激しい雷雨が嘘だったかのように過ぎ去り、旧校舎の図書準備室にはようやく穏やかな静けさが戻っていた。
あれほど窓を激しく叩いていた雨音もすっかり弱まり、雲の切れ間から差し込んだ夕暮れの光が、古びた床の木目を斜めに優しく照らし出している。
雷の音も、もうずいぶん遠ざかった。
「…………」
それなのに僕は、いまだに机の下から出られずにいた。
正確には――出られるわけがなかった、神宮寺の腕の中から。
頭には彼の制服のブレザーを被せられつつ、狭い机の下で身体と身体を隙間なく密着させたまま、さっきまでなら、そんな事を気にする余裕すらなかった。
雷が怖くて怖くて仕方がなくて、神宮寺の体温だけがこの世で唯一の命綱だったから。
けれど、恐怖の余韻が薄れ、急速に冷静さを取り戻すにつれて、今度は全く別の意味で致命的な問題が次々と浮上してきた。
(……近い。近すぎる)
かなり、ものすごく近い。
頬をほんの少し動かすだけで神宮寺のシャツの胸元に触れてしまうし、僕の背中には彼の大きな腕がしっかりと回されている。
そして何より――僕の両手は、未だに神宮寺のシャツの裾をぎゅっと握り締めたままだった。
(僕、今いったい何をしてるんだ……?)
急激に、さっきまでの記憶が鮮明に脳裏へと蘇る。
『行かないで』
と、言った気がする。
『一人にしないで』
それも言った、間違いなく
『もう少しだけ、こうしてて』
――間違いなく、僕自身の口ではっきりとそう言った。
「…………っ!」
ぼんっ、と耳の奥まで一気に真っ赤に染まりながら、顔から激しく火が出るのを感じた。
(うわああああああ、消えたい!)
僕は今すぐこの記憶を世界から抹消したい、何なんだ、さっきのあれは!
普段はろくにクラスメイトと目を合わせてすら話せない人間が、雷ごときに怯えた途端、同級生の男子にべったりとしがみついて泣きつくなんて。
重い、重すぎる。
客観的に見ても、あまりにも重すぎる行動だ。
ていうか、心の底から気持ち悪がられていないだろうか。
(絶対引かれた……神宮寺だって……本当はすごく困ってたに決まってる。優しいから、不憫に思って付き合ってくれてるだけなのに――)
「……落ち着いたか?」
「ひゃいっ!」
突然、頭上から降ってきた低い声に驚き、自分でも聞いたことのない変な裏声が出た。
「……ひゃい?」
「い、今の変な声は全部忘れて!」
「無理」
「お願い!」
「それは、嫌だ」
どうしてそんな返事をするのか、理解出来なかった。
観念して、僕は恐る恐るブレザーの裾からごそごそと顔を出す。
夕日に照らされた神宮寺の顔が、ほんの目の前にあった。
「っ……!」
近い、近い、近い——冷静になって改めて見ると、この至近距離は本当に心臓に悪い。
しかも神宮寺はさっきまで僕が雷に怯えてガタガタ震えていた時とは違い、何処かホッとした、そして穏やかで余裕のある表情を浮かべていた。
「もう平気そうだな」
「……うん、なんとか」
「よかった」
そのたった一言が、やけに優しく響いて、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。
「……あの」
「ん?」
「ありがとう……」
「何が?」
「その……わざわざ来てくれて……神宮寺が来てくれなかったら、僕……たぶん、ずっとあのまま一人で――」
「――遥」
「……っ」
彼は優しい声で、僕の名前を呼んでくる。
僕の心臓がこんなにも不規則に跳ね上がっていることなんて、本人は露ほども知らないクセに。
「礼なんかいいって……俺が勝手に探しに来ただけだし」
「でも……」
「それに」
ふいに、神宮寺の大きな手がスッと伸びてきて、僕は反射的にビクッと肩が跳ねる。
けれどその手は僕の頬に触れる寸前でピタリと止まり、親指の腹で僕の濡れた目元をそっと軽く拭った。
「泣きすぎ」
「……っ!」
「目、真っ赤だぞ」
「み、見るなよ!」
慌てて顔を背けようとする。
けれど逃げ場なんてあるはずもなく、僕の背中には冷たい机の脚が当たっている。
「今さら?」
「今さらでも見られたくない!」
「さっきもっとすごい顔して泣いてたけど?」
「全部忘れて!!」
「嫌だって」
「なんで……!」
思わずむっと眉をひそめて睨み上げると、神宮寺はさらに面白そうに目を細めて笑った。
「だってあんな遥の姿、俺しか知らないだろ?」
「…………え?」
その言葉を聞いた瞬間、思考回路が完全に停止した。
対し、神宮寺は話を続ける。
「普段は一人で平気ですって顔してすまし込んでるクセに実は重度の人見知りで、雷が鳴ったら机の端っこに小さく隠れて」
「や、やめ……!」
「おまけに俺の服をぎゅっと掴んで離さないし」
「神宮寺!」
「『一人にしないで』って泣きついたりして」
「わああああああ!」
あまりの破壊力に耐えきれず、僕は再び両手で耳を塞ぎながら神宮寺の広い胸元へと真っ赤になった顔を激しく埋めた。
「もう何も喋らないでくれ!」
「なんでだよ?」
「恥ずかしすぎて死んでしまうから!」
頭の上から、くぐもった楽しげな笑い声が降ってくる。
ひどい、さっきまであんなに慈愛に満ちた優しい王子様だったのに。
「……悪かったって」
まったく反省の色が見えない声だった。
僕は思わず睨みつけてしまう。
「でもさ」
「……なんだよ、もう」
神宮寺の腕が、ふたたび僕の背中へと回される。
さっきのとは違う——雷から身を守るためではない、別の意味を含んだ抱擁。
それがひしひしと伝わってきて、さっき落ち着いたはずの身体が再びカチコチに固まった。
「お前のそういう顔……俺だけが知ってればいいのにって、ちょっとだけ思う」
「…………」
この男は、何を言っているんだ。
何を、サラッとそんな照れくさいことを口にしているんだ。
恐る恐る、もう一度顔を上げると、神宮寺は笑っていた。
いつものような、余裕のある、少しからかうような笑顔。
――なのに、その瞳の奥だけが嘘みたいに真剣な熱を帯びていた。
「……悪かったな。からかいすぎた」
「……本当だよ」
「でもさ、お前のそういう必死な顔、俺以外の奴には絶対見せたくないって思っちまうんだよな」
「っ……!」
わかりたくない、いや、正確には――分かりたくなかった。
それを理解してしまったら、今まで神宮寺が僕に向けてくれた行動や、優しい言葉の全てに別の意味があったのだと気づいてしまいそうだったから。
「なんで僕なんか……」
ぽろりと、弱音のような本音が口から零れ落ちる。
神宮寺はふっと目を細め、静かに首を振った。
「なんでだろうな」
「……自分で分からないのか?」
「分かってるけど」
「じゃあ――」
「今は教えない」
「……ずるい」
思わず小さく文句を漏らすと、神宮寺は愛おしそうに声を上げて笑った。
「うん。ずるくていいよ」
僕の背中を優しく撫でる手がゆっくりと、リズムを刻むように動く。
その温かさと優しさに触れてしまうと、もうこれ以上抗議する気力なんてどこかへ消えてなくなってしまった。
(——ずるい……本当に、こんなの反則だ)
僕は観念したように、再び神宮寺の胸元へこつんと額を預けた。
顔が熱く、耳の先までずっと熱い。
心臓の音なんて、さっき雷が直撃していた時よりもはるかにうるさいくらいだ。
なのに、ここから離れたいなんて、不思議とみじんも思わなかった。
窓の外では、雨上がりの雲の隙間から、どこか優しい夕日が差し込んでいる。
もう雷は鳴っていない。
ここに留まる理由なんて、怖がる理由なんて、どこにもないはずなのに。
だから当然――神宮寺にこうして抱きしめてもらう理由だって、もうどこにもないはずなのに。
「…………」
僕も、そして神宮寺も。
何故かその離れるべき『理由』については互いに一切触れなかった。
そして僕は、彼のシャツの裾をぎゅっと掴んだままにしながら。
――あと少しだけなら。
そんな甘い言い訳を心の中で何度も何度も繰り返していた。
あれほど窓を激しく叩いていた雨音もすっかり弱まり、雲の切れ間から差し込んだ夕暮れの光が、古びた床の木目を斜めに優しく照らし出している。
雷の音も、もうずいぶん遠ざかった。
「…………」
それなのに僕は、いまだに机の下から出られずにいた。
正確には――出られるわけがなかった、神宮寺の腕の中から。
頭には彼の制服のブレザーを被せられつつ、狭い机の下で身体と身体を隙間なく密着させたまま、さっきまでなら、そんな事を気にする余裕すらなかった。
雷が怖くて怖くて仕方がなくて、神宮寺の体温だけがこの世で唯一の命綱だったから。
けれど、恐怖の余韻が薄れ、急速に冷静さを取り戻すにつれて、今度は全く別の意味で致命的な問題が次々と浮上してきた。
(……近い。近すぎる)
かなり、ものすごく近い。
頬をほんの少し動かすだけで神宮寺のシャツの胸元に触れてしまうし、僕の背中には彼の大きな腕がしっかりと回されている。
そして何より――僕の両手は、未だに神宮寺のシャツの裾をぎゅっと握り締めたままだった。
(僕、今いったい何をしてるんだ……?)
急激に、さっきまでの記憶が鮮明に脳裏へと蘇る。
『行かないで』
と、言った気がする。
『一人にしないで』
それも言った、間違いなく
『もう少しだけ、こうしてて』
――間違いなく、僕自身の口ではっきりとそう言った。
「…………っ!」
ぼんっ、と耳の奥まで一気に真っ赤に染まりながら、顔から激しく火が出るのを感じた。
(うわああああああ、消えたい!)
僕は今すぐこの記憶を世界から抹消したい、何なんだ、さっきのあれは!
普段はろくにクラスメイトと目を合わせてすら話せない人間が、雷ごときに怯えた途端、同級生の男子にべったりとしがみついて泣きつくなんて。
重い、重すぎる。
客観的に見ても、あまりにも重すぎる行動だ。
ていうか、心の底から気持ち悪がられていないだろうか。
(絶対引かれた……神宮寺だって……本当はすごく困ってたに決まってる。優しいから、不憫に思って付き合ってくれてるだけなのに――)
「……落ち着いたか?」
「ひゃいっ!」
突然、頭上から降ってきた低い声に驚き、自分でも聞いたことのない変な裏声が出た。
「……ひゃい?」
「い、今の変な声は全部忘れて!」
「無理」
「お願い!」
「それは、嫌だ」
どうしてそんな返事をするのか、理解出来なかった。
観念して、僕は恐る恐るブレザーの裾からごそごそと顔を出す。
夕日に照らされた神宮寺の顔が、ほんの目の前にあった。
「っ……!」
近い、近い、近い——冷静になって改めて見ると、この至近距離は本当に心臓に悪い。
しかも神宮寺はさっきまで僕が雷に怯えてガタガタ震えていた時とは違い、何処かホッとした、そして穏やかで余裕のある表情を浮かべていた。
「もう平気そうだな」
「……うん、なんとか」
「よかった」
そのたった一言が、やけに優しく響いて、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。
「……あの」
「ん?」
「ありがとう……」
「何が?」
「その……わざわざ来てくれて……神宮寺が来てくれなかったら、僕……たぶん、ずっとあのまま一人で――」
「――遥」
「……っ」
彼は優しい声で、僕の名前を呼んでくる。
僕の心臓がこんなにも不規則に跳ね上がっていることなんて、本人は露ほども知らないクセに。
「礼なんかいいって……俺が勝手に探しに来ただけだし」
「でも……」
「それに」
ふいに、神宮寺の大きな手がスッと伸びてきて、僕は反射的にビクッと肩が跳ねる。
けれどその手は僕の頬に触れる寸前でピタリと止まり、親指の腹で僕の濡れた目元をそっと軽く拭った。
「泣きすぎ」
「……っ!」
「目、真っ赤だぞ」
「み、見るなよ!」
慌てて顔を背けようとする。
けれど逃げ場なんてあるはずもなく、僕の背中には冷たい机の脚が当たっている。
「今さら?」
「今さらでも見られたくない!」
「さっきもっとすごい顔して泣いてたけど?」
「全部忘れて!!」
「嫌だって」
「なんで……!」
思わずむっと眉をひそめて睨み上げると、神宮寺はさらに面白そうに目を細めて笑った。
「だってあんな遥の姿、俺しか知らないだろ?」
「…………え?」
その言葉を聞いた瞬間、思考回路が完全に停止した。
対し、神宮寺は話を続ける。
「普段は一人で平気ですって顔してすまし込んでるクセに実は重度の人見知りで、雷が鳴ったら机の端っこに小さく隠れて」
「や、やめ……!」
「おまけに俺の服をぎゅっと掴んで離さないし」
「神宮寺!」
「『一人にしないで』って泣きついたりして」
「わああああああ!」
あまりの破壊力に耐えきれず、僕は再び両手で耳を塞ぎながら神宮寺の広い胸元へと真っ赤になった顔を激しく埋めた。
「もう何も喋らないでくれ!」
「なんでだよ?」
「恥ずかしすぎて死んでしまうから!」
頭の上から、くぐもった楽しげな笑い声が降ってくる。
ひどい、さっきまであんなに慈愛に満ちた優しい王子様だったのに。
「……悪かったって」
まったく反省の色が見えない声だった。
僕は思わず睨みつけてしまう。
「でもさ」
「……なんだよ、もう」
神宮寺の腕が、ふたたび僕の背中へと回される。
さっきのとは違う——雷から身を守るためではない、別の意味を含んだ抱擁。
それがひしひしと伝わってきて、さっき落ち着いたはずの身体が再びカチコチに固まった。
「お前のそういう顔……俺だけが知ってればいいのにって、ちょっとだけ思う」
「…………」
この男は、何を言っているんだ。
何を、サラッとそんな照れくさいことを口にしているんだ。
恐る恐る、もう一度顔を上げると、神宮寺は笑っていた。
いつものような、余裕のある、少しからかうような笑顔。
――なのに、その瞳の奥だけが嘘みたいに真剣な熱を帯びていた。
「……悪かったな。からかいすぎた」
「……本当だよ」
「でもさ、お前のそういう必死な顔、俺以外の奴には絶対見せたくないって思っちまうんだよな」
「っ……!」
わかりたくない、いや、正確には――分かりたくなかった。
それを理解してしまったら、今まで神宮寺が僕に向けてくれた行動や、優しい言葉の全てに別の意味があったのだと気づいてしまいそうだったから。
「なんで僕なんか……」
ぽろりと、弱音のような本音が口から零れ落ちる。
神宮寺はふっと目を細め、静かに首を振った。
「なんでだろうな」
「……自分で分からないのか?」
「分かってるけど」
「じゃあ――」
「今は教えない」
「……ずるい」
思わず小さく文句を漏らすと、神宮寺は愛おしそうに声を上げて笑った。
「うん。ずるくていいよ」
僕の背中を優しく撫でる手がゆっくりと、リズムを刻むように動く。
その温かさと優しさに触れてしまうと、もうこれ以上抗議する気力なんてどこかへ消えてなくなってしまった。
(——ずるい……本当に、こんなの反則だ)
僕は観念したように、再び神宮寺の胸元へこつんと額を預けた。
顔が熱く、耳の先までずっと熱い。
心臓の音なんて、さっき雷が直撃していた時よりもはるかにうるさいくらいだ。
なのに、ここから離れたいなんて、不思議とみじんも思わなかった。
窓の外では、雨上がりの雲の隙間から、どこか優しい夕日が差し込んでいる。
もう雷は鳴っていない。
ここに留まる理由なんて、怖がる理由なんて、どこにもないはずなのに。
だから当然――神宮寺にこうして抱きしめてもらう理由だって、もうどこにもないはずなのに。
「…………」
僕も、そして神宮寺も。
何故かその離れるべき『理由』については互いに一切触れなかった。
そして僕は、彼のシャツの裾をぎゅっと掴んだままにしながら。
――あと少しだけなら。
そんな甘い言い訳を心の中で何度も何度も繰り返していた。



