転校生 ~鏡の中のちせ~

その夜、俺は台所の流し台で、泥だらけになったフェルトの布を洗った。
指先で優しく泥を落とすたび、茶色く濁った水が排水溝へと吸い込まれていく。
水流の中で、赤い刺繍糸(ししゅういと)の『合格』という文字が、鮮血のように鮮やかに浮き上がってきた。
若菜は、どんな顔でこれを縫ったのだろう。
東京から逃げ帰ってきたと馬鹿にされながら。それでも、俺の夢だけは叶いますようにと、一針一針に願いを込めたのだろうか。
「……乾かさなきゃな」
俺は洗い終えたお守りをタオルで挟み、水気を取った。
それを自室の学習机のライトの下に置く。

ふと、先日見た光景が脳裏に蘇った。
若菜が鞄からぶちまけた荷物の中にあった、古びた交通安全のお守り。
『ゴミよ』と叫んで隠した、三年前の俺からの餞別(せんべつ)
(……馬鹿はお互い様かよ)
目の奥が、じんと熱くなった。

三年前、俺はあいつの無事を願って神頼みをした。
そして今、あいつは俺の未来を願って、不格好な針仕事をしてくれていた。
言葉にしなくても、すれ違ってばかりでも……俺たちは根っこのところで、同じようにお互いを想い合っていたんじゃないか。

俺はずっと、御影(みかげ)の神様なんて窮屈なだけだと思っていた。俺をこの坂の上に縛り付ける、古臭い鎖だと。
けれど違ったのかもしれない。
神様は、俺たちが離れ離れにならないように、不器用な願いのやり取りを、ずっと黙って見守ってくれていたのかもしれない。
机の上には、あの手鏡が置いてある。
二万円で磨き上げられた黒髪の少女と、泥の中から拾い上げられた不格好なお守り。
百年前の悲恋の記憶と、現代の不器用な恋心。
二つの想いが、俺の机の上で並んでいた。

俺は手鏡を手に取った。
夜光貝の螺鈿(らでん)が、ライトの光を弾いて妖しく(きら)めく。
鏡面には、俺の疲れ切った顔が映っていた。
――ピキッ。
不意に、微かな音が部屋の静寂を切り裂いた。
氷に熱湯をかけたような、硬質で小さな破裂音。
「……え?」
俺は目を凝らした。
鏡の右端。螺鈿の枠とガラスの境目に、髪の毛ほどの細い亀裂が走っていた。
さっきのは、このヒビが入る音だったのか?
落としたわけでも、ぶつけたわけでもない。
なのに、その亀裂は確かにそこに刻まれていた。
胸騒ぎがした。
俺は引き出しの奥から、古い(こよみ)を引っ張り出した。
今日は七月の初旬。
もうすぐ、お盆がやってくる。
死者が還り、そして再び彼岸へと旅立つ季節。
この鏡の(ほころ)びは、砂時計の砂が落ち始めた合図なのだろうか。
*     *     *
同時刻。隣の隣にある若菜の家、二階の部屋。
ちせは、胸の奥を走った鋭い痛みに、ハッと目を覚ました。
その奥が早鐘を打っている。
誰かに強く握り潰されたような、冷たくて硬質な痛み。
彼女は直感した。
慶祐の部屋にある「手鏡」が、悲鳴を上げたのだと。

ちせはベッドから起き出し、三面鏡の前に座った。
月明かりの中、黒髪の少女がこちらを見返している。
借り物の体は温かい。けれど、自分という異物を繋ぎ止めている「(くさび)」は、確実に壊れ始めている。
「もっと、生きたかった」
鏡の中の自分――いや、体の持ち主である若菜に向かって、ちせはそっと呟いた。
百年前、病の床で毎晩のように吐き捨てていた呪いの言葉。けれど今、その響きは穏やかだった。
「あのガラスの向こうにある、異国の景色を見たかった。
恋をして、お洒落をして、誰の目も気にせず笑い転げてみたかった。
……百年かかって、ようやく叶ったのですね」

彼女は窓を開け、夜風に吹かれる神社の木々を見上げた。
その瞳には、恐怖とは違う、満ち足りた光が宿っていた。
「神様。この『余生』をくれたことに、感謝いたします」
ちせは胸の前で手を合わせ、深く祈りを捧げた。
たとえこの身が砕け散ろうとも、この夏の記憶だけは、魂の奥底まで焼き付けていこう。
残された時間は、あと(わず)かしかない。
*     *     *
七月に入ると、長崎の街はうだるような暑さに包まれた。
坂道を上り下りするだけで汗が噴き出し、遠くの造船所のクレーンが陽炎(かげろう)に揺らぐ。
蝉時雨(せみしぐれ)が、耳鳴りのように降り注いでいた。
学校では、ちせの「変貌」はすでに日常の風景として定着しつつあった。
黒髪ロングの清楚(せいそ)な美少女。
古風で丁寧な言葉遣い。
そして、時折見せる天然ボケの愛らしさ。
彼女は、クラスの偶像(アイドル)的な存在になっていた。
だが、その輝きが増せば増すほど、彼女の体には目に見えない異変が進行していた。

ある日の体育の授業中。
七月の太陽が容赦なく照りつけるグラウンドで、男子はサッカー、女子はバレーボールに分かれて授業を行っていた。
俺は汗を拭いながら、隣のコートでボールを追う女子たち――その中にいるちせを目で追っていた。
その時、悲鳴が上がった。
「キャアッ! 長与さん!?」
女子たちの輪が崩れ、中心に誰かが倒れ込むのが見えた。
足が、勝手に走り出していた。
俺は足元のサッカーボールを放り出し、弾かれたように走り出した。
「おい宮部! 授業中ぞ!」
「すいません、先生! 行ってきます!」
教師の制止も聞かず、俺は砂煙を上げて女子コートへ突っ込んだ。
炎天下の赤土の上で、ちせが膝から崩れ落ちていた。
顔面蒼白で、唇からは血の気が失せている。
「慶祐、さま……」
俺の顔を見て、彼女が弱々しく微笑もうとする。
その時、俺は見てしまった。
彼女が握りしめていた俺の手首。その指先の輪郭が、一瞬だけ滲んで見えたのを。
「……っ! 離れろ!」
俺はとっさに彼女を抱き上げ、周囲の目から隠すように背中を向けた。
実体が、薄れている。
あの蔵で初めて会った時のように。
「熱中症やね。宮部、お前が運んでやれ!」
「はい!」
体育教師の指示を受けるまでもなく、俺はちせを横抱きにして、校舎の影へと走った。
腕の中の体は、子どものように軽かった。
以前、若菜をおんぶした時はもっと重かったはずだ。肉体の質量そのものが、魂と共に揮発(きはつ)しようとしている。

保健室のベッドに寝かせると、彼女はようやく呼吸を整えた。
顔色はまだ戻ってはいない。
養護教諭に後を任せ、俺は頭を冷やすために廊下へと出た。
「……おい、宮部」
不意に、刺のある低い声で呼び止められた。
壁に寄りかかって腕を組んでいたのは、体操服姿の斉藤一美だった。
彼女は俺を睨みつけると、顎で保健室のドアをしゃくった。
「若菜、どうなんよ」
「……熱中症だ。今は落ち着いて眠ってる」
「そう」
一美は短く吐き捨てると、俺に一歩詰め寄った。

「あんたら、どうなっとるん」
「……」
「あいつに何させとんの」
「何って……」
「とぼけんなよ!」
一美が声を荒げた。
廊下に響く怒声に、周囲の生徒が足を止める。
「黒髪にして、化粧落として……言葉遣いまで矯正させて。そこまでして『イイ子』演じさせて、楽しいんか?」
「違う。俺がやらせてるわけじゃない。あいつ自身が……」
「若菜が自分でしたって? そんなわけなかろ!」
一美は俺の胸倉を掴まんばかりの勢いで(まく)し立てた。
「あいつは東京で失敗して、ビビって、必死に派手な格好で武装して帰ってきたんよ。そんくらいわかるやろ! その(よろい)を全部剥がして、そんな……あんな弱々しい人形みたいにして!」
一美の瞳が揺れていた。
そこにあるのは、怒りだけではない。かつてつるんでいた友人だからこそ感じる、恐怖に近い焦燥感。
「さっき倒れた時もそうや。あいつ、体が透けとるみたいに軽そうやった……なぁ、宮部。あんた幼馴染なんやろ。あいつ、このままやと……マジで『消えて』しまうんやない?」
それは、ただの悪口ではなかった。
目の前にいる「若菜」の中身が、別の何かに侵食され、本物が消えかかっていることを。
「……分かっとる」
俺は拳を握りしめ、絞り出すように答えた。
「分かっとるけん、俺がついてる。……絶対に、元に戻す」
俺の言葉に、一美の目から険しい光が消えた。

「なら、あんたに預けるわ」
彼女は俺を睨みつけると、短く吐き捨てた。
「……あいつのこと、頼んどくけん」
一美は乱暴に(きびす)を返し、教室の方へと歩き去っていった。
その背中は、友を見捨てきれない苛立ちを抱えているようだった。

背後で、床が小さく鳴った。
振り返ると、月島明里が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。廊下の中ほどで、体操服のまま足を止めている。
「……月島」
「斉藤さんが叫ぶ前から、そこにいた」
彼女は自分の立っている場所を指差した。
「聞くつもりはなかったけど、聞こえたから。動いたら気づかれるし」
窓の外で、蝉が鳴いている。グラウンドから体育教師の笛が聞こえた。
月島は、俺の前に立った。
「宮部くん。二つだけ言っていい」
「……」
「一つ目。長与さん、教室で一度も鏡を見ない。私もね、一日に何回も見るの。窓ガラスでも、スプーンの裏でも。あの人は絶対に見ない。避けてる」
月島は目を逸らさない。
「二つ目。宮部くんは、六月からずっと同じポケットを気にしてる。手を入れて、確かめて、また出す。一時間に何度も」
俺は、自分の右手が動きかけたのを止めた。

「私、答えは聞かない。約束したから」
月島は俺の顔を見なかった。俺の右のポケットを見ていた。
「でも、一つだけ聞きたい。答えなくていい」
「……なんや」
「宮部くんは、誰を助けようとしてるの」
蝉の音が、遠くなった。
「長与さん? それとも、長与さんじゃないほうの人?」
答えられなかった。
答えは決まっていた。決まっているから、答えられなかった。
一美の怒鳴り声には言い返せた。「絶対に元に戻す」と言えた。あれは嘘ではない。だが、今この瞬間、俺の頭にあるのは、カーテンの向こうで青ざめて眠っている娘のことだけだった。
沈黙が答えになっていた。
月島は、それ以上何も聞かなかった。
「……そう」
月島の視線が、俺のポケットから離れた。
「私、六月に言ったよね。あまり深入りすると、戻れなくなるって」
「……ああ」
「あれ、訂正する」
月島は俺の横を通り過ぎた。すれ違いざま、前を向いたまま言う。
「宮部くんはもう戻れない。だから、その先の話をしたほうがいいと思う」
「……その先って」
「終わったあとのこと」
足音が止まった。
「私も、人のことは言えないから。これ以上は言わない」
その一言だけ、声の温度が違った。
俺は思わず振り返った。だが月島はもうこちらを見ておらず、廊下の光の中を、いつもの速さで歩いていくところだった。
背中に向かって、言葉が出た。
「月島。……お前、なんでそこまで見とるとや」
彼女は立ち止まった。
少し考えるような間があって、それから、こちらを向かずに答えた。
「教室で、ずっと本読んでるから」
「……本?」
「読んでるふりしとる時間のほうが長い」
月島は、また歩き出した。
角を曲がる直前、彼女は一度だけ振り返った。
「宮部くん。斉藤さん、泣いてたよ」
「……は?」
「さっき、その角を曲がってから」
それだけ言って、月島明里は歩いていった。

俺は、閉ざされた保健室の扉を見つめた。
一美の言葉が、胸に重くのしかかる。
『マジで消えてしまう』。
そうだ。猶予はない。
扉の向こうで眠る彼女の時間は、今もこぼれ落ち続けている。
「あー、宮部くん」
保健室から養護教諭が出てきた。
「ちょうどよかった。長与さん、目が覚めたわよ。私、ちょっと職員室に書類を出してくるから、休み時間の間ついててあげて」
「……はい」
先生がパタパタと出て行くと、部屋には消毒液の匂いと静寂だけが残った。
俺は息を整え、白いカーテンの向こう側へと歩み寄った。
*     *     *
ベッドの脇に戻ると、ちせが目を覚ましていた。
カーテンを閉め切り、薄暗い空間で二人きりになる。
「……ごめんなさい。見苦しいところを」
俺は、返事をしそこねた。
申し訳ございません、と言うと思っていた。この一週間、こいつはずっとそう言っていた。
「……謝るな。無理をするなって言っただろ」
言いながら、俺は自分の違和感の正体を測りかねていた。

俺は冷たいタオルで彼女の額を(ぬぐ)った。
指先の透明化は治まっているが、彼女の存在感そのものが、どこか希薄になっている気がする。
「慶祐さま」
ちせが、俺の袖を掴んだ。
「鏡に……ヒビが入っているのではありませんか?」
喉の奥が塞がった。
俺は誰にも、そのことを話していないはずだ。
「……なぜ、分かる」
「分かります。私の命は、あの鏡と繋がっていますから」
ちせは天井を見上げ、静かに告げた。
「体が、(きし)むのです。若菜さまの体が、私という異物を吐き出そうとして拒絶しているのが分かるんです。そして何より……」
「何より?」
「若菜さまの意識が、すぐそこまで浮上してきています。夢の中で、彼女の泣き声が聞こえるんです」
俺は言葉を失った。
泥だらけのお守り。若菜の悲痛な叫び。
ちせがいればいるほど、若菜は戻れない。だが、若菜が戻れば、ちせは消える。
「……まだだ」
俺はちせの手を強く握り返した。
「まだ夏は終わってない。お盆までは、まだ時間がある」
「慶祐さま……」
「行きたいところがあるんだろ? やりたいことがあるんだろ? 全部叶えてやる。だから、まだ消えるなんて言うな」
それは、俺のエゴだったかもしれない。
若菜への罪悪感に(ふた)をして、目の前の奇跡のような少女との時間を引き伸ばしたいという、卑しい願い。
ちせは、潤んだ瞳で俺を見つめ、やがてふわりと微笑んだ。
「はい。……じゃあ、一つだけ。我儘(わがまま)を言ってもいいですか?」
「じゃあ、って」
「え?」
「いや……」
最近、ちせの言葉から角が取れてきている。
ございます、が減った。
申す、が減った。
代わりに、俺が喋っているのと同じ言葉が混ざるようになった。
それは、こいつがこの時代に馴染んできたということだ。喜ぶべきことのはずだった。
なのに、なぜだろう。
俺はそれを、少しも喜べなかった。

「なんだ」
精霊流し(しょうろうながし)。……あのお祭りを、貴方様と一緒に見たいんです」

精霊流し。
八月十五日。長崎の夏が終わる日。
それは、死者の魂を彼岸へと送り出す、別れの儀式だ。
「……分かった。約束する」
俺は頷いた。
その約束が、彼女との別れの契約書にサインすることと同じだと知りながら。
保健室の窓の外で、蝉の声が一層激しく鳴り響いた。
まるで、残された時間の短さを急き立てるように。
*     *     *
八月に入ると、手鏡の亀裂は日を追うごとに長く、深くなっていった。
最初は髪の毛ほどだった傷は、今や鏡面を斜めに分断する稲妻のように走り、時折、硝子(ガラス)(きし)むような微かな音を立てるようになった。
それに比例して、ちせの睡眠時間は長くなっていった。
放課後、一緒に下校してきても、御影神社の石段を登り切る頃には肩で息をしている。家に着くとそのまま泥のように眠り込んでしまうらしい。
若菜の祖母は「夏バテやろうかねぇ」と心配して氷枕を変えてやっていたが、俺には分かっていた。
若菜という肉体が、異物である魂を排斥しようとする力が限界に達しているのだ。
それでも、ちせは笑顔を絶やさなかった。
目覚めている間は、俺のそばにいたがり、俺が受験勉強をしている横で、借りてきた本を静かに読んでいた。
そして、俺が止めるのも聞かず、日課となった境内の掃除を続けていた。

八月九日。
補習が休みのその日、俺は縁側に勉強道具を広げたまま、一問も解けずにいた。
ちせは、いつものように竹箒を動かしていた。石段の下から順に、一段ずつ。何度止めても聞かない。
父が拝殿から出てきて、鳥居の方を向いて立った。
腕時計を見る。
十一時一分。
「ちせ」
「はい」
「箒、置いてよか」
「まだ半分でございます」
「よかけん」
俺の声の調子が変だったのだろう。ちせは箒を抱えたまま、不思議そうにこちらを見た。
十一時二分。
サイレンが鳴った。
長崎中のサイレンが、同時に鳴る。港からも、山の向こうからも、坂の下の街からも。低く、長く、途切れずに。
父が頭を垂れた。
俺も目を閉じた。
蝉は鳴き止まなかった。人間だけが止まる。俺は毎年、この一分間の、蝉の声の大きさを覚えている。
目を開けると、ちせが立ち尽くしていた。
箒を抱えたまま、鳴り続けるサイレンと、頭を垂れた父と、俺を、順番に見ている。何が起きているのか分からない、という顔だった。
サイレンが止んだ。
父は何も言わず、社務所へ戻っていった。
「……慶祐さま」
「うん」
「今のは」
俺は縁側に座り直した。何から言えばいいのか、分からなかった。
「八十年前。この街に、爆弾が落ちた」
「爆弾」
「一発で、街が消えた」
ちせは、笑わなかった。冗談だと思わなかったらしい。
「……どこに」
「浦上」
彼女の指から、箒が滑り落ちた。
「浦上」
「分かるか?」
「存じております。……存じております」
繰り返した。
「私の乳母が、浦上の生まれでございました。里帰りに連れていっていただいたことがございます。畑と、麦畑と、鐘の音が聞こえて……」
そこで言葉が止まった。
「今は、どうなっておりますか」
「今は、街たい。普通に人が住んどる」
「……そうですか」
彼女はゆっくりと屈んで、箒を拾った。汚れてもいない柄を、袖で丁寧に拭った。
「慶祐さま。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんや」
「十五日の、精霊流し」
「うん」
「あれは、その方々も、送るのでございますか」
俺は返事ができなかった。
送る。八十年前のあの翌年から、この街は毎年送り続けている。俺は物心ついたときからそれを見てきて、一度もそういうふうに考えたことがなかった。
「……送る」
「そうですか」
ちせはそれきり何も言わず、石段の続きを掃き始めた。
一段ずつ、下から順に。いつもより、ずいぶん時間をかけて。

その日の夕暮れ。
俺が勉強の息抜きに縁側へ出ると、ちせが竹箒(たけぼうき)の手を止め、額の汗を(ぬぐ)っていた。
顔色は白磁のように蒼白く、立っているのが不思議なほどだ。
そんな彼女に声をかけた人物がいた。
父だ。
祭事の支度をしていた父が、拝殿から出てきて、ちせの様子に眉をひそめていた。
「若菜ちゃん、いつも掃除をしてくれてありがとうな。だがちょっと、顔色が悪いんじゃないか」
父の問いに、ちせは箒を抱え直し、(りん)として答えた。
「ご心配には及びません。……私が好きでさせていただいていることです」
「好きで?」
「はい。宮司様。このお(やしろ)は、本当に美しゅうございますから」

父は、夕陽に照らされた社殿を静かに見上げた。
その眼差しには、この場所を守り続けてきた者だけが持つ、静かな誇りと哀愁が(にじ)んでいた。
「……今朝のサイレン。若菜ちゃんも聞いたやろう」
ちせの指が、箒の柄を握り直した。
「うちの婆さんがな、生きとる頃によう言いよった。あの日、この坂の同じ高さで潰れた家が何軒もあったと。うちが残ったのは、そこの(クスノキ)が前に立っとったけん、と」
「……はい」
「守るというのは、そういうことたい」
父はそう言って、社殿から視線を外さなかった。

「……何百年も変わらん、古びた(やしろ)だ。若者が未来を夢見るには、あまりに静かすぎて……窮屈な場所かもしれん」
息子の俺が言い放った言葉が、(とげ)のように心に刺さっているのだろう。
だが、ちせは一歩も引かなかった。
「いいえ。毎日、掃き清められ、手入れが行き届いております。これほどの静寂を何代にも渡って守り抜くことが、どれほど困難で、尊いことか……。私には分かります」
彼女は、境内の隅に立つ(クスノキ)を見た。
「今朝、あの木に触れてまいりました。葉が焼けても、倒れずに、また芽を出したのだと……そう思って触れますと、手のひらの感じが違いました」
ちせの言葉には、実感がこもっていた。彼女自身、百年もの間、蔵の中でその「守る力」に触れてきたからだ。

「……慶祐には、それが分からんらしい。ここを『棺桶』だと言いおった」
「慶祐さまは、お優しい方です。だからこそ、この場所の重さに、押し潰されそうになっておられるのです」
ちせは竹箒を置き、夕焼けに染まる空を見上げた。
その横顔は、病弱な少女のそれではなく、何かを見通す巫女のように厳かだった。
「宮司様。あの木は、お(やしろ)を抱え込んだのではございません。前に、立ったのでございます」
「……何?」
「守ることと、閉じ込めることは、違うのだと存じます」
父の肩が、わずかに動いた。
「……鳥は、籠の中ではその翼を広げられませぬ。どんなに美しい籠でも、どんなに大切に守られていても……翼を持って生まれた鳥は、空を飛ばねば死んでしまいます」
彼女は、父の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、百年の時を見た者の深さを(たた)えていた。
「慶祐様は、空を目指しておられます。御影の家を捨てるためではありません。ご自分の翼で空へ行き、そこからこの美しい場所を守りたいと……そう願っておられるのではないでしょうか」
父は言葉を失い、呆然と空を見上げた。
地面に縛り付けることだけが「継承」だと思っていた父の心に、彼女の言葉が染み渡っていくのが、離れて見ている俺にも分かった。
「……私のような者が、差し出がましいことを申すようですが」
ちせは一歩前に進み出ると、祈るように両手を合わせた。
「どうか、飛び立たせてあげてくださいまし。……あの背中には、もう立派な翼が生えておりますから」
ちせは深々と頭を下げた。
父は何も言わず、ただ複雑な表情で彼女を見つめ、やがて無言で拝殿の奥へと戻っていった。
その背中は、以前よりも少しだけ力が抜け、丸みを帯びているように見えた。

父の姿が見えなくなると、ちせの体からふっと力が抜けた。
小さくよろめいた彼女を、俺は慌てて縁側から飛び降りて支えた。
「……言っただろ、無理するなって」
「ふふ……。ううん、大丈夫です」
彼女は俺の腕の中で、悪戯っぽく笑った。その額には冷や汗が滲んでいたが、決して弱音は吐かなかった。
少しでも多くの時間を記憶に刻みつけようとするかのように、ちせは最期の時まで「生」を全うしようとしていた。
そして、八月十五日がやってきた。
*     *     *
長崎の盆は、爆竹の音と共に暮れる。
夕方になると、街のあちこちから、パン、パパパン! という乾いた破裂音が響き始めた。
精霊流し(しょうろうながし)
故人の御霊(みたま)を乗せた「精霊船(しょうろうぶね)」を、流し場まで運ぶ行事だ。魔除けの爆竹を盛大に鳴らし、(かね)を打ち鳴らしながら練り歩くその光景は、静粛な弔いというよりは、熱狂的なカーニバルに近い。
「……すごい音ですね」
社務所の縁側で、ちせが空を見上げて呟いた。
彼女は今、若菜の祖母が箪笥(たんす)の奥から出してきた浴衣を身に(まと)っている。
藍色(あいいろ)の地に、白い朝顔が描かれた涼しげな浴衣だ。
かつて若菜が中学生の頃に着ていたものだが、ちせが袖を通すと、それは(あつら)えたようにしっくりと馴染んでいた。
(つや)やかな黒髪は緩く結い上げられ、うなじの白さが夕闇に浮き上がっている。
「長崎の精霊流しは、湿っぽいのが嫌いなんよ。爆竹で邪気を払って、賑やかに送り出すんが流儀たい」
俺は浴衣姿の彼女を直視できず、わざとらしく視線を逸らして答えた。
綺麗だ。
悔しいほどに、綺麗だった。
俺が軽口で言った『蝶々夫人』なんて目じゃない。今の彼女は、百年の時を超えて、この一瞬のためだけに咲いた月下美人のようだった。
「……行きましょうか、慶祐さま」
ちせが、そっと俺の袖を引いた。

その時、居間から父が出てきた。
父は、出かける俺たちを見て、何か小言を言おうとしたようだが、ちせの姿を見て言葉を呑み込んだ。
その目が、驚きに見開かれている。
「……親父?」
「いや……」
父はバツが悪そうに視線を逸らし、ボソリと呟いた。
「母さんの……お前の祖母さんの若い頃に、よう似とるな」
それだけ言って、父は奥へと引っ込んだ。
ちせは深々と、その背中に一礼した。
俺は胸が熱くなるのを感じた。父の中で、何かが少しだけ解けたのかもしれない。あるいは、ちせが纏う空気が、この家の古い記憶と共鳴したのだろうか。
「行きましょう」
俺はちせの手を握った。
温かい。若菜の体温だ。
だが、その奥にある魂は、今にも指の隙間から(こぼ)れ落ちてしまいそうに(はかな)かった。
「ああ。行こう」
俺たちは、御影神社の石段を降り始めた。
眼下の街は、すでに無数の提灯(ちょうちん)の灯りと、爆竹の白煙に包まれている。
*     *     *
東小島から繁華街へ降りると、大波止(おおはと)へ続く道は火薬の匂いと熱気で満ちていた。
ドーイ、ドーイ。
男たちの掛け声と共に、大小様々な精霊船が通り過ぎていく。
数メートルもある巨大な船から、子供が一人で引くような小さな船まで。それぞれの船には、故人の遺影と、好きだったものが飾られている。
ババリバリバリッ!!
耳をつんざく爆音が、すぐ足元で弾けた。
道路に()かれた爆竹の束に、次々と火が点けられていく。
「きゃっ!」
ちせが身を(すく)ませ、俺の腕にしがみついた。
明治の静かな送り火しか知らない彼女にとって、この轟音は戦争か何かに思えるかもしれない。
「大丈夫か!?」
俺は大声で叫んだ。そうしないと、爆音にかき消されてしまうからだ。
「は、はい! ……驚きました。でも……」
ちせは、煙の向こうを行く精霊船を見つめながら、大きな瞳を潤ませた。
「皆様、笑顔なのですね」
そうなのだ。
船を引く遺族たちは、汗だくになりながら、どこか晴れやかな顔をしている。
泣きながら、でも笑っている。
悲しみを爆音で吹き飛ばし、愛する人を「じゃあな」と盛大に送り出す。それがこの街の、別れの作法だ。
無数の提灯(ちょうちん)を揺らしながら、光の列は港へと続く。その先にあるはずの西方浄土(さいほうじょうど)を目指して、精霊船の隊列はゆっくりと進んでいく。

「ちせ」
俺は、雑踏に紛れて彼女の名前を呼んだ。
この轟音の中なら、誰にも聞かれない。神様にも、若菜にも。
「……ずっと、このままでいいのに」
本音が、零れた。
宮崎なんて行かなくていい。
家業を継いだっていい。
お前がいてくれるなら、俺はこの坂の街で生きていける。
だが、ちせは首を横に振った。
爆竹の光が、彼女の横顔をストロボのように明滅させる。

「だめです。ここに留まっちゃいけません。……あの方は、慶次郎さまは、選べなかったのです。『家』を守るために、ご自分の夢も、私との約束も、すべて飲み込んでしまわれた」
「ですが、貴方様は違います。慶祐さま、貴方様は『翼』を持っておられる。どうか私の、そしてあの方の分まで……海を越え、山を越え、もっと広い世界へ羽ばたいてください」
彼女は、俺の胸元――内ポケットに入っている、あのお守りの位置に手を当てた。
「若菜さまの願いを、無駄にしてはなりません。……それに」
ちせは、寂しげに、けれど凛として微笑んだ。
「私も、お返ししなきゃいけません。……私を温かく迎えてくださった、この体の持ち主へ」

その時、至近距離で爆竹の箱が炸裂した。
バリバリバリッ! という轟音。
視界が真っ白な煙に覆われ、火薬の破片が降りかかる。
「……っ、あぁ!」
ちせが苦しげに(うめ)き、その足がもつれた。
見れば、ちせの周りを爆竹の煙が竜巻のように飲み込んでいく。魔除けの爆竹だ。
「ちせ!」
俺は咄嗟に、彼女の手を強く握り返そうとした。
だが、彼女は宙をつかむようにして、膝から崩れ落ちた。
「ちせ!?」
抱き留めた彼女の体は、高熱を出したように熱く、そして激しく痙攣(けいれん)していた。
彼女の意思とは無関係に、肺が酸素を求め、心臓が早鐘を打って、異物である魂を外へ弾き出そうと暴れているのだ。

若菜の体が、「生きたい」と悲鳴を上げている。

それは同時に、ちせへの死刑宣告でもあった。

「慶祐さま……。体が、私を……もう、限界みたい」
ちせの輪郭が、陽炎(かげろう)のように揺らぐ。
精霊船の行列が放つ熱気と、彼岸へ向かう風が、彼女の背中を押している。
「だめ。私に触れたら……貴方様の生気まで吸い取られてしまう」

敬語が、落ちている。

百年ぶんの躾が剥がれて、剥き出しの声だけが残っている。
こいつが本当に必死になったとき、明治は消えるのだと、俺はこのとき初めて知った。
「馬鹿言うな!」
俺は叫んだ。周囲の爆音にかき消されまいと、喉が裂けるほど叫んだ。
「ここで離したら、もう二度と会えない! だから……!」

俺は煙の中へ踏み込み、逃げようとする彼女の体を、正面から強引にかき抱いた。
一瞬、ひやりとした冷気が腕を抜けた。
まるで空っぽの服だけを抱いているような、頼りない感触。魂が抜けかけているのだ。
「戻ってこい! まだ……まだ礼も言うとらん! 若菜に、お前に、何も返せとらんのに!」
俺は祈るように腕に力を込めた。俺の熱よ、全部持っていけ。だから、あと少しだけここにいてくれ。

ドクン。
俺の心臓の熱が伝わったのか、腕の中の冷たい空洞に、温かい鼓動が戻ってきた。
実体が、質量を持って俺の腕に戻る。
「……慶祐、さま」
ちせが、俺の胸に顔を埋めて泣いていた。
「ありがとうございます。温かい……。貴方様は、本当に……お優しい方」
「当たり前だ。……帰ろう、ちせ。俺たちの場所へ」

俺は彼女を支え、東小島の急な坂道を見上げた。
登り始めると、爆竹の音は少しずつ遠ざかり、代わりにちせの荒い息遣いが耳に届くようになった。
繋いだ手のひらから、温度が急速に失われていく。
それでも、俺たちは止まらなかった。
海から吹き上げる湿った夜風が、俺たちの行く手を阻むように叩きつけてくる。
けれど、今の俺はそれよりも速い。
地面を蹴るたび、体中の血液が沸騰し、重力が消えていくような錯覚を覚える。

俺は、彼女の手を強く握りしめたまま、一心不乱に石段を駆け上がった。
助走をつけて空へ飛び立とうとする機体のように。
この坂を登りきれば、すべてが終わる。
そのことを互いに知りながら、俺たちは最後の時間を駆け抜けた。
あの瞬間。
俺たちは確かに――風を追い越した。