昨夜のことだ。
俺は、居間のちゃぶ台の前に座る父の前に、一束の分厚い封筒を静かに置いた。
中に入っているのは、航空大学校の過去五年分の過去問と解答用紙。そして、もう一枚。俺が徹夜で書き上げた「資金計画書」だ。
「……なんだ、これは」
父が怪訝そうに眉を寄せる。
俺は正座をしたまま、真っ直ぐに父の目を見て言った。
「見てくれ。俺の『覚悟』だ」
父は無言で封筒を開け、書類を取り出した。
入学検定料、入学金、授業料、寮費。そして、卒業までにかかる総額。
その横には、奨学金の借入予定額と、早朝の新聞配達、休日の引越屋のアルバイトで稼げる見込み額が、事細かに計算されている。
赤字ギリギリだ。だが、不可能な数字ではない。
「御影の金には、一銭も手をつけん。保証人だけは頼みたいけど、金はすべて自分で工面する。卒業後の返済計画も、そこに書いてある通りだ」
父の目が、数字の羅列を追っていく。
静寂が痛い。古時計の振り子の音だけが、重苦しく響いている。
以前の俺なら、父の威圧感に耐えきれず、大声を上げて部屋を出ていただろう。だが、今は違う。
ちせが教えてくれた。「想い」だけでは届かないことがある。「形」にしなければ、伝わらないことがあるのだと。
長い沈黙の後、父が書類を机に置いた。
「……無茶な計画だ。学業と労働の両立など、並大抵のことではないぞ。体を壊せば元も子もない」
「やるさ。パイロットになるためなら、地べたを這いずり回るくらい、どうってことない」
俺は言い切った。
父が、ふっと息を吐く。その瞳から、いつもの険しい光が消え、どこか諦めたような、あるいは息子の成長を認めたような色が宿っていた。
「……航空大の倍率は知っているな。生半可な頭では受からんぞ」
「分かっとる。盆が明けたら、死ぬ気で勉強する」
父は腕を組み、天井を仰いだ。
そして、独り言のように呟いた。
「……夢を見るのは勝手だが、空を飛ぶには助走が必要だ。そのための滑走路は、自分で敷け」
それは、父なりの、精一杯の許しの言葉だった。
俺は深く頭を下げ、顔を上げて答えた。
「ああ。もう敷いてある」
父は何も言わず、ただ背を向けて茶を啜った。
その背中が、以前よりも少しだけ小さく、そして温かく見えた。
* * *
二学期が始まると、長崎の街には乾いた秋風が吹き始めた。
空は高く澄み渡り、いわし雲が港の上空をゆっくりと流れていく。
海星高校の教室には、いつもの喧騒が戻っていた。
だが、その風景は一学期とは少しだけ変わっていた。
「おい長与、ノート貸してくれよ」
「しょうがないわね。ちゃんと返しなさいよ、西田」
「サンキュー! やっぱ長与の字は読みやすかばい」
若菜の席には、自然と人が集まっていた。
夏の間、ちせが丁寧に紡いだ人間関係の糸は、若菜が戻ってきても切れることはなかった。
クラスメイトたちは、あの「清楚なお嬢様キャラ」を期待して話しかけてくるが、若菜はそれに迎合することはなかった。
「ごきげんよう? ……言うわけなかろ。私は長与若菜ばい」
若菜は頬杖をつき、ニヤリと笑ってみせる。
黒髪は、あの濡羽色のままだ。「二万円もしたんやから、元取らんとね」と本人は言っていたが、その横顔からは、以前のような刺々しい虚勢は消えていた。
借り物の「硝子の靴」を脱ぎ捨てて、裸足で立つことを選んだ彼女は、以前よりもずっと強く、美しく見えた。
「ちょっと。宮部」
昼休み、机に影が落ちた。
早瀬湊が、ノートパソコンを抱えて立っていた。いつも通りの無表情――のつもりらしいが、指先が落ち着いていない。
「こっちに来てくれん?」
引きずられるように廊下へ出た。人気のない階段の踊り場で、彼はパソコンを開いた。
画面には、六月の教室が映っていた。窓際で振り返る、黒髪の少女。
あの時の写真か。
「見ろ」
クリック音。瞳が拡大されていく。
澄んだ黒。虹彩に映り込む窓の景色。そして、瞳孔の奥。
何も、いなかった。
「……消えとるんよ」
「何が」
「何がじゃなくて。瞳に映り込んでた……お前も一緒に見ただろ」
早瀬の声が少し高い。
「おかしいと思わん? データは触ってない。バックアップも全部同じ。一学期の終わりに確認したときは、確かにいた。俺は三回見た。三回とも、いたのに」
彼は同じ画像を何度も拡大し、縮小し、また拡大した。
「ソフトの不具合でもない。別の端末でも同じ。……宮部、こういうことがある? 写真が、後から変わるなんて」
「湊」
「デジタルだぞ。フィルムじゃなかとに。データが勝手に――」
「みなと」
俺はパソコンの縁に手を置いて、画面を閉じさせた。
パタン、という乾いた音。
早瀬が顔を上げる。眼鏡の奥の目が、初めて子供みたいに揺れていた。
「それでよかとよ」
「……は?」
「消えたなら、それでよか。写っとったのが間違いやったんやなくて、消えたのが正しか。……それだけたい」
早瀬はしばらく俺を見ていた。
何か言いかけて、やめて、また言いかけて、結局こう言った。
「……納得できんけど」
「せんでよか」
「なんだよ、それ」
「せんでよかとよ」
俺は笑った。たぶん、あまりうまく笑えていなかったと思う。
早瀬は溜め息をついて、パソコンを小脇に抱えた。
「……お前、夏の間に性格変わったな」
「そうかもな」
階段を降りていく背中を見送りながら、俺はもう一度だけ、閉じた画面のことを考えた。
あの水底に、もう誰もいない。
教室に戻ると、若菜が西田にノートを貸してやっているところだった。
窓際で文庫本を読む月島明里が、ふと顔を上げて若菜を見つめ、満足そうに微かに口元を緩めるのを、俺は見ていた。
* * *
放課後。
俺たちは並んで、東小島の坂道を登っていた。
部活を引退した三年生が去り、少し静かになった通学路を、靴底が叩く音が響く。
「ねえ、慶祐」
御影神社の鳥居の前で、若菜が足を止めた。
彼女は、眼下に広がる長崎の街並みを見下ろしながら、ポツリと言った。
「私さ、全部覚えとるよ」
「……え?」
「夏のこと。ちせちゃんの気持ちも、あんたの言葉も。……キスしたことも」
若菜は耳まで真っ赤にして、俺を睨んだ。
「あんた、あの子には随分と優しかったもんねぇ。私には『ガサツ』とか言うくせに」
「そ、それは……」
「あのさ」
若菜が、俺の言葉を遮った。
「ひとつだけ聞いてよか?」
「……おう」
「あんたが優しかったんは、あの子やったけん?」
風が止んだ気がした。
「黒髪で、丁寧な言葉遣いで、ごきげんようって笑う子。あんたの理想やろ。……私が私に戻っても、あんた、同じように思えると?」
若菜はこちらを見ていなかった。鳥居の柱に指を這わせて、街を見下ろしている。
逃げ道はいくらでもあった。当たり前やろ、と笑い飛ばせばよかった。
でも、こいつは三ヶ月、水底から全部見ていたのだ。取り繕った言葉が通る相手じゃない。
「戻って……よかった」
「え?」
「あの子は、お前の顔で、お前の声で、俺に優しくした。……そこは認める。俺は確かに落ちた」
若菜の指が止まった。
「けど、俺が三年間ずっと引っかかっとったんは、あの子やなか」
「……」
「東京に行く前の晩、お守り押し付けて、翌朝見送りにも行けんかった相手たい。三年間、一回も返信できんかった相手たい。……好きやけん、会いに行けんかったとよ」
言ってしまってから、耳が熱くなった。
長い沈黙があった。
蝉はもう鳴いていない。坂の下から、路面電車の音が遠く聞こえた。
「……そう」
若菜が、それだけ言った。
「なんか言えよ」
「言わん」
「は?」
「同じやけん」
こちらを見ないまま、若菜は言った。
彼女は胸元に手を当てた。そこは、ちせがよく手を当てていた場所だ。
「でもね、不思議やね。ずっと自分のことが嫌いやったのに、今は、この街も、自分自身のことも、少しだけ好きになれた気がする。……あの子が、私の代わりに愛してくれたからかな」
俺は何も言わず、ただ海を見下ろした。
ちせという「転校生」はもういない。
けれど、彼女が残した「自尊心」や「愛された記憶」は、若菜の中で確かに生き続けている。
「……ねえ、慶祐。あともう一個、白状してよか?」
若菜が、少し躊躇いがちに口を開いた。
「私がこっちに戻ってきた理由。……親の都合って言っとったやろ」
「うん」
「ほんとはね、私、逃げてきたんよ。東京の学校にも、自分を作ることにも疲れてしまって……『帰りたい』って、親に泣きついたんよ」
彼女は自嘲気味に笑った。
「ダサいやろ? あんたはこれから広い空へ飛び立とうとしとるのに、私は尻尾巻いて逃げ帰ってきた負け犬たい」
「……そんなことないやろ」
俺は首を振った。
「逃げる場所があるなら、逃げればいい。……それに、お前が帰ってきてくれんかったら、俺は一生、地面を見たまま腐っとったかもしれん」
「慶祐……」
「お前が戻ってきたけん、鏡が見つかった。ちせに会えた。……そして、俺は空を目指すことができた。お前が帰ってきたことは、間違いなんかじゃなか」
俺の言葉に、若菜は驚いたように目を見開き、やがて目尻に涙を浮かべて、心からの笑顔を見せた。
「……そっか。うん、そうやね」
彼女は涙を指で拭い、顔を上げた。
「私も、帰ってきてよかった。……あんたに、もう一回会えたけん」
その言葉は、ちせの面影を借りない、紛れもない長与若菜自身の言葉だった。
「……なあ、若菜」
「ん?」
「俺、やっぱり宮崎に行くことにしたけん」
若菜が目を見開く。
一瞬だけ、その表情が悲しく揺れたのを俺は見逃さなかった。
だが、彼女はすぐに唇を噛んで笑顔を作り、力強く頷いた。
「……そう。本気なんやね。パイロット、諦めんのね」
「ああ。俺は、もっと広い世界を見てみたい。この坂の上から見上げるだけじゃなくて、あの青空のその先へ、自分の翼で行ってみたいんよ」
俺は鞄の重みを感じながら答えた。
鞄の中には、昨日父に叩きつけた書類の束と、採用通知が入っている。
昨夜の父の言葉は、事実上の「黙認」だった。
俺が全身全霊で挑んだからこそ、父も一人の男として向き合ってくれた。
「ふうん。……ま、あんたなら飛べるっちゃない?」
若菜は悪戯っぽく笑うと、俺の鞄を指差した。
そこには、泥汚れを洗って綺麗になった、フェルトのお守りがぶら下がっている。
「そのお守り、効果あるといいね」
「おう。こいつは、俺にとっては最強の『翼』やけんな」
俺が言うと、若菜はまた耳を真っ赤にして、「……うるさい!」と俺の背中をバシッと叩いた。
痛い。でも、その痛みこそが、今ここに彼女がいる証だ。
* * *
石段を登り始めたところで、若菜が横をすり抜けていった。
「私、先に、行っとく」
「おい、何段あると思っとると」
「三百段やろ。知っとる」
浴衣ではなく制服の裾を翻して、あいつは二段飛ばしで登っていく。夏の間、この石段を毎日登っていたのは、あいつの体だ。
俺は途中で足を止めた。
ポケットから、鏡の枠を取り出す。
ガラスはあの夜、粉々に砕けて消えた。残ったのは、螺鈿細工のフレームだけだ。俺は紫陽花の模様を、指の腹で撫でた。
「……行って来るけん」
誰にともなく呟いた。
秋の風が楠の木々を揺らした。
ざわざわ、という音の中に、懐かしい鈴の音が混じった気がして、俺は空を見上げた。
高く、青い空。
そこにはもう、幻の少女の姿はない。
けれど、俺は知っている。
彼女は消えたのではなく、この石段の上、あの雲を抜けた先、透き通るような青の一部になったのだと。
石段の途中、木々のすき間から長崎の街と海が視えた。
眼下に広がる街並み。その向こうには、どこまでも続く水平線。
ここが終着点ではない。
ここが、俺の滑走路。
風が吹いた。
海から駆け上がり、坂道を吹き抜け、俺の体を包み込んで空へと舞い上がっていく風。
「慶祐!」
顔を上げると、最上段に若菜が立っていた。
逆光で表情は見えない。ただ、こちらへ向かって大きく手を振っている。
「早う来んね! こっちのほうが、よう見えるけん!」
三年前、この石段の下で、俺はあいつを見送れなかった。
今は、上から呼ばれている。
「……今行く」
俺は枠をポケットに戻し、石段を駆け上がった。
―― 了 ――
俺は、居間のちゃぶ台の前に座る父の前に、一束の分厚い封筒を静かに置いた。
中に入っているのは、航空大学校の過去五年分の過去問と解答用紙。そして、もう一枚。俺が徹夜で書き上げた「資金計画書」だ。
「……なんだ、これは」
父が怪訝そうに眉を寄せる。
俺は正座をしたまま、真っ直ぐに父の目を見て言った。
「見てくれ。俺の『覚悟』だ」
父は無言で封筒を開け、書類を取り出した。
入学検定料、入学金、授業料、寮費。そして、卒業までにかかる総額。
その横には、奨学金の借入予定額と、早朝の新聞配達、休日の引越屋のアルバイトで稼げる見込み額が、事細かに計算されている。
赤字ギリギリだ。だが、不可能な数字ではない。
「御影の金には、一銭も手をつけん。保証人だけは頼みたいけど、金はすべて自分で工面する。卒業後の返済計画も、そこに書いてある通りだ」
父の目が、数字の羅列を追っていく。
静寂が痛い。古時計の振り子の音だけが、重苦しく響いている。
以前の俺なら、父の威圧感に耐えきれず、大声を上げて部屋を出ていただろう。だが、今は違う。
ちせが教えてくれた。「想い」だけでは届かないことがある。「形」にしなければ、伝わらないことがあるのだと。
長い沈黙の後、父が書類を机に置いた。
「……無茶な計画だ。学業と労働の両立など、並大抵のことではないぞ。体を壊せば元も子もない」
「やるさ。パイロットになるためなら、地べたを這いずり回るくらい、どうってことない」
俺は言い切った。
父が、ふっと息を吐く。その瞳から、いつもの険しい光が消え、どこか諦めたような、あるいは息子の成長を認めたような色が宿っていた。
「……航空大の倍率は知っているな。生半可な頭では受からんぞ」
「分かっとる。盆が明けたら、死ぬ気で勉強する」
父は腕を組み、天井を仰いだ。
そして、独り言のように呟いた。
「……夢を見るのは勝手だが、空を飛ぶには助走が必要だ。そのための滑走路は、自分で敷け」
それは、父なりの、精一杯の許しの言葉だった。
俺は深く頭を下げ、顔を上げて答えた。
「ああ。もう敷いてある」
父は何も言わず、ただ背を向けて茶を啜った。
その背中が、以前よりも少しだけ小さく、そして温かく見えた。
* * *
二学期が始まると、長崎の街には乾いた秋風が吹き始めた。
空は高く澄み渡り、いわし雲が港の上空をゆっくりと流れていく。
海星高校の教室には、いつもの喧騒が戻っていた。
だが、その風景は一学期とは少しだけ変わっていた。
「おい長与、ノート貸してくれよ」
「しょうがないわね。ちゃんと返しなさいよ、西田」
「サンキュー! やっぱ長与の字は読みやすかばい」
若菜の席には、自然と人が集まっていた。
夏の間、ちせが丁寧に紡いだ人間関係の糸は、若菜が戻ってきても切れることはなかった。
クラスメイトたちは、あの「清楚なお嬢様キャラ」を期待して話しかけてくるが、若菜はそれに迎合することはなかった。
「ごきげんよう? ……言うわけなかろ。私は長与若菜ばい」
若菜は頬杖をつき、ニヤリと笑ってみせる。
黒髪は、あの濡羽色のままだ。「二万円もしたんやから、元取らんとね」と本人は言っていたが、その横顔からは、以前のような刺々しい虚勢は消えていた。
借り物の「硝子の靴」を脱ぎ捨てて、裸足で立つことを選んだ彼女は、以前よりもずっと強く、美しく見えた。
「ちょっと。宮部」
昼休み、机に影が落ちた。
早瀬湊が、ノートパソコンを抱えて立っていた。いつも通りの無表情――のつもりらしいが、指先が落ち着いていない。
「こっちに来てくれん?」
引きずられるように廊下へ出た。人気のない階段の踊り場で、彼はパソコンを開いた。
画面には、六月の教室が映っていた。窓際で振り返る、黒髪の少女。
あの時の写真か。
「見ろ」
クリック音。瞳が拡大されていく。
澄んだ黒。虹彩に映り込む窓の景色。そして、瞳孔の奥。
何も、いなかった。
「……消えとるんよ」
「何が」
「何がじゃなくて。瞳に映り込んでた……お前も一緒に見ただろ」
早瀬の声が少し高い。
「おかしいと思わん? データは触ってない。バックアップも全部同じ。一学期の終わりに確認したときは、確かにいた。俺は三回見た。三回とも、いたのに」
彼は同じ画像を何度も拡大し、縮小し、また拡大した。
「ソフトの不具合でもない。別の端末でも同じ。……宮部、こういうことがある? 写真が、後から変わるなんて」
「湊」
「デジタルだぞ。フィルムじゃなかとに。データが勝手に――」
「みなと」
俺はパソコンの縁に手を置いて、画面を閉じさせた。
パタン、という乾いた音。
早瀬が顔を上げる。眼鏡の奥の目が、初めて子供みたいに揺れていた。
「それでよかとよ」
「……は?」
「消えたなら、それでよか。写っとったのが間違いやったんやなくて、消えたのが正しか。……それだけたい」
早瀬はしばらく俺を見ていた。
何か言いかけて、やめて、また言いかけて、結局こう言った。
「……納得できんけど」
「せんでよか」
「なんだよ、それ」
「せんでよかとよ」
俺は笑った。たぶん、あまりうまく笑えていなかったと思う。
早瀬は溜め息をついて、パソコンを小脇に抱えた。
「……お前、夏の間に性格変わったな」
「そうかもな」
階段を降りていく背中を見送りながら、俺はもう一度だけ、閉じた画面のことを考えた。
あの水底に、もう誰もいない。
教室に戻ると、若菜が西田にノートを貸してやっているところだった。
窓際で文庫本を読む月島明里が、ふと顔を上げて若菜を見つめ、満足そうに微かに口元を緩めるのを、俺は見ていた。
* * *
放課後。
俺たちは並んで、東小島の坂道を登っていた。
部活を引退した三年生が去り、少し静かになった通学路を、靴底が叩く音が響く。
「ねえ、慶祐」
御影神社の鳥居の前で、若菜が足を止めた。
彼女は、眼下に広がる長崎の街並みを見下ろしながら、ポツリと言った。
「私さ、全部覚えとるよ」
「……え?」
「夏のこと。ちせちゃんの気持ちも、あんたの言葉も。……キスしたことも」
若菜は耳まで真っ赤にして、俺を睨んだ。
「あんた、あの子には随分と優しかったもんねぇ。私には『ガサツ』とか言うくせに」
「そ、それは……」
「あのさ」
若菜が、俺の言葉を遮った。
「ひとつだけ聞いてよか?」
「……おう」
「あんたが優しかったんは、あの子やったけん?」
風が止んだ気がした。
「黒髪で、丁寧な言葉遣いで、ごきげんようって笑う子。あんたの理想やろ。……私が私に戻っても、あんた、同じように思えると?」
若菜はこちらを見ていなかった。鳥居の柱に指を這わせて、街を見下ろしている。
逃げ道はいくらでもあった。当たり前やろ、と笑い飛ばせばよかった。
でも、こいつは三ヶ月、水底から全部見ていたのだ。取り繕った言葉が通る相手じゃない。
「戻って……よかった」
「え?」
「あの子は、お前の顔で、お前の声で、俺に優しくした。……そこは認める。俺は確かに落ちた」
若菜の指が止まった。
「けど、俺が三年間ずっと引っかかっとったんは、あの子やなか」
「……」
「東京に行く前の晩、お守り押し付けて、翌朝見送りにも行けんかった相手たい。三年間、一回も返信できんかった相手たい。……好きやけん、会いに行けんかったとよ」
言ってしまってから、耳が熱くなった。
長い沈黙があった。
蝉はもう鳴いていない。坂の下から、路面電車の音が遠く聞こえた。
「……そう」
若菜が、それだけ言った。
「なんか言えよ」
「言わん」
「は?」
「同じやけん」
こちらを見ないまま、若菜は言った。
彼女は胸元に手を当てた。そこは、ちせがよく手を当てていた場所だ。
「でもね、不思議やね。ずっと自分のことが嫌いやったのに、今は、この街も、自分自身のことも、少しだけ好きになれた気がする。……あの子が、私の代わりに愛してくれたからかな」
俺は何も言わず、ただ海を見下ろした。
ちせという「転校生」はもういない。
けれど、彼女が残した「自尊心」や「愛された記憶」は、若菜の中で確かに生き続けている。
「……ねえ、慶祐。あともう一個、白状してよか?」
若菜が、少し躊躇いがちに口を開いた。
「私がこっちに戻ってきた理由。……親の都合って言っとったやろ」
「うん」
「ほんとはね、私、逃げてきたんよ。東京の学校にも、自分を作ることにも疲れてしまって……『帰りたい』って、親に泣きついたんよ」
彼女は自嘲気味に笑った。
「ダサいやろ? あんたはこれから広い空へ飛び立とうとしとるのに、私は尻尾巻いて逃げ帰ってきた負け犬たい」
「……そんなことないやろ」
俺は首を振った。
「逃げる場所があるなら、逃げればいい。……それに、お前が帰ってきてくれんかったら、俺は一生、地面を見たまま腐っとったかもしれん」
「慶祐……」
「お前が戻ってきたけん、鏡が見つかった。ちせに会えた。……そして、俺は空を目指すことができた。お前が帰ってきたことは、間違いなんかじゃなか」
俺の言葉に、若菜は驚いたように目を見開き、やがて目尻に涙を浮かべて、心からの笑顔を見せた。
「……そっか。うん、そうやね」
彼女は涙を指で拭い、顔を上げた。
「私も、帰ってきてよかった。……あんたに、もう一回会えたけん」
その言葉は、ちせの面影を借りない、紛れもない長与若菜自身の言葉だった。
「……なあ、若菜」
「ん?」
「俺、やっぱり宮崎に行くことにしたけん」
若菜が目を見開く。
一瞬だけ、その表情が悲しく揺れたのを俺は見逃さなかった。
だが、彼女はすぐに唇を噛んで笑顔を作り、力強く頷いた。
「……そう。本気なんやね。パイロット、諦めんのね」
「ああ。俺は、もっと広い世界を見てみたい。この坂の上から見上げるだけじゃなくて、あの青空のその先へ、自分の翼で行ってみたいんよ」
俺は鞄の重みを感じながら答えた。
鞄の中には、昨日父に叩きつけた書類の束と、採用通知が入っている。
昨夜の父の言葉は、事実上の「黙認」だった。
俺が全身全霊で挑んだからこそ、父も一人の男として向き合ってくれた。
「ふうん。……ま、あんたなら飛べるっちゃない?」
若菜は悪戯っぽく笑うと、俺の鞄を指差した。
そこには、泥汚れを洗って綺麗になった、フェルトのお守りがぶら下がっている。
「そのお守り、効果あるといいね」
「おう。こいつは、俺にとっては最強の『翼』やけんな」
俺が言うと、若菜はまた耳を真っ赤にして、「……うるさい!」と俺の背中をバシッと叩いた。
痛い。でも、その痛みこそが、今ここに彼女がいる証だ。
* * *
石段を登り始めたところで、若菜が横をすり抜けていった。
「私、先に、行っとく」
「おい、何段あると思っとると」
「三百段やろ。知っとる」
浴衣ではなく制服の裾を翻して、あいつは二段飛ばしで登っていく。夏の間、この石段を毎日登っていたのは、あいつの体だ。
俺は途中で足を止めた。
ポケットから、鏡の枠を取り出す。
ガラスはあの夜、粉々に砕けて消えた。残ったのは、螺鈿細工のフレームだけだ。俺は紫陽花の模様を、指の腹で撫でた。
「……行って来るけん」
誰にともなく呟いた。
秋の風が楠の木々を揺らした。
ざわざわ、という音の中に、懐かしい鈴の音が混じった気がして、俺は空を見上げた。
高く、青い空。
そこにはもう、幻の少女の姿はない。
けれど、俺は知っている。
彼女は消えたのではなく、この石段の上、あの雲を抜けた先、透き通るような青の一部になったのだと。
石段の途中、木々のすき間から長崎の街と海が視えた。
眼下に広がる街並み。その向こうには、どこまでも続く水平線。
ここが終着点ではない。
ここが、俺の滑走路。
風が吹いた。
海から駆け上がり、坂道を吹き抜け、俺の体を包み込んで空へと舞い上がっていく風。
「慶祐!」
顔を上げると、最上段に若菜が立っていた。
逆光で表情は見えない。ただ、こちらへ向かって大きく手を振っている。
「早う来んね! こっちのほうが、よう見えるけん!」
三年前、この石段の下で、俺はあいつを見送れなかった。
今は、上から呼ばれている。
「……今行く」
俺は枠をポケットに戻し、石段を駆け上がった。
―― 了 ――


