――キーンコーンカーンコーン
三時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、僕の脳内でも、別の意味で非常ベルが鳴り始めた。
(……来た)
「次、物理だろ? 早く行こうぜ」
「うわ、西棟じゃん。だるぅ……」
「その前に購買寄らね?」
クラスメイトたちは当然のように二人、三人と自然に集まり、楽しげに教室を出ていく。
窓際の一番後ろ、僕は開きっぱなしのノートを前に石像のように固まっていた。
(……物理室、西棟の三階だよね、確か)
つまり、この人口密集地帯をたった一人で完全アウェイのなか横断しなければならない。
(無理じゃない? 公開処刑じゃないか……)
そんな事を考えながら一人でポツンと歩く僕。
その横を楽しそうなグループが通り過ぎる。
もし知り合いと目が合ったら? 会釈すべき? それとも愛想笑いするべきなの?
考えるだけで、胃の腑がきゅうっと縮こまった。
「……よし」
待とう、みんなが移動しきり廊下が完全に空いてから出る。
長い高校生活で血と汗を流しながら培った、これが僕の必勝法なのだから。
――三分前までは。
「天野、次移動じゃね?」
「……っ」
突然名前を呼ばれ、跳ねるように肩が揺れてしまった。
一瞬驚いた顔をしながら顔を上げてしまった。
「あ……う、うん」
「行かないのか?」
「あー……今、片付けようと……」
「そっか。じゃ、お先に行くぞ?」
彼は友達に大声で呼ばれ、そのまま振り返ることもなく教室を出ていった。
「…………」
たった数秒の当たり障りのない会話だけで、今の僕のHPは確実に三割ほど削られていた。
しかも、完全にタイミングを逃した。
教室に残っているのは、まったりと談笑している数人だけだ。
この静まり返った空気の中で今から立ち上がれば、椅子を引く無駄に大きな音から誰もいない空間を扉まで歩く姿まで、すべてがクラス中の目に晒される。
(ああ……詰んだ)
いっそ物理をサボる案が一瞬本気で頭をかすめるが、鬼教師の恐ろしい顔を思い出して即座に却下する。
「……行くしかない、か」
意を決して、僕は立ち上がった。
——ガタッ。
(音でかっ……!)
誰も見ちゃいけあい、僕はただの空気、無機質な壁だ、この学校の古い備品……!
誰とも目を合わさないよう、床の木目だけを凝視して歩き出す。
「天野、消しゴム落ちたぞ」
「ふえっ!?」
あまりの予想外の言葉に、肩をびくっと跳ねさせて振り返る。
ふと、男子生徒の一人が僕の机の下を指さしていた。
「あ、ありがと……」
「おう」
慌てて戻って、転がっていた消しゴムを拾い上げる。
(備品じゃなかった! 完全に認知されちゃってる!なんで!?)
耳たぶまで真っ赤に熱くしながら、今度こそ逃げるように教室を脱出した。
――しかし、本当の地獄は教室の外、廊下に待っていた。
他クラスの生徒まで入り乱れ、廊下はそこら中で若者たちの活気ある声が飛び交っている。
僕は鞄を両手で白くなるほど強く握りしめ、できるだけ壁際スレスレを歩いた。
(うん、大丈夫……物理室の席まで行くだけ。誰とも話さなくていいんだから)
三メートル先の床のシミだけを見る。
順調だった。
西棟へ続く、あの渡り廊下の曲がり角に差し掛かるまでは。
「……うわ」
視界の端に飛び込んできた光景に、思わず足が止まる。
渡り廊下の入口を塞ぐように、他クラスの男子が四人程たむろしていたのだ。
シャツの裾をダラリと出し、大声でゲラゲラと笑う、いかにもスクールカースト上層の連中だ。
(なんでよりによって、そんなピンポイントな場所で溜まってんだよ!)
引き返すほうがかえって不自然だ。
なら、通り過ぎるしかない。
(透明人間。僕は今、誰にも見えない透明人間なんだ……)
ゆっくりと、自分が透明人間なんだと思いながら僕は足をゆっくりと動かした。
あと少しで、この関門を抜けられる――はずだった。
「あ、お前……」
「っ……!」
心臓が跳ね上がり、反射的に足がピタリと止まってしまった。
恐る恐る顔を上げると、グループの中心にいた男子が興味津々な顔で僕を見ていた。
「お前さ、二組の……天野、だっけ?」
「えっ」
なぜ、僕の名前を?
どうして知ってるの?
って言うか、誰ですか!?
「この前さ、委員会の時に――」
「あ、あの……っ」
頭の中が真っ白になる。
相手に悪意がない事くらい、分かっているつもりだ。
それでも突如として名前を呼ばれたというだけで、思考回路が完全にショートした。
「えっと……その……」
「ん?」
「その……僕、は……」
(何支離滅裂なこと言ってるんだ僕は……!)
男子が不思議そうに首を傾げる。
つられて、後ろにいた他の連中まで一斉にこちらを振り返った。
(増えた! 視線が増えたんだけどっ!)
大切な逃げ場もないのに、足が恐怖で動かない。
もう限界だ、ここでフリーズしてしまう。
そう覚悟をきめかけた、その時だった。
「――天野」
背後から、低く穏やかな声が降ってきた。
その声を聞いた途端、不思議な事にあれほど激しく暴れていた胸の騒めき、重さがすっと嘘のように和らいでいく。
そのまま右肩にふっと温かい重みが置かれたのだ。
「こんなところにいたのか、探したぞ?」
「神宮寺……君?」
そこに立っていたのは、神宮寺暁だった。
僕は何故かその時、神宮司の姿を見て安心感を覚えた。
多分、同じクラスメイトだからなのだろう。
神宮寺は怯える僕の顔をのぞき込み、余裕のある笑みを浮かべた。
「……お前、職員室寄れって先生に言われてただろ。忘れたのかよ」
「え?」
そんな話、僕は初耳だった。
「職員室……僕が?」
「……忘れたのか?」
「え、でも僕――」
「すっかり忘れてたんだな。ほら、行くぞ」
肩に置かれた手に、わずかに力がこもる。
その瞳の奥の光を見て、僕はようやく気づいた。
――助けてくれているんだ、と。
「あ、ああ! そうだった! すっかり忘れてたよ!」
「だろ?」
「う、うん。ありがとう、神宮寺君」
我ながら酷くぎこちない演技だ。
けれど神宮寺はそんな僕の芝居を完璧に受け止め、何事もなかったように男子たちへ向き直った。
「わり。こいつ、ちょっと急ぎなんで」
「あー、そうなの?」
「先生待たせると面倒だからさ」
「てか神宮寺、お前もこの後物理だろ?」
「そう。だから俺も急いでる」
「もう予鈴まで五分しかねーぞ」
「マジ?」
神宮寺がわざとらしく腕時計を見る。
「うわ、ほんとだ。時間ないな、行くぞ天野!」
「え、ちょっ――」
拒否権など最初から与えないような力加減で、神宮寺は僕の肩をしっかりと抱き寄せ、そのまま歩き出した。
「あ、じゃあな、天野!」
背後から、軽い調子の声が飛んでくる。
振り返る余裕なんて、今の僕にはない。
「……じゃ、じゃあ……」
消え入りそうな声で返事をするのが、やっとの思いだった。
それでも不思議と、さっきまで一人で歩くことがあれほど怖かった廊下が今は少しだけ違って見えていた。
多分、間違いなく肩に触れている神宮寺の手が、思っていた以上に熱くて、安心したからなのかもしれないと思いつつ、思わず笑ってしまった。
三時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、僕の脳内でも、別の意味で非常ベルが鳴り始めた。
(……来た)
「次、物理だろ? 早く行こうぜ」
「うわ、西棟じゃん。だるぅ……」
「その前に購買寄らね?」
クラスメイトたちは当然のように二人、三人と自然に集まり、楽しげに教室を出ていく。
窓際の一番後ろ、僕は開きっぱなしのノートを前に石像のように固まっていた。
(……物理室、西棟の三階だよね、確か)
つまり、この人口密集地帯をたった一人で完全アウェイのなか横断しなければならない。
(無理じゃない? 公開処刑じゃないか……)
そんな事を考えながら一人でポツンと歩く僕。
その横を楽しそうなグループが通り過ぎる。
もし知り合いと目が合ったら? 会釈すべき? それとも愛想笑いするべきなの?
考えるだけで、胃の腑がきゅうっと縮こまった。
「……よし」
待とう、みんなが移動しきり廊下が完全に空いてから出る。
長い高校生活で血と汗を流しながら培った、これが僕の必勝法なのだから。
――三分前までは。
「天野、次移動じゃね?」
「……っ」
突然名前を呼ばれ、跳ねるように肩が揺れてしまった。
一瞬驚いた顔をしながら顔を上げてしまった。
「あ……う、うん」
「行かないのか?」
「あー……今、片付けようと……」
「そっか。じゃ、お先に行くぞ?」
彼は友達に大声で呼ばれ、そのまま振り返ることもなく教室を出ていった。
「…………」
たった数秒の当たり障りのない会話だけで、今の僕のHPは確実に三割ほど削られていた。
しかも、完全にタイミングを逃した。
教室に残っているのは、まったりと談笑している数人だけだ。
この静まり返った空気の中で今から立ち上がれば、椅子を引く無駄に大きな音から誰もいない空間を扉まで歩く姿まで、すべてがクラス中の目に晒される。
(ああ……詰んだ)
いっそ物理をサボる案が一瞬本気で頭をかすめるが、鬼教師の恐ろしい顔を思い出して即座に却下する。
「……行くしかない、か」
意を決して、僕は立ち上がった。
——ガタッ。
(音でかっ……!)
誰も見ちゃいけあい、僕はただの空気、無機質な壁だ、この学校の古い備品……!
誰とも目を合わさないよう、床の木目だけを凝視して歩き出す。
「天野、消しゴム落ちたぞ」
「ふえっ!?」
あまりの予想外の言葉に、肩をびくっと跳ねさせて振り返る。
ふと、男子生徒の一人が僕の机の下を指さしていた。
「あ、ありがと……」
「おう」
慌てて戻って、転がっていた消しゴムを拾い上げる。
(備品じゃなかった! 完全に認知されちゃってる!なんで!?)
耳たぶまで真っ赤に熱くしながら、今度こそ逃げるように教室を脱出した。
――しかし、本当の地獄は教室の外、廊下に待っていた。
他クラスの生徒まで入り乱れ、廊下はそこら中で若者たちの活気ある声が飛び交っている。
僕は鞄を両手で白くなるほど強く握りしめ、できるだけ壁際スレスレを歩いた。
(うん、大丈夫……物理室の席まで行くだけ。誰とも話さなくていいんだから)
三メートル先の床のシミだけを見る。
順調だった。
西棟へ続く、あの渡り廊下の曲がり角に差し掛かるまでは。
「……うわ」
視界の端に飛び込んできた光景に、思わず足が止まる。
渡り廊下の入口を塞ぐように、他クラスの男子が四人程たむろしていたのだ。
シャツの裾をダラリと出し、大声でゲラゲラと笑う、いかにもスクールカースト上層の連中だ。
(なんでよりによって、そんなピンポイントな場所で溜まってんだよ!)
引き返すほうがかえって不自然だ。
なら、通り過ぎるしかない。
(透明人間。僕は今、誰にも見えない透明人間なんだ……)
ゆっくりと、自分が透明人間なんだと思いながら僕は足をゆっくりと動かした。
あと少しで、この関門を抜けられる――はずだった。
「あ、お前……」
「っ……!」
心臓が跳ね上がり、反射的に足がピタリと止まってしまった。
恐る恐る顔を上げると、グループの中心にいた男子が興味津々な顔で僕を見ていた。
「お前さ、二組の……天野、だっけ?」
「えっ」
なぜ、僕の名前を?
どうして知ってるの?
って言うか、誰ですか!?
「この前さ、委員会の時に――」
「あ、あの……っ」
頭の中が真っ白になる。
相手に悪意がない事くらい、分かっているつもりだ。
それでも突如として名前を呼ばれたというだけで、思考回路が完全にショートした。
「えっと……その……」
「ん?」
「その……僕、は……」
(何支離滅裂なこと言ってるんだ僕は……!)
男子が不思議そうに首を傾げる。
つられて、後ろにいた他の連中まで一斉にこちらを振り返った。
(増えた! 視線が増えたんだけどっ!)
大切な逃げ場もないのに、足が恐怖で動かない。
もう限界だ、ここでフリーズしてしまう。
そう覚悟をきめかけた、その時だった。
「――天野」
背後から、低く穏やかな声が降ってきた。
その声を聞いた途端、不思議な事にあれほど激しく暴れていた胸の騒めき、重さがすっと嘘のように和らいでいく。
そのまま右肩にふっと温かい重みが置かれたのだ。
「こんなところにいたのか、探したぞ?」
「神宮寺……君?」
そこに立っていたのは、神宮寺暁だった。
僕は何故かその時、神宮司の姿を見て安心感を覚えた。
多分、同じクラスメイトだからなのだろう。
神宮寺は怯える僕の顔をのぞき込み、余裕のある笑みを浮かべた。
「……お前、職員室寄れって先生に言われてただろ。忘れたのかよ」
「え?」
そんな話、僕は初耳だった。
「職員室……僕が?」
「……忘れたのか?」
「え、でも僕――」
「すっかり忘れてたんだな。ほら、行くぞ」
肩に置かれた手に、わずかに力がこもる。
その瞳の奥の光を見て、僕はようやく気づいた。
――助けてくれているんだ、と。
「あ、ああ! そうだった! すっかり忘れてたよ!」
「だろ?」
「う、うん。ありがとう、神宮寺君」
我ながら酷くぎこちない演技だ。
けれど神宮寺はそんな僕の芝居を完璧に受け止め、何事もなかったように男子たちへ向き直った。
「わり。こいつ、ちょっと急ぎなんで」
「あー、そうなの?」
「先生待たせると面倒だからさ」
「てか神宮寺、お前もこの後物理だろ?」
「そう。だから俺も急いでる」
「もう予鈴まで五分しかねーぞ」
「マジ?」
神宮寺がわざとらしく腕時計を見る。
「うわ、ほんとだ。時間ないな、行くぞ天野!」
「え、ちょっ――」
拒否権など最初から与えないような力加減で、神宮寺は僕の肩をしっかりと抱き寄せ、そのまま歩き出した。
「あ、じゃあな、天野!」
背後から、軽い調子の声が飛んでくる。
振り返る余裕なんて、今の僕にはない。
「……じゃ、じゃあ……」
消え入りそうな声で返事をするのが、やっとの思いだった。
それでも不思議と、さっきまで一人で歩くことがあれほど怖かった廊下が今は少しだけ違って見えていた。
多分、間違いなく肩に触れている神宮寺の手が、思っていた以上に熱くて、安心したからなのかもしれないと思いつつ、思わず笑ってしまった。



