丈夫だって。誰も、お前が思ってるほど気にしてないから」
「……神宮寺」
「ん?」
「それ、やめろ!教室の真ん中でやられるほうが、百倍目立つから!」

 慌てて僕は彼の手を払いのける。
 神宮寺はきょとんとした後、堪えきれなくなくなったように声を殺して肩を震わせた。

 ――本気で嫌なら突き放せばいい。

 なのに僕の手は、彼を遠ざけることをどうしても選べなかった。

   ▽

 
 放課後――僕は慎重に図書室の扉を押し開き、そっと中を覗き込んだ。

「……遥」
「ひゃっ……」
「こっちだ」

 奥の書架の隙間から声をかけられ、本棚の影にある窓際の一番奥の特等席へ向かう。
 神宮寺の隣の席は、綺麗に引かれたまま空いていた。

「ほら、お前の席取っといたぞ」
「あ、うん……ありがとう」

 僕は周囲を確認してから、その隣へと腰を下ろす。
 しばらく紙をめくる音だけが静かに流れたが、不思議と、どうにも落ち着かない。
 そっと隣の横顔を盗み見ると、神宮寺が不意に口を開いた。

「何か顔についてるか?」
「っ……見てないよ」
「いや、思いっきり見てたろ……じゃあなんで今、俺の袖をそんなに必死に掴んだんだよ」
「えっ何を言って……?」

 手元を見ると、いつの間にか僕の指先が、神宮寺のシャツの袖口をキュッと強く摘んでいた。

「っ、ご、ごめん……!」
「別に、無理に離さなくてもいいけど」
「みんなに見られるでだろ……」
「ここ、普段は誰も来ない一番奥の死角だぞ」
「でも、もし誰か来たら……」
「どうもしない。普通に勉強してるだけだろ」

 僕は小さく溜息を吐いた。

「最近、距離が近いと思うんだけど、僕の気のせい?」
「俺が?」
「ほかに誰がいるっていうのさ」
「じゃあ、嫌だった?」

 その言葉を聞いて、僕は一瞬驚いた顔をしてしまった。
 視線を向けると、神宮司の顔がこちらに向けられている。
 彼の真剣な声音で尋ねられ、言葉が喉の奥でつかえる。
 しばらく僕は、恥ずかしそうに本音を言った。

「……嫌じゃ、ない」
「うん」
「でも、恥ずかしいんだよ」
「それは最初から知ってるよ」
「だったら少し控えてくれよ」
「それは……うん、多分無理だな」
「なんで!?」

 観念して顔を上げると、思ったよりも近いところに神宮寺の顔があった。
 驚いて息を呑んだ瞬間、お互いの額が柔らかく触れ合う。

「……っ、神宮寺?」
「お前さ、すぐ周りの目ばっかり気にするだろ」
「それは、だって……」
「誰かに見られてるんじゃないか、変に思われてるんじゃないかばかり考えてる。だから怖くなったら俺だけを見て、俺だけに目を追って、俺だけの事を考えるようにしろ」
「……え」
「お前が他の奴らの視線に怯えてるなら、俺が全部、お前の視野をその前から塞いでやるから。それなら、もう怖くないだろ?」

 この人は一体何を言っているのだろうか?
 呆然としながら、目の前の男を見つめる事しか出来なかった。
 
 ――ずるい。そんなの、反則だ。

「そんな事されたら、僕、神宮寺がいないと何もできないダメな人間になっちゃうよ……うん、無理」
「別に、それでもいいけど、無理じゃないだろ?」
「よくないよ、多分」
「それじゃあ、一人でできるようになるまで、ずっと俺がそばにいてやるよ」
「…………」

 神宮寺のその言葉を聞いて、僕の胸の奥底が熱く締めつけられる。
 一人で殻に閉じこもっていた時よりも、神宮寺の隣にいるほうがずっと安心できるなんて。

「……本当に、ずるいよ」
「何が?」
「知らない」

 これ以上見つめられていると表情を読まれそうで、僕は逃げるように神宮寺の広い肩へとそっと額を預けた。
 一瞬、彼の大きな身体がびくりと硬直する。

「……遥?」
「今だけだから……」
「うん」
「誰か足音が聞こえたら、すぐ離れるからね」
「ああ、分かった、約束する」
「……笑うなよ?」
「笑ってないって」
「声がもう笑ってる」

 文句を言う僕の頭を、大きな手が温かくゆっくりと撫で下ろす。
 窓の外の大きなガラス越しには、傾きかけた夕日が二人分の長い影を穏やかに落としていた。

 明日になれば、きっとまた学校の人の視線が怖くなる。
 知らない人に話しかけられれば言葉に詰まるし、廊下を一人で歩くだけで余計な妄想を繰り広げるだろう。
 多分、僕はそう簡単には変われない。
 それでも、僕は——。

「神宮寺」
「ん?」
「明日も……ここ、席取っておいてほしい、デス」

 僕は少し、頬を赤く染めていたのかもしれない。
 少し、恥ずかしそうな顔をしながら答える。
 すると、しばらく返事がなかったが、背中に回された腕がぐっと力を込め、僕の身体をさらに引き寄せた。

「もちろん。毎日取っとくよ」
「……近くない?」
「誰も来ないって言ったろ?」
「それ僕がさっき言った台詞だし……」
「じゃあ問題ないだろ」
「……っ」

 口ではそう言いながらも、僕は結局、彼の腕から体を離そうとはしなかった。
 この人の前でだけは、もう少しだけカッコ悪くて不器用な僕のままで甘えてもいいのかもしれない。

「……ねえ、神宮寺」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」

 耳元で優しく囁かれるその声を聞きながら、僕はそっと目を閉じた。
 この世界は、相変わらず僕にとっては広くて怖い場所だ。
 だけど、君の隣だけは、もう何も怖くないと感じながら。