転校生 ~鏡の中のちせ~

梅雨が明け、本格的な夏が到来したある日の放課後。
御影(みかげ)神社の境内は、油蝉(アブラゼミ)の鳴き声と、むせ返るような緑の匂いに包まれていた。
学校から帰った俺は、社務所の縁側で麦茶を飲みながら、庭を掃き清めているちせを眺めていた。
若菜の祖母が縫ってくれたという白い割烹着(かっぽうぎ)姿。竹箒(たけぼうき)を動かす所作一つとっても、舞いのように無駄がなく美しい。
彼女が来てからというもの、荒れ放題だった境内は見違えるように清められている。
ふと、ちせの手が止まった。
彼女は竹箒を抱えたまま、不思議そうに空を見上げている。
「……慶祐さま」
「ん?」
「空に、道ができております」
俺も縁側から身を乗り出し、彼女の視線を追った。
高く、どこまでも澄み渡る夏の青空。
そのキャンバスを、西の方角へ向けて、一本の白い直線が音もなく切り裂いていた。
先端には、太陽の光を反射して銀色に光る、米粒のような点が見える。
「飛行機雲やね。ジェット機が飛んでるんだよ」
「あの中に、人が乗っているのですか?」
「ああ。何百人も乗せてな」
俺は立ち上がり、縁側から降りてちせの隣に立った。
ゴォォォ……と、遅れて微かな音が降ってくる。それほどまでに高い場所を飛んでいるのだ。
「あれだけ高度が高いと、国内線じゃないな。たぶん、中国か東南アジア……海の向こうの異国へ向かう便だ」
「異国……!」
ちせが目を見開いた。
「あのような高い場所を通って、海を越えていくのですか? まるで龍神さまのようです」
「龍神か……。まあ、現代の龍みたいなもんだな」
俺は(まぶ)しそうに目を細めた。
地面(ここ)から見上げれば、ただの白い線だ。
けれど、あの機体の窓からは、丸みを帯びた水平線や、ちっぽけな日本列島が見えているはずだ。この御影神社のしがらみなど、(ちり)のようにしか見えない高さ。
「慶祐さまは……」
ちせが、ふと俺の横顔を覗き込んだ。
「あちら側へ、行きたいのですね」
見透かされている。
俺は無意識のうちに、憧れと羨望(せんぼう)を込めた目で空を見ていたのかもしれない。
誰にも――父にさえ真正面からは語れなかった本音。
だが、この百年前の少女になら、話してもいい気がした。
「……ああ。俺の夢は、パイロットになることだ」
俺は、消えゆく白い線を指差した。
「あの鉄の翼を操って、鳥みたいに自由に空を渡るんだ。そのために、宮崎にある『航空大学校』っていう、操縦訓練をする学校に行きたいと思ってる」
「ぱいろっと……」
ちせは不慣れな単語を口の中で転がし、それから俺と、空の彼方を交互に見比べた。
笑われるだろうか。
神社の跡取りが、空を飛びたいなんて。父のように「地に足が着いていない」と呆れるだろうか。
だが、違った。

俺が視線を戻すと、ちせは目をキラキラと輝かせ、うっとりと両手を合わせていたのだ。
「素敵です……」
溜め息のような声だった。
「慶祐さまは、鳥になられるのですね」
「鳥って……まあ、そんなもんか。鉄の塊だけどな」
俺が照れ隠しに頭をかくと、ちせは真剣な顔で首を振った。
「私の時代には、異国など夢のまた夢。海を渡るにも何日もかかり、空を見上げても、そこは神様か鳥だけの領域でした」
彼女は、自分の足元――地面に根を張る草履(ぞうり)を見つめ、それから再び俺を見た。
「でも、貴方様には翼がある。……きっと、似合いますわ。貴方様が空の一部になって、風を切って飛ぶお姿が、私には見えます」
その言葉は、どんな励ましよりも深く、俺の乾いた胸に染み渡った。
父には否定され、若菜には理解されず、孤独に抱えていた夢。
それを、百年前の少女だけが、混じりけのない純粋な瞳で、真っ直ぐに信じてくれている。
「……ありがとう、ちせ」
飛行機雲は風に流され、やがて青空に溶けて消えていった。
けれど、俺の心には確かな熱が残った。
隣に並ぶ彼女の、樟脳(しょうのう)の混じった甘い香りが、夏の風に乗って鼻をくすぐる。
この人が信じてくれるなら、俺は本当に空を飛べるかもしれない。
そう思わせてくれる力が、彼女の笑顔にはあった。

しばらくの間、俺たちは言葉もなく、蝉時雨(せみしぐれ)に包まれていた。
やがて、ちせが竹箒を握り直して、おずおずと口を開いた。
「……あの、慶祐さま」
「ん?」
俺が視線を戻すと、彼女はさっきまでの晴れやかな表情とは打って変わり、ひどく言いにくそうに眉を寄せていた。
「折り入って、ご相談がございます」
「なんだ? またトイレの流し方が分からんのか」
「いいえ。……髪でございます」

彼女は、少し俯いて自分の髪に触れた。
黒く見えていた髪の根元が、汗で濡れて少し茶色く浮いている。それに、祖母に振られた黒染めスプレーのせいで、毛先がゴワゴワと束になって固まっていた。
「この黒い粉が、制服の襟を汚してしまいますし……何より、洗うたびに落ちてしまうのです。このままでは、元の『茶髪』という浅ましい色に戻ってしまいます」
ちせは悲痛な面持ちで訴えた。
明治の女性にとって、髪は命。茶髪など、彼女の美学が許さないのだろう。
「お祖母(ばあ)さまが気を使って塗ってくださいましたが、これでは限界がございます。なにか、私の髪を……本来の『漆黒』に戻す方法はございませんでしょうか」
上目遣いに見つめられ、俺は頭を抱えた。
方法は、ある。あるにはあるが……。
「……金がかかるんだよな」
「かね、でございますか? おいくらほど……」
「美容室で黒染めして、その傷んだ髪をサラサラにする縮毛矯正、それにトリートメントまで入れたら……二万円くらいかな」

俺が金額を告げると、ちせは目を丸くした。
「に、にまんえん……!」
と絶句して口元を覆った。彼女の感覚では、家が一軒建つくらいの大金かもしれない。
「わ、私のような身分の者が、そのような大金を……。諦めます。墨汁でも被ることにいたします」
「待て待て! それじゃホラーだ!」
俺は慌てて止めた。

財布の中身と、進学のためにコツコツ貯めていた通帳の残高を脳内で計算する。
二万円。決して安くはない。
だが、俺の躊躇(ためら)いは、金額だけの問題ではなかった。
(……俺に、若菜の容姿を変える権利があるのか?)
若菜が髪を茶色に染めたのは、東京で「舐められないため」だった。
それは彼女が自分を守るために(まと)った鎧だ。それを、ちせの願いとはいえ、俺の力で勝手に剥ぎ取ってしまっていいのか。
それは、若菜という人格の否定にならないか。

ふと、三年前の記憶が蘇る。
東京へ行く前日。若菜は自慢の黒髪を指で()きながら、不安そうに言ったっけ。
『向こうの子はみんな髪が明るいんやって。……染めなきゃ、いけんのかな』
あいつは、本当は染めたくなんてなかったんだ。
自分の黒髪が好きだったのに、環境に合わせて無理をして、傷つけて、ボロボロにしてしまった。

「……出してやるよ」
俺は顔を上げた。
これは、ちせのためだけじゃない。
若菜が捨ててしまった「本来の自分」を、取り戻してやるための儀式だ。
「その代わり、出世払いで返せよ」
「け、慶祐さま……!」
ちせは感激のあまり、また砂利の上で土下座しようとしたので、俺は慌ててその襟首を掴んで引き上げた。
*     *     *
浜の町アーケードにある美容室。
店内に充満するパーマ液とシャンプーの匂いに、ちせは「異国の薬の匂いがします」と鼻をヒクつかせていた。
「じゃあ、カラーと縮毛矯正、あと一番いいトリートメントで。とにかく、真っ黒でサラサラにしてください」
「はいはーい、彼氏さん太っ腹ですね〜」

美容師のお姉さんの言葉を否定する気力もなく、俺は待合のソファに沈み込んだ。
財布から渋沢栄一が旅立っていく。俺の宮崎行き進学資金が、幼馴染の髪の毛に消える。
だが、これは必要経費だ。そう自分に言い聞かせて、俺は雑誌を手に取った。
施術中、ちせは大人しく座っていたが、鏡の前に置かれたファッション誌を、食い入るように読みあさっていた。
俺がコーヒーを飲みながら様子を伺うと、彼女は俺に気づき、鏡越しに興奮したような瞳を向けた。
「慶祐さま。令和の女性は、このような派手な装いを、誰に気兼ねすることなく楽しめるのですね」
「ああ、まあな」
「素晴らしいです。私の時代では、少し新しいものを身につけるだけで、眉をひそめられましたから……。ここは、本当に自由な世界なのですね」
その瞳の輝きを見て、俺はふと違和感を覚えた。
こいつは「古風な大和撫子」だと思っていたが、根っこの部分では、俺と同じように「新しい世界」に飢えていたのかもしれない。

待つこと三時間半。
ようやく、美容師の声が掛かった。
「お待たせしました〜! すっごく綺麗になりましたよ!」
俺は重い腰を上げ、セット面の方へ向かった。
そして、言葉を失った。
そこに座っていたのは、長与若菜であって、若菜ではなかった。
傷んで茶色がかった髪は、吸い込まれるような濡羽色(ぬればいろ)に染め上げられている。
縮毛矯正とトリートメントによって、うねっていた癖毛は、絹糸を垂らしたような直毛へと生まれ変わっていた。
天使の輪が、照明の光を反射して輝いている。
当の本人は、鏡の中の自分を凝視していた。
「……やば」
小さな声だった。
「えっ!」
ちせが、自分の口を手で覆っている。
「今、なんて言うた」
「何も……申しておりません」
「言うたやろ。やば、って」
耳まで赤くなっている。三時間半かけて艶を出した黒髪の中で、そこだけが色を変えていた。
「あの……雑誌に、書いてございました」
「読んどっただけで移ったとか」
「人は、聞いた言葉から順に覚えるのだと存じます」
そう言い直したその一言は、また百年前に戻っていた。

椅子がくるりと回転し、彼女がこちらを向く。
「……慶祐さま」
ちせが、恥ずかしそうに頬を染めて俯いた。
サラリ、と黒髪が肩から滑り落ちる。その動きの滑らかさ。
肌の白さと黒髪のコントラスト。
それは、俺が夢想し、冗談めかして語っていた『理想の大和撫子』が、完全な解像度を持って具現化した姿だった。

「いかが……でしょうか。変では、ございませんか?」
彼女がおずおずと上目遣いをする。
長い睫毛と、漆黒の髪。その破壊力に、俺の理性がガラガラと音を立てて崩れそうになった。
綺麗だ。
悔しいけれど、とてつもなく綺麗だ。
ガサツな幼馴染の顔立ちが、髪型と中身が変わるだけで、これほどまでに神秘的な美少女に化けるなんて。
――その瞬間、俺の脳裏に冷ややかな違和感が走った。

ちょっと待てよ。

俺は今、何に金を出して、誰に見惚れている?
目の前にいるのは「ちせ」だ。だが、その体は「若菜」のものだ。
俺は、コンプレックスを隠すために若菜が必死で染めた茶髪を、ちせの要望とはいえ黒髪に染め直させ、あいつの体を勝手に「理想の女」に作り変えて喜んでいるのか?
それは、若菜という人間の尊厳を、俺自身が踏みにじっていることにならないか?
指先が冷たくなる。
ちせの笑顔が眩しければ眩しいほど、その影で押し殺されている幼馴染の存在が、鉛のように俺の良心を押し潰す。

「か、彼氏さん? 見惚れちゃってますぅ?」
美容師に冷やかされ、俺はハッと我に返った。
心が痛んだ。
恋のときめきを通り越して、鋭利な罪悪感による痛みが俺を襲った。
「……悪くない。前のタワシみたいな頭よりは、マシだ」
憎まれ口を叩くのが精一杯だった。そうでもしなければ、自分が保てなかった。

ちせは、俺のぶっきらぼうな言葉をどう解釈したのか、鏡の中の自分に向かって、うっとりと微笑んだ。
「魔法のようでございますね……。ありがとうございます、慶祐さま。この髪は、私の宝物にいたしま――」
言いかけた言葉が、唐突に途切れた。
ちせの表情が、サッと曇る。
彼女は眉を寄せ、自分の胸元をギュッと握りしめた。
「……っ」
「おい、どうした? 気分悪いのか?」
俺が慌てて駆け寄ると、ちせは困惑した瞳で俺を見上げた。
その瞳の奥が、小刻みに揺れている。
「いいえ、違うのです。……痛いのです」
「痛い? 頭皮が染みたか?」
「違います。ここが……胸の奥が、針で刺されたように痛むのです」
彼女は苦しげに息を吐いた。
「私はこんなに嬉しいのに、綺麗な髪になれて幸せなのに……。奥底から、黒くて熱い感情が湧き上がってきて、私の心を締め付けるのです。悲しい、悔しい、羨ましいと……誰かが泣いているような……」
その言葉に、俺は息を詰まらせた。
誰かが泣いている?
まだ階段から落ちたときの後遺症があるのだろうか。
「……気のせいだろ。疲れたんだよ」
俺は努めて明るく振る舞い、会計を済ませた。
二万円を支払う手が、少しだけ震えたのは、金額のせいだけではなかった。
店を出て、夜のアーケード街を歩き出す。
隣を歩くちせの髪が、夜風に揺れてサラサラと音を立てる。その艶やかな黒髪に、すれ違う男たちがハッとして振り返るのを、俺は複雑な気分で睨みつけた。
ちせは時折、不安そうに胸元をさすっている。
この時の俺はまだ、その「痛み」の正体に気づいていなかった。
俺たちが笑い合うそのすぐ裏側で、置き去りにされた心が、音もなく叫び声を上げていることに。
*     *     *
そこは、
冷たい水の底のようだった。
私は暗い水槽の中から、
分厚いガラス越しに外の世界を覗いている。
体はピクリとも動かない。
声も出ない。
ただ、視覚と聴覚だけが、残酷なほど鮮明に生きていた。

あの日から、ずっとこうだ。
石段から落ちて、痛みも雨音も遠ざかって、それでも私は消えなかった。
暗くて、冷たくて、体の輪郭が分からない。手を動かそうとしても、動かすべき手がどこにあるのか思い出せない。
(死んだのかな)
そう思っていた。
そのほうが、まだ楽だった。
けれど、瞼が開いた。
私の意思ではなかった。
灰色の天井。白いカーテン。細い管の通った自分の腕。見えているのに、瞬きひとつ、私には選べない。
首が動いた。私が動かしたのではない首が、ゆっくりと右を向く。
そこに、慶祐がいた。
泥だらけの制服のまま、椅子に浅く座って、私の顔を覗き込んでいた。目が真っ赤だった。あんな顔をするのか、と場違いなことを思った。
呼ぼうとした。
慶祐、と。
ここにおるよ、と。
けれど、私の口は別の言葉を発した。
「やっと……やっとお会いできました」
聞いたことのない声だった。私の声帯から、私の知らない少女の声が出ていった。上品で、古風で、鈴を転がすような。
慶次郎(けいじろう)さま。……ずっと、お待ちしておりました」
違う。その人は慶次郎じゃない。慶祐だ。私の幼馴染で、私が三年間ずっと、一度も忘れられなかった――。
叫んだ。
声にならなかった。
叫び続けた。
音は、どこにも届かなかった。
あのとき、私は理解した。
消えてしまえばよかった、と願ったのは私だ。
願いは叶ったのだ。いちばん残酷な形で。
それから、三ヶ月。
私はこの水槽の底から、自分の人生を他人が生きるのを見ている。

目の前の鏡に、少女が映っている。
私だ。
長与若菜だ。
けれど、それは私の知らない私だった。
ブラックのカラーで染め上げられた、(つや)やかな髪。
天使の輪が、美容室の照明を反射して輝いている。
私が東京で「舐められないように」と必死で脱色し、痛めつけた髪が、魔法のように美しく生まれ変わっている。
(……綺麗)
悔しいけれど、そう思ってしまった。
私がどんなに頑張っても手に入らなかった「自信」を、鏡の中の私は、ただ座っているだけで纏っている。

椅子が回転する。
視界がぐるりと回り、そこには慶祐がいた。
「……」
あいつが、息を呑んでいるのが分かった。
その目。
熱を帯びて、眩しいものを見るように細められた瞳。
頬が微かに紅潮し、口元がだらしなく緩んでいる。

私の心臓が(いや、今はちせの心臓か)、嫌な音を立てるのがわかった。
(嘘でしょ……)
やめてよ。
そんな顔、しないでよ。
あんた、私には一度だって、そんな顔を見せたことなかったじゃない。

脳裏に、東京での記憶がフラッシュバックする。
あれは、転校して最初の一ヶ月。私が初めて髪を染めた日のことだ。
渋谷の美容室。高いお金を払って、モデルの子と同じ明るい色にしてくださいと頼んだ。
これで私も、東京の女子高生になれると思った。
『……ぷっ』
教室に入った瞬間、誰かが吹き出した音が聞こえた。
『ねえ見て、あの髪』
『張り切りすぎじゃない? 逆にイモっぽくない?』
『長崎から来たんでしょ? 無理しちゃって』
ヒソヒソ話。クスクス笑い。

トイレの鏡に映っていたのは、垢抜けた都会の女子高生じゃなかった。髪だけ明るくて、眉毛も肌も浮きまくっている、ひどく滑稽(こっけい)田舎娘(ピエロ)だった。
恥ずかしかった。穴があったら入りたかった。
でも、黒髪に戻せば「負け」を認めることになる。だから私は、さらにスカートを短くし、アイラインを濃く引いて、睨みつけることで自分を守った。
「私はこういうキャラだから」と強がって。誰とも目を合わせないようにして。
そうやって孤立して、居場所をなくして、結局逃げ帰ってきたのに。
なのに。
目の前の鏡の中で、ちせが微笑んでいる。
私が「ダサい」「田舎臭い」と捨て去ったはずの黒髪で。
何も飾らない、ありのままの姿で。

『魔法のようでございますね……。ありがとうございます、慶祐さま』
私の口が、勝手に動く。
鈴を転がすような、甘ったるい猫なで声。

慶祐は、満更でもなさそうに頬を緩めている。
その表情を見た瞬間。
私の意思とは無関係に、目頭が熱くなった。
悲しくなんてない。
悔しくなんてない。
そう思っているのに、視界が勝手に(にじ)んでいく。
喉の奥が引きつり、叫び声が込み上げてくるのを、必死で噛み殺す。

やめて。
そんな顔、しないでよ。
私には一度だって見せたことのない、そんな(とろ)けるような目を、私の顔をした「別の女」に向けないで。
(……痛い!)
嫉妬という名の刃物が、内側から胸を裂こうとする。
止められない。
私の感情が、ちせの制御を振り切って、肉体を食い破ろうとしていた。
『……胸の奥が、針で刺されたように痛むのです』
ちせが怯えたように慶祐に訴える。
ざまあみろ、と少しだけ思った自分の気持ちが情けなかった。ただ、惨めで、痛くて、涙が止まらなかった。
*     *     *
美容室の帰り。
夜七時の浜の町アーケードは、週末を楽しむ人々で賑わいを見せていた。
ショーウィンドウの明かりが、ちせの艶やかな黒髪を照らし出す。そのあまりの美少女ぶりに、すれ違う何人かが振り返るのを感じながら、俺は彼女の少し前を歩いてガードしていた。
その時。
前方のタピオカ屋の前に、見覚えのある制服の集団がたむろしているのが見えた。
その中心で、派手なメイクの少女――斉藤一美が、気怠(けだる)そうにカップを揺らしている。
「……あ」
俺は身構えた。また何か言ってくるのか。
だが、違った。
周りの取り巻きたちは、スマホを見せ合って馬鹿笑いをしていて、こちらには気づいていない。ただ一人、一美だけが飲みかけのカップを持ったまま、黒髪になった若菜(ちせ)を凝視し、雑踏の中でそこだけ時間が止まったように立ち尽くしている。
得体の知れない「美しい怪物」を見てしまったかのような、戦慄(せんりつ)と困惑の表情で。
一美の視線が、ゆっくりと俺に移る。
そこには、無言の、けれど痛いほどの問いかけがあった。
――おい。あんた、若菜に何をしたん。
俺は一美から目を逸らし、ちせの視界を(さえぎ)るように背中を押して歩調を早めた。
ちせは、一美の存在に気づいていない。ただ、俺が急に急ぎだしたことを不思議に思ったようだった。
「慶祐さま? どうかなさいましたか?」
「……いや。なんでもない」
背中に、一美の視線が突き刺さるのを感じた。
俺たちは無言のまま、アーケードを抜けて東小島へと続く暗い坂道を登り始めた。

路地裏の街灯は頼りなく、俺たちの足元に長い影を落としている。
「……足元、気をつけろよ」
「はい。ありがとうございます」
ちせは、艶やかになった黒髪を夜風に(なび)かせながら、軽やかに石段を登っていく。
その横顔は、二万円の魔法のおかげか、あるいは久しぶりに外の世界に触れた高揚感からか、月明かりの下で白く輝いていた。
(……二万円か)
俺は財布の軽くなった尻ポケットをさすり、小さく溜め息をついた。
受験資金が減ったことは痛い。だが、不思議と後悔はなかった。
隣を歩く彼女が、時折嬉しそうにガラス窓に映る自分の髪を確認する仕草を見るたび、むず痒いような満足感が込み上げてくるからだ。

艶やかな黒髪になったちせと並んで歩きながら、俺はずっと気になっていたことを尋ねた。
「なあ、ちせ。……お前、本当は『長与』の家の人間じゃないのか?」
ちせの足が、ピタリと止まった。
夜風が彼女の新しい髪を揺らす。彼女は振り返り、きょとんとして俺を見た。
「なぜ、そう思われるのですか?」
「お前、若菜の家での振る舞いが自然すぎるんだよ。仏壇の場所も、古井戸の位置も知っとったやろ。それに……俺の家(宮部)と隣同士で、曾祖父さんのことまで知ってるとなりゃ、答えは一つしかない」
俺の言葉に、ちせは観念したように息を吐き、寂しげに微笑んで頷いた。
「……はい。ご明察の通りでございます」
「やっぱり、そうか」
若菜の苗字と同じ「長与」。偶然にしては出来すぎていると思っていた。
「長与の家は、私の実家でございます。若菜さまは……私の弟の、そのまた孫にあたるのでしょうか」
「ひ孫ってことか。血が繋がっとるんやな」
「ええ。鏡越しに若菜さまのお顔を見たとき、驚きました。まるで……鏡の中に、若き日の私がそのまま立っているようでしたから」
ちせは懐かしむように、自分の頬に手を当てた。
「血の因縁……とでも申しましょうか」
彼女は神社の鳥居を見上げた。
「あの手鏡……あれは本来、私が慶次郎さまの元へ嫁ぐ際、結納の品として頂戴するはずでした」
「嫁ぐ?」
「はい。私と慶次郎さまは、祝言(しゅうげん)を挙げる約束をしておりました」
ちせの声が、微かに震える。そこには百年の時を超えても色褪せない、悔恨の色が滲んでいた。
「けれど、叶いませんでした。……私が『新しいもの』に惹かれすぎたあまり、周囲から浮いてしまったことが原因でした」
「浮いた?」
「はい。ハイカラ、お転婆、西洋かぶれ……。散々な言われようでしたわ」
彼女は困ったように目を伏せた。
「私は、古い因習に縛られた『女の幸せ』など欲しくありませんでした。
もっと広い世界が見たかった。海の向こうの知識を学び、自分の足で立ちたかった。
ですが、当時の長与の家にとって、それは『恥』でしかありませんでした」
彼女は視線を落とし、握りしめた拳を胸に当てた。
「慶次郎さまも……最後には『家』を選ばれました。神職の家系が、異人の商館に出入りするような跳ねっ返りを嫁にはできんと、親族に反対されたのです」
「……曾祖父さんが」
「あの方は、優しすぎたのです。私との約束よりも、御影の(やしろ)を守る責任を選ばれた。……別れの際、あの方は泣きながら、あのビードロの手鏡を私に手渡しました。『せめてもの詫びだ』と」
ちせは、昨日のことのように語る。
「私はその鏡を受け取り、あの方を罵りました。『卑怯者』と。そして……」
「そして?」
「その年の冬、私は流行り病に倒れました」

ちせは、自嘲するように寂しく微笑んだ。

「バチが当たったのだと、思いました」
「バチ?」
「はい。女だてらに学問を好み、異国の文化に憧れ、親の決めた縁談よりも『自由』を欲しがった……。そんな身の程知らずな私を、八百万(やおよろず)の神々がお許しにならなかったのでしょう」
彼女の声が、夜の静寂(しじま)に沈んでいく。
「高熱にうなされながら、私は毎晩、枕元の手鏡を覗き込みました。
そこには、夢破れ、やつれ果てた女の顔が映っていました。
私は、鏡の中の自分に問いかけ続けました。
……いけなかったの?
ただ、あのガラスの向こうにある景色を見たかっただけなのに。
恋をして、お洒落をして、誰の目も気にせず笑い転げてみたかった。
たったそれだけの願いさえ、『罪』だったのでしょうか、と」

ちせの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「答えの出ぬまま、私は息絶えました。……無念だけを、その鏡に残して」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「ですが、百年経って……神様は、最後に情けをかけてくださったのかもしれません」
「情け?」
「ええ。『罪滅ぼし』の時間です。
私と同じ血を引き、私と同じように『変わりたい』と願う若菜さまを通して……
かつて私が夢見て、けれど罰せられると恐れて諦めた『自由な世界』を、
もう一度見せてやろうと。
そうして、貴方様が封印を解かれた」
ちせは、祈るように両手を組んだ。

「慶祐さま。ここは、本当に素晴らしい時代ですね。
誰もが好きな服を着て、好きなことを学び、自分の足でどこへでも行ける。
私の願いは……決して、間違いではなかったのですね」

全部、繋がった。
偶然ではなかった。
俺が蔵から鏡を見つけ出したことも、若菜がその場に居合わせたことも。
「慶祐さま」
ちせが、祈るように両手を組んだ。
「これは、きっとやり直しの機会なのです。
あの日、慶次郎さまが選べなかった『自由』を。私が掴めなかった『未来』を。
貴方様と若菜さまなら、きっと掴み取れるはずだと……神様が、一度きりの奇跡をくださったのです」

俺たちは無言のまま、迷路のようなコンクリートの坂を抜け、御影神社の参道へと差し掛かった。
三百段の石段。
その入り口にある紫陽花(あじさい)の茂みが、街灯の光を受けて闇の中に浮き上がっている。

あの日。
雨の中で、若菜が倒れていた場所だ。
俺は無意識に足を止めた。
ちせも、何かに引かれたように立ち止まる。
「……ここですね」
彼女が静かに呟いた。
「私が、この体の持ち主……若菜さまと入れ替わってしまった場所」
「ああ。……ちせは、その時のこと覚えとると?」
「いいえ。目が覚めたら、病院のベッドでしたから」
ちせは寂しげに眉を下げ、紫陽花の葉に触れた。
その時、彼女の顔が歪んだ。
美容室でそうしたように、また胸元をギュッと握りしめる。
「……っ」
「おい、また痛むのか?」
「はい……。ここに来ると、痛みが強くなるのです。悔しさ、悲しみ……そして、誰かを強く想う、焦がれるような熱が」
ちせの言葉に、俺は胸を突かれた。
誰かを想う熱。
あいつが? まさか。あいつは俺の夢を笑い、東京から逃げ帰ってきた自分を卑下していただけじゃなかったのか。
俺は、何気なく茂みの奥へ視線をやった。
雨で洗われたはずの地面。枯れた葉と泥が堆積している暗がり。
そこに、不自然な「白」が落ちているのが見えた。
「……ん?」
俺は(かが)み込み、手を伸ばした。
指先に触れたのは、泥で固まった布の感触だった。
それを拾い上げ、街灯の明かりにかざす。
息が、止まった。
それは、フェルト生地で作られた、小さな手作りのお守りだった。
泥と雨水に晒されて薄汚れているが、不格好な手縫いの跡ははっきりと分かる。
裏側に、赤い刺繍糸(ししゅういと)で文字が縫い付けられていた。

『慶祐 絶対合格』

泥を拭う指が、そこで止まった。
「……これは!」
声が震えた。
合格? 俺の、航空大の?
あの日、雨の坂道で、あいつは言ったはずだ。
『よかったね、あんたは行きたい場所があって』
と。あの冷たい声は、突き放すような響きだった。
なのに。
あいつは、こんなものを作っていたのか。
ここを出て行こうとする俺を、本当は応援しようとしていたのか。
いや、違う。
『お前みたいに、帰ってくる場所ば探しとる奴やなくて、大和撫子みたいな美人と出会えるかもしれんやろ』
俺の残酷な言葉が、脳内で再生される。
このお守りを、あいつはいつから持っていた?
俺との待ち合わせ場所に来る前から、ポケットに忍ばせていたのか。それとも、家に荷物を置いて、これだけを握りしめて神社へ走ったのか。
どちらにせよ、あいつは傷つきながら、俺に拒絶されながら、それでもこれを俺に渡そうとしていた。
泥にまみれたその不格好なフェルトは、まるで若菜そのものだった。
俺に拒絶され、理想の大和撫子を突きつけられ、それでもなお、神様に俺の合格を祈ろうとして――そして、石段を落ちた。
「……馬鹿野郎」
視界が滲んだ。
手の中の汚れたフェルト生地が、熱を持っているように感じられた。
ガサツな振る舞いで隠していた、不器用で、一途で、痛々しいほどの恋心。
「慶祐さま」
ちせが、俺の隣に膝をついた。
彼女は、俺の手の中にある泥だらけのお守りを、悲しげな瞳で見つめていた。
そして、そっと俺の手に、自分の手を重ねた。
(ぬく)うございます」
「……え?」
「若菜さまの体は、いつも温かいのです。特に、慶祐さまのお顔を見ると、胸の奥がぎゅっと熱くなるのが分かります」
ちせは、自分の胸――若菜の心臓がある場所――に手を当て、確信を持って告げた。
「慶祐さま。……あの子は、まだここにいます」
「ここに……?」
「はい。ずっと、見ておられるのです。私の目を通して、貴方様を」
その言葉は、決定的な真実として、夜の静寂(しじま)に落ちた。
俺は何も言えず、ただ泥だらけのお守りを握りしめた。
二万円で綺麗になった黒髪の美少女。
泥にまみれて落ちていた、不格好なお守り。
俺はその場から動けなかった。
「……帰ろう、ちせ」
ようやく絞り出した声は、ひどく(かす)れていた。
「ああ。お祖母ちゃんが、心配しとる」
俺はちせの手を引き、石段を登り始めた。
背後の闇の中で、紫陽花の花が、弔いのように静かに揺れていた。
内ポケットに入れたお守りの重さが、鉛のように俺の歩みを遅くする。

俺は知ってしまった。
俺が恋をし始めている「ちせ」という存在が、俺を一番愛してくれていた「若菜」という犠牲の上に成り立っていることを。
そして、その若菜が今も、体の内側から俺たちを見つめていることを。
長崎の夜景が涙で滲んでいく。
すり鉢状の街に瞬く無数の灯火(ともしび)は、夜空の星々が地上に(こぼ)れ落ちたかのように、涙の奥で温かく、そして鮮烈な光の海となって揺らめいていた。
*     *     *
やめて。
お願いだから、そこは見ないで。
御影神社の暗がり。
慶祐が紫陽花の茂みに手を伸ばした瞬間、私は声にならない悲鳴を上げた。
水槽の水が一気に凍りついたような戦慄が走る。
そこにあるのは、私の「恥」だ。
東京で変われなかった私が、それでも慶祐の役に立ちたくて、徹夜して作った不格好なフェルトの塊。
このまま何者にもなれないと思っていた私が、必死に乙女ぶって針を動かした、滑稽な努力の残骸。
(見ないで……ッ!)
祈りは届かない。
慶祐の大きな手が、泥にまみれた「それ」を拾い上げる。
街灯の光に晒される。
泥汚れの隙間から、赤い刺繍糸が見える。
『慶祐 絶対合格』
ああ、死にたい。
今すぐこの意識ごと消滅してしまいたい。
あんな酷い別れ方をしたのに。あんなに強がっていたのに。
こんな「重たい」ものを持っていたことがバレたら、あいつはきっと笑うだろう。
「柄にもねえな」って。
「やっぱりお前はダサいな」って。
私は身を硬くして、あいつの嘲笑を待った。

「……馬鹿野郎」
けれど。
聞こえてきたのは、震えるような、泣き出しそうな声だった。
視界が滲む。
慶祐が、泥だらけのお守りを、汚いものなんて気にもしない様子で、強く、強く握りしめている。
その熱が、ちせの皮膚を通し、肉の壁を越えて、冷たい水底にいる私の魂にまで伝わってきた。
(……え?)
泣いてるの?
あんた、泣いてるの?
私のために。
美しく着飾ったちせ(私)に見惚れていた時じゃない。
一番みっともなくて、泥だらけで、誰にも見せたくなかった「本当の私」を見つけて、あんたは泣いてくれてるの?

(ぬく)うございます』
ちせが呟く。
余計なことを言わないでよ、と思うのに、彼女の声は優しかった。
『若菜さまの体は、いつも温かいのです。特に、慶祐さまのお顔を見ると、胸の奥がぎゅっと熱くなるのが分かります』
やめて。言わないで。
私の秘密を、全部バラさないで。
でも――

ちょっとだけ、感謝する。
私が今まで言えなかったことを、あんたが代わりに伝えてくれている。
『この体の持ち主は、貴方様のことが、大好きだったのですね』
慶祐が、お守りを握る手に力を込めるのが見えた。
彼の手の中で、お守りが宝物のように扱われているのが見えた。
ああ、悔しい。
悔しいなぁ。
なんで私は、自分の口でそれを言えなかったんだろう。
なんで私は、素直に「頑張れ」って渡せなかったんだろう。
暗い水底で、私は膝を抱えて泣いた。
嫉妬ではない。
自分の愚かさへの後悔と、それでも想いが「届いてしまった」ことへの、どうしようもない気持ちに対する涙だった。
ねえ、慶祐。
あんたが握りしめてくれているソレは、私の心そのものだよ。
泥だらけで、傷だらけで、ちっとも綺麗じゃないけれど。
あんたが大事にしてくれるなら――私はまだ、生きていけるかもしれない。