そのまま神宮寺に肩を抱かれ、西棟へ向かう――のかと思った。
「こっち」
「え?」
渡り廊下を抜ける直前、突然ぐいっと肩を引かれる。
連れてこられたのは、普段ほとんど生徒が使わない旧校舎側の階段の踊り場だった。
薄暗い蛍光灯の下でひんやりとしたコンクリートの壁に背中を預けた瞬間、全身から一気に力が抜ける。
「はぁ……っ、はぁ……」
危なかったーーあと少し救出が遅れていたら、多分社会的に僕自身が心折れていたかもしれない。
生きている、良かったぁと思うのは大げさなのだろうかと感じつつ。
まるで命からがら天敵の魔手から逃げ切った小動物のように肩で息をしていると、目の前から呆れたような、それでいてどこか楽しげな声が降ってきた。
「……天野、本当に大丈夫か?」
おずおずと顔を上げると、神宮寺は両手をポケットに突っ込んだまま、余裕綽々といった様子でこちらを見下ろしていた。
「なんだよ、さっきのあの硬直っぷりは……」
「…………」
口元が微かに笑っており、僕はただ、嫌な予感がした。
「幽霊でも見たような顔してさ。相手はただの同級生だろ?」
「…………」
グサっ、と見えない刃物が胸に突き刺さった感触がした。
いや、違う。
僕は断じて、ただビビッて怯えていたわけではない。
ただ少し、心の準備が全くできていない状態で不意に複数人から視線を向けられ、突然名前を呼ばれ、さらには「会話」という極めて高度なコミュニケーションを要求された結果、生命維持を最優先するために脳が一時停止しただけだ。
決して、人が怖かったわけではない。うん、多分。
「ち、違う……」
「何が?」
「ぼ……僕はただ、一人で静かに移動したかっただけで……その、別に怯えてなんか……いない……です」
できるだけ冷静に。
いつもの、無口で他人に興味がない”天野遥”と言う存在を完璧に演じるのだ。
「…………」
「…………」
だが、神宮寺は何も言わず、ただじっと僕を見つめている。
耐えきれなくなって、スッと視線を足元に逸らした。
(なんで黙るんだよ! 何か言ってよ、否定してくれ!)
自分でも分かっている。
声は上ずっていたし、視線はオロオロと泳ぎっぱなし。
おまけに、さっきからの恥ずかしさで耳たぶまで真っ赤に熱くなっている自覚がある。
説得力なんて、測定不能なんだから。
しかし、反応は予想をしていなかった事だった。
「……ふっ」
「……何ですか」
「いや……」
「……今、笑いましたよね?」
「笑ってない」
「絶対笑いました」
「悪い」
「やっぱり笑ってるじゃないか!」
神宮寺はついに堪えきれなくなったらし、くぐもった声を上げて笑った。
その整った顔の笑顔がやけに眩しくて、僕はますます惨めな気持ちになり、トボトボと俯く。
「もういいです……」
「お……拗ねるなよ」
「拗ねてません。今すぐ消えたいだけだ……」
うん、できれば、このコンクリートの壁の染みにでも同化したい。
対し、神宮寺は笑いながら話を続けてくる。
「悪かったって」
「別に……」
「……嘘だな」
「……え?」
笑いの余韻を残した低い声が、ほんの少しだけ近づいた。
その顔はとても整っており、思わず目を見開いてしまうほど、彼の顔が近かった。
静かに笑いながら、彼は言った。
「子猫みたいにブルブル震えてたくせに」
「こ、子猫!?」
まさかそんな事を言われるとは思わなかった。
よりによって、子猫。
せめてもう少し強そうな生き物に例えてほしいぞ!
狼とか、虎とか、百歩譲って山猫とか。
「お前は……他人に話しかけられるのが怖くて仕方ないんだろ?」
「…………っ!」
それは、あまりにも逃げ道を塞ぐような一言だった。
僕は口を開き、そして閉じる。
もう一度開いて――結局、何も言えずにギュッと唇を引き結んだ。
それは、あまりにも図星の言葉だ。
これまで必死に傷つかないようにと積み上げてきたものが、たった一言で音を立てて崩れていく。
僕は別に、本当に一人が好きなわけじゃない。
誰とも関わりたくないわけでもない。
本当はただ、人と話すのが怖いだけなのだ。
何を言えば正解なのか分からないし、そもそも変な奴だと思われたくない――本当は、嫌われるのが何より怖い。
だから最初から、一人が好きな人のフリをして、殻に閉じこもっていただけだ。
それを、神宮寺はあまりにもいとも簡単に見抜いてしまった。
「っ……うるさい……っ!」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど小さかった。
「それなら放っておいてほしい……」
「嫌だ」
「…………は?」
あまりにも迷いのないその返事に、僕は思わず目を丸くして顔を上げてしまった。
対し、神宮寺はもう笑っていなかった。
さっきまでからかうような光を宿していた瞳が、今はただ真っ直ぐに見つめ、僕の逃げ場を塞ぐように見つめている。
「そんなの、放っておけるわけないだろ」
「それは、なんで……」
思わず、掠れた声で聞いてしまった。
その瞬間、神宮寺がさらに一歩、足を踏み出してきた。
「っ」
反射的に体を後ろへ引こうとして――ガツン、と背中が冷たい壁に当たり、行き止まりを告げる。
逃げ場なんて、どこにもない。
——近い、近い、近い、近い。
さっきまで肩を抱かれて歩いていた時は、パニックのせいで考える余裕すらなかったけれど、こうして正面から向き合うと、神宮寺は思っていた以上に体格が良くて大きい。
しっかり顔を見上げるためには、首をぐっと持ち上げなければならないほどだ。
(なんで、こんなに近いんだよ……!)
心臓が、さっきまでの恐怖とは全く違う危険信号を鳴らし始める。
「これからさ」
神宮寺が、スッと右手を伸ばしてきた。
あまりの近さに思わずギュッと目を瞑りかけた、その時。
――ぽん。
大きくて温かい手が、僕の頭に優しく乗せられた。
「……え」
「何かある時は……そうだな、移動教室とかは、俺と一緒に行けばいいじゃん」
あまりにも自然に、あまりにも当たり前のように言われて、一瞬、その言葉の意味が頭の中で理解できなかった。
「……神宮寺、君と?」
「そう」
「毎回?」
「毎回に決まってるだろ」
「なんで……そんなこと……」
同じ質問を繰り返す僕に、神宮寺は少しだけ呆れたように、けれどどこか愛おしそうに息を吐く。
やがて、頭に置いた手で、くしゃりと僕の髪を乱暴すぎない絶妙な力加減で撫でた。
「お前、一人にしといたらすぐ変なところで詰んで、下手すりゃ道に迷って消えそうだから」
「消えない! 高校生だよ僕だって!」
「さっきあそこで完全にフリーズしてただろ?」
「それは精神的にちょっとキャパを超えていただけ!」
「それを世間では『死にかけてた』って言うんだよ」
ぐうの音も出ない。完全な正論だった。
神宮寺はふっと楽しそうに柔らかく笑うと、もう一度、名残惜しむように僕の頭をポンと撫でた。
「だから安心しろって」
その低くて響きのいい声だけが、不意に、ずるいくらいに優しかった。
「これからは全部俺が隣にいてやるよ」
「…………」
「俺と一緒なら、さっきみたいに怖い思いもしないだろ?」
その瞬間、胸の奥が、ドクン、と大きく跳ねた。
同時にわかってしまった——何かが、決定的に狂い始めている。
僕は本来、人と一緒にいるのが苦手だ。
誰かに突然話しかけられるのも、自分のパーソナルスペースに入られるのも、心の底から怖いはずなのに。
なのに、神宮寺がこうして隣にいてくれることだけは、不思議と少しも嫌じゃなかった。
むしろ――。
――キーンコーンカーンコーン。
遠くで、次の授業の開始を知らせる予鈴が鳴り響く。
「あ、やばい……予鈴鳴った」
神宮寺がパッと階段の上の時計を見上げる。
「行くぞ、遥」
「……え」
今、彼は確かに、僕の名前を呼んだ。
これまではずっと苗字だったのに。
神宮寺はそんな僕の動揺に気づいていないのか、それともわざとなのか、先にスタスタと階段を上り始める。
「ほら、ぼさっとすんな。遅刻するぞ」
「ま、待って……!」
慌てて、僕はその広い背中を必死に追いかけた。
胸の奥が、うるさいくらいに騒がしい。
予鈴の音よりもずっと近くで、ずっと大きなリズムで鳴り響いている。
(……なんなんだよ、これ)
答えなんて、まだ分からない。
だけど、たった一つだけ確かなことがある。
さっきまであれほど絶望的で、憂鬱で、気が狂いそうだった物理室までの道のりを、今の僕は――もう少しも怖いとは思っていなかったのだ。
「こっち」
「え?」
渡り廊下を抜ける直前、突然ぐいっと肩を引かれる。
連れてこられたのは、普段ほとんど生徒が使わない旧校舎側の階段の踊り場だった。
薄暗い蛍光灯の下でひんやりとしたコンクリートの壁に背中を預けた瞬間、全身から一気に力が抜ける。
「はぁ……っ、はぁ……」
危なかったーーあと少し救出が遅れていたら、多分社会的に僕自身が心折れていたかもしれない。
生きている、良かったぁと思うのは大げさなのだろうかと感じつつ。
まるで命からがら天敵の魔手から逃げ切った小動物のように肩で息をしていると、目の前から呆れたような、それでいてどこか楽しげな声が降ってきた。
「……天野、本当に大丈夫か?」
おずおずと顔を上げると、神宮寺は両手をポケットに突っ込んだまま、余裕綽々といった様子でこちらを見下ろしていた。
「なんだよ、さっきのあの硬直っぷりは……」
「…………」
口元が微かに笑っており、僕はただ、嫌な予感がした。
「幽霊でも見たような顔してさ。相手はただの同級生だろ?」
「…………」
グサっ、と見えない刃物が胸に突き刺さった感触がした。
いや、違う。
僕は断じて、ただビビッて怯えていたわけではない。
ただ少し、心の準備が全くできていない状態で不意に複数人から視線を向けられ、突然名前を呼ばれ、さらには「会話」という極めて高度なコミュニケーションを要求された結果、生命維持を最優先するために脳が一時停止しただけだ。
決して、人が怖かったわけではない。うん、多分。
「ち、違う……」
「何が?」
「ぼ……僕はただ、一人で静かに移動したかっただけで……その、別に怯えてなんか……いない……です」
できるだけ冷静に。
いつもの、無口で他人に興味がない”天野遥”と言う存在を完璧に演じるのだ。
「…………」
「…………」
だが、神宮寺は何も言わず、ただじっと僕を見つめている。
耐えきれなくなって、スッと視線を足元に逸らした。
(なんで黙るんだよ! 何か言ってよ、否定してくれ!)
自分でも分かっている。
声は上ずっていたし、視線はオロオロと泳ぎっぱなし。
おまけに、さっきからの恥ずかしさで耳たぶまで真っ赤に熱くなっている自覚がある。
説得力なんて、測定不能なんだから。
しかし、反応は予想をしていなかった事だった。
「……ふっ」
「……何ですか」
「いや……」
「……今、笑いましたよね?」
「笑ってない」
「絶対笑いました」
「悪い」
「やっぱり笑ってるじゃないか!」
神宮寺はついに堪えきれなくなったらし、くぐもった声を上げて笑った。
その整った顔の笑顔がやけに眩しくて、僕はますます惨めな気持ちになり、トボトボと俯く。
「もういいです……」
「お……拗ねるなよ」
「拗ねてません。今すぐ消えたいだけだ……」
うん、できれば、このコンクリートの壁の染みにでも同化したい。
対し、神宮寺は笑いながら話を続けてくる。
「悪かったって」
「別に……」
「……嘘だな」
「……え?」
笑いの余韻を残した低い声が、ほんの少しだけ近づいた。
その顔はとても整っており、思わず目を見開いてしまうほど、彼の顔が近かった。
静かに笑いながら、彼は言った。
「子猫みたいにブルブル震えてたくせに」
「こ、子猫!?」
まさかそんな事を言われるとは思わなかった。
よりによって、子猫。
せめてもう少し強そうな生き物に例えてほしいぞ!
狼とか、虎とか、百歩譲って山猫とか。
「お前は……他人に話しかけられるのが怖くて仕方ないんだろ?」
「…………っ!」
それは、あまりにも逃げ道を塞ぐような一言だった。
僕は口を開き、そして閉じる。
もう一度開いて――結局、何も言えずにギュッと唇を引き結んだ。
それは、あまりにも図星の言葉だ。
これまで必死に傷つかないようにと積み上げてきたものが、たった一言で音を立てて崩れていく。
僕は別に、本当に一人が好きなわけじゃない。
誰とも関わりたくないわけでもない。
本当はただ、人と話すのが怖いだけなのだ。
何を言えば正解なのか分からないし、そもそも変な奴だと思われたくない――本当は、嫌われるのが何より怖い。
だから最初から、一人が好きな人のフリをして、殻に閉じこもっていただけだ。
それを、神宮寺はあまりにもいとも簡単に見抜いてしまった。
「っ……うるさい……っ!」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど小さかった。
「それなら放っておいてほしい……」
「嫌だ」
「…………は?」
あまりにも迷いのないその返事に、僕は思わず目を丸くして顔を上げてしまった。
対し、神宮寺はもう笑っていなかった。
さっきまでからかうような光を宿していた瞳が、今はただ真っ直ぐに見つめ、僕の逃げ場を塞ぐように見つめている。
「そんなの、放っておけるわけないだろ」
「それは、なんで……」
思わず、掠れた声で聞いてしまった。
その瞬間、神宮寺がさらに一歩、足を踏み出してきた。
「っ」
反射的に体を後ろへ引こうとして――ガツン、と背中が冷たい壁に当たり、行き止まりを告げる。
逃げ場なんて、どこにもない。
——近い、近い、近い、近い。
さっきまで肩を抱かれて歩いていた時は、パニックのせいで考える余裕すらなかったけれど、こうして正面から向き合うと、神宮寺は思っていた以上に体格が良くて大きい。
しっかり顔を見上げるためには、首をぐっと持ち上げなければならないほどだ。
(なんで、こんなに近いんだよ……!)
心臓が、さっきまでの恐怖とは全く違う危険信号を鳴らし始める。
「これからさ」
神宮寺が、スッと右手を伸ばしてきた。
あまりの近さに思わずギュッと目を瞑りかけた、その時。
――ぽん。
大きくて温かい手が、僕の頭に優しく乗せられた。
「……え」
「何かある時は……そうだな、移動教室とかは、俺と一緒に行けばいいじゃん」
あまりにも自然に、あまりにも当たり前のように言われて、一瞬、その言葉の意味が頭の中で理解できなかった。
「……神宮寺、君と?」
「そう」
「毎回?」
「毎回に決まってるだろ」
「なんで……そんなこと……」
同じ質問を繰り返す僕に、神宮寺は少しだけ呆れたように、けれどどこか愛おしそうに息を吐く。
やがて、頭に置いた手で、くしゃりと僕の髪を乱暴すぎない絶妙な力加減で撫でた。
「お前、一人にしといたらすぐ変なところで詰んで、下手すりゃ道に迷って消えそうだから」
「消えない! 高校生だよ僕だって!」
「さっきあそこで完全にフリーズしてただろ?」
「それは精神的にちょっとキャパを超えていただけ!」
「それを世間では『死にかけてた』って言うんだよ」
ぐうの音も出ない。完全な正論だった。
神宮寺はふっと楽しそうに柔らかく笑うと、もう一度、名残惜しむように僕の頭をポンと撫でた。
「だから安心しろって」
その低くて響きのいい声だけが、不意に、ずるいくらいに優しかった。
「これからは全部俺が隣にいてやるよ」
「…………」
「俺と一緒なら、さっきみたいに怖い思いもしないだろ?」
その瞬間、胸の奥が、ドクン、と大きく跳ねた。
同時にわかってしまった——何かが、決定的に狂い始めている。
僕は本来、人と一緒にいるのが苦手だ。
誰かに突然話しかけられるのも、自分のパーソナルスペースに入られるのも、心の底から怖いはずなのに。
なのに、神宮寺がこうして隣にいてくれることだけは、不思議と少しも嫌じゃなかった。
むしろ――。
――キーンコーンカーンコーン。
遠くで、次の授業の開始を知らせる予鈴が鳴り響く。
「あ、やばい……予鈴鳴った」
神宮寺がパッと階段の上の時計を見上げる。
「行くぞ、遥」
「……え」
今、彼は確かに、僕の名前を呼んだ。
これまではずっと苗字だったのに。
神宮寺はそんな僕の動揺に気づいていないのか、それともわざとなのか、先にスタスタと階段を上り始める。
「ほら、ぼさっとすんな。遅刻するぞ」
「ま、待って……!」
慌てて、僕はその広い背中を必死に追いかけた。
胸の奥が、うるさいくらいに騒がしい。
予鈴の音よりもずっと近くで、ずっと大きなリズムで鳴り響いている。
(……なんなんだよ、これ)
答えなんて、まだ分からない。
だけど、たった一つだけ確かなことがある。
さっきまであれほど絶望的で、憂鬱で、気が狂いそうだった物理室までの道のりを、今の僕は――もう少しも怖いとは思っていなかったのだ。



