一匹狼(勘違い)は恋を知らない

 あれから、僕と神宮寺の変な関係は続いていた。

 移動教室があれば、いつの間にか僕の席まで迎えに来てくれるようになった。

「行くぞ、遥」
「え、あ、う、うん……」

 変わらない笑顔で声をかけてくれるようになった。
 廊下を歩けば当然のように隣に並び、僕が人混みに怯えていると、何も言わず人の少ない側へとスッと立ってくれる。
 最初こそ、一人で行けると抵抗していた僕も、最近既に諦めモードだ。

 ――決して、神宮寺と一緒にいることに慣れてきたわけではない。

 ただ、抵抗するほうが疲れると学習しただけだ、多分だけど。

 そんな日々が続いていた、ある日の放課後。

 元々僕は図書委員なのだが、その回ってきた引き継ぎ書類の整理が重なり、僕は一人、旧校舎の図書準備室に残っていた。
 本館から少し離れたこの場所まで来ると、学校とは思えないほど静かだ。
 部活の掛け声も、生徒たちの笑い声も聞こえない。
 聞こえるのは、紙をめくる音と、古い壁掛け時計の秒針の音だけ。

(誰もいない……)

 古びた木の机に向かい、黙々とプリントを仕分けていく。
 本来なら、最高の環境なのだ。
 誰の目も気にしなくていいし、話しかけられる心配もない。
 なのに、何か足りない。

「…………」

 ちらりと背後を見るが、当然、誰もいない。

(なんか……怖いな)

 すごく、静かすぎる。
 普段はあれほど人を避けているくせに、いざ完全に一人になるとそれはそれで落ち着かない。
 こういう時に限って、人間の中途半端な脳は余計な想像力を発揮するものだ。

(いやいや、何も出ない……学校だぞ。幽霊なんているわけ――)

 ゴロゴロゴロ……。

「…………」

 思わず僕の手がピタリと手が止まった。
 今のは幽霊ではなく、もっと現実的で、もっと嫌なものだ。
 恐る恐る、窓の外を見てみると、ついさっきまで夕日の差し込んでいたはずの空が、いつの間にか不気味なほどの鉛色の雲に覆われていたのだ。

「……うそ」

 ぽつ、と窓ガラスに、冷たい水滴が一つ落ちる。
 そのまま、次の瞬間。

 ――ザアアアアアアッ!

「うわっ……!」

 バケツをひっくり返したような激しい雨が、一斉に窓ガラスへ叩きつけられた。
 古びたサッシが細かく震える。
 嫌な予感がした——背筋が凍るような、ものすごく嫌な予感が。

(は、早く片付けて本館に戻らないと――)

 そう思って立ち上がった、その時だった。

 ――ピカッ!

 世界が、一瞬で強烈な白に染まった。

「っ……!」

 一拍遅れて、僕は反応する。

 ――ドガァァァンッ!!

「ひっ……!」

 そのまま身体が大きく跳ね、手に持っていた資料が、パッと床へ散らばる。
 同時に、呼吸が完全に止まった。

(無理……)

 頭では分かっている。
 ただの雷だ。ここは頑丈な建物の中だし、僕に落ちるわけがない。
 分かっているのだ、頭では理屈ではちゃんと理解しているのに――身体だけは、幼い頃からどうしても言うことを聞いてくれない。
 僕は昔から、雷が大嫌いだった。
 光った瞬間に全身の筋肉が強張ってしまい、次に来る圧倒的な音が分かっているからこそ、その数秒間の沈黙が怖くて仕方ない。

「だ、大丈夫……」

 震える声で、自分に言い聞かせる。

「大丈夫、大丈夫だから……」

 ――ピカッ。

「――っ!」

 まただ。
 来る、来る来る来る――。

 ――ドォォンッ!!

「やっ……!」

 耐えきれず、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
 両手で耳をぎゅっと塞ぐと同時に、心臓が痛いほど激しく脈打つ。息がうまく吸えない。
 気がつけば僕は、床に散らばった資料を放り出したまま教卓の――机の下の狭い隙間へと這いつくばるように潜り込んでいた。
 膝を胸まで引き寄せ、身体をできるだけ小さく丸める。

(だ、大丈夫、き、聞こえない、聞こえない……)

 強く瞼を閉じながら、何度も同じ言葉を頭の中に言い聞かせる。
 けれど目を閉じても、準備室の窓全体が真っ赤に染まるほどの稲光がまぶたの裏を焼く。
 そのたびに、身体が小刻みに震えた。

 ゴロゴロゴロ……。

「…………っ」

 怖いし、周りには誰もいない。
 さっきまでは、それがあんなに嬉しかったはずなのに。
 今は、この静かな旧校舎に自分しかいないという事実が、どうしようもなく、底知れず恐ろしく感じてしまった。

(だ、誰も来ない……)

 こんな旧校舎の端っこまで、用もないのに来る生徒なんているわけがない。
 先生だって、僕がまだ残っているかなんて覚えているかどうか。

(今、僕は一人だ……一人なんだ)

 その残酷な事実を意識した途端、喉の奥がきゅうっと締め付けられるように狭くなった。
 次の瞬間、また、窓が激しく光った。

「っ……!」

 耳を塞ぐ手に、さらに力が入る。
 嫌だ、怖いよーー誰か、お願いだから一緒に……。
 ただ、そんな事を考えたところで、誰も来てくれない。
 そしてふと、なぜかたった一人の顔が脳裏に浮かんでしまった。

「……神宮寺」

 無意識に、その名前が震える口からこぼれ落ちていた。
 自分で呟いておきながら、胸の奥がきゅっと痛む。

(何考えてるんだよ、僕……)

 神宮寺が来るわけがない。
 そもそも今回はと図書委員としての仕事をしているだけだ。
 一緒に帰る約束だって、していない。
 そもそも僕がここに残っていることすら、神宮寺は知らないはずだ。

 それなのに。

(……神宮寺)

 会いたい、今だけでいいから。
 すぐ隣にいてほしい。
 あの大きくて温かい手で、いつものように乱暴すぎない力加減で頭を撫でながら、安心させてほしい。
 そこまで考えてしまった瞬間――。

 ――ドォォォンッ!!

「ひっ……!」

 ひときわ大きな雷鳴が、古い校舎の基礎まで揺らした。
 僕は耳を塞ぎ、机の下でさらに小さく丸くなる。

「……怖い、よ……」

 ついに、声に出てしまった。
 その時には既に僕自身の余裕がなかったのかもしれない。
 ただガタガタと震えながら、冷たい雨音と脅威が過ぎ去るのを待つことしかできない。

 ――だから僕は、気づかなかった。

 激しい雨音と、絶え間なく轟く雷鳴に紛れながら誰かが旧校舎の冷たい廊下を、息を切らして走ってくる足音が――少しずつ確実に、この図書準備室へと近づいてきている事に気づいていなかったのだ。