やるべきことを知っているのと、実際にそれができるのとでは、天と地ほどの差がある。
たとえば――
腹が減ったら、食べる。
眠かったら、寝る。
試験があるなら、勉強する。
そして、好きな女の子ができたら――
……。
まあ。
そこからが問題なんだけど。
「水原、ちょっといい?」
その一言を、俺は今朝だけで二十回くらい練習した。
誇張じゃない。
二十回だ。
自分の部屋で。
トイレで。
駅へ向かう途中で。
しまいには自販機の前で小声で呟いていたら、通りかかったおばさんに「この子、大丈夫かしら」みたいな目で見られた。
そこまでして、ようやく本人の前まで来たというのに――
「あ、相沢くん!」
「え?」
水原美緒が、大学の売店の袋を両手に持って俺の前に現れた。
肩まで伸びた茶色の髪。
標準装備なんじゃないかと思うくらい自然な笑顔。
そして、初対面の相手とでも五年来の友達みたいに話せる、あの謎のコミュニケーション能力。
「ちょうど探してたんだ」
俺の脳が停止した。
俺を?
俺のことを探してた?
なんで?
まさか……。
「神崎先生がね、相沢くん、教室のパソコンにUSBメモリ挿しっぱなしだったって」
そう言って、美緒は小さな黒いUSBメモリを見せた。
「あ」
なるほど。
そっちか。
そりゃそうだよな。
「ありがとう」
「もうちょっと気をつけたほうがいいよ?」
「ああ」
「次から回収手数料もらうからね」
「いくら?」
美緒は顎に指を当て、真剣そうな顔で考えるふりをした。
「コーヒー一杯」
「それ、ただの恐喝じゃないか?」
「じゃあ物を失くさなければいいの」
「反論しづらい正論だな」
美緒が笑った。
俺も笑った。
そして――
今だった。
完璧なタイミング。
言えばいいだけだ。
水原、今度一緒に飯でも食わない?
それだけ。
たった一言。
結婚を申し込むわけじゃない。
一緒に国外逃亡しようと誘ってるわけでもない。
そもそも「デート」という単語すら使ってない。
ただ飯を食うだけだ。
同じ場所で二人の人間が食物を摂取する。
簡単だろ。
「じゃあ、私もう行くね。葵が待ってるから」
「あ、ああ」
「またね、相沢くん」
「またな」
美緒は軽く手を振り、そのまま歩いていった。
俺も同じように手を振った。
何も言わずに。
まただ。
ため息が出た。
「情けな」
後ろから声がした。
振り向くと、高橋蓮が廊下の柱にもたれ、缶コーヒーを片手に立っていた。
「いつからいた?」
「水原が来る前から」
「全部聞いてたのか?」
「残念ながらな」
俺は蓮のところまで歩いた。
「黙れ」
「二十秒」
「は?」
「誘える時間、だいたい二十秒はあった」
「USBメモリの話してたんだぞ」
「むしろ完璧な流れだったろ」
蓮は講義でも始めるみたいに片手を上げた。
「『持ってきてくれてありがとう。お礼に今度、飯でも奢らせてよ』」
俺は蓮を見る。
「それ……」
「ん?」
「それならいけたかもしれない」
「当たり前だろ」
「なんで先に言わなかった?」
「技術サポートなしでも普通の人間みたいに会話できると思ってたから」
俺は蓮の手から缶コーヒーを奪った。
「おい」
「コンサル料」
「返せ」
一口飲む。
「もう間接キスだから返しても衛生的にまずいな」
「お前、最低だな」
俺が美緒と話せないわけじゃない。
むしろ、それこそが問題だった。
普通なら話せる。
授業中も。
みんなでいる時も。
一緒に飯を食べてる時も。
LINEだって普通にできる。
でも、頭の中に一度でも――
水原に俺を好きになってほしい。
そんな考えが浮かんだ瞬間、全部が変わる。
一つ一つの言葉に裏の意味があるように思える。
少しの沈黙さえ失敗に感じる。
メッセージ一つ送るだけなのに、爆弾処理でもしてるみたいに何度も読み返してしまう。
蓮が俺の隣を歩きながら言った。
「普通に誘えばいいだろ」
「素晴らしいアドバイスだな」
「何世代もの人類がそれで成功してきた」
「断られたらどうする?」
「断られる」
「ありがとう。すごく楽になった」
「友達ってのはそういうもんだ」
缶コーヒーを返した。
蓮はそのまま一口飲んで――
止まった。
缶を見る。
それから俺を見る。
「……お前、汚ねえな」
「そっちが始めたんだろ」
そんなことを言いながら、俺たちは大学のメイン棟まで歩いた。
ちょうど昼休み。
キャンパスは人でいっぱいだった。
食堂に出入りする学生たち。
ベンチで話しているグループ。
怪しい宗教団体みたいな勢いで新入生を勧誘しているサークル。
そして突然、蓮が足を止めた。
「分かった」
その声のトーンが嫌だった。
「何が?」
「お前には女が必要だ」
「たぶん言いたいこと以上にヤバい意味に聞こえるぞ」
「女に教えてもらえばいい」
「まだヤバい」
「アドバイスだよ、アホ。女子からアドバイスをもらえ」
「誰に?」
蓮は周囲を見回し始めた。
「俺の姉貴とか」
「嫌だ」
「じゃあ従姉妹」
「嫌だ」
「だったら――」
「お前の一族、カタログでもあるのか?」
「助けてやろうとしてんだぞ」
そこで、蓮の視線が俺の後ろに止まった。
表情が変わる。
「あ」
「なんだよ?」
蓮が笑った。
こいつがこういう笑い方をする時は、ろくなことがない。
「完璧な人選を見つけた」
蓮の視線を追う。
そして、なぜ笑ったのか一瞬で理解した。
二十メートルほど先。
食堂の窓際に一人で座っていたのは、黒川玲奈だった。
遠目でもすぐ分かる。
長い黒髪。
真っ直ぐな姿勢。
明るい色のブラウスに、濃い色のカーディガン。
目の前には開いた本。
コーヒーを飲みながら静かにページを読んでいる。
黒川は、まともに話したことがなくても存在だけは知っている、そういうタイプの人間だった。
別に有名人というわけじゃない。
ここは大学であって、アイドル養成学校じゃない。
ただ、それでも黒川の名前はよく耳に入った。
特に、入学してからの数か月で、すでに何人もの男子が告白しているからだ。
そして全員――
振られた。
例外なく。
「無理」
蓮が瞬きをした。
「まだ作戦説明してないんだけど」
「黒川、怖い」
「偏見だぞ」
「先週、早見を真正面から目を見て振ったんだぞ」
「普通、人と話す時は目を見るだろ」
「『ごめんなさい。でもあなたに対して恋愛感情は本当に一切ありません』って言ったんだぞ」
「それを世間では誠実って言うんだ」
「あいつ、そのあと二日大学来なかったぞ」
蓮は肩をすくめた。
「早見の問題だろ」
俺はもう一度、黒川を見る。
彼女のことなら何度も見たことがある。
話したことも何度かあった。
大した内容じゃない。
授業について少し話したとか。
一度、先生が休講にしたかどうか聞かれたこともある。
あとはボールペンを貸したことが一回。
要するに、互いの存在は認識しているけど、それ以上踏み込む理由もない。
典型的な大学の同級生だ。
「だからこそ完璧なんだよ」
蓮が言う。
「説明しろ」
「あいつ、男を何人も振ってるだろ」
「だからって女の落とし方を知ってることにはならない」
「でも、男が失敗する理由は知ってる」
……。
認めたくない。
でも一応、筋は通っていた。
「それに黒川だぞ」
「説明になってない」
「女だ」
「素晴らしい観察力だな」
「しかもめちゃくちゃ美人」
「それが?」
「つまり、男の何が魅力的に見えて、何をすると警備員を呼びたくなるのか、たぶん分かってる」
もう一度、黒川を見る。
彼女は静かにページをめくっていた。
「聞いてこいよ」
「嫌だ」
「臆病者」
「慎重派だ」
「慎重な臆病者」
「自信満々の馬鹿よりはマシだろ」
蓮は俺の肩を叩いた。
「春人」
「なんだよ」
「選べ。あと三か月、水原を遠くから眺め続けるか。何か行動するか」
蓮を見る。
それから、美緒が消えていった方を見る。
三か月。
たぶん大げさでもない。
下手したら半年だ。
ため息をついた。
「公衆の面前で恥かかされたら、お前のアイデアだったって言うからな」
「そのリスクは受け入れよう」
「お前には何のリスクもないだろ」
「軍師としての評判が」
「最初からない」
「今のは傷ついた」
蓮を無視して歩き出す。
一歩近づくごとに、どんどん馬鹿なことをしている気がしてきた。
何て言えばいい?
こんにちは黒川。俺たちほとんど話したことないけど、彼女の作り方教えてくれない?
完璧だ。
完全に普通。
毎日どこかの大学で交わされてそうな会話だな。
ある程度近づくと、黒川が本から顔を上げた。
視線が合う。
俺は立ち止まった。
彼女が瞬きをする。
「相沢くん」
よし。
少なくとも名前は覚えてくれてた。
「黒川」
「何か用?」
直球だった。
そのほうが助かる。
「ああ」
黒川は本を閉じた。
なぜか、それだけで妙に緊張が増した。
「大事な頼みがある」
黒川の動きが止まった。
ほんの一瞬。
でも、俺は気づいた。
カップを持つ指に少し力が入った。
「……大事な?」
「ああ」
「そう」
なぜか声まで妙に真剣になった。
一度横を向き。
また俺を見る。
それに――
なんとなく、頬が少し赤くなったような気もした。
たぶん熱いコーヒーのせいだろう。
「言っていいよ」
息を吸う。
もう後戻りはできない。
「俺に彼女の作り方を教えてくれ」
沈黙。
黒川は反応しなかった。
きっかり三秒ほど。
それから――
「……は?」
「彼女を作る方法を教えてほしい」
「聞こえてる」
「じゃあ話は早いな」
「全然早くないんだけど」
黒川の目が少し見開かれる。
「なんで私にそんなこと頼むの?」
「経験があるから」
表情が変わった。
どう説明すればいいか分からない。
地雷を踏んだものの、まだ爆発していない人みたいな顔だ。
「経験?」
「男、結構振ってるだろ」
「それを恋愛経験とは言わないから」
「でも、なんで断ったかは分かるだろ」
「付き合いたくなかったからだけど」
「そう、それだよ」
「何が『それ』なの?」
「やっちゃダメなことを教えてくれる」
黒川は黙ったまま俺を見た。
少し離れたところでは、蓮が両手の親指を立てている。
本気で他人のふりをしようかと思った。
「嫌」
黒川が言った。
「嫌?」
「やらない」
そして再び本を開く。
会話終了。
速い。
そこは評価すべきかもしれない。
「金払う」
本が再び閉じた。
「……何?」
「大した額じゃないけど」
「問題はそこじゃない」
「じゃあ交渉の余地はあるな」
「相沢くん」
「昼飯奢る」
「別にそんなもの――」
「一か月」
沈黙。
黒川が俺を見る。
俺も見る。
「嫌」
「二か月」
「私が食べ物で買収できると思ってるの?」
「思ってない」
「ならいいけど」
「でも知識を一時的にレンタルすることはできると思ってる」
「ほとんど同じじゃない!」
周囲にいた何人かがこちらを振り向いた。
黒川はすぐに声を落とす。
「……なんでそんなに必死なの?」
ああ。
ついに来た。
一番説明しにくい部分。
俺は首の後ろを掻いた。
「好きな子がいるんだ」
黒川の目がわずかに変わった。
「……好きな子?」
「ああ」
「誰?」
「水原」
また一瞬、間が空いた。
さっきよりはずっと短い。
けれど今度は、黒川の表情が完全に無になった。
「水原美緒」
「ああ」
「経営学部の」
「そう」
「誰かは知ってる」
「そっか」
なぜか空気が少し冷えた気がした。
エアコンの設定温度でも下がったんだろうか。
黒川はコーヒーを持ち上げる。
一口飲んだ。
「いつから?」
「何が?」
「好きなの」
「分からない。しばらく前から?」
「ずいぶん役に立つ答えね」
「日付を設定する必要があるとは思ってなかった」
「で、何がしたいの?」
「誘いたい」
「じゃあ誘えば?」
「できない」
「今、私にそれよりずっと恥ずかしいこと頼みに来てるけど」
それは本当にそうだった。
「だから助けが必要なんだ」
黒川は片手で頬杖をついた。
俺を品定めするように眺めている。
あまり優しそうな目ではなかった。
「仮に引き受けるとして」
「うん」
「具体的に私に何をしてほしいの?」
「分からない」
「最高のスタートね」
「何着ればいいか教えてくれたり」
「……」
「どう話せばいいか」
「……」
「どう誘えばいいか」
黒川の眉がわずかに動く。
「何てメッセージ送ればいいか」
また動いた。
「デート中に何すればいいか」
「もう分かったから」
「で、もし最終的にキスするところまで――」
「分かったって言ってるでしょ!」
また周囲の視線が集まった。
黒川は片手で顔の一部を覆った。
「……信じられない」
「それ、イエス?」
「『信じられない』って意味」
「両立はするだろ」
指の隙間から睨まれた。
そして突然。
黒川はため息をついた。
本を完全に閉じる。
鞄の中へしまった。
「二か月」
俺は瞬きをした。
「え?」
「昼食。二か月分奢るって言ったよね」
「ああ」
「高い店とかはいらない」
「分かった」
「それから私に予定がある日は、あなたの恋愛問題のために予定を変えたりしない」
「了解」
「あと、もう一つ条件」
「何?」
黒川が少し身を乗り出した。
その表情は変わっていた。
もう照れてはいない。
今は妙に真剣で――
少し怖い。
「私が教えるなら、私の言うことに従って」
「全部?」
「この件に関すること全部」
「範囲広くない?」
「服装。会話。メッセージ。態度。全部」
「もしアドバイスが間違ってたら?」
「その時は別の先生を探せば?」
考える。
といっても、大して長くは考えなかった。
ここまで来たら引き返す理由もない。
俺は手を差し出した。
「契約成立だ」
黒川は俺の手を見る。
次に俺を見る。
「何してるの?」
「契約を成立させようとしてる」
「企業買収の契約じゃないんだけど」
「昼飯二か月分の話、撤回してもいいぞ」
即座に手を握られた。
「契約成立」
「ほら、分かり合えた」
思っていたより、黒川の手は温かかった。
先に手を離したのは黒川だった。
しかもかなり早かった。
「じゃあ」
耳に髪をかけながら、黒川が言う。
「今から始めるよ」
「今から?」
「何か他に用事ある?」
「昼飯食う」
「ちょうどいい。最初の一食ね」
「いきなり出費のペースが速すぎない?」
「いつ辞めてもいいけど」
「続けてください、先生」
黒川はスマホを取り出した。
メモアプリを開く。
なぜだろう。
すごく嫌な予感がした。
「まず、どれくらい重症か診断しないと」
「重症?」
「そう」
「女の子を一人誘いたいだけなんだけど」
「それを何か月できずにいるの?」
「……」
「でしょうね」
黒川の指が画面上を動き始める。
「恋愛経験」
「ゼロ」
何かを書き込む。
「元カノ」
「ゼロ」
また入力。
「告白したことは?」
「ない」
入力。
「デートは?」
「どこからをデートと定義するかによる」
黒川がゆっくり顔を上げた。
「じゃあゼロね」
「偏見じゃないか?」
「効率的な判断」
また書き込む。
俺は早くも全部後悔し始めていた。
やがて黒川はスマホをテーブルに置いた。
「よし」
「診断結果は?」
「末期」
「別の先生探してくる」
「座って」
座り直した。
黒川が小さく笑う。
ほんの一瞬だけ。
「基礎からやる必要があるね」
「どうぞ」
「第一問」
黒川はもう一度コーヒーを手に取った。
「どうして水原さんが好きなの?」
口を開く。
答えなんて決まっている。
だって――
優しいから。
可愛いから。
話していて楽しいから。
それから――
……。
黒川は待っている。
俺はまだ考えている。
「えっと……」
その視線が少し鋭くなった。
「うん?」
「それは……」
くそ。
自分では分かっているつもりだったことなのに。
どうしてこんなに答えるのが難しいんだ?
黒川はカップをテーブルに置いた。
そして、俺を手伝うことにしてから初めて。
本当に満足そうに笑った。
「なるほど」
「何が?」
「思ったより、やること多そうね」
こうして俺は、彼女を作るどころか――
大学で一番面倒そうな女に、
別の女を落とす方法を教えてもらうことになった。
今思えば。
この時点で何かがおかしくなると気づくべきだったんだ。

