一匹狼(勘違い)は恋を知らない

 ガチャン――!

 突然、旧校舎の静寂を切り裂くように、図書準備室の重い扉が開いた。

「遥、まだ残っ――って、おい?」

 その声が僕が最も求めていた、聞き覚えのある声だった。
 いつもより少し荒い感じで、そして息が切れている。

(……神宮寺?)

 顔を上げて、ここにいる、と言いたい。
 けれど、僕の身体が恐怖に縛られたようにどうしても言うことを聞かなかった。
 僕はそのまま机の下に潜り込んだまま、両手で耳を塞ぎ、膝を抱えて震えることしかできない。

「……遥、どこだ?」

 足音が近づいてくるそれと同時だった。
 視界の端で、準備室の窓が真っ白に染まった。

「っ……!」

 来る——そのように感じた瞬間、僕の目に映ったのは雷だった。

 ドォォォンッ!!

「ひっ……!」

 僕の身体が大きく跳ねてしまった。
 その悲鳴のような音で気づいたのだろう、コツコツと響いていた足音が、ピタリと止まる。
 直後、机の向こうから神宮寺がしゃがみ込み、暗がりを覗き込んできた。

「……遥?」

 目が合うと同時に神宮寺が、はっと息を呑む。
 多分、今の僕は相当ひどい顔をしていたと思う。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔に、肩が震えていた姿。
 そしてそのまま耳を塞いだまま、狭い机の下でエビのように縮こまっている。
 もう、演技をしている場合でもないのだ。
 そんな顔をしている僕に対し、神宮司は引きつった顔をした後静かに呟いた。

「おい……嘘だろ」

 神宮寺の顔から、いつもの余裕が消え失せる。

「お前、まさか……雷が怖いのか?」
「…………」

 そんなの、答えられない。
 かろうじて首を横に振るのが精一杯だった。
 違う、と言いたかったわけではなく、もう、そんな余裕すらなかった。
 ただ怖くて、喉の奥から声が出なかった、それだけだ。

「遥」

 神宮寺の声が、一段と低くなる。
 その時、再び窓の外が激しく光った。

「――っ!」

 反射的にギュッと目を閉じた僕を見て、神宮寺の表情がさらに変わった。

「はぁー……分かった」

 次の瞬間、神宮寺は迷うことなく、自分の大きな身体を机の下の狭い空間へと滑り込ませてきた。

「え……」

 狭い——ただでさえ一人用みたいな空間なのに、背の高い神宮寺が入ってきたせいで、一気に窮屈になる。
 けれど今だけは、その息が詰まりそうなほどの狭さが嫌ではなかった。
 寧ろ不思議と、ホッとしてしまったのである。

「……ちょっと我慢しろよ」

 神宮寺は着ていた制服のブレザーを脱ぐと、それを迷いなく僕の頭からすっぽり被せたからなのか、視界が真っ暗になる。
 すると、神宮寺のシャツの匂いがした。
 普段なら、それだけで別の意味でパニックになっていたはずだ。
 でも今は――そんな事なかった。

「これなら光、見えないだろ」
「……神宮寺君……」
「音は……悪い。こればっかりはどうにもできないから」

 そう言って、神宮寺の大きな手が、ブレザー越しに僕の耳を優しく覆う。
 そして、ぐっと身体ごと引き寄せられた。

「……っ」

 頬が、神宮寺の胸板に当たる。
 そこが、少しだけ温かく感じてしまった。

「大丈夫」

 頭のすぐ上から、神宮司の声が降ってくる。

「……俺がいるから」

 ドォン、と遠くでまた雷が鳴り、体がびくっと条件反射で震える。
 すると、神宮寺の腕にさらに強い力が込められた。

「大丈夫。大丈夫だから」

 まるで幼い子供を宥めるような、どこまでも甘い声で言ってくれた。
 いつもなら絶対に腹が立ったはずだ。
 僕は子供じゃないし、雷くらい、本当は平気だ――そう言って、意地でもこの腕から離れようとしたはずなのに。

「…………っ」

 本当に、もう無理だった。
 神宮寺の確かな体温に触れた瞬間、ずっと張り詰めていた心の糸が、ぷつんと音を立てて切れた。

「すごく……怖かった……」

 自分でも驚くほど、弱々しい声が零れ落ちる。

「うん」
「ずっと、一人で……」
「うん」
「誰も、来ないと思って……」

 言葉にするほど、せきを切ったように涙が溢れてくる。
 恥ずかしかった、こんな惨めな姿、誰にも見られたくなかった。
 なのに、神宮寺の前では、なぜかどうしようもなく隠せなかった。

「……なんで」
「ん?」
「なんで……来たんだ……?」

 神宮寺は、わずかに言葉を詰まらせた。

「……お前、教室にこれ忘れてたから」

 そのように言いながら視界を覆っていたブレザーの裾が、少しだけ持ち上がる。
 神宮寺の手には、見覚えのある黒いペンケースがしっかりと握られていた。

「あ……」
「届けようと思って職員室の先生に聞いたら、旧校舎に残ってるって言うからさ」

 それだけ、ただ、それだけだった。
 ただの偶然に起きた事だった。
 神宮寺は、僕が雷にこれほど怯えている事なんて知らなかったはずだ。
 ただ、それだけなのに。

(まただ……)

 この男はいつもそうだ。
 僕がどうしようもなく一人で立ち往生している時に、決まって現れる。
 一人で廊下を歩けなくなった時も、他人の視線に囲まれて動けなくなった時も、そして、この雷で怯えている時も、傍にいてくれようとしたのだ。

「……神宮寺君」
「ん?」

 僕の手が、勝手に動いていた。

 ——ぎゅっ。

 神宮寺のシャツの布地を、両手で力いっぱい掴む。

「……遥?」
「お願いだから、行かないで……」

 まさかそんな事を無意識に自分でも信じられなかった。
 普段の僕なら、人の服を掴むなんて恥ずかしくて絶対にできない。
 まして、自分から誰かに縋るように触れるなんて。
 それなのに。

「一人に……しないで……」
「っ……」
「もう少しだけ……こうしてて……」

 ああ、バカだな僕は……言ってしまった。
 恥ずかしさで今すぐ消えてなくなりそうだった。
 それでも、指先だけはどうしても離せなかった。
 しばらく、返事がなかった。

(もしかして……引かれた……?)

 急激な恐怖心が胸を突く。
 恐る恐る、ブレザーの隙間から顔を上げると――神宮寺は、その場で動きを止めて固まっていた。

「……神宮寺君?」
「はぁ……お前さ……」

 神宮寺は片手で自分の顔を覆い、低く呟いた。

「それ、反則だろ……」
「え?」
「いや、なんでもない」

 暗がりの中でも、彼の耳たぶが妙に赤いのが分かった。
 けれど、その理由を深く考える余裕なんてなかった。
 そのまま再び、遠くで低い雷鳴が轟く。

「っ……」

 僕がびくりと震えた瞬間、神宮寺はすぐに両腕の輪を締め直してくれた。
 今度はさっきよりもずっと優しく、まるで壊れ物を扱うみたいに、大切に。

「――行かないよ」

 耳元で、甘く囁かれる。

「お前がもう大丈夫って言うまで、ずっとここにいる」
「……本当に?」
「ああ」
「絶対……?」
「絶対だ」

 その約束の言葉だけで、胸の奥底に澱のように溜まっていた恐怖が、少しずつ、少しずつ溶けていくのを感じた。
 僕はもう一度、神宮寺の胸板に額を押し当てるように顔を埋めた。

「遥」
「……っ」

 どうしてこの人は、僕の心臓が一番うるさく脈打っている時に限って、そんな風に名前を呼んでくるのだろう?
 
「もう大丈夫だから」

 頭の上で、大きな手が優しく動き、それはゆっくりと、まるで子供をあやすように髪を撫でられる。
 そして、神宮寺は自分の額を、そっと僕の額へと重ねてきた。
 先ほど以上に近い、お互いの吐息が触れ合ってしまいそうなほどに。
 雷とはまったく違う理由で、僕の心臓はさっきよりも激しく跳ねていた。

「俺がいる」
「…………」

 その瞬間、また窓の外の空が激しく光った。

 けれど今度は、不思議と目を瞑らなかった。
 目の前にいる神宮寺の瞳だけを、まっすぐに見つめていた。
 外では相変わらず、冷たい雨が激しく降り続いている。
 雷だって、まだ鳴り止んではいない。
 それなのに、神宮寺のシャツの裾をぎゅっと握り締めたまま僕はぼんやりと思った。

 ――もう少しだけ、この嵐が、この雷が、どうかまだ鳴り止まなければいいのに、と。