三百段の石段を登りきり、鳥居をくぐると、そこは別世界のように静かだった。
下界の喧騒は、遠い波音のように微かに響くだけだ。
境内の木々が、夜風にざわざわと揺れている。
「……ふぅ、ふぅ……」
ちせは、拝殿の前の石段に力なく腰を下ろした。
俺はその隣に座り、彼女の肩を抱いた。
着崩れた浴衣。乱れた黒髪。
月明かりに照らされた彼女の体は、やはり輪郭が滲んできているように見えた。
「慶祐さま……。楽しゅうございました」
ちせが、虚空を見つめながら呟く。
その視線は、眼下の街ではなく、もっと遠い場所――彼女が生きていた百年前の空を見ているようだった。
「電車に乗ったことも。美容室で髪を梳いていただいたことも。……貴方様と、こうして並んで歩いたことも。すべて、夢のようでございました」
戻っている、と思った。
この一月で、こいつの言葉からは角が取れていた。
ございます、が減って、俺と同じ言葉が混ざるようになっていた。
それが全部、元通りになっている。
明治の女が、そこにいた。
「夢じゃない」
俺は、震える声で否定した。
「全部、現実だ。お前はここにいた。俺と一緒に生きていたんだ」
「……はい」
ちせは嬉しそうに微笑んで小さく続けた。
「慶祐さま」
ちせが、自分の胸元に手を当てた。
そこには、俺たちの鼓動とは違う、もう一つの鼓動がある。
「あの子が……若菜さまが、泣いておられます」
静かな声だった。
「ずっと、見ておられたのです。私が貴方様と過ごした時間を。私が貴方様に惹かれていく様を。……一番近くで、一番残酷な場所で」
俺は息を呑んだ。
自分の体を使って、俺が別の誰かを愛おしむ様子を、指一本動かせない暗闇の中で見せつけられていたのだ。
ちせは目を閉じ、自身の胸を強く抱きしめた。
「慶祐さま……あの子の涙が、聞こえますか? 痛いほどに……伝わってくるのです。悔しさも、悲しみも。そして、あの子の貴方様への想いが。……私と同じ、熱さが」
ちせの目から、一筋の涙が零れた。
それはちせの涙であり、若菜の涙でもあった。
言葉は要らなかった。
ちせが胸を強く押さえる。
その瞬間、彼女の表情がふっと和らいだ。
嫉妬が、羨望が、そして諦めが――透明な共感へと昇華されていくのが、俺にも伝わってきた。
「……慶祐さま」
ちせが顔を上げた。
「最後にお二人には、お伝えしなければならないことがございます」
「え?」
「私は、貴方様や若菜さまをお救いするために参ったのではございません」
彼女は俺の手を握り返すこともせず、自分の膝の上で拳を握りしめた。
その顔には、罪悪感と、それ以上の切実な渇望が浮かんでいた。
「利用したのは、私の方なのです」
「利用……?」
「はい。鏡の中の暗闇で、私はずっと耳を塞いでおりました。でも、聞こえてしまったのです。『ここから逃げ出したい』という貴方様の声と、『変わりたい』という若菜さまの悲鳴が」
ちせは、懺悔するように告げた。
「私はその声に、付け込みました。この孤独な暗闇から連れ出してくれるなら、誰でもよかった。……ただ、誰かに見つけてほしかった。私の名前を呼んで、私という存在を愛してほしかったのです」
彼女の瞳から、涙が溢れ出した。百年もの間、誰にも触れられずに凍えていた、一人の少女のエゴイズムと弱さが凝縮された涙だった。
「申し訳ございません……。私は、自分のために貴方様を利用しました」
その告白を聞いて、俺は呆然とするどころか、胸の奥が熱くなるのを感じた。
ああ、そうか。
こいつも、俺と同じだったんだ。
俺が「御影」という家から逃げるためにパイロットを目指したように、彼女もまた「鏡」という牢獄から逃げるために、俺たちを利用した。
「……いいさ」
俺は彼女の涙を指で拭った。
「俺だって、お前を利用した。退屈な日常を壊してくれる『非日常』として、お前に縋っていたんだ。……お互い様だろ」
「慶祐さま……」
「誰でもよかった、か。……まあ、ちょっと悔しいけどな」
俺が苦笑すると、ちせは慌てて首を振った。
「違うのです」
「違うって、今そう言うたやろ」
「最初は、そうでした」
彼女は、自分の左の二の腕に触れた。
「けれど、あの朝。敷居をまたげずにいた私に、貴方様は『誰もお前を叱らん世界の話ばしとる』と仰いました」
「……そんなん、覚えとるとか」
「一言一句」
ちせは、少しだけ笑った。
「リボンの結び方をご存じないくせに、三度も結び直してくださいました。ハトシを一つ買うのに、私が泣くまで待ってくださいました。空に道ができていると申し上げたら、笑わずに、一緒に見上げてくださいました」
一つ一つ、指を折るように数えていく。
「どれも、誰にでもできることでございましょう」
「……ああ」
「ですが、なさったのは貴方様だけです」
息が、止まった。
「百年、待ちました。誰でもよかったのです。本当に、誰でもよかった」
濡れた瞳が、真っ直ぐに俺を見た。
「けれど今は、貴方様でなければ嫌でございます」
――ずるい。
俺はそのとき、なぜだか、この娘の中で眠っている女の口癖を思い出していた。
「……こっちも同じたい」
声が掠れた。
「最初は、なんでもよかった。この街から出られるなら、誰と一緒でもよかった。……今は違う。俺は、お前と行きたかった」
過去形になったことに、言ってから気づいた。
ちせは何も言わず、花が綻ぶように破顔した。
「では、私たちは同じ罪を犯したのですね」
「そうたい。……ひどい二人組ぞ」
俺たちは、どちらからともなく微笑み合った。
罪を共有した人間同士の、安らぎに満ちた笑顔だった。
「慶祐さま」
ちせが袖の中から何かを取り出した。
それは、今朝、俺が彼女に買ってやった「線香花火」の小袋だった。
「最後に一つだけ、お願いがございます。花火……してみとうございます」
俺は鼻の奥がツンとするのを感じながら、小袋からマッチを取り出した。
二本の線香花火。
俺とちせは、それぞれの先端を突き合わせ、小さな火を灯した。
シュッ……。
小さな火球ができ、パチ、パチパチ、と繊細な火花が散り始める。
松葉のように広がる光の粒子が、俺たちの顔を淡い橙色に照らし出した。
「綺麗……」
ちせが吐息をもらす。
その瞳の中に、小さな火花が映っている。
派手な打ち上げ花火でもなく、騒がしい爆竹でもない。
今にも消えてしまいそうな、小さな、小さな光。
「慶祐さま」
「……ん」
「私、幸せでございました。病で伏せっていたあの頃、鏡の中でずっと願っておりました。いつか、誰かとこうして、笑い合える日が来ればいいと」
パチパチ、と火花が勢いを増す。
「その願いを叶えてくださったのが、貴方様でよかった」
――ピキッ。
俺のポケットの中で、硬質な音が響いた。
手鏡だ。
限界が来たのだ。
「ちせ……」
「お別れです」
ちせの持つ線香花火の火玉が、ぽとり、と地面に落ちた。
同時に、彼女の体が支えを失って俺の方へ傾いた。
俺は慌てて彼女を支える。
その体は、もう重さを感じないほど軽かった。
「慶祐さま……」
ちせの顔が近づく。
闇に慣れた目が、月光に揺れる彼女の潤んだ瞳を捉えた。
次の瞬間、樟脳の香りが鼻腔をくすぐり――柔らかい感触が、俺の唇に触れた。
それは、枝から落ちる椿の花を受け止めるような、ほんの一瞬の口づけだった。
震える吐息。
名残惜しむような温もり。
百年という途方もない時間を超えて、今、俺たちの時間は確かに重なっていた。
唇が、ゆっくりと離れる。
彼女は、俺の耳元に顔を寄せ、最期の力を振り絞って囁いた。
「私の百年の恋は、今日、叶いました。……この体は、彼女にお返しします」
「っ……!」
「どうか、若菜さまを……大切になさってください。彼女もまた、貴方様を……」
言葉は、そこで途切れた。
* * *
そこは、まだ冷たい水の底だった。
三ヶ月。
私はこの底で、返してと叫び続けていた。
朝、私の手が私の髪を結う。私の足が石段を降りる。私の口が、私なら死んでも言わない言葉を、綺麗な発音で紡いでいく。
そして慶祐が、その全部に笑いかける。
私が三年かけても引き出せなかった顔だった。
何度も叫んだ。返して、と。それは私の顔で、私の声で、私が好きになった男だ、と。
叫んでも、水は震えもしなかった。
不思議なもので、人は憎しみだけでは三ヶ月ももたない。
ある夜、あの子は私の髪を撫でながら泣いていた。誰も見ていないと思ったのだろう。「申し訳ございません」と、暗い部屋で何度も繰り返していた。
ある朝、祖母ちゃんが味噌汁をこぼして手を火傷したとき、あの子は自分の袂を裂いて巻いた。私なら、たぶん救急箱を探しに走って、間に合わなかった。
そして、あの雨の坂道で。
慶祐が泥の中から私のお守りを拾い上げたとき、あの子は何も言わなかった。言えばよかったのに。「これは若菜さまのお気持ちです」と、一言そう言えば、私の三年間は報われたのに。
あの子は黙って、悲しい顔をしていた。
たぶん、あれは私の代わりに悔しがっていたのだと思う。
そして、さっき。
私の唇に、慶祐の唇が触れた。
これは、たぶん一生誰にも言えない。
感触があったのだ。あの子の感覚を通してではなく、私自身の皮膚として。柔らかくて、少し乾いていて、樟脳の匂いのすぐ向こうに、慶祐の匂いがした。
三年間、想像したことがなかったと言えば嘘になる。何度も想像して、そのたびに馬鹿らしくなってやめた。
それが、こんな形で。
私のものではない口づけを、私の唇で受け取った。
嬉しかった。
嬉しいと思ってしまった自分が、心底、みじめだった。
――ずるい。
本当に、この娘はずるい。
憎ませてくれないところが、いちばんずるい。
水が、明るくなった。
上のほうから、光が差し込んでくる。松葉のような、細かくて頼りない光の粒。
水面が近づいている。
三ヶ月ぶりに、私の体が私を思い出そうとしているのが分かった。
その光の中に、少女が立っていた。
白い着物。結い上げた黒髪。私の顔ではない、その子自身の顔で。
私たちは初めて、向かい合った。
「若菜さま」
「……その呼び方、やめて」
自分の声が出たことに、私のほうが驚いた。
「あんたに『若菜さま』って呼ばれると、私が私じゃなくなるみたいで、嫌やけん」
「……では、若菜さん」
「それも変」
ちせは困ったように眉を下げた。
その言い方も、戻っていた。
私は三ヶ月、この娘の言葉が崩れていくのを聞いていた。
ございます、が減って、慶祐と同じ喋り方が混ざるようになって、七月の終わりには「だめ」なんて言うようになった。
嬉しそうだった。自分でも気づいていなかったと思う。
それが今、一つ残らず元通りになっている。
帰る支度だ、と思った。
「あんた、ずるかね」
「はい」
「私の体で、私の幼馴染と、勝手に恋しとった」
「はい」
「謝らんと?」
ちせは一度だけ、まっすぐに私を見た。
「謝れば、お許しくださいますか」
「許さん」
「では、謝りません」
思わず、笑ってしまった。
こんな状況で、こんなときに、笑うなんて。
「……あんた、ほんと、いい性格しとる」
「若菜さんに似てまいりました」
「うるさか」
光がさらに強くなる。
ちせの輪郭が、端のほうから少しずつ薄くなり始めていた。
「若菜さん」
「なん」
「一つ、伺ってもよろしゅうございますか」
私は身構えた。この三ヶ月、私の中身を全部覗いていた相手に、今さら聞かれることなんてあるだろうか。
「なぜ、長崎へお戻りになったのですか」
図星だった。
覗かれていたのは、たぶん行動だけだったのだ。理由までは見えていなかった。
「……向こうで、うまくいかんかったけん」
「それだけですか」
「それだけ」
「嘘でございますね」
薄くなっていく手で、ちせは自分の胸を押さえた。
「私はこの三ヶ月、貴女の痛みをずっと預かっておりました。あれは、失敗した人間の痛みではございません。もっと簡単で、もっと素直な痛みです」
私は何も言えなかった。
言えないでいると、あの子は勝手に答えを言った。
「会いたい人が、こちらにいらしたのでしょう」
……ほんとうに、ずるい娘だ。
「一つだけ、持っていってもよろしいでしょうか」
何を、と聞く前に、あの子は自分の胸に手を当てた。
「この気持ちだけは、私のものにさせてください。あの方に恋をした、この気持ちだけは」
私は言葉に詰まった。
体は返してもらえる。時間も、名前も、居場所も、全部返ってくる。
けれど、あの三ヶ月のあいだに慶祐が見せた顔は、あの子のものだ。私がどれだけ悔しがっても、あれは私が受け取ったものではない。
だったら、せめて。
「……持ってけ」
私は言った。
「持ってっていい。そのかわり」
喉の奥が熱くて、声が掠れた。
「私の分は、私が自分の口で言うけん。あんたの代わりやなくて、私の言葉で」
ちせが笑った。
私の顔でしていたどの笑い方とも違う、その子だけの笑い方だった。
「それでこそ、私の恋敵でございます」
背中を、押された。
軽い、優しい手だった。百年ぶんの重さなんてどこにもない、女の子の手だった。
体が浮き上がる。
水面が割れ、光が一気に流れ込んでくる。
息を、吸った。
* * *
――ふわり、と。
俺のポケットの中から、音もなく温かな光が溢れ出した。
硬質なガラスの重みが、光の砂となってさらさらと崩れ、ほどけていく感覚。
その粒子は布地を透かして、蛍のように、あるいは送り火の煙のように、辺り一面を光に包みながら静かに夜空へと舞い上がっていく。
夜風に乗って、高く、高く。
それは星々の一部となり、やがて夏の夜の闇に優しく溶けて消えた。
次の瞬間、漂っていた古い樟脳の香りが、風にさらわれるようにスッと消えた。
代わりに鼻孔をくすぐったのは、汗と、土と、雨上がりの湿った匂い。
俺がよく知っている、生きている人間の匂いだった。
腕の中の体温が、急速に質量を取り戻していく。
「……若菜?」
俺は恐る恐る、腕の中の少女の顔を覗き込んだ。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開かれる。
その瞳は、さっきまでの凪いだ海のような静けさではなく、混乱と、涙と、そして深い愛情を湛えていた。
俺は、こみ上げる嗚咽を堪えきれず、戻ってきた幼馴染の肩を強く抱きしめた。
「……慶祐、痛いよ」
若菜が、掠れた声で呟く。
俺はハッとして腕の力を緩めた。
若菜は、涙でぐしゃぐしゃになった俺の顔を見て、呆れたように、けれどどこか挑発的に笑った。
「……あんた、キザすぎ。それに、泣き虫すぎ」
その憎まれ口を聞いた瞬間、俺の胸のつかえが取れた。
ああ、帰ってきた。
お淑やかでも、従順でもない。
面倒くさくて、意地っ張りで、どうしようもなく愛おしい、俺の幼馴染が。
「……お帰り。若菜」
「ただいま。……待たせてごめん」
若菜は俺の胸をドンと突き飛ばし、自分の足でしっかりと地面に立った。
そして、暗い夜空を見上げた。
「あの娘、行っちゃったね」
「ああ」
「……ずるいなぁ、あの娘。一番いいとこだけ持っていって。私の体で、勝手に初恋叶えてさ」
若菜は洟をすすって、悔しそうに、けれど清々しく言い放った。
「でも、感謝してやる。あの子のおかげで分かったけん。……待ってるだけじゃ、何も変わらんってことが」
若菜はそう言って、こちらを振り返った。
何か言いかけて、口を開いて、それから閉じた。
「……なんだよ」
「言わん」
「は?」
「今日は言わんって言いよるやん」
若菜は袂で顔を隠すようにして、俺を睨んだ。目のふちが赤い。
「今日は、あの娘の日やけん。私が横から入ったら台無しになる」
「そういうもんか」
「そういうもん」
若菜は鼻を鳴らして、拝殿のほうへ歩いていった。浴衣の裾が、夜風にゆっくりと膨らむ。
俺は、その背中を見ていた。
三年前、この石段の下で見送れなかった背中だ。
「じゃあ、いつ言うとや」
「私が決める」
振り返らずに、若菜は言った。
「待っとってとも言わん。あんたに合わせるつもりもなか。……私の日は、私が決める」
その声には、東京から帰ってきた四月の若菜にはなかったものが混じっていた。
刺ではない。強がりでもない。
自分の足で立っている人間の声だった。
拝殿の前で、若菜が立ち止まった。
鈴の緒に手を伸ばしかけて、一度引っ込める。それから俺のほうを見た。
「賽銭、なか」
「浴衣やろ。財布なんか入らんて」
俺はポケットを探って、五円玉を一枚つまみ出した。今朝、社務所で釣り銭の補充に混ぜ損ねたやつだ。
「ほら」
若菜は、両手でそれを受け取った。
俺は五円玉をそんなふうに扱う人間を、初めて見た気がした。
若菜は鈴を鳴らした。
夜の境内に、その音は思ったより大きく響いた。俺は毎朝この前を掃いているが、この時間に鈴が鳴るのを聞いたのは初めてだった。
二礼。二拍手。
手を合わせたまま、若菜は動かなかった。
長い。
朝の参拝客は、たいてい十秒もかからない。婆さんたちですら、そんなものだ。
楠の葉が鳴って、爆竹の残響が街のほうから届いて、それでも若菜は目を閉じたままだった。
やがて、一礼。
「……なん願うたと」
「願うとらん」
若菜は賽銭箱に背を向けて、俺を見た。
「お礼ばい」
「お礼」
「うん。戻れましたって」
何と答えればいいのか分からなかった。
俺はこの社の跡取りで、毎朝五時半に起きてこの参道を掃いていて、それを檻だと思っている。人の願いを千円で預かる家に生まれて、預かったものの中身は白木の板だと知っている。
「……誰に」
「知らん」
若菜はあっさり言った。
「神様か、あの娘か。どっちでんよか。誰かが聞いとったら、それでよか」
若菜が、石段の途中で急に屈み込んだ。
「なん、これ」
指差した先、石畳の上に、黒い小さな玉が二つ転がっていた。
線香花火の、燃え殻だ。
一つは俺が落としたもの。もう一つは――ちせの手から、あの瞬間に落ちたものだった。
若菜はしゃがんだまま、しばらくそれを見ていた。
そして、片方だけを指でつまみ上げ、袂に入れた。
「……もらっとく」
「なんでだよ」
「証拠がなかとやろ。あの娘がおったって」
若菜は立ち上がり、袂の上から軽く押さえた。
「私しか覚えとらんとよ。慶祐と、私と、ばあちゃんだけ。ほかの誰も、あの娘のこと知らんまま生きていく」
「……ああ」
「なら、持っとかんば」
夜風が吹いて、楠の葉が海鳴りのような音を立てた。
俺はまだ、涙が止まっていなかった。
若菜はそれを見て、何も言わなかった。
からかいもせず、慰めもせず、ただ、俺が落ち着くまでそこに立っていてくれた。
やがて、遠くで最後の花火が上がる音がした。
腹に響く低い音。ここからは、木々に遮られて光は見えない。
「行こ」
若菜が先に歩き出した。
「ばあちゃんが心配しとる」
俺は袖で顔を拭い、その後ろを歩いた。
石段を三十段ほど降りたところで、若菜がふいに言った。
「そういえばさ」
「ん」
「私の漫画、まだ蔵にあると?」
足が止まった。
四月から今日まで、俺が一度も言い出せなかったことを、あいつはあっさり口にした。
「……あるよ」
「捨てとらんかったんや」
「捨てるかよ」
若菜は前を向いたまま、少しだけ声を大きくした。
「じゃあ、明日返して」
「三年も経っとるぞ。続き、覚えとるとか」
「覚えとらん。だけん、最初から読み直す」
その言い方が、あまりにいつも通りだったので、俺はまた泣きそうになった。
「延滞料、高かけんね」
「取るのかよ」
「取る」
境内を出て、鳥居をくぐる。
振り返ると、拝殿の前の石畳に、燃え殻がもう一つ残っていた。
俺はそれを拾いに戻らなかった。
あれは、あの場所に落ちたままでいいのだと思った。
下界の喧騒は、遠い波音のように微かに響くだけだ。
境内の木々が、夜風にざわざわと揺れている。
「……ふぅ、ふぅ……」
ちせは、拝殿の前の石段に力なく腰を下ろした。
俺はその隣に座り、彼女の肩を抱いた。
着崩れた浴衣。乱れた黒髪。
月明かりに照らされた彼女の体は、やはり輪郭が滲んできているように見えた。
「慶祐さま……。楽しゅうございました」
ちせが、虚空を見つめながら呟く。
その視線は、眼下の街ではなく、もっと遠い場所――彼女が生きていた百年前の空を見ているようだった。
「電車に乗ったことも。美容室で髪を梳いていただいたことも。……貴方様と、こうして並んで歩いたことも。すべて、夢のようでございました」
戻っている、と思った。
この一月で、こいつの言葉からは角が取れていた。
ございます、が減って、俺と同じ言葉が混ざるようになっていた。
それが全部、元通りになっている。
明治の女が、そこにいた。
「夢じゃない」
俺は、震える声で否定した。
「全部、現実だ。お前はここにいた。俺と一緒に生きていたんだ」
「……はい」
ちせは嬉しそうに微笑んで小さく続けた。
「慶祐さま」
ちせが、自分の胸元に手を当てた。
そこには、俺たちの鼓動とは違う、もう一つの鼓動がある。
「あの子が……若菜さまが、泣いておられます」
静かな声だった。
「ずっと、見ておられたのです。私が貴方様と過ごした時間を。私が貴方様に惹かれていく様を。……一番近くで、一番残酷な場所で」
俺は息を呑んだ。
自分の体を使って、俺が別の誰かを愛おしむ様子を、指一本動かせない暗闇の中で見せつけられていたのだ。
ちせは目を閉じ、自身の胸を強く抱きしめた。
「慶祐さま……あの子の涙が、聞こえますか? 痛いほどに……伝わってくるのです。悔しさも、悲しみも。そして、あの子の貴方様への想いが。……私と同じ、熱さが」
ちせの目から、一筋の涙が零れた。
それはちせの涙であり、若菜の涙でもあった。
言葉は要らなかった。
ちせが胸を強く押さえる。
その瞬間、彼女の表情がふっと和らいだ。
嫉妬が、羨望が、そして諦めが――透明な共感へと昇華されていくのが、俺にも伝わってきた。
「……慶祐さま」
ちせが顔を上げた。
「最後にお二人には、お伝えしなければならないことがございます」
「え?」
「私は、貴方様や若菜さまをお救いするために参ったのではございません」
彼女は俺の手を握り返すこともせず、自分の膝の上で拳を握りしめた。
その顔には、罪悪感と、それ以上の切実な渇望が浮かんでいた。
「利用したのは、私の方なのです」
「利用……?」
「はい。鏡の中の暗闇で、私はずっと耳を塞いでおりました。でも、聞こえてしまったのです。『ここから逃げ出したい』という貴方様の声と、『変わりたい』という若菜さまの悲鳴が」
ちせは、懺悔するように告げた。
「私はその声に、付け込みました。この孤独な暗闇から連れ出してくれるなら、誰でもよかった。……ただ、誰かに見つけてほしかった。私の名前を呼んで、私という存在を愛してほしかったのです」
彼女の瞳から、涙が溢れ出した。百年もの間、誰にも触れられずに凍えていた、一人の少女のエゴイズムと弱さが凝縮された涙だった。
「申し訳ございません……。私は、自分のために貴方様を利用しました」
その告白を聞いて、俺は呆然とするどころか、胸の奥が熱くなるのを感じた。
ああ、そうか。
こいつも、俺と同じだったんだ。
俺が「御影」という家から逃げるためにパイロットを目指したように、彼女もまた「鏡」という牢獄から逃げるために、俺たちを利用した。
「……いいさ」
俺は彼女の涙を指で拭った。
「俺だって、お前を利用した。退屈な日常を壊してくれる『非日常』として、お前に縋っていたんだ。……お互い様だろ」
「慶祐さま……」
「誰でもよかった、か。……まあ、ちょっと悔しいけどな」
俺が苦笑すると、ちせは慌てて首を振った。
「違うのです」
「違うって、今そう言うたやろ」
「最初は、そうでした」
彼女は、自分の左の二の腕に触れた。
「けれど、あの朝。敷居をまたげずにいた私に、貴方様は『誰もお前を叱らん世界の話ばしとる』と仰いました」
「……そんなん、覚えとるとか」
「一言一句」
ちせは、少しだけ笑った。
「リボンの結び方をご存じないくせに、三度も結び直してくださいました。ハトシを一つ買うのに、私が泣くまで待ってくださいました。空に道ができていると申し上げたら、笑わずに、一緒に見上げてくださいました」
一つ一つ、指を折るように数えていく。
「どれも、誰にでもできることでございましょう」
「……ああ」
「ですが、なさったのは貴方様だけです」
息が、止まった。
「百年、待ちました。誰でもよかったのです。本当に、誰でもよかった」
濡れた瞳が、真っ直ぐに俺を見た。
「けれど今は、貴方様でなければ嫌でございます」
――ずるい。
俺はそのとき、なぜだか、この娘の中で眠っている女の口癖を思い出していた。
「……こっちも同じたい」
声が掠れた。
「最初は、なんでもよかった。この街から出られるなら、誰と一緒でもよかった。……今は違う。俺は、お前と行きたかった」
過去形になったことに、言ってから気づいた。
ちせは何も言わず、花が綻ぶように破顔した。
「では、私たちは同じ罪を犯したのですね」
「そうたい。……ひどい二人組ぞ」
俺たちは、どちらからともなく微笑み合った。
罪を共有した人間同士の、安らぎに満ちた笑顔だった。
「慶祐さま」
ちせが袖の中から何かを取り出した。
それは、今朝、俺が彼女に買ってやった「線香花火」の小袋だった。
「最後に一つだけ、お願いがございます。花火……してみとうございます」
俺は鼻の奥がツンとするのを感じながら、小袋からマッチを取り出した。
二本の線香花火。
俺とちせは、それぞれの先端を突き合わせ、小さな火を灯した。
シュッ……。
小さな火球ができ、パチ、パチパチ、と繊細な火花が散り始める。
松葉のように広がる光の粒子が、俺たちの顔を淡い橙色に照らし出した。
「綺麗……」
ちせが吐息をもらす。
その瞳の中に、小さな火花が映っている。
派手な打ち上げ花火でもなく、騒がしい爆竹でもない。
今にも消えてしまいそうな、小さな、小さな光。
「慶祐さま」
「……ん」
「私、幸せでございました。病で伏せっていたあの頃、鏡の中でずっと願っておりました。いつか、誰かとこうして、笑い合える日が来ればいいと」
パチパチ、と火花が勢いを増す。
「その願いを叶えてくださったのが、貴方様でよかった」
――ピキッ。
俺のポケットの中で、硬質な音が響いた。
手鏡だ。
限界が来たのだ。
「ちせ……」
「お別れです」
ちせの持つ線香花火の火玉が、ぽとり、と地面に落ちた。
同時に、彼女の体が支えを失って俺の方へ傾いた。
俺は慌てて彼女を支える。
その体は、もう重さを感じないほど軽かった。
「慶祐さま……」
ちせの顔が近づく。
闇に慣れた目が、月光に揺れる彼女の潤んだ瞳を捉えた。
次の瞬間、樟脳の香りが鼻腔をくすぐり――柔らかい感触が、俺の唇に触れた。
それは、枝から落ちる椿の花を受け止めるような、ほんの一瞬の口づけだった。
震える吐息。
名残惜しむような温もり。
百年という途方もない時間を超えて、今、俺たちの時間は確かに重なっていた。
唇が、ゆっくりと離れる。
彼女は、俺の耳元に顔を寄せ、最期の力を振り絞って囁いた。
「私の百年の恋は、今日、叶いました。……この体は、彼女にお返しします」
「っ……!」
「どうか、若菜さまを……大切になさってください。彼女もまた、貴方様を……」
言葉は、そこで途切れた。
* * *
そこは、まだ冷たい水の底だった。
三ヶ月。
私はこの底で、返してと叫び続けていた。
朝、私の手が私の髪を結う。私の足が石段を降りる。私の口が、私なら死んでも言わない言葉を、綺麗な発音で紡いでいく。
そして慶祐が、その全部に笑いかける。
私が三年かけても引き出せなかった顔だった。
何度も叫んだ。返して、と。それは私の顔で、私の声で、私が好きになった男だ、と。
叫んでも、水は震えもしなかった。
不思議なもので、人は憎しみだけでは三ヶ月ももたない。
ある夜、あの子は私の髪を撫でながら泣いていた。誰も見ていないと思ったのだろう。「申し訳ございません」と、暗い部屋で何度も繰り返していた。
ある朝、祖母ちゃんが味噌汁をこぼして手を火傷したとき、あの子は自分の袂を裂いて巻いた。私なら、たぶん救急箱を探しに走って、間に合わなかった。
そして、あの雨の坂道で。
慶祐が泥の中から私のお守りを拾い上げたとき、あの子は何も言わなかった。言えばよかったのに。「これは若菜さまのお気持ちです」と、一言そう言えば、私の三年間は報われたのに。
あの子は黙って、悲しい顔をしていた。
たぶん、あれは私の代わりに悔しがっていたのだと思う。
そして、さっき。
私の唇に、慶祐の唇が触れた。
これは、たぶん一生誰にも言えない。
感触があったのだ。あの子の感覚を通してではなく、私自身の皮膚として。柔らかくて、少し乾いていて、樟脳の匂いのすぐ向こうに、慶祐の匂いがした。
三年間、想像したことがなかったと言えば嘘になる。何度も想像して、そのたびに馬鹿らしくなってやめた。
それが、こんな形で。
私のものではない口づけを、私の唇で受け取った。
嬉しかった。
嬉しいと思ってしまった自分が、心底、みじめだった。
――ずるい。
本当に、この娘はずるい。
憎ませてくれないところが、いちばんずるい。
水が、明るくなった。
上のほうから、光が差し込んでくる。松葉のような、細かくて頼りない光の粒。
水面が近づいている。
三ヶ月ぶりに、私の体が私を思い出そうとしているのが分かった。
その光の中に、少女が立っていた。
白い着物。結い上げた黒髪。私の顔ではない、その子自身の顔で。
私たちは初めて、向かい合った。
「若菜さま」
「……その呼び方、やめて」
自分の声が出たことに、私のほうが驚いた。
「あんたに『若菜さま』って呼ばれると、私が私じゃなくなるみたいで、嫌やけん」
「……では、若菜さん」
「それも変」
ちせは困ったように眉を下げた。
その言い方も、戻っていた。
私は三ヶ月、この娘の言葉が崩れていくのを聞いていた。
ございます、が減って、慶祐と同じ喋り方が混ざるようになって、七月の終わりには「だめ」なんて言うようになった。
嬉しそうだった。自分でも気づいていなかったと思う。
それが今、一つ残らず元通りになっている。
帰る支度だ、と思った。
「あんた、ずるかね」
「はい」
「私の体で、私の幼馴染と、勝手に恋しとった」
「はい」
「謝らんと?」
ちせは一度だけ、まっすぐに私を見た。
「謝れば、お許しくださいますか」
「許さん」
「では、謝りません」
思わず、笑ってしまった。
こんな状況で、こんなときに、笑うなんて。
「……あんた、ほんと、いい性格しとる」
「若菜さんに似てまいりました」
「うるさか」
光がさらに強くなる。
ちせの輪郭が、端のほうから少しずつ薄くなり始めていた。
「若菜さん」
「なん」
「一つ、伺ってもよろしゅうございますか」
私は身構えた。この三ヶ月、私の中身を全部覗いていた相手に、今さら聞かれることなんてあるだろうか。
「なぜ、長崎へお戻りになったのですか」
図星だった。
覗かれていたのは、たぶん行動だけだったのだ。理由までは見えていなかった。
「……向こうで、うまくいかんかったけん」
「それだけですか」
「それだけ」
「嘘でございますね」
薄くなっていく手で、ちせは自分の胸を押さえた。
「私はこの三ヶ月、貴女の痛みをずっと預かっておりました。あれは、失敗した人間の痛みではございません。もっと簡単で、もっと素直な痛みです」
私は何も言えなかった。
言えないでいると、あの子は勝手に答えを言った。
「会いたい人が、こちらにいらしたのでしょう」
……ほんとうに、ずるい娘だ。
「一つだけ、持っていってもよろしいでしょうか」
何を、と聞く前に、あの子は自分の胸に手を当てた。
「この気持ちだけは、私のものにさせてください。あの方に恋をした、この気持ちだけは」
私は言葉に詰まった。
体は返してもらえる。時間も、名前も、居場所も、全部返ってくる。
けれど、あの三ヶ月のあいだに慶祐が見せた顔は、あの子のものだ。私がどれだけ悔しがっても、あれは私が受け取ったものではない。
だったら、せめて。
「……持ってけ」
私は言った。
「持ってっていい。そのかわり」
喉の奥が熱くて、声が掠れた。
「私の分は、私が自分の口で言うけん。あんたの代わりやなくて、私の言葉で」
ちせが笑った。
私の顔でしていたどの笑い方とも違う、その子だけの笑い方だった。
「それでこそ、私の恋敵でございます」
背中を、押された。
軽い、優しい手だった。百年ぶんの重さなんてどこにもない、女の子の手だった。
体が浮き上がる。
水面が割れ、光が一気に流れ込んでくる。
息を、吸った。
* * *
――ふわり、と。
俺のポケットの中から、音もなく温かな光が溢れ出した。
硬質なガラスの重みが、光の砂となってさらさらと崩れ、ほどけていく感覚。
その粒子は布地を透かして、蛍のように、あるいは送り火の煙のように、辺り一面を光に包みながら静かに夜空へと舞い上がっていく。
夜風に乗って、高く、高く。
それは星々の一部となり、やがて夏の夜の闇に優しく溶けて消えた。
次の瞬間、漂っていた古い樟脳の香りが、風にさらわれるようにスッと消えた。
代わりに鼻孔をくすぐったのは、汗と、土と、雨上がりの湿った匂い。
俺がよく知っている、生きている人間の匂いだった。
腕の中の体温が、急速に質量を取り戻していく。
「……若菜?」
俺は恐る恐る、腕の中の少女の顔を覗き込んだ。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞳が開かれる。
その瞳は、さっきまでの凪いだ海のような静けさではなく、混乱と、涙と、そして深い愛情を湛えていた。
俺は、こみ上げる嗚咽を堪えきれず、戻ってきた幼馴染の肩を強く抱きしめた。
「……慶祐、痛いよ」
若菜が、掠れた声で呟く。
俺はハッとして腕の力を緩めた。
若菜は、涙でぐしゃぐしゃになった俺の顔を見て、呆れたように、けれどどこか挑発的に笑った。
「……あんた、キザすぎ。それに、泣き虫すぎ」
その憎まれ口を聞いた瞬間、俺の胸のつかえが取れた。
ああ、帰ってきた。
お淑やかでも、従順でもない。
面倒くさくて、意地っ張りで、どうしようもなく愛おしい、俺の幼馴染が。
「……お帰り。若菜」
「ただいま。……待たせてごめん」
若菜は俺の胸をドンと突き飛ばし、自分の足でしっかりと地面に立った。
そして、暗い夜空を見上げた。
「あの娘、行っちゃったね」
「ああ」
「……ずるいなぁ、あの娘。一番いいとこだけ持っていって。私の体で、勝手に初恋叶えてさ」
若菜は洟をすすって、悔しそうに、けれど清々しく言い放った。
「でも、感謝してやる。あの子のおかげで分かったけん。……待ってるだけじゃ、何も変わらんってことが」
若菜はそう言って、こちらを振り返った。
何か言いかけて、口を開いて、それから閉じた。
「……なんだよ」
「言わん」
「は?」
「今日は言わんって言いよるやん」
若菜は袂で顔を隠すようにして、俺を睨んだ。目のふちが赤い。
「今日は、あの娘の日やけん。私が横から入ったら台無しになる」
「そういうもんか」
「そういうもん」
若菜は鼻を鳴らして、拝殿のほうへ歩いていった。浴衣の裾が、夜風にゆっくりと膨らむ。
俺は、その背中を見ていた。
三年前、この石段の下で見送れなかった背中だ。
「じゃあ、いつ言うとや」
「私が決める」
振り返らずに、若菜は言った。
「待っとってとも言わん。あんたに合わせるつもりもなか。……私の日は、私が決める」
その声には、東京から帰ってきた四月の若菜にはなかったものが混じっていた。
刺ではない。強がりでもない。
自分の足で立っている人間の声だった。
拝殿の前で、若菜が立ち止まった。
鈴の緒に手を伸ばしかけて、一度引っ込める。それから俺のほうを見た。
「賽銭、なか」
「浴衣やろ。財布なんか入らんて」
俺はポケットを探って、五円玉を一枚つまみ出した。今朝、社務所で釣り銭の補充に混ぜ損ねたやつだ。
「ほら」
若菜は、両手でそれを受け取った。
俺は五円玉をそんなふうに扱う人間を、初めて見た気がした。
若菜は鈴を鳴らした。
夜の境内に、その音は思ったより大きく響いた。俺は毎朝この前を掃いているが、この時間に鈴が鳴るのを聞いたのは初めてだった。
二礼。二拍手。
手を合わせたまま、若菜は動かなかった。
長い。
朝の参拝客は、たいてい十秒もかからない。婆さんたちですら、そんなものだ。
楠の葉が鳴って、爆竹の残響が街のほうから届いて、それでも若菜は目を閉じたままだった。
やがて、一礼。
「……なん願うたと」
「願うとらん」
若菜は賽銭箱に背を向けて、俺を見た。
「お礼ばい」
「お礼」
「うん。戻れましたって」
何と答えればいいのか分からなかった。
俺はこの社の跡取りで、毎朝五時半に起きてこの参道を掃いていて、それを檻だと思っている。人の願いを千円で預かる家に生まれて、預かったものの中身は白木の板だと知っている。
「……誰に」
「知らん」
若菜はあっさり言った。
「神様か、あの娘か。どっちでんよか。誰かが聞いとったら、それでよか」
若菜が、石段の途中で急に屈み込んだ。
「なん、これ」
指差した先、石畳の上に、黒い小さな玉が二つ転がっていた。
線香花火の、燃え殻だ。
一つは俺が落としたもの。もう一つは――ちせの手から、あの瞬間に落ちたものだった。
若菜はしゃがんだまま、しばらくそれを見ていた。
そして、片方だけを指でつまみ上げ、袂に入れた。
「……もらっとく」
「なんでだよ」
「証拠がなかとやろ。あの娘がおったって」
若菜は立ち上がり、袂の上から軽く押さえた。
「私しか覚えとらんとよ。慶祐と、私と、ばあちゃんだけ。ほかの誰も、あの娘のこと知らんまま生きていく」
「……ああ」
「なら、持っとかんば」
夜風が吹いて、楠の葉が海鳴りのような音を立てた。
俺はまだ、涙が止まっていなかった。
若菜はそれを見て、何も言わなかった。
からかいもせず、慰めもせず、ただ、俺が落ち着くまでそこに立っていてくれた。
やがて、遠くで最後の花火が上がる音がした。
腹に響く低い音。ここからは、木々に遮られて光は見えない。
「行こ」
若菜が先に歩き出した。
「ばあちゃんが心配しとる」
俺は袖で顔を拭い、その後ろを歩いた。
石段を三十段ほど降りたところで、若菜がふいに言った。
「そういえばさ」
「ん」
「私の漫画、まだ蔵にあると?」
足が止まった。
四月から今日まで、俺が一度も言い出せなかったことを、あいつはあっさり口にした。
「……あるよ」
「捨てとらんかったんや」
「捨てるかよ」
若菜は前を向いたまま、少しだけ声を大きくした。
「じゃあ、明日返して」
「三年も経っとるぞ。続き、覚えとるとか」
「覚えとらん。だけん、最初から読み直す」
その言い方が、あまりにいつも通りだったので、俺はまた泣きそうになった。
「延滞料、高かけんね」
「取るのかよ」
「取る」
境内を出て、鳥居をくぐる。
振り返ると、拝殿の前の石畳に、燃え殻がもう一つ残っていた。
俺はそれを拾いに戻らなかった。
あれは、あの場所に落ちたままでいいのだと思った。


