その後の数日間は、三流の悪夢と、極上の喜劇を同時に見せられているような時間の連続だった。
医師の診断は「転落のショックによる解離性健忘、および人格の変化」。
要するに、頭を強く打ったせいで一時的に記憶が混乱し、別人格が表に出ている状態だ――というのが、医学的かつ合理的な説明だった。
だが、俺だけは知っている。
これは病気ではない。
手鏡の封印が解かれ、百年の時を超えて蘇った霊魂が、長与若菜という空っぽの器を満たしてしまったのだと。
ちせ――若菜の体を借りたその明治生まれの少女は、驚くべき「順応性」を見せた。
いや、正確に言えば、彼女にとっての「順応」とは、置かれた環境で己を殺し、相手に尽くすことと同義だったのだ。
病室で二人きりになった時、俺は彼女に現状を説明した。
今はおよそ百年の時が過ぎた「令和」という時代であること。
俺は慶次郎ではなく、そのひ孫の慶祐であること。
そして、彼女が「長与若菜」として振る舞わなければ、周囲が混乱すること。
彼女は、最初は鏡に映る茶髪の自分を見て絶句し、窓の外に広がる長崎の夜景を見て涙を流していたが、俺の話が終わると、涙を拭って居住まいを正した。
「承知いたしました」
彼女はベッドの上で正座をし(ふかふかのマットレスの上でバランスを取るのに苦労していたが)、凛とした瞳で俺を見上げた。
「私の命を呼び覚ましてくださったのは、慶祐さまです。なれば、この身が消えるその時まで、私は慶祐さまの『若菜さん』として、誠心誠意お仕えいたします」
「いや、仕えなくていいんだ。普通にしててくれれば」
「普通……で、ございますね。精進いたします」
彼女は握り拳を膝に置き、悲壮な決意を滲ませて頷いた。
だが、明治の女にとっての「普通」と、現代の女子高生の「普通」の間には、日本海溝よりも深く広い溝があった。
* * *
入院中の彼女の振る舞いは、看護師たちの間で瞬く間に評判となった。
何しろ、検温に来た看護師に対し、「お手数をおかけいたします」と最敬礼で迎え入れ、食事が配膳されれば、手を合わせて五分ほど感謝の祈りを捧げてから箸をつけるのだ。
「長与さん、見かけによらず、とっても礼儀正しい子なのねぇ」
「いやあ、頭を打っておかしくなっとるだけですよ」
俺は看護師に苦笑いで誤魔化しつつ、ちせの行動をハラハラと見守るしかなかった。
彼女は、出された病院食――味気ないおかゆと薄味の煮物――を、最高級の懐石料理か何かのように、一粒残さず綺麗に平らげた。
最後に器にお茶を注ぎ、沢庵で拭って飲むという徹底ぶりだ。
「……美味いか? それ」
「はい。このような真っ白な白米を、お腹いっぱいいただけるなんて……この時代は、夢のような世の中でございますね」
彼女がしみじみと茶碗を見つめる横顔を見て、俺は何も言えなくなってしまった。
飽食の時代に生きる俺たちが忘れていた感謝が、そこにはあった。
しかし、問題は「機械」だった。
トイレに入った彼女が、自動で水が流れた瞬間に「祟りじゃ!」と半泣きで飛び出してきたり、テレビのリモコンを「操り人形の呪具」だと勘違いして手袋をして触ろうとしたりと、枚挙に暇がない。
そのたびに俺は、「これは科学だ」「電気というやつだ」と幼児に言い聞かせるように説明し、彼女は「なんと……」と目を丸くして感心するのだった。
そして、退院の日。
俺と、俺の両親(父の誠司と母の由美子)、そして若菜の祖母が、病院の玄関で彼女を待っていた。
着替えを済ませた若菜――中身はちせ――が、ナースステーションの方から歩いてくる。
若菜の私服であるTシャツとデニムパンツ姿だが、その歩き方は能楽師のように音を立てず、背筋はピンと伸びていた。
「若菜、大丈夫ね?」
祖母が心配そうに駆け寄ると、ちせは慈愛に満ちた微笑みを向けた。
「はい、お祖母さま。ご心配をおかけいたしました」
そして、彼女は俺と両親の前に進み出ると、立ち止まった。
父が、気まずそうに腕を組む。
父は、若菜の事故が、俺との口論の直後に起きたことを知っている。だからこそ、どんな顔をして幼馴染の彼女に接すればいいのか、測りかねているようだった。
「あの、若菜ちゃん。体はもう……」
父が声をかけようとした、その時だった。
ちせは、病院の玄関の硬いタイルの上に、躊躇いなく両膝をついた。
「えっ!?」
俺が声を上げる間もなく、彼女は両手をハの字に突き、額が床に触れるほど深々と頭を下げたのだ。
見事なまでの、土下座。
自動ドアを行き交う人々が、何事かとギョッとして振り返る。
「この度は、私の不徳の致すところにより、皆様に多大なるご迷惑とご心配をおかけいたしました」
凛とした声が、フロアに響く。
「宮部の旦那様、奥様。そして慶祐さま。この御恩は、海よりも深く、山よりも高く、生涯忘れることはございません。この身が朽ちるまで、必ずやご奉公させていただきます」
シーン、と玄関の空気が止まった。
父は口を半開きにし、母は「まあ……」と頬に手を当てている。
俺は頭を抱えた。
ご奉公って。今は令和だぞ。しかもお前は「幼馴染」であって「使用人」じゃないんだ。
「お、おい若菜。顔を上げろ。みんな見とる」
「いいえ。この感謝の気持ちは、言葉だけでは伝えきれません」
彼女は頑として頭を上げようとしない。
その姿は滑稽だが、同時に、どうしようもなく健気だった。
厳格で知られる父・誠司の表情が、見る見るうちに崩れていくのが分かった。
「う、うむ……。律儀なことだ。頭を上げなさい。大事なくて何よりだったな」
父の声が、かつて聞いたことがないほど優しかった。
毒気を抜かれるとは、まさにこのことだ。
ちせは、ゆっくりと顔を上げた。額に少し埃がついていたが、その瞳は一点の曇りもなく清らかで、俺たちを射抜いた。
俺は確信した。
この「明治生まれの転校生」は、俺の日常だけでなく、俺の家族や、学校の空気さえも、すべて塗り替えてしまうだろうと。
こうして、一週間の自宅療養を経て、復帰の朝がやってきた。
* * *
七時十五分。俺は隣家の玄関先に立っていた。
一人で行かせるのは不安だ、と言ったのは俺のほうだ。若菜の祖母ちゃんも「そうしてくれると助かる」と乗ってきて、朝の付き添いが決まった。
「慶祐くん、ちょっと待ってねぇ」
奥から祖母ちゃんの声がする。それから、少し困ったような笑い声が続いた。
「あらあら。そげん引っ張ったら、皺になるとよ」
何をやっているんだ。
俺は塀にもたれて待った。梅雨の晴れ間の朝で、日はもう高い。アスファルトから昨夜の雨が湯気になって立ち昇り、蝉が試し撃ちのように短く鳴いた。
三分ほどして、引き戸が開いた。
出てきたちせは、敷居の内側で止まったまま、一歩も出てこなかった。
夏服だった。
半袖の白いシャツ。膝下まで下ろされたスカートの裾。若菜が着崩していた頃とは別物のように、皺ひとつなく着ている。
そこまでは、いい。
問題は、彼女が両腕を胸の前で交差させて、二の腕を手のひらで覆い隠していたことだ。
「……どうした」
「……いえ」
「いえ、じゃなかろ。早う行かんば」
「……はい」
返事だけして、動かない。
俺は苛立ちよりも先に、妙な予感がして敷居の前まで戻った。
「腕、どうした。怪我でもしたとか」
「いいえ」
ちせは顔を伏せたまま、小さく首を振った。
「……このような格好で、人前に出るのですか」
「格好って」
「腕が、出ております」
俺は、間抜けな顔をしていたと思う。
「六月からは夏服やけん。全員そうたい」
「存じております。お祖母さまからそう伺いました。……ですが」
彼女の指が、自分の二の腕をきつく掴んだ。
「私の時代、女子が人前で肌を晒すのは、はしたないことでございました。女学生は袴に、手首まである筒袖。手首から先と、顔だけ。それ以外は、誰にも見せてはならぬものでした」
「……ああ」
そうか、と思った。
そんなことにも気づかずに、俺はこいつを外に引きずり出そうとしていた。
蝉が本気で鳴き始めた。祖母ちゃんが気を利かせたのか、玄関の奥から人の気配が消えている。
「あのな」
俺は敷居の外から言った。
「今、この街を歩いとる女の子は、全員腕を出しとる。下手すりゃ臍まで出しとる。誰も見とらん。誰も、何とも思わん」
「……はい」
「はい、じゃなくて」
言葉を探した。
こういうとき、俺は自分の語彙の少なさが嫌になる。
「お前、言うたやろ。もっと広い世界が見たかったって。お洒落をして、誰の目も気にせず笑い転げてみたかったって」
ちせの睫毛が、微かに震えた。
「その世界が、これたい。腕が出るだけの話やなか。誰も、お前を叱らん世界の話ばしとる」
長い沈黙があった。
祖母ちゃんの家の柱時計が、遠くで七時半を打った。
やがて、ちせの指が、ゆっくりと二の腕から離れた。
腕が、下りる。
朝の光が、白い前腕の上を滑った。産毛が金色に光って、肘の内側に青い血管が透けている。彼女は自分の腕を、他人のもののように見下ろしていた。
「……ずいぶん、細うございますね」
「若菜のやろ、それ」
「そうでした」
ちせは、初めて笑った。
そして、敷居をまたいだ。
一歩。それから二歩。
三歩目で立ち止まり、彼女は空を見上げた。
「涼しいのですね」
そう言った。
たったそれだけの言葉だった。
けれど俺は、そのとき初めて、この娘が百年のあいだ何を待たされていたのかを、少しだけ分かった気がした。
袖から出た腕に、朝の風が当たる。ただそれだけのことを、こいつは一度も知らないまま死んだのだ。
「……行くぞ」
「はい」
石段を降り始めて十段ほどで、ちせが立ち止まった。
「慶祐さま」
「なんや」
彼女は掌を開いた。紺のリボンが、細長い布のまま乗っている。
「これは、どのように結ぶものでございましょう」
「……結んどらんかったとか」
「お祖母さまにお願いするつもりでしたが、その……手間取ってしまいましたので」
腕の一件で、俺たちはすでに十五分遅れている。
「見たことなかとか。同じもんば、女子は全員ぶら下げとるやろ」
「遠目には。けれど、手に取ったのは初めてでございます」
俺は、返す言葉を失った。
一週間、この娘は家から出ていない。制服に袖を通したのも、今朝が初めてなのだ。
「……貸してみ」
俺はリボンを受け取って、彼女の襟の下に通した。
顎の下、五センチ。鎖骨の窪みに、汗が一粒溜まっている。
洗い立てのシャツの匂いの奥に、樟脳の匂いが微かに混ざっていた。
「……慶祐さま」
「動くな」
蝶結びだ。子供でもできる。
できなかった。
輪の大きさが揃わず、片方だけがだらしなく垂れる。解いて、もう一度やって、また崩れた。三度目で指が滑った。
神社で紐を結ぶのには慣れている。注連縄も御守りの緒も、目をつぶってでも結べる。だがあれは、物に結ぶ紐だ。人の首の下で手を動かすのは、まったく別の作業だった。
「……くそ」
「慶祐さま」
ちせが、俺の手首に指を添えた。
「一度、ほどいてくださいませ」
言われた通りにする。
彼女は俺の手からリボンを取ると、自分の首の下で、指先だけを頼りに動かした。鏡もない。手元も見ていない。
三秒だった。
紺の蝶が、左右対称に整って、襟元で静かに落ち着いた。
「……なんや、できるやんか」
「帯締めと、同じでございました」
ちせは満足そうに、結び目を指の腹で撫でた。
俺は何も言わずに、先に石段を降り始めた。
途中、坂の途中の家の婆さんとすれ違った。婆さんはちせを見て、それから俺を見て、「あら」という顔をした。
「おはようございます」
ちせが先に頭を下げた。
腕は、もう隠していなかった。
校門の前に、高比良先生が立っていた。
朝の立ち番だ。
腕を組んで、登校してくる生徒の流れをぼんやり眺めている。
俺たちに気づいて、片手を上げかけた。
そして、止まった。
「……宮部。そっちは」
「長与ですけど」
「長与?」
先生は黒縁眼鏡を外し、レンズを制服の袖で拭いて、かけ直した。四十過ぎの男が、漫画みたいなことをする。
「おはようございます」
ちせは頭を下げてから、そこで止まった。
ちらり、と俺を見る。
しまった、と思った。この一週間、電気だの水道だのを説明するのに必死で、俺は教師の名前一つ教えていない。
「……高比良先生」
俺は口の中で言った。
「高比良先生。ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません」
ちせが、あらためて腰を折った。
四十五度。
登校してくる生徒の列が、その一点で流れを乱した。何人かが振り返り、速度を落として、こちらを見ながら通り過ぎていく。
「……長与、か」
「はい」
「髪は」
「黒く染めてまいりました。以前の色は、この学校に相応しくないと存じましたので」
「そうか」
先生は口を開けて、閉じて、また開けた。
「……そうか。うん。前よりいいな」
言ってから、自分でも何を言っているのか分からない、という顔をした。
「宮部。お前、こいつと一緒に来たとか」
「隣の家なんで」
「……ああ、そうやったな」
先生はもう一度ちせを見た。今度は、頭のてっぺんから足元まで、ゆっくりと。
驚いている目ではなかった。確かめている目だった。
「二人とも、職員室に寄っていけ。長与、一分でよか。顔ば見せとかんと、他の先生たちが心配する」
「かしこまりました」
朝の職員室は、教室とは別の匂いがする。
粉末コーヒーと、印刷機のインクと、誰かの弁当が温まっている匂い。刷り上がったばかりの期末テストが茶封筒の口から覗いていて、先生たちがそれを見ないふりをしながら行き来している。
引き戸を開けた瞬間、ちせは敷居の内側で足を揃えた。
そして、部屋の全体に向かって腰を折った。
「おはようございます。長らくご迷惑をおかけいたしました」
朝の喧騒が、一瞬止まった。
印刷機の音だけが残った。
窓際の教頭が、引きかけた椅子を止めた。
隣の席の若い教師が、手にした湯呑みを持ったまま固まっている。誰も、こんな挨拶をされたことがないのだ。
「……お、おう。長与か。もう大丈夫なんか」
「はい。お陰さまをもちまして」
「そ、そうか。無理せんごとな」
高比良先生は自分の席に着くと、しばらくちせの顔を見ていた。
「長与。医者からは、記憶に障りが残っとると聞いとる」
「はい」
「困ったら、誰でんよかけん言え。抱え込むな」
「……ありがとうございます」
ちせは、もう一度頭を下げた。
その角度が、校門で見たときと寸分違わなかった。上体だけが折れて、首は曲がらない。何百回も繰り返してきた者の礼だ。
先生の眉が、ほんの少し寄ったのを俺は見逃さなかった。
「宮部。お前は教室に行っていいぞ」
「……はい」
俺は職員室を出た。
廊下を歩きながら、俺は自分の手のひらが湿っているのに気づいた。
これから、あいつが教室に入っていく。三十人の前に。
止める理由はない。止める権利もない。
それでも俺は、階段を上がる足がやけに重かった。
教室は、期末テスト前の重苦しい空気と、近づく夏への微かな浮つきが混在していた。
空は梅雨の晴れ間。湿気を帯びた風が、開け放たれた窓から教室に入り込んでいる。
「おい慶祐、長与のやつ、今日から来るんやろ?」
前の席で、西田雅彦が椅子を反らしながら話しかけてきた。
あの日、雨の中で若菜が飛び出したことを知る由もない彼は、相変わらず能天気な笑顔を浮かべている。
「ああ。……まあな」
「大丈夫なんか? 頭打ったって聞いたけど、記憶喪失になっとったりしてな!」
「笑えんぞ、それ」
俺が釘を刺すと、西田は「悪ぃ悪ぃ」と肩をすくめた。
その時、予鈴のチャイムが鳴り、担任の高比良先生が教室に入ってきた。
「席に着け。ホームルームを始める」
先生のいつもと変わらない低い声。
だが、教室の空気は僅かに張り詰めていた。誰もが、入り口の方を気にしている。
あの派手で刺々しかった「出戻り転校生」が、事故を経てどう変わったのか。あるいは変わっていないのか。
「長与、入ってきなさい」
先生が促す。
引き戸が、静かに、音もなく開いた。
一歩、その生徒が教室に足を踏み入れた瞬間。
教室の喧騒が、水底に沈んだようにフッと消えた。
俺は、音の消え方を聞いていた。
三十人の目に今なにが映っているのか、手に取るように分かった。
顔立ちは確かに長与若菜だ。
けれど、茶色く脱色されていた髪は、黒染めスプレーで濡れたような漆黒に戻されている。
短く詰められていたスカートの裾は膝下まで下ろされ、夏服のシャツのボタンは、第一ボタンまで几帳面に留められていた。
何より違うのは、その立ち姿だ。
背筋を糸で吊られたように伸ばし、両手を前で清楚に重ねている。
伏せられた長い睫毛が、窓からの陽光を受けて長い影を落としていた。
「……え、誰?」
誰かが小声で呟いた。
西田が、口を半開きにしたまま固まっている。
予想通りだ。
俺は口の端が緩みそうになるのを、拳を口に当てて誤魔化した。今朝の玄関先から、この光景は見えていた。三百段を降りながら、こうなるやろな、と思っていた。
ざまあみろ、と思った。誰に対してかは自分でも分からない。
――そこで、笑いが止まった。
ちせは震えていない。
一時間前、腕を出すのが怖くて敷居をまたげなかった女が、三十人に見られて、指の先まで揺れていない。
俺は、自分が何を見せられているのか分からなくなった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、教室全体を見渡した。
その瞳は、以前のような威嚇する獣の目ではなく、春の海のように穏やかで、どこか儚げな光を宿していた。
彼女は教壇の前に進み出ると、流れるような所作で一礼した。
「皆様、ごきげんよう」
凛とした声が、教室の隅々まで染み渡る。
ザワ……と空気が揺れた。
ごきげんよう?
今どき、お嬢様学校の生徒でも言わないような挨拶だ。
「以前の私は、些か……その、心乱れておりましたゆえ、皆様に多大なるご無礼を働いたと聞き及んでおります」
彼女は言葉を選びながら、紡ぐように続ける。
「この通り、心を入れ替えました。不束者ではございますが……以後、よしなにお願い申し上げます」
再び、深々としたお辞儀。
背筋をスッと伸ばしたまま、腰から折れるように頭を下げる。重ねた指先は白く、一分の隙もない。
教室の埃っぽい空気の中で、そこだけ一輪の白百合が咲いたような錯覚を覚えた。
俺がかつて冗談半分で口にした『蝶々夫人』――いや、明治の錦絵から抜け出してきた『大和撫子』が、確かにそこにいた。
「……おいおい、マジかよ」
西田の口は、さっきから開いたままだ。
クラス中が呆気に取られる中、不意にシャッター音が響いた。
カシャッ。
窓際の後ろの席。写真部員の早瀬湊だ。
普段は寡黙で、人を撮ることなど滅多にない彼が、一眼レフを下ろしてレンズ越しに彼女を見つめている。
その目は、珍しい被写体を捉えた時の熱を帯びていた。
「……すごいな」
早瀬がボソリと呟いた。
「空気が、そこだけ違う。……まるで、古いポートレートみたいだ」
その言葉に、隣の席の月島も、読みかけの文庫本に指を挟んだまま頷いた。
「本当。背筋の伸び方、指先の揃え方……付け焼き刃じゃない。あんな所作、今の私たちには真似できない」
鋭い観察眼を持つ二人の言葉が、俺の胸に突き刺さる。
そうだ。あれは演技じゃない。
「早瀬、授業中ぞ。……長与、席につきなさい」
高比良先生も、狐につままれたような顔で指示を出した。
若菜――いや、ちせは、「はい」と短く返事をすると、音も立てずに歩き出した。
自分の席へ向かう途中、俺の横を通る。
甘い香りが、鼻先をかすめた。
以前のような人工的な香水の匂いではない。樟脳と白粉が混ざったような、懐かしく、切ない香り。
彼女は一瞬だけ足を止め、俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「慶祐さま。……これで、よろしいでしょうか?」
俺を見下ろす瞳が、不安げに揺れている。
褒めてほしいと願う、幼い子供のような目。
そのあどけなさに、息を吸うのを忘れた。
「……ああ。上出来だ」
俺が小声で返すと、彼女は花が咲くように破顔した。
その笑顔の破壊力たるや。
俺は慌てて視線を逸らした。
まずい。これは、ヒジョーにまずい。
俺の理想を具現化したような少女が、俺の幼馴染の体を借りて、俺だけに微笑みかけてくる。若菜って、こんなにかわいかったのか。
こんなの、好きにならないわけがないじゃないか。
俺は額に滲む汗を拭いながら、窓の外の長崎港を睨みつけた。
若菜の意識が戻るまで、この「明治生まれの転校生」を守らなければならない。
だが、一番守らなければならないのは、俺自身の理性なのかもしれなかった。
ホームルーム終了のチャイムが鳴ると同時に、教室の空気が弾けた。
ダムが決壊したかのように、クラスメイトたちが若菜の席へと押し寄せる。当然の反応だった。昨日まで「触らぬ神」だったヤンキー娘が、一夜にして「深窓の令嬢」と化して登校してきたのだから。
「おい長与! どがんしたと、その喋り方!」
「キャラ変? それとも頭打ったってマジ?」
「つーか、黒髪のほうが断然似合うやん!」
四方八方から浴びせられる好奇の言葉。
普通の女子高生なら、笑って誤魔化すか、うるさがって追い払うところだろう。
だが、ちせの反応は違った。
「きゃ……」
彼女は小さな悲鳴を上げ、身を竦ませた。
その顔に浮かんでいたのは、純粋な「恐怖」だった。
無理もない。明治の女学生にとって、異性が――それも親しくもない殿方が、これほど無遠慮に距離を詰め、大声で話しかけてくるなど、暴漢に囲まれたも同然の事態なのだ。
「あ、あの……近、近うございます……」
彼女は顔を真っ赤にし、教科書を盾にするように胸元に抱えた。
その瞳が潤み、助けを求めるように俺の方を彷徨う。
(……仕方ないな)
俺は小さく溜め息をつき、立ち上がった。
ここで彼女がパニックを起こし、「無礼者!」などと叫び出したら、それこそ収拾がつかなくなる。
「おい、西田。お前ら、ちょっと離れろよ」
俺は人垣を割り、西田の襟首を掴んで引き剥がした。
「えーっ、なんや宮部。保護者気取りか?」
「うるさい。先生も言うとったやろ。長与は事故のショックで、まだ本調子やないんよ。記憶も混乱しとるし、医者から安静にするように言われとる」
「記憶の混乱って……それで敬語キャラになると?」
「脳の不思議たい。とにかく、そっとしとけ」
俺がドスの利いた声で睨むと、西田たちは「ちぇっ」と不満げに散っていった。
嵐が去った後の机で、ちせは肩を震わせていた。
俺は彼女の机の端を、指先でコンコンと叩いた。
「……大丈夫か」
小声で尋ねる。
ちせは顔を上げ、涙目のまま、ほっとしたように微笑んだ。
「け、慶祐さま……。ありがとうございます。未来の殿方は、あのように……情熱的なのですね」
「情熱的っつーか、デリカシーがないだけだ」
「でりかしー……?」
「礼儀知らずってことだ」
俺が苦笑すると、彼女はようやく教科書を下ろした。
「それにしても、難儀なところに来てしまいました」
彼女は教室を見渡した。
黒板の文字、蛍光灯の明かり、生徒たちの着崩した制服。
「ここは『学び舎』なのですよね? 私の知る女学校とは、随分と様子が違います。男女が同じ部屋で学ぶなど……やはり、少し破廉恥ではございませんか?」
真剣な顔で問われて、俺は返答に窮した。
百年前の倫理観を持つ彼女にとって、共学の高校は、さぞかし乱れた場所に映るのだろう。
* * *
一限目は、高比良先生の「日本史」だった。
これもまた、ちせにとっては試練の時間となった。
彼女は背筋をピンと伸ばし、誰よりも真剣に黒板を見つめていた。
だが、手元のノートは白紙のままだ。
無理もない。彼女の手にあるのは、現代のシャープペンシルなのだから。
(……使い方が分からんのか)
俺は横目で観察していた。
ちせは、不思議そうにシャープペンを振ったり、ペン先を紙に押し付けたりしている。芯が出ないのだ。
カチカチとノックすればいいだけなのだが、その発想がないらしい。
彼女は困り果てた顔で、筆箱の中から鉛筆を探そうとするが、若菜の筆箱には派手なマーカーとシャープペンしか入っていない。
見かねた俺は、自分の分の予備の鉛筆を一本取り出し、彼女の机にそっと置いた。
若菜の時には絶対にしなかったであろう親切だ。
「……あ」
ちせが目を見開き、パッと顔を輝かせた。
彼女は音を立てないように両手を合わせ、拝むような仕草で「ありがとう」と口パクで伝えてきた。
その笑顔の無垢さに、俺はまたしても動悸が速くなるのを感じた。
授業の内容は「明治維新と文明開化」だった。
高比良先生が、教科書の写真を指しながら淡々と説明する。
「……こうして、西洋の文化が急速に流入し、人々の生活様式は一変した。鹿鳴館に代表される欧化政策は、当時の日本人にとって憧れであり、同時に戸惑いでもあったわけだ」
ちせの手が、ピクリと止まる。
彼女は教科書のページを食い入るように見つめていた。そこには、バッスルスタイルのドレスを着た貴婦人の錦絵が載っている。
「先生」
不意に、凛とした声が響いた。
ちせが、真っ直ぐに挙手していた。指先まで神経の行き届いた、美しい挙手だった。
高比良先生が眼鏡の位置を直し、意外そうに彼女を見る。普段の若菜なら、授業中は寝ているか、スマホを隠れていじっているのが常だったからだ。
「なんだ、長与。質問か?」
「はい。……その、教科書の記述について、一つ」
ちせは立ち上がった。
「ここに『人々は洋装を喜んで受け入れた』とありますが、それは少々、語弊があるのではないでしょうか」
「ほう? どういうことだ」
「当時は……いえ、私の祖母から聞いた話ではございますが」
彼女は一瞬言葉を濁し、けれど毅然として続けた。
「コルセットで肋骨が軋み、靴擦れで血が滲もうとも……当時の女学生たちは、胸を張っておりました。それは国のためだけではございません。古い因習を脱ぎ捨て、西洋の淑女と肩を並べ、広い世界へ羽ばたきたい――そんな『新しい女』たちの、血の滲むような覚悟の装いだったはずです」
教室が静まり返った。
その一言一句が単なる知識のひけらかしではなく、その痛みを知っている者だけが語れる、生々しい実感のこもった言葉だったからだ。
高比良先生は、しばらく彼女を見つめていたが、やがてニヤリと口角を上げた。
「……なるほど。勝者の歴史書には載らない、生活者の視点だな。面白い。座っていいぞ、長与」
ちせは一礼して着席した。
ふう、と小さく息を吐く彼女の横顔を、俺はハラハラと見つめていた。
「……おい、マジかよ」
前の席で、西田が口を半開きにして固まっている。
教室のあちこちから、さざ波のような私語が漏れ始めた。
「長与さん、あんなキャラやったっけ?」
「つーか、今の言葉遣い何? 時代劇?」
そのざわめきの中で、若菜の隣の席に座る女子生徒――斉藤一美が、信じられないものを見る目でちせを凝視していた。
彼女は派手なメイクと少し着崩した制服が特徴で、転校してきてからの若菜とよくつるんでいたグループの一人だ。
一美はシャーペンを回す手を止め、ボソリと呟いた。
「……若菜、あんた何食べたらそがん賢くなると?」
一方、廊下側の列では、眼鏡をかけた男子生徒――山本弘が、感心したように頷いているのが見えた。彼はクラス委員長を務める真面目な男で、普段は若菜のような不真面目な生徒には関わりもしないタイプだ。
その山本が、ちせの背中に熱心な視線を送っている。
俺は額に滲む汗を拭った。
目立ちすぎだ。
窓際の後ろの席で、写真部の早瀬湊がふと窓の外へ視線を逃がし、その隣で月島明里が静かに本を読んでいる――そんな「我関せず」な連中はいい。
だが、一美や山本のような、これまで若菜と接点のあった(あるいはなかった)連中が反応し始めている。
* * *
四限目が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
生徒たちが一斉に弁当を広げたり、購買部へ走ったりと動き出す。
ちせは、机の上に置かれた自分の弁当箱――若菜の祖母が持たせてくれたものだ――を前に、困ったように眉を下げていた。
箸箱の開け方が分からないらしい。スライド式だということに気づかず、蓋を爪でこじ開けようとしている。
(……手助けするべきか?)
俺が腰を浮かせかけた時、不意にちせの机に影が落ちた。
斉藤一美だ。彼女はコンビニのパンを片手に、怪訝そうな顔でちせを見下ろしている。
「ねえ、若菜」
「……はい。なんでございましょうか」
ちせが居住まいを正して答えると、一美は「うわ、また敬語」と顔をしかめた。
「あんたさ、今日の放課後どうすんの? 駅前のカラオケ、予約しとるけど」
「から、おけ……?」
ちせが小首を傾げる。
まずい。若菜は一美たちと遊ぶ約束をしていたのか。
ちせに「カラオケ」など理解できるはずがない。俺が助け舟を出そうとした瞬間、ちせは真剣な顔で問い返した。
「それは、桶の一種でしょうか?」
「は?」
「空の桶……。もしや、水汲みのご用事ですか? それとも行水?」
時が止まった。
一美はポカンと口を開け、持っていたパンを落としそうになった。
俺は天を仰いだ。
「あ、あんた……マジで頭打ったんやね」
「はい。不肖この身、未だ回復の途上にございまして……。水汲みのお手伝いは、またの機会にさせていただきたく存じます」
ちせが深々と頭を下げると、一美は引きつった笑みを浮かべて後ずさりした。
「そ、そう……。お大事にね」
一美は逃げるように自分のグループへ戻っていった。
遠くから「若菜、ガチでヤバかばい」「宇宙人と入れ替わっとるんやなか?」というひそひそ話が聞こえてくる。
半分正解だ、と俺は心の中で毒づいた。
やれやれ、と息をついて自分の弁当を開こうとした時、今度は反対側から声がかかった。
「長与さん、少しよかですか」
現れたのは、委員長の山本弘だった。
彼は銀縁眼鏡を押し上げ、わかりやすく緊張した面持ちでちせの前に立っていた。
「はい。どちら様でしょうか」
「山本です。クラス委員の。……さっきの授業の発言、感銘を受けました」
山本は熱っぽく語り出した。
「僕も、明治期の庶民の生活史には興味があって。特に長崎の居留地における日本人と西洋人の関わりについて、君のような視点は盲点でした」
「さようでございますか」
「もしよかったら、これ。僕がまとめた郷土史のレポートなんですけど、読んでみてくれませんか?」
山本は分厚いクリアファイルを差し出した。
ちせは目を丸くしたが、すぐに慈母のような微笑みを浮かべてそれを受け取った。
「まあ。学問に励んでおられるのですね。素晴らしい志です。喜んで拝読いたします」
「あ、ありがとうございます!」
山本は顔を真っ赤にして、何度も頭を下げながら自席へ戻っていった。
何ともわかりやすい奴だ。俺は箸を持ったまま、呆然とその光景を眺めていた。
かつての若菜なら、一美とは「ダルい」と言いながらつるみ、山本のような真面目くんは「堅苦しい」と敬遠していただろう。
それがどうだ。
一美を天然で撃退し、山本を骨抜きにしてしまった。
「慶祐さま」
ちせが、ようやく開いた箸箱から箸を取り出し、俺の方を向いて小さく手招きした。
「あの、山本様とは、どのようなご関係の方なのでしょう?」
「ただの委員長だ。……お前、あんなの受け取って読めるのか?」
「文字を読むのは好きでございます。それに……」
彼女はクリアファイルを愛おしそうに撫でた。
「この時代の若者が、故郷の歴史を知ろうとしている。そのお心が、私は嬉しゅうございます」
その横顔は、教室の誰よりも大人びていて、そして美しかった。
俺は口に入れた卵焼きの味が分からなくなるのを感じた。
彼女は、若菜の人間関係を壊しているのではない。
だが、それは同時に、俺の胸に棘のような不安を植え付ける。
みんなが好意を寄せているのは「長与若菜」の姿をした「ちせ」だ。
もしも……もしも奇跡が起きて、本物の若菜が戻ってきたとしたら。
その時あいつは、自分よりも遥かに愛されている「なり代わり」の痕跡を突きつけられることになる。
それは、コンプレックスの塊だったあいつにとって、何よりも残酷なことなんじゃないだろうか。
俺の懸念を知る由もなく、ちせは「いただきます」と両手を合わせ、幸せそうに弁当を食べ始めた。
窓の外では、梅雨の晴れ間の太陽が、長崎の街を眩しく照らしていた。
* * *
梅雨前線は再び南下し、北上という言葉を置き忘れたように停滞していた。この梅雨は、だらだらとした雨が再び何日も続いている。
その日の昼休みの教室は普段と変わらず、弁当の匂いと喧騒に包まれていた。
ちせは、俺が教えた通りに箸箱を開け、幸せそうに卵焼きを頬張っていた。その横顔は平和そのものだったが、教室の空気には少しずつ棘が混じり始めていた。
「ねえ、若菜」
不意に、甲高い声が降ってきた。
斉藤一美だ。彼女はコンビニの袋を片手に、取り巻きの女子たちを引き連れて、ちせの机を取り囲んだ。
一美の手には、CDケースが握られている。
「これ、返すわ。ありがと」
一美は、ちせが広げている弁当のすぐ横に、CDを無造作に投げ出した。
CDはガチャンと音を立てて弁当箱にあたり、机から落ちそうになった。
ちせは小さく「あっ」と声を上げて、慌てて弁当箱に蓋をした。
「……斉藤様。これは……?」
「あんたが貸してくれたバンドのCDじゃない。聞いたけどさー、マジで趣味悪くない? 歌詞とか超イタいし」
一美はクスクスと笑い、取り巻きたちも同調して嘲笑う。
「つーかさ、若菜。あんたいつまでその『お嬢様キャラ』続けるわけ? マジでキモいんだけど」
「そうそう。黒髪とか似合ってないし、なんか狙ってるっぽくてウザいよねー」
教室が静まり返る。
悪意のある笑い声だけが響く。
俺はカッとなって立ち上がろうとした。記憶喪失(ということにしている)の相手に、この言い草はないだろう。
「おい、斉藤。いい加減にしろよ」
俺が声を張り上げようとした、その時だった。
ちせが、静かに箸を置いた。
カタリ、という小さな音が、不思議と大きく響いた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、一美たちを真っ直ぐに見据えた。その瞳は、凍えるように冷たく、けれど燃えるように熱かった。
「……演じているわけではございません」
凛とした声が、教室の空気を切り裂く。
「ですが、不快な思いをさせたのなら謝ります」
「はあ? なにその余裕。ムカつく」
一美が苛立ちを隠さずに詰め寄る。だが、ちせは一歩も引かなかった。
それどころか、悲しげに眉を下げて、一美に問いかけた。
「斉藤様。貴女は、若菜さまのご友人なのでしょう?」
「はぁ?」
「友ならば、友の変化を嘲笑うのではなく、その心の内を案じるものではありませんか?」
ちせは、机の上に投げ捨てられたCDを、汚れたものでも扱うように指先で拾い上げ、一美に突きつけた。
「彼女は、貴女にこれを貸した時、どんな顔をしていましたか? きっと、『好きなものを共有したい』と、はにかんで笑っていたのではありませんか?」
一美の口が半端に開いたまま止まった。見抜かれた。
ちせの言葉は続く。静かに、けれど鋭利な刃物のように。
「彼女は今、必死に変わろうとしているのです。迷いながら、傷つきながら、それでも前を向こうとしている。それを『キモい』の一言で断じるのは……人として、あまりに寂しいことではありませんか」
「……はあ? 何様なん、あんた」
一美のこめかみがピクリと動く。
顔を真っ赤にして、ドン! とちせの机を蹴り上げる。弁当箱がまたガタリと揺れた。
「偉そうに説教垂れとるけどさあ、無理してウチらに尻尾振っとったんは、あんたの方やろ? 『東京じゃこれが普通』とか見栄張って、必死に話題合わせて。……見てて痛々しかったんよ、あんた」
教室中が凍りつく。
それは、若菜が一番触れられたくない、隠していた事実だったはずだ。
一美は勝ち誇ったように笑い、ちせの胸倉を掴もうと手を伸ばした。
「そのキャラ変も、どうせオトコ受け狙いなんやろ。気色悪いんよ、ええ加減に――」
だが、その手は空中で止まった。
ちせは、身じろぎ一つしなかった。
怯えもせず、怒りもせず。ただ、静かな湖面のような瞳で、一美の歪んだ顔を真っ直ぐに見つめ返していた。
その瞳の奥にある、底知れない「冷たさ」と「強さ」。
それは、一美が知っている、おどおどと顔色を伺っていた若菜のものではなかった。
「……っ」
一美の顔色が変わる。
彼女は掴みかかろうとした手を、火傷したかのように引っ込めた。
本能が告げたのだ。目の前にいるのは、若菜の皮を被った「別の何か」だと。
「な、なんね……その目」
一美の声が震えた。
「斉藤様」
ちせが、静かに口を開く。
「貴女の仰る通り、私は無理をしていたのかもしれません。ですが……友の弱みにつけ込み、それを嘲笑うことでしか己を保てぬ貴女もまた、哀れな方だ」
「なっ……!?」
「お引き取りください。……これ以上、彼女の席を汚さないでいただきたい」
ちせの放つ圧力は、教室全体を圧するほどだった。
一美は「ヒッ」と喉を鳴らして、後ずさりした。
「……キッショ。なんなん、マジで」
一美は捨て台詞を吐くと、青ざめた顔で自分の席へと戻っていった。取り巻きたちも、おっかなびっくりといった様子で散っていく。
嵐が去った後の静寂。
ちせは、ふう、と小さく息を吐いて席に座り込んだ。
俺が慌てて覗き込むと、彼女の膝の上の拳は、小さく震えていた。
「……おい、大丈夫か」
小声で尋ねると、ちせは涙目で俺を見上げた。
「こ、怖かったです……! あの方々が、慶祐さまの仰っていた『やんきー』という種族なのですね……!」
「まあ似たようなもんだ。よく言ったな、すごかったぞ」
「はい……。でも、許せなかったのです」
ちせは、手元のCDケースを愛おしそうに撫でた。
「若菜さまの『好き』を、あのような形で踏みにじるなんて。この体の持ち主は、今、反論することもできません。だからこそ……私が守らねばならないと思いました」
その言葉に俺は胸を打たれ、震える彼女の肩にそっと手を置いた。
こいつは強い。そして、誰よりも義理堅い。
俺の中で、彼女への想いが、確かな熱を持って変わり始めていた。
* * *
午後は国語、現代文の授業だった。
担当の教師が、黒板にチョークを走らせながら言った。
「じゃあ、ここの心情描写について。えーっと……長与、黒板に答えを書いてみろ」
指名されたちせは、「はい」と凛とした声で返事をし、教壇へと進み出た。
クラス中の視線が集まる。
退院後の復帰の挨拶でその育ちの良さは知れ渡っていたが、彼女が授業で板書をするのはこれが初めてだ。
ちせはチョークを手に取ると、迷いのない手つきで書き始めた。
カツ、カツ、カツ。
硬質な音が、心地よいリズムで教室に響く。
書き終えて、彼女が一礼して退くと、教室が静まり返った。
そこには、美術の教科書に出てくるような、流麗極まりない文字が並んでいた。
止め、跳ね、払い。
ただの白いチョークで書いたとは思えない、筆で書いたような墨痕鮮やかな「書」だった。
「……すげえ」
「めっちゃ達筆やん……」
クラスメイトたちが感嘆の声を漏らす。
だが、次の瞬間、ざわめきの質が変わった。
「……ん? あれ、なんて書いてあると?」
「読めなくない?」
黒板に書かれていたのは、確かに日本語だ。だが、それは現代の高校生が見慣れた文字ではなかった。
『其は、恰もてふてふが舞ふごとき……』
「……てふてふ?」
西田が素っ頓狂な声を上げた。
「なんやそれ、呪文か? テフテフってなんの擬音語や?」
「長与さん、それ、ちょうちょうのこと?」
月島明里が助け舟を出した。
ちせは、きょとんとして首を傾げた。
「はい。蝶のことでございますが……。何か、間違いが?」
「いや、間違いというか……」
教師も苦笑している。
ちせは「てふてふ」と書いて「ちょうちょう」と読む、歴史的仮名遣いを、現代でも当然通用するものとして書いてしまったのだ。
さらに、漢字も見たことのない旧字体が混じっている。
『學校(学校)』
『體育(体育)』
彼女のノートを覗き込んだ斉藤一美が、「うわっ、お経みたい!」と悲鳴を上げた。
「慶祐さま……」
席に戻ったちせが、不安そうに俺の袖を引いた。
「皆様、なぜ笑っておられるのですか? 私の文字は、おかしいのでしょうか」
「おかしくはない。おかしくはないんだが……」
俺は、あまりにも美しすぎる「てふてふ」の文字を見上げて、頭を抱えた。
「達筆すぎて、もはや芸術作品になっとるんだよ。……あとで現代の『ひらがな』を特訓な」
「さようでございますか……。未来の言葉は、難しゅうございますね」
ちせは悔しそうに唇を尖らせ、自分のノートの端に、練習のためか小さく『あいうえお』と書き始めた。
その『あ』の字でさえ、国宝級に上手いのだから、始末に負えない。
* * *
休み時間。ちせが日直の仕事で職員室に行っている間、俺は廊下で月島明里に呼び止められた。
彼女は伏せていた睫毛を上げ、単刀直入に切り込んできた。
「宮部くん。……長与さん、本当に『記憶喪失』なの?」
俺は一拍置いてから、努めて平静を装った。
「ああ。医者もそう言ってる。人格が変わったごとなって、本人も苦労しとるみたいや」
「そう……。でも、変よね」
月島は手元の文庫本を閉じた。パタン、という音が廊下に響く。
「記憶がないだけなら、現代の言葉や常識まで忘れるはずがない。彼女、スマホの使い方も、シャーペンの芯の出し方も知らなかった。それに……あの達筆な文字」
月島が一歩、距離を詰める。
「あれは、ただの『キャラ変』や『記憶障害』で説明がつくレベルじゃない。まるで――中身だけ、明治時代の人間と入れ替わったみたい」
背筋が凍った。
鋭すぎる。このままでは、ちせが「異常者」として騒がれかねない。
俺は拳を握りしめ、月島を睨み返した。
「……月島。あいつは今、必死にリハビリしとるんや。茶化すような真似は止めてくれ」
「茶化してなんていない」
「なら、黙って見守ってやってくれ。……頼む」
俺は頭を下げた。
これは「共犯」だ。俺はちせを守るために、クラスメイトを欺き、嘘を重ねる道を選んだ。
月島はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった。宮部くんがそこまで言うなら」
彼女は去り際に、ボソリと付け加えた。
「でも、気をつけてね。……あまり深入りすると、戻れなくなる気がするから」
その警告は、奇妙なほど俺の胸に重く残った。
* * *
その日の帰り道。
西日が長く伸びる時間帯。俺たちは東小島へ続く、心臓破りの石段を並んで登っていた。
傾斜角二十度はあろうかという急勾配。普通の人間なら途中で膝に手をつくところだが、ちせは涼しい顔でスタスタと登っていく。
俺の方が息を切らせているくらいだ。
「……はぁ、はぁ。ちせ、お前、元気やな」
「はい。不思議でございます」
ちせは立ち止まり、自分の太ももやふくらはぎを不思議そうにさすった。
「生前の私は、少し走るだけですぐに息が上がり、このような坂道など駕籠か人力車でなければ登れませんでした。ですが、若菜さまのお体は、まるで羽が生えたように軽いのです」
彼女は、眼下に広がる長い階段を見下ろした。
「毎日、この坂を登って学校へ通っておられたのですね。華奢な体に見えて、その内側には鋼のような足腰と、根性が備わっている。……私には真似できません」
「あいつは昔から、体力だけはあったからな。泥だらけになって山を駆け回ってたし、中学の頃は剣道部で男子を竹刀で追い回しとったし」
「まあ、剣道を? それは凛々しい」
ちせは目を輝かせて、くすくすと笑った。
「私など、お行儀見習いのお琴や生け花ばかりで……。本当は、男子に混じって凧揚げをしたり、海へ飛び込んだりしてみたかったのです」
「お転婆娘やな」
「はい。よく乳母に叱られておりました。『長与の娘らしくなさいませ』と」
ちせの声音が、ふと寂しげに沈んだ。
「『らしくあること』というのは、窮屈ですね。私はもっと走りたかったし、もっと大声で笑いたかった。でも、着物の裾が乱れるから、家名に傷がつくからと、いつも何かを諦めておりました」
彼女は俺の方を向き、真っ直ぐな瞳で問いかけてきた。
「慶祐さまは、いかがですか? 『宮部の跡取りらしく』あることは、窮屈ではありませんか?」
ドキンとした。
俺が普段抱えている息苦しさを、彼女は正確に見抜いている。
「……ああ。窮屈だよ。みんな俺の背中に『神社の息子』って看板を見てる。俺自身のことなんて、誰も見ちゃいない」
俺は足元の石ころを蹴った。
乾いた音が坂道に響く。
「だから本当はこの街を出たいんよ。どこか遠くへ行って、ゼロから勝負したい」
弱音とも取れる本音を、俺は自然と口にしていた。
普段なら誰にも――若菜にさえ言わないような言葉だ。だが、同じように「家」という鎖に縛られていた彼女になら、言える気がした。
「ここにおったら、俺は一生、御影の歴史に縛り付けられたままだ。だから、ここから一番遠い場所へ行きたい。……誰も俺を知らん場所で、家柄も血筋も関係ない、俺自身の力だけで生きてみたいんだ」
ちせは、ゆっくりと瞬きをした。
そして、そっと俺の手の甲に触れた。
「素敵なお考えだと思います」
「え?」
「逃げるのではありません。ご自分の足で、歩き出すのですね。……慶次郎さまは、それができませんでした。ですから、貴方様にはぜひ、その夢を叶えていただきたいのです」
彼女の手は温かかった。若菜の体温だ。けれど、その奥にある魂の温もりが、直接俺の胸に流れ込んでくるようだった。
「慶祐さまなら、きっと大丈夫です。私が保証いたします」
「根拠がないやろ」
「ございますよ。だって……」
ちせは悪戯っぽく微笑み、一歩先へ進んで振り返った。
「貴方様は、百年前の亡霊の手を取り、こうして坂道を一緒に登ってくださるほど、度胸と優しさがあるお方ですから」
西日を背負った彼女の笑顔が、あまりに眩しくて、俺は言葉を失った。
喉の奥が、からからに渇いていた。
これは、まずい。
俺の良き理解者であり、俺の夢を全肯定してくれる、理想の女性。
惹かれていく自分を、もう止められそうになかった。
「……調子のいいことばっか言うな」
俺は照れ隠しにそっぽを向き、再び歩き出した。
「ほら、行くぞ。日が暮れる」
「はい、慶祐さま!」
ちせは嬉しそうに俺の隣に並んだ。
肩が触れ合うほどの距離。
月島には怪しまれたが、少なくともこの瞬間、俺たちの間には確かな絆があった。共犯者であり、理解者であるという、特別な絆が。
その事実が、罪悪感と共に、今の俺には甘美な救いだった。
* * *
「宮部。ちょっと時間いいか?」
翌日の放課後、俺は写真部の早瀬湊に呼び止められた。
普段は寡黙で、ファインダー越しにしか世界を見ていないような彼が、珍しく切迫した顔で俺を見ている。
「……どうした? 改まって」
「ちょっと部室に来てくれん? 見せたいものがあるんやけど」
俺はどこかで嫌な予感を覚えながら、彼について特別棟にある写真部の部室へと向かった。
薬品の匂いが微かに漂う暗い部屋には、誰もいなかった。
早瀬は自分のデスクに俺を座らせると、一枚のプリント写真を差し出した。
「これ見て」
それは、ちせが転校してきた初日、教室のざわめきの中で湊が撮ったポートレートだった。
窓からの逆光を受け、黒髪を輝かせながら、どこか遠くを見つめる少女。
その佇まいは、現代の教室にいるとは思えないほど神秘的で、大正ロマンの絵画から抜け出してきたようだった。
「湊……すげえな。お前、プロみたいやん」
「いや。被写体が良すぎた。俺の腕じゃなか」
本当にきれいだ。このまま写真展に出ていてもおかしくないくらい完璧な写真だった。
早瀬は淡々と言いながら、机上のノートパソコンをスリープから復帰させた。
「でもな、慶祐。問題は、こっちなんよ」
モニターに、同じ写真のデジタルデータが表示される。
「現像してるときになんか違和感があって。元データを確認してみたんやけど」
彼はトラックパッドを操作し、画像の解像度を上げていく。
カチッ、カチッ。
クリック音が静かな部室に響くたび、ちせの顔が画面いっぱいに拡大されていく。
「目だ。よく見てみろ」
さらに拡大する。
長い睫毛に縁取られた、澄んだ黒い瞳。その虹彩の中に、窓の景色や教室の風景が映り込んでいる。
だが、瞳孔の奥――ハイライトが当たる一番深い部分に、異質な「何か」があった。
「……なんだ、これ」
俺はモニターに顔を近づけた。
液晶のドットが滲むギリギリまで拡大されたその影。
それは、確かに「人」の形をしていた。
暗い水底に沈んでいるかのように、体育座りで膝を抱え、顔を伏せている少女のシルエット。髪の色は特徴的に明るかった。
「……若菜?」
俺の口から、無意識にその名が漏れた。
湊が眼鏡の奥の瞳を細めた。
「やっぱり、そう見えるよな」
彼は画面を指差した。
「最初はノイズか、窓ガラスの映り込みかと思った。だが、どう見ても教室内にはこんな場所に座り込んでる奴もスペースもないんだ。それに……この影、泣いてるように見えんか?」
指先から、すっと血の気が引いた。
若菜は今、ちせの身体の中で眠っているはずだ。それが、湊の写真に写り込んでしまったのか。
想像したくなかった。
早瀬が椅子を回転させ、俺に向き直った。
「宮部。お前、何か知っとるんじゃないか?」
「……」
「あいつ……今の長与は、本当に『長与若菜』なんか?」
核心を突く問い。
明るい日差しが降り注ぐ部室の中で、モニターの中の小さな影だけが、底知れぬ闇を放っていた。
「……悪い、湊」
俺はモニターから目を逸らした。
「今は何も言えん。このことは、しばらく俺と若菜に任せてくれんか?」
「……そうか」
「ただ……あいつは今、必死に生きようとしとる。それだけは確かだ」
早瀬は頷いてそれ以上追求しなかった。ただ、深く溜め息をついてノートパソコンを閉じた。
パタン、という乾いた音が響き、泣いている少女の姿も視界から消えた。
「このデータは消しとく。……ただの心霊写真じゃ、洒落にならんからな」
「恩に着る」
俺は逃げるように部室を出た。
廊下の窓から見えるグラウンドでは、サッカー部の掛け声が響いている。
そんな平和な日常のすぐ裏側に、あの「膝を抱える若菜」がいるかもしれない。
俺はその不気味な可能性に震えながら、握りしめた拳に爪を食い込ませた。
* * *
その日の学校帰り。
校門を出たところでちせが立ち止まり、俺の袖をクイクイと引いた。
「慶祐さま。……お願いがございます」
「なんだ? 腹でも減ったか?」
「いいえ。……街へ、連れて行ってはいただけませんか?」
彼女は真剣な眼差しで、石畳の先にある市街地を見つめた。
「病院と学校、そして神社の往復だけでは、ここがどこなのか、実感が湧かないのです。私の知っている長崎と、何が変わり、何が変わっていないのか……。この『令和』という時代の長崎を、この目で見ておきたいのです」
その言葉に、俺はハッとした。
確かに、彼女はずっと狭い世界に閉じ込められていたようなものだ。百年の時を超えて目覚めた場所が、どんな世界なのか知りたいと願うのは当然だろう。
「……分かった。じゃあ、長崎駅前まで行ってみるか。あそこなら、今の長崎が一番よく分かる」
「はい! ありがとうございます」
俺たちは、大通りへと歩き出した。
「慶祐さま。……あれは、何事でしょうか!?」
電停のホームで、ちせが目を丸くし、俺の背中に隠れるようにして線路の彼方を指差した。
カーブを曲がり、青い車体の電車がゴトゴトと近づいてくる。
「何って、路面電車たい。……あ、そうか」
俺はハッとして、自分の知識の浅さを呪った。
長崎に市電が走ったのは確か大正に入ってからだ。明治の人間である彼女にとって、街のど真ん中を鉄の塊が走る光景など、想像の埒外だろう。
「電車……電気軌道でございますか? こ、こんな狭い通りを、煙も吐かずに走ってくるなんて……!」
「電気で動くんよ。人を食べるわけじゃなか」
プシュー、とエアブレーキの大きな音がしてドアが開く。
ちせは「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げ、後ずさりした。
「乗るぞ。これが一番早か」
「こ、これに乗るのですか? 腹の中に……?」
俺は怯える彼女の手を引き、なかば強引に乗車口へと誘導した。
俺は定期入れからICカードを取り出し、読み取り機にタッチした。ピッ、という軽快な音が鳴る。
続いてちせが乗ろうとして、入り口で立ち往生した。
「……あの、切符はどこで買うのでしょうか?」
「今はこれだ」
俺はもう一枚のICカード(母さんから借りた予備)をちせに手渡した。
ちせは、得体の知れないプラスチックの板を恐る恐る持ち、読み取り機へ近づけようとするが、恐怖で手が震えて止まってしまう。
「む、無理でございます! このような得体の知れない機械に触れれば、魂を抜かれて……」
彼女が泣きそうになった、その時だった。
スッ、と彼女の腕が動いた。
ちせの意志とは無関係に、右手だけが滑らかに動き、迷いなくカードを読み取り機に叩きつけたのだ。
――ピピッ。
「え……?」
ちせが呆然と自分の右手を見つめる。
俺も、その所作から目が離せなかった。
その手つきは、あまりにも慣れていた。日常で使っていた若菜の、無意識の動作そのものだった。
「……若菜さま、でしょうか」
揺れる車内で、ちせは自分の右手を愛おしそうに撫でた。
「私が怯えているのを見て、助けてくださったのですね。『怖くないよ』と、背中を押してくださった気がします」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。
若菜は眠っているわけじゃない。
この体の中にいて、ちせと共に生きている。言葉は交わせなくても、体温を通じて二人は繋がっているのだ。
電車の中でちせは、自分の手の中にあるプラスチックのカードを、不可解な呪具でも見るような目で見つめていた。
「……恐ろしい世の中です。この薄い板一枚に、金銭の価値が宿っているとは」
「便利だろ? 小銭をジャラジャラ出さんで済むし」
「便利……なのでしょうか。私には、全てが狐に化かされているようでなりません」
そう言いながらも、電車が動き出すと、彼女の表情は一変した。
窓枠に手をかけ、食い入るように外の景色を見つめ始めたのだ。
ガタン、ゴトン。
独特の揺れとリズム。
車窓を流れるのは、ビルや車といった現代の景色だが、明治の時代はどんな光景だったのだろうか?
「……速いですね」
ちせが、窓に額をくっつけるようにして呟いた。
「私の知っている長崎の街並みとは、随分と変わってしまいました。高い建物ばかりで、空が狭うございます」
「寂しいか?」
「いいえ」
彼女は振り返り、はにかむように微笑んだ。
「最初は恐ろしゅうございましたが……この『ガタンゴトン』という一定のリズム、案外心地よいものですね。……ふふ、まるで大きな鉄の揺り籠に揺られているようです」
西日が差し込む車内。
つり革が揺れるリズムに合わせて、彼女の黒髪が揺れる。
その横顔があまりに楽しげで、俺は「次は観光通り〜」という無機質なアナウンスさえも、どこかのどかな響きに感じてしまった。
だが、ふとちせの表情が曇った。
彼女は窓の外から視線を外し、車内の様子を不思議そうに見渡している。
「慶祐さま。……皆様、何をなさっておられるのですか?」
「え?」
俺は周囲を見回した。
車内は満員に近いが、奇妙なほど静かだった。
学生も、スーツを着たサラリーマンも、買い物帰りの主婦も。乗客のほとんどが俯き、手元の小さな板――スマートフォンを無言で凝視している。
青白い光に照らされた顔は無表情で、指先だけが忙しなく動いている。
「ああ、スマホを見とるんよ。……まあ、情報の確認とか、暇つぶしやな」
「すまほ……。あの、小さな黒鏡のことですか?」
ちせは眉をひそめ、俺のポケットからはみ出していたスマホを指差した。
「はい。先ほど、改札で使った魔法の板と同じものですよね。遠くの知識や、他人の言葉を映し出す便利な道具だと伺いました」
「まあ、そうだな」
「便利、なのでしょうね。ですが……」
彼女は声を潜め、どこか恐ろしげに呟いた。
「これをお持ちの皆様、魂を抜かれておられるようにも見えます」
俺は、握っていた吊り革から手を離しそうになった。
「私の時代では、鏡は『己を映すもの』でした。ですが、この鏡は『己以外のすべて』を映し出し、見る者を底なし沼のように引きずり込んでしまう。……まるで、百鬼夜行の列に加わっているかのような狂気を感じます」
彼女は真剣な眼差しで、俯く乗客たちを見つめた。
「この時代の方々は、皆、強大な陰陽師の末裔かと思っておりましたが……あるいは、強大すぎる呪具に使役されている『操り人形』なのかもしれませんね」
俺は返す言葉を失った。
言われてみれば、確かに異様な光景だ。
同じ箱の中にいながら、誰も隣の人間を見ていない。
窓の外の美しい長崎の夕景にも目もくれず、掌の中の仮想現実に没入している。
単に「便利」と消費し、依存している俺たちよりも、彼女の方がよほど、この機械の本質的な「不気味さ」を正確に捉えているのかもしれない。
「……手厳しいな。使いすぎると魂を吸われるってのは、あながち嘘じゃないかもな」
「肝に銘じます」
ちせは深く頷くと、再び窓の外へ視線を戻した。
流れる街の景色を、一瞬たりとも見逃すまいとするように。その瞳の輝きは、スマホに没頭する現代人の誰よりも生き生きとしていた。
路面電車を降り、俺たちは新地中華街へと足を運んだ。
極彩色の門をくぐると、石畳の通りには観光客が溢れ、美味しそうな湯気と匂いが充満している。
「慶祐さま。ここは……『唐人屋敷』でございましょうか?」
「今は中華街って言うんだ。……腹、減っただろ?」
俺は一軒の点心の店先で足を止めた。
ショーケースには、豚まんや角煮まんじゅうが並んでいる。だが、俺が選んだのはここを通るときにいつも食べたくなる別のものだった。
「おばちゃん、ハトシ二つ」
「はいよ、揚げたてだよ!」
渡されたのは、油紙に包まれたキツネ色の揚げ物だ。
噛みついた瞬間、ジュワッと熱い油が溢れ出し、海老の甘みが火傷しそうなほど舌を刺激する。観光客向けの店だが、この暴力的なまでのカロリーと香ばしさは、部活帰りに貪り食ったあの頃の味そのままだ。
「ほら、食ってみろ。熱いから気をつけろよ」
手渡すと、ちせは目を丸くして、そのきつね色の塊を見つめた。
「ハトシ……。まあ、ハトシでございますか?」
「おっ、知っとるんか?」
「はい。祝いの席や、特別な宴の折に、父が卓袱料理として頼んでくれたことがございます。ですが……」
彼女は困惑気味に眉を寄せた。
「このように、紙に包んで往来で食すものなのですか? 私の記憶では、綺麗なお皿に盛られて出てくる、高価な料理でしたが」
「今はファストフード感覚よ。時代は変わるもんたい」
俺は苦笑して、自分のハトシにかぶりついた。サクッ、と小気味よい音がして、海老の香ばしさが口いっぱいに広がる。
ちせも、恐る恐る口元へ運んだ。
小さな口で、端の方を少しだけ齧る。
カリッ。
揚げたパンの香ばしい音。
その直後、ふわりと広がる海老の甘みと、濃厚な油の風味。
ちせの動きが、ピタリと止まった。
「……どうだ?」
俺が尋ねても、彼女は答えない。
ただ、食べかけのハトシを両手で包み込むように持ち、震える瞳でそれを見つめている。
「ちせ?」
「……変わりません」
ぽつり、と彼女が呟いた。
「景色は変わりました。言葉も、着るものも、街の音さえも、私の知っている長崎ではなくなってしまいました。……けれど」
彼女の大きな瞳から、音もなく涙が零れ落ちた。
その涙は、頬を伝って、ハトシを包む油紙に落ちていく。
「この味は……百年経っても、何も変わらないのですね」
彼女は泣き笑いのような顔で、俺を見た。
「懐かしい……。懐かしゅうございます、慶祐さま。
父様と、母様と……みんなで囲んだ、あの日の夕餉の味がいたします」
彼女は、愛おしそうに、もう一口ハトシを頬張った。
サクッ、という音が、雑踏の中でそこだけ静かに響く。
咀嚼するたびに、彼女の中で「失われた時間」が再生されているのが分かった。
俺は胸が締め付けられる思いだった。
たかが数百円の買い食いだ。
けれど、この揚げパン一つが、孤独なタイムトラベラーである彼女を、かつての幸福な記憶と繋ぎ止める唯一の錨になっている。
「……いっぱい食えよ。ここなら、誰も行儀が悪いなんて言わんから」
「はい……。はいっ、おいしゅうございます……!」
ちせは涙を拭うことも忘れ、夢中でハトシを頬張った。
その口元についたパン粉を、俺が指で拭ってやると、彼女は照れくさそうに、けれど心からの笑顔を見せた。
中華街の喧騒の中、彼女の周りだけ、セピア色の優しい時間が流れているようだった。
「慶祐さま。一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「なんや」
「少し前から、心に引っかかっていることがございます」
ちせは油紙を丁寧に畳みながら、こちらを見ずに言った。
「はじめてお会いした夜。貴方様は、私を『蝶々夫人』のようだと仰いました」
俺は、口の中のものを飲み込みそこねた。
覚えていたのか。
「あれは……その、ちょっとした冗談で」
「存じております」
彼女は、少しだけ笑った。
「ですが、あれは待つ女の話でございます」
「……知っとると?」
「私の時代の話でございますから」
港のほうから、汽笛が聞こえた。
「丘の上の家から、毎日、港を見下ろして。船が来るのを、三年待つのです。周りが皆、もう戻らぬと申しても、あの方だけは信じ続けた」
「……ああ」
「私は、あの話が嫌いでございました」
はっきりとした声だった。
「では、どういうのが好きなんや」
ちせはしばらく黙って、それから答えた。
「船に、乗るほうでございます」
夜のアーケードの灯りが、彼女の横顔を流れていった。
「待つのではなく、乗って出ていく女の話が、私は読みとうございました。……そのような本は、一冊もございませんでしたけれど」
俺は、何も言えなかった。
代わりに、屋台へ引き返した。
「おばちゃん、ハトシもう二つ」
「あら、まだ食べると?」
「こいつ、育ち盛りやけん」
油紙を押し付けると、ちせは目を丸くして、それから困ったように笑った。
何と言えばいいのか分からなかったのだ。
お前の読みたかった本は、たぶん今なら書店に山ほど並んでいる。図書館にも、電車で三十分の街にも、この国のどこにでもある。百年遅い、と言うのは残酷すぎた。
だから俺は、揚げパンを二つ買った。それが、今日の俺にできる精一杯だった。
医師の診断は「転落のショックによる解離性健忘、および人格の変化」。
要するに、頭を強く打ったせいで一時的に記憶が混乱し、別人格が表に出ている状態だ――というのが、医学的かつ合理的な説明だった。
だが、俺だけは知っている。
これは病気ではない。
手鏡の封印が解かれ、百年の時を超えて蘇った霊魂が、長与若菜という空っぽの器を満たしてしまったのだと。
ちせ――若菜の体を借りたその明治生まれの少女は、驚くべき「順応性」を見せた。
いや、正確に言えば、彼女にとっての「順応」とは、置かれた環境で己を殺し、相手に尽くすことと同義だったのだ。
病室で二人きりになった時、俺は彼女に現状を説明した。
今はおよそ百年の時が過ぎた「令和」という時代であること。
俺は慶次郎ではなく、そのひ孫の慶祐であること。
そして、彼女が「長与若菜」として振る舞わなければ、周囲が混乱すること。
彼女は、最初は鏡に映る茶髪の自分を見て絶句し、窓の外に広がる長崎の夜景を見て涙を流していたが、俺の話が終わると、涙を拭って居住まいを正した。
「承知いたしました」
彼女はベッドの上で正座をし(ふかふかのマットレスの上でバランスを取るのに苦労していたが)、凛とした瞳で俺を見上げた。
「私の命を呼び覚ましてくださったのは、慶祐さまです。なれば、この身が消えるその時まで、私は慶祐さまの『若菜さん』として、誠心誠意お仕えいたします」
「いや、仕えなくていいんだ。普通にしててくれれば」
「普通……で、ございますね。精進いたします」
彼女は握り拳を膝に置き、悲壮な決意を滲ませて頷いた。
だが、明治の女にとっての「普通」と、現代の女子高生の「普通」の間には、日本海溝よりも深く広い溝があった。
* * *
入院中の彼女の振る舞いは、看護師たちの間で瞬く間に評判となった。
何しろ、検温に来た看護師に対し、「お手数をおかけいたします」と最敬礼で迎え入れ、食事が配膳されれば、手を合わせて五分ほど感謝の祈りを捧げてから箸をつけるのだ。
「長与さん、見かけによらず、とっても礼儀正しい子なのねぇ」
「いやあ、頭を打っておかしくなっとるだけですよ」
俺は看護師に苦笑いで誤魔化しつつ、ちせの行動をハラハラと見守るしかなかった。
彼女は、出された病院食――味気ないおかゆと薄味の煮物――を、最高級の懐石料理か何かのように、一粒残さず綺麗に平らげた。
最後に器にお茶を注ぎ、沢庵で拭って飲むという徹底ぶりだ。
「……美味いか? それ」
「はい。このような真っ白な白米を、お腹いっぱいいただけるなんて……この時代は、夢のような世の中でございますね」
彼女がしみじみと茶碗を見つめる横顔を見て、俺は何も言えなくなってしまった。
飽食の時代に生きる俺たちが忘れていた感謝が、そこにはあった。
しかし、問題は「機械」だった。
トイレに入った彼女が、自動で水が流れた瞬間に「祟りじゃ!」と半泣きで飛び出してきたり、テレビのリモコンを「操り人形の呪具」だと勘違いして手袋をして触ろうとしたりと、枚挙に暇がない。
そのたびに俺は、「これは科学だ」「電気というやつだ」と幼児に言い聞かせるように説明し、彼女は「なんと……」と目を丸くして感心するのだった。
そして、退院の日。
俺と、俺の両親(父の誠司と母の由美子)、そして若菜の祖母が、病院の玄関で彼女を待っていた。
着替えを済ませた若菜――中身はちせ――が、ナースステーションの方から歩いてくる。
若菜の私服であるTシャツとデニムパンツ姿だが、その歩き方は能楽師のように音を立てず、背筋はピンと伸びていた。
「若菜、大丈夫ね?」
祖母が心配そうに駆け寄ると、ちせは慈愛に満ちた微笑みを向けた。
「はい、お祖母さま。ご心配をおかけいたしました」
そして、彼女は俺と両親の前に進み出ると、立ち止まった。
父が、気まずそうに腕を組む。
父は、若菜の事故が、俺との口論の直後に起きたことを知っている。だからこそ、どんな顔をして幼馴染の彼女に接すればいいのか、測りかねているようだった。
「あの、若菜ちゃん。体はもう……」
父が声をかけようとした、その時だった。
ちせは、病院の玄関の硬いタイルの上に、躊躇いなく両膝をついた。
「えっ!?」
俺が声を上げる間もなく、彼女は両手をハの字に突き、額が床に触れるほど深々と頭を下げたのだ。
見事なまでの、土下座。
自動ドアを行き交う人々が、何事かとギョッとして振り返る。
「この度は、私の不徳の致すところにより、皆様に多大なるご迷惑とご心配をおかけいたしました」
凛とした声が、フロアに響く。
「宮部の旦那様、奥様。そして慶祐さま。この御恩は、海よりも深く、山よりも高く、生涯忘れることはございません。この身が朽ちるまで、必ずやご奉公させていただきます」
シーン、と玄関の空気が止まった。
父は口を半開きにし、母は「まあ……」と頬に手を当てている。
俺は頭を抱えた。
ご奉公って。今は令和だぞ。しかもお前は「幼馴染」であって「使用人」じゃないんだ。
「お、おい若菜。顔を上げろ。みんな見とる」
「いいえ。この感謝の気持ちは、言葉だけでは伝えきれません」
彼女は頑として頭を上げようとしない。
その姿は滑稽だが、同時に、どうしようもなく健気だった。
厳格で知られる父・誠司の表情が、見る見るうちに崩れていくのが分かった。
「う、うむ……。律儀なことだ。頭を上げなさい。大事なくて何よりだったな」
父の声が、かつて聞いたことがないほど優しかった。
毒気を抜かれるとは、まさにこのことだ。
ちせは、ゆっくりと顔を上げた。額に少し埃がついていたが、その瞳は一点の曇りもなく清らかで、俺たちを射抜いた。
俺は確信した。
この「明治生まれの転校生」は、俺の日常だけでなく、俺の家族や、学校の空気さえも、すべて塗り替えてしまうだろうと。
こうして、一週間の自宅療養を経て、復帰の朝がやってきた。
* * *
七時十五分。俺は隣家の玄関先に立っていた。
一人で行かせるのは不安だ、と言ったのは俺のほうだ。若菜の祖母ちゃんも「そうしてくれると助かる」と乗ってきて、朝の付き添いが決まった。
「慶祐くん、ちょっと待ってねぇ」
奥から祖母ちゃんの声がする。それから、少し困ったような笑い声が続いた。
「あらあら。そげん引っ張ったら、皺になるとよ」
何をやっているんだ。
俺は塀にもたれて待った。梅雨の晴れ間の朝で、日はもう高い。アスファルトから昨夜の雨が湯気になって立ち昇り、蝉が試し撃ちのように短く鳴いた。
三分ほどして、引き戸が開いた。
出てきたちせは、敷居の内側で止まったまま、一歩も出てこなかった。
夏服だった。
半袖の白いシャツ。膝下まで下ろされたスカートの裾。若菜が着崩していた頃とは別物のように、皺ひとつなく着ている。
そこまでは、いい。
問題は、彼女が両腕を胸の前で交差させて、二の腕を手のひらで覆い隠していたことだ。
「……どうした」
「……いえ」
「いえ、じゃなかろ。早う行かんば」
「……はい」
返事だけして、動かない。
俺は苛立ちよりも先に、妙な予感がして敷居の前まで戻った。
「腕、どうした。怪我でもしたとか」
「いいえ」
ちせは顔を伏せたまま、小さく首を振った。
「……このような格好で、人前に出るのですか」
「格好って」
「腕が、出ております」
俺は、間抜けな顔をしていたと思う。
「六月からは夏服やけん。全員そうたい」
「存じております。お祖母さまからそう伺いました。……ですが」
彼女の指が、自分の二の腕をきつく掴んだ。
「私の時代、女子が人前で肌を晒すのは、はしたないことでございました。女学生は袴に、手首まである筒袖。手首から先と、顔だけ。それ以外は、誰にも見せてはならぬものでした」
「……ああ」
そうか、と思った。
そんなことにも気づかずに、俺はこいつを外に引きずり出そうとしていた。
蝉が本気で鳴き始めた。祖母ちゃんが気を利かせたのか、玄関の奥から人の気配が消えている。
「あのな」
俺は敷居の外から言った。
「今、この街を歩いとる女の子は、全員腕を出しとる。下手すりゃ臍まで出しとる。誰も見とらん。誰も、何とも思わん」
「……はい」
「はい、じゃなくて」
言葉を探した。
こういうとき、俺は自分の語彙の少なさが嫌になる。
「お前、言うたやろ。もっと広い世界が見たかったって。お洒落をして、誰の目も気にせず笑い転げてみたかったって」
ちせの睫毛が、微かに震えた。
「その世界が、これたい。腕が出るだけの話やなか。誰も、お前を叱らん世界の話ばしとる」
長い沈黙があった。
祖母ちゃんの家の柱時計が、遠くで七時半を打った。
やがて、ちせの指が、ゆっくりと二の腕から離れた。
腕が、下りる。
朝の光が、白い前腕の上を滑った。産毛が金色に光って、肘の内側に青い血管が透けている。彼女は自分の腕を、他人のもののように見下ろしていた。
「……ずいぶん、細うございますね」
「若菜のやろ、それ」
「そうでした」
ちせは、初めて笑った。
そして、敷居をまたいだ。
一歩。それから二歩。
三歩目で立ち止まり、彼女は空を見上げた。
「涼しいのですね」
そう言った。
たったそれだけの言葉だった。
けれど俺は、そのとき初めて、この娘が百年のあいだ何を待たされていたのかを、少しだけ分かった気がした。
袖から出た腕に、朝の風が当たる。ただそれだけのことを、こいつは一度も知らないまま死んだのだ。
「……行くぞ」
「はい」
石段を降り始めて十段ほどで、ちせが立ち止まった。
「慶祐さま」
「なんや」
彼女は掌を開いた。紺のリボンが、細長い布のまま乗っている。
「これは、どのように結ぶものでございましょう」
「……結んどらんかったとか」
「お祖母さまにお願いするつもりでしたが、その……手間取ってしまいましたので」
腕の一件で、俺たちはすでに十五分遅れている。
「見たことなかとか。同じもんば、女子は全員ぶら下げとるやろ」
「遠目には。けれど、手に取ったのは初めてでございます」
俺は、返す言葉を失った。
一週間、この娘は家から出ていない。制服に袖を通したのも、今朝が初めてなのだ。
「……貸してみ」
俺はリボンを受け取って、彼女の襟の下に通した。
顎の下、五センチ。鎖骨の窪みに、汗が一粒溜まっている。
洗い立てのシャツの匂いの奥に、樟脳の匂いが微かに混ざっていた。
「……慶祐さま」
「動くな」
蝶結びだ。子供でもできる。
できなかった。
輪の大きさが揃わず、片方だけがだらしなく垂れる。解いて、もう一度やって、また崩れた。三度目で指が滑った。
神社で紐を結ぶのには慣れている。注連縄も御守りの緒も、目をつぶってでも結べる。だがあれは、物に結ぶ紐だ。人の首の下で手を動かすのは、まったく別の作業だった。
「……くそ」
「慶祐さま」
ちせが、俺の手首に指を添えた。
「一度、ほどいてくださいませ」
言われた通りにする。
彼女は俺の手からリボンを取ると、自分の首の下で、指先だけを頼りに動かした。鏡もない。手元も見ていない。
三秒だった。
紺の蝶が、左右対称に整って、襟元で静かに落ち着いた。
「……なんや、できるやんか」
「帯締めと、同じでございました」
ちせは満足そうに、結び目を指の腹で撫でた。
俺は何も言わずに、先に石段を降り始めた。
途中、坂の途中の家の婆さんとすれ違った。婆さんはちせを見て、それから俺を見て、「あら」という顔をした。
「おはようございます」
ちせが先に頭を下げた。
腕は、もう隠していなかった。
校門の前に、高比良先生が立っていた。
朝の立ち番だ。
腕を組んで、登校してくる生徒の流れをぼんやり眺めている。
俺たちに気づいて、片手を上げかけた。
そして、止まった。
「……宮部。そっちは」
「長与ですけど」
「長与?」
先生は黒縁眼鏡を外し、レンズを制服の袖で拭いて、かけ直した。四十過ぎの男が、漫画みたいなことをする。
「おはようございます」
ちせは頭を下げてから、そこで止まった。
ちらり、と俺を見る。
しまった、と思った。この一週間、電気だの水道だのを説明するのに必死で、俺は教師の名前一つ教えていない。
「……高比良先生」
俺は口の中で言った。
「高比良先生。ご挨拶が遅れまして、申し訳ございません」
ちせが、あらためて腰を折った。
四十五度。
登校してくる生徒の列が、その一点で流れを乱した。何人かが振り返り、速度を落として、こちらを見ながら通り過ぎていく。
「……長与、か」
「はい」
「髪は」
「黒く染めてまいりました。以前の色は、この学校に相応しくないと存じましたので」
「そうか」
先生は口を開けて、閉じて、また開けた。
「……そうか。うん。前よりいいな」
言ってから、自分でも何を言っているのか分からない、という顔をした。
「宮部。お前、こいつと一緒に来たとか」
「隣の家なんで」
「……ああ、そうやったな」
先生はもう一度ちせを見た。今度は、頭のてっぺんから足元まで、ゆっくりと。
驚いている目ではなかった。確かめている目だった。
「二人とも、職員室に寄っていけ。長与、一分でよか。顔ば見せとかんと、他の先生たちが心配する」
「かしこまりました」
朝の職員室は、教室とは別の匂いがする。
粉末コーヒーと、印刷機のインクと、誰かの弁当が温まっている匂い。刷り上がったばかりの期末テストが茶封筒の口から覗いていて、先生たちがそれを見ないふりをしながら行き来している。
引き戸を開けた瞬間、ちせは敷居の内側で足を揃えた。
そして、部屋の全体に向かって腰を折った。
「おはようございます。長らくご迷惑をおかけいたしました」
朝の喧騒が、一瞬止まった。
印刷機の音だけが残った。
窓際の教頭が、引きかけた椅子を止めた。
隣の席の若い教師が、手にした湯呑みを持ったまま固まっている。誰も、こんな挨拶をされたことがないのだ。
「……お、おう。長与か。もう大丈夫なんか」
「はい。お陰さまをもちまして」
「そ、そうか。無理せんごとな」
高比良先生は自分の席に着くと、しばらくちせの顔を見ていた。
「長与。医者からは、記憶に障りが残っとると聞いとる」
「はい」
「困ったら、誰でんよかけん言え。抱え込むな」
「……ありがとうございます」
ちせは、もう一度頭を下げた。
その角度が、校門で見たときと寸分違わなかった。上体だけが折れて、首は曲がらない。何百回も繰り返してきた者の礼だ。
先生の眉が、ほんの少し寄ったのを俺は見逃さなかった。
「宮部。お前は教室に行っていいぞ」
「……はい」
俺は職員室を出た。
廊下を歩きながら、俺は自分の手のひらが湿っているのに気づいた。
これから、あいつが教室に入っていく。三十人の前に。
止める理由はない。止める権利もない。
それでも俺は、階段を上がる足がやけに重かった。
教室は、期末テスト前の重苦しい空気と、近づく夏への微かな浮つきが混在していた。
空は梅雨の晴れ間。湿気を帯びた風が、開け放たれた窓から教室に入り込んでいる。
「おい慶祐、長与のやつ、今日から来るんやろ?」
前の席で、西田雅彦が椅子を反らしながら話しかけてきた。
あの日、雨の中で若菜が飛び出したことを知る由もない彼は、相変わらず能天気な笑顔を浮かべている。
「ああ。……まあな」
「大丈夫なんか? 頭打ったって聞いたけど、記憶喪失になっとったりしてな!」
「笑えんぞ、それ」
俺が釘を刺すと、西田は「悪ぃ悪ぃ」と肩をすくめた。
その時、予鈴のチャイムが鳴り、担任の高比良先生が教室に入ってきた。
「席に着け。ホームルームを始める」
先生のいつもと変わらない低い声。
だが、教室の空気は僅かに張り詰めていた。誰もが、入り口の方を気にしている。
あの派手で刺々しかった「出戻り転校生」が、事故を経てどう変わったのか。あるいは変わっていないのか。
「長与、入ってきなさい」
先生が促す。
引き戸が、静かに、音もなく開いた。
一歩、その生徒が教室に足を踏み入れた瞬間。
教室の喧騒が、水底に沈んだようにフッと消えた。
俺は、音の消え方を聞いていた。
三十人の目に今なにが映っているのか、手に取るように分かった。
顔立ちは確かに長与若菜だ。
けれど、茶色く脱色されていた髪は、黒染めスプレーで濡れたような漆黒に戻されている。
短く詰められていたスカートの裾は膝下まで下ろされ、夏服のシャツのボタンは、第一ボタンまで几帳面に留められていた。
何より違うのは、その立ち姿だ。
背筋を糸で吊られたように伸ばし、両手を前で清楚に重ねている。
伏せられた長い睫毛が、窓からの陽光を受けて長い影を落としていた。
「……え、誰?」
誰かが小声で呟いた。
西田が、口を半開きにしたまま固まっている。
予想通りだ。
俺は口の端が緩みそうになるのを、拳を口に当てて誤魔化した。今朝の玄関先から、この光景は見えていた。三百段を降りながら、こうなるやろな、と思っていた。
ざまあみろ、と思った。誰に対してかは自分でも分からない。
――そこで、笑いが止まった。
ちせは震えていない。
一時間前、腕を出すのが怖くて敷居をまたげなかった女が、三十人に見られて、指の先まで揺れていない。
俺は、自分が何を見せられているのか分からなくなった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、教室全体を見渡した。
その瞳は、以前のような威嚇する獣の目ではなく、春の海のように穏やかで、どこか儚げな光を宿していた。
彼女は教壇の前に進み出ると、流れるような所作で一礼した。
「皆様、ごきげんよう」
凛とした声が、教室の隅々まで染み渡る。
ザワ……と空気が揺れた。
ごきげんよう?
今どき、お嬢様学校の生徒でも言わないような挨拶だ。
「以前の私は、些か……その、心乱れておりましたゆえ、皆様に多大なるご無礼を働いたと聞き及んでおります」
彼女は言葉を選びながら、紡ぐように続ける。
「この通り、心を入れ替えました。不束者ではございますが……以後、よしなにお願い申し上げます」
再び、深々としたお辞儀。
背筋をスッと伸ばしたまま、腰から折れるように頭を下げる。重ねた指先は白く、一分の隙もない。
教室の埃っぽい空気の中で、そこだけ一輪の白百合が咲いたような錯覚を覚えた。
俺がかつて冗談半分で口にした『蝶々夫人』――いや、明治の錦絵から抜け出してきた『大和撫子』が、確かにそこにいた。
「……おいおい、マジかよ」
西田の口は、さっきから開いたままだ。
クラス中が呆気に取られる中、不意にシャッター音が響いた。
カシャッ。
窓際の後ろの席。写真部員の早瀬湊だ。
普段は寡黙で、人を撮ることなど滅多にない彼が、一眼レフを下ろしてレンズ越しに彼女を見つめている。
その目は、珍しい被写体を捉えた時の熱を帯びていた。
「……すごいな」
早瀬がボソリと呟いた。
「空気が、そこだけ違う。……まるで、古いポートレートみたいだ」
その言葉に、隣の席の月島も、読みかけの文庫本に指を挟んだまま頷いた。
「本当。背筋の伸び方、指先の揃え方……付け焼き刃じゃない。あんな所作、今の私たちには真似できない」
鋭い観察眼を持つ二人の言葉が、俺の胸に突き刺さる。
そうだ。あれは演技じゃない。
「早瀬、授業中ぞ。……長与、席につきなさい」
高比良先生も、狐につままれたような顔で指示を出した。
若菜――いや、ちせは、「はい」と短く返事をすると、音も立てずに歩き出した。
自分の席へ向かう途中、俺の横を通る。
甘い香りが、鼻先をかすめた。
以前のような人工的な香水の匂いではない。樟脳と白粉が混ざったような、懐かしく、切ない香り。
彼女は一瞬だけ足を止め、俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「慶祐さま。……これで、よろしいでしょうか?」
俺を見下ろす瞳が、不安げに揺れている。
褒めてほしいと願う、幼い子供のような目。
そのあどけなさに、息を吸うのを忘れた。
「……ああ。上出来だ」
俺が小声で返すと、彼女は花が咲くように破顔した。
その笑顔の破壊力たるや。
俺は慌てて視線を逸らした。
まずい。これは、ヒジョーにまずい。
俺の理想を具現化したような少女が、俺の幼馴染の体を借りて、俺だけに微笑みかけてくる。若菜って、こんなにかわいかったのか。
こんなの、好きにならないわけがないじゃないか。
俺は額に滲む汗を拭いながら、窓の外の長崎港を睨みつけた。
若菜の意識が戻るまで、この「明治生まれの転校生」を守らなければならない。
だが、一番守らなければならないのは、俺自身の理性なのかもしれなかった。
ホームルーム終了のチャイムが鳴ると同時に、教室の空気が弾けた。
ダムが決壊したかのように、クラスメイトたちが若菜の席へと押し寄せる。当然の反応だった。昨日まで「触らぬ神」だったヤンキー娘が、一夜にして「深窓の令嬢」と化して登校してきたのだから。
「おい長与! どがんしたと、その喋り方!」
「キャラ変? それとも頭打ったってマジ?」
「つーか、黒髪のほうが断然似合うやん!」
四方八方から浴びせられる好奇の言葉。
普通の女子高生なら、笑って誤魔化すか、うるさがって追い払うところだろう。
だが、ちせの反応は違った。
「きゃ……」
彼女は小さな悲鳴を上げ、身を竦ませた。
その顔に浮かんでいたのは、純粋な「恐怖」だった。
無理もない。明治の女学生にとって、異性が――それも親しくもない殿方が、これほど無遠慮に距離を詰め、大声で話しかけてくるなど、暴漢に囲まれたも同然の事態なのだ。
「あ、あの……近、近うございます……」
彼女は顔を真っ赤にし、教科書を盾にするように胸元に抱えた。
その瞳が潤み、助けを求めるように俺の方を彷徨う。
(……仕方ないな)
俺は小さく溜め息をつき、立ち上がった。
ここで彼女がパニックを起こし、「無礼者!」などと叫び出したら、それこそ収拾がつかなくなる。
「おい、西田。お前ら、ちょっと離れろよ」
俺は人垣を割り、西田の襟首を掴んで引き剥がした。
「えーっ、なんや宮部。保護者気取りか?」
「うるさい。先生も言うとったやろ。長与は事故のショックで、まだ本調子やないんよ。記憶も混乱しとるし、医者から安静にするように言われとる」
「記憶の混乱って……それで敬語キャラになると?」
「脳の不思議たい。とにかく、そっとしとけ」
俺がドスの利いた声で睨むと、西田たちは「ちぇっ」と不満げに散っていった。
嵐が去った後の机で、ちせは肩を震わせていた。
俺は彼女の机の端を、指先でコンコンと叩いた。
「……大丈夫か」
小声で尋ねる。
ちせは顔を上げ、涙目のまま、ほっとしたように微笑んだ。
「け、慶祐さま……。ありがとうございます。未来の殿方は、あのように……情熱的なのですね」
「情熱的っつーか、デリカシーがないだけだ」
「でりかしー……?」
「礼儀知らずってことだ」
俺が苦笑すると、彼女はようやく教科書を下ろした。
「それにしても、難儀なところに来てしまいました」
彼女は教室を見渡した。
黒板の文字、蛍光灯の明かり、生徒たちの着崩した制服。
「ここは『学び舎』なのですよね? 私の知る女学校とは、随分と様子が違います。男女が同じ部屋で学ぶなど……やはり、少し破廉恥ではございませんか?」
真剣な顔で問われて、俺は返答に窮した。
百年前の倫理観を持つ彼女にとって、共学の高校は、さぞかし乱れた場所に映るのだろう。
* * *
一限目は、高比良先生の「日本史」だった。
これもまた、ちせにとっては試練の時間となった。
彼女は背筋をピンと伸ばし、誰よりも真剣に黒板を見つめていた。
だが、手元のノートは白紙のままだ。
無理もない。彼女の手にあるのは、現代のシャープペンシルなのだから。
(……使い方が分からんのか)
俺は横目で観察していた。
ちせは、不思議そうにシャープペンを振ったり、ペン先を紙に押し付けたりしている。芯が出ないのだ。
カチカチとノックすればいいだけなのだが、その発想がないらしい。
彼女は困り果てた顔で、筆箱の中から鉛筆を探そうとするが、若菜の筆箱には派手なマーカーとシャープペンしか入っていない。
見かねた俺は、自分の分の予備の鉛筆を一本取り出し、彼女の机にそっと置いた。
若菜の時には絶対にしなかったであろう親切だ。
「……あ」
ちせが目を見開き、パッと顔を輝かせた。
彼女は音を立てないように両手を合わせ、拝むような仕草で「ありがとう」と口パクで伝えてきた。
その笑顔の無垢さに、俺はまたしても動悸が速くなるのを感じた。
授業の内容は「明治維新と文明開化」だった。
高比良先生が、教科書の写真を指しながら淡々と説明する。
「……こうして、西洋の文化が急速に流入し、人々の生活様式は一変した。鹿鳴館に代表される欧化政策は、当時の日本人にとって憧れであり、同時に戸惑いでもあったわけだ」
ちせの手が、ピクリと止まる。
彼女は教科書のページを食い入るように見つめていた。そこには、バッスルスタイルのドレスを着た貴婦人の錦絵が載っている。
「先生」
不意に、凛とした声が響いた。
ちせが、真っ直ぐに挙手していた。指先まで神経の行き届いた、美しい挙手だった。
高比良先生が眼鏡の位置を直し、意外そうに彼女を見る。普段の若菜なら、授業中は寝ているか、スマホを隠れていじっているのが常だったからだ。
「なんだ、長与。質問か?」
「はい。……その、教科書の記述について、一つ」
ちせは立ち上がった。
「ここに『人々は洋装を喜んで受け入れた』とありますが、それは少々、語弊があるのではないでしょうか」
「ほう? どういうことだ」
「当時は……いえ、私の祖母から聞いた話ではございますが」
彼女は一瞬言葉を濁し、けれど毅然として続けた。
「コルセットで肋骨が軋み、靴擦れで血が滲もうとも……当時の女学生たちは、胸を張っておりました。それは国のためだけではございません。古い因習を脱ぎ捨て、西洋の淑女と肩を並べ、広い世界へ羽ばたきたい――そんな『新しい女』たちの、血の滲むような覚悟の装いだったはずです」
教室が静まり返った。
その一言一句が単なる知識のひけらかしではなく、その痛みを知っている者だけが語れる、生々しい実感のこもった言葉だったからだ。
高比良先生は、しばらく彼女を見つめていたが、やがてニヤリと口角を上げた。
「……なるほど。勝者の歴史書には載らない、生活者の視点だな。面白い。座っていいぞ、長与」
ちせは一礼して着席した。
ふう、と小さく息を吐く彼女の横顔を、俺はハラハラと見つめていた。
「……おい、マジかよ」
前の席で、西田が口を半開きにして固まっている。
教室のあちこちから、さざ波のような私語が漏れ始めた。
「長与さん、あんなキャラやったっけ?」
「つーか、今の言葉遣い何? 時代劇?」
そのざわめきの中で、若菜の隣の席に座る女子生徒――斉藤一美が、信じられないものを見る目でちせを凝視していた。
彼女は派手なメイクと少し着崩した制服が特徴で、転校してきてからの若菜とよくつるんでいたグループの一人だ。
一美はシャーペンを回す手を止め、ボソリと呟いた。
「……若菜、あんた何食べたらそがん賢くなると?」
一方、廊下側の列では、眼鏡をかけた男子生徒――山本弘が、感心したように頷いているのが見えた。彼はクラス委員長を務める真面目な男で、普段は若菜のような不真面目な生徒には関わりもしないタイプだ。
その山本が、ちせの背中に熱心な視線を送っている。
俺は額に滲む汗を拭った。
目立ちすぎだ。
窓際の後ろの席で、写真部の早瀬湊がふと窓の外へ視線を逃がし、その隣で月島明里が静かに本を読んでいる――そんな「我関せず」な連中はいい。
だが、一美や山本のような、これまで若菜と接点のあった(あるいはなかった)連中が反応し始めている。
* * *
四限目が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
生徒たちが一斉に弁当を広げたり、購買部へ走ったりと動き出す。
ちせは、机の上に置かれた自分の弁当箱――若菜の祖母が持たせてくれたものだ――を前に、困ったように眉を下げていた。
箸箱の開け方が分からないらしい。スライド式だということに気づかず、蓋を爪でこじ開けようとしている。
(……手助けするべきか?)
俺が腰を浮かせかけた時、不意にちせの机に影が落ちた。
斉藤一美だ。彼女はコンビニのパンを片手に、怪訝そうな顔でちせを見下ろしている。
「ねえ、若菜」
「……はい。なんでございましょうか」
ちせが居住まいを正して答えると、一美は「うわ、また敬語」と顔をしかめた。
「あんたさ、今日の放課後どうすんの? 駅前のカラオケ、予約しとるけど」
「から、おけ……?」
ちせが小首を傾げる。
まずい。若菜は一美たちと遊ぶ約束をしていたのか。
ちせに「カラオケ」など理解できるはずがない。俺が助け舟を出そうとした瞬間、ちせは真剣な顔で問い返した。
「それは、桶の一種でしょうか?」
「は?」
「空の桶……。もしや、水汲みのご用事ですか? それとも行水?」
時が止まった。
一美はポカンと口を開け、持っていたパンを落としそうになった。
俺は天を仰いだ。
「あ、あんた……マジで頭打ったんやね」
「はい。不肖この身、未だ回復の途上にございまして……。水汲みのお手伝いは、またの機会にさせていただきたく存じます」
ちせが深々と頭を下げると、一美は引きつった笑みを浮かべて後ずさりした。
「そ、そう……。お大事にね」
一美は逃げるように自分のグループへ戻っていった。
遠くから「若菜、ガチでヤバかばい」「宇宙人と入れ替わっとるんやなか?」というひそひそ話が聞こえてくる。
半分正解だ、と俺は心の中で毒づいた。
やれやれ、と息をついて自分の弁当を開こうとした時、今度は反対側から声がかかった。
「長与さん、少しよかですか」
現れたのは、委員長の山本弘だった。
彼は銀縁眼鏡を押し上げ、わかりやすく緊張した面持ちでちせの前に立っていた。
「はい。どちら様でしょうか」
「山本です。クラス委員の。……さっきの授業の発言、感銘を受けました」
山本は熱っぽく語り出した。
「僕も、明治期の庶民の生活史には興味があって。特に長崎の居留地における日本人と西洋人の関わりについて、君のような視点は盲点でした」
「さようでございますか」
「もしよかったら、これ。僕がまとめた郷土史のレポートなんですけど、読んでみてくれませんか?」
山本は分厚いクリアファイルを差し出した。
ちせは目を丸くしたが、すぐに慈母のような微笑みを浮かべてそれを受け取った。
「まあ。学問に励んでおられるのですね。素晴らしい志です。喜んで拝読いたします」
「あ、ありがとうございます!」
山本は顔を真っ赤にして、何度も頭を下げながら自席へ戻っていった。
何ともわかりやすい奴だ。俺は箸を持ったまま、呆然とその光景を眺めていた。
かつての若菜なら、一美とは「ダルい」と言いながらつるみ、山本のような真面目くんは「堅苦しい」と敬遠していただろう。
それがどうだ。
一美を天然で撃退し、山本を骨抜きにしてしまった。
「慶祐さま」
ちせが、ようやく開いた箸箱から箸を取り出し、俺の方を向いて小さく手招きした。
「あの、山本様とは、どのようなご関係の方なのでしょう?」
「ただの委員長だ。……お前、あんなの受け取って読めるのか?」
「文字を読むのは好きでございます。それに……」
彼女はクリアファイルを愛おしそうに撫でた。
「この時代の若者が、故郷の歴史を知ろうとしている。そのお心が、私は嬉しゅうございます」
その横顔は、教室の誰よりも大人びていて、そして美しかった。
俺は口に入れた卵焼きの味が分からなくなるのを感じた。
彼女は、若菜の人間関係を壊しているのではない。
だが、それは同時に、俺の胸に棘のような不安を植え付ける。
みんなが好意を寄せているのは「長与若菜」の姿をした「ちせ」だ。
もしも……もしも奇跡が起きて、本物の若菜が戻ってきたとしたら。
その時あいつは、自分よりも遥かに愛されている「なり代わり」の痕跡を突きつけられることになる。
それは、コンプレックスの塊だったあいつにとって、何よりも残酷なことなんじゃないだろうか。
俺の懸念を知る由もなく、ちせは「いただきます」と両手を合わせ、幸せそうに弁当を食べ始めた。
窓の外では、梅雨の晴れ間の太陽が、長崎の街を眩しく照らしていた。
* * *
梅雨前線は再び南下し、北上という言葉を置き忘れたように停滞していた。この梅雨は、だらだらとした雨が再び何日も続いている。
その日の昼休みの教室は普段と変わらず、弁当の匂いと喧騒に包まれていた。
ちせは、俺が教えた通りに箸箱を開け、幸せそうに卵焼きを頬張っていた。その横顔は平和そのものだったが、教室の空気には少しずつ棘が混じり始めていた。
「ねえ、若菜」
不意に、甲高い声が降ってきた。
斉藤一美だ。彼女はコンビニの袋を片手に、取り巻きの女子たちを引き連れて、ちせの机を取り囲んだ。
一美の手には、CDケースが握られている。
「これ、返すわ。ありがと」
一美は、ちせが広げている弁当のすぐ横に、CDを無造作に投げ出した。
CDはガチャンと音を立てて弁当箱にあたり、机から落ちそうになった。
ちせは小さく「あっ」と声を上げて、慌てて弁当箱に蓋をした。
「……斉藤様。これは……?」
「あんたが貸してくれたバンドのCDじゃない。聞いたけどさー、マジで趣味悪くない? 歌詞とか超イタいし」
一美はクスクスと笑い、取り巻きたちも同調して嘲笑う。
「つーかさ、若菜。あんたいつまでその『お嬢様キャラ』続けるわけ? マジでキモいんだけど」
「そうそう。黒髪とか似合ってないし、なんか狙ってるっぽくてウザいよねー」
教室が静まり返る。
悪意のある笑い声だけが響く。
俺はカッとなって立ち上がろうとした。記憶喪失(ということにしている)の相手に、この言い草はないだろう。
「おい、斉藤。いい加減にしろよ」
俺が声を張り上げようとした、その時だった。
ちせが、静かに箸を置いた。
カタリ、という小さな音が、不思議と大きく響いた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、一美たちを真っ直ぐに見据えた。その瞳は、凍えるように冷たく、けれど燃えるように熱かった。
「……演じているわけではございません」
凛とした声が、教室の空気を切り裂く。
「ですが、不快な思いをさせたのなら謝ります」
「はあ? なにその余裕。ムカつく」
一美が苛立ちを隠さずに詰め寄る。だが、ちせは一歩も引かなかった。
それどころか、悲しげに眉を下げて、一美に問いかけた。
「斉藤様。貴女は、若菜さまのご友人なのでしょう?」
「はぁ?」
「友ならば、友の変化を嘲笑うのではなく、その心の内を案じるものではありませんか?」
ちせは、机の上に投げ捨てられたCDを、汚れたものでも扱うように指先で拾い上げ、一美に突きつけた。
「彼女は、貴女にこれを貸した時、どんな顔をしていましたか? きっと、『好きなものを共有したい』と、はにかんで笑っていたのではありませんか?」
一美の口が半端に開いたまま止まった。見抜かれた。
ちせの言葉は続く。静かに、けれど鋭利な刃物のように。
「彼女は今、必死に変わろうとしているのです。迷いながら、傷つきながら、それでも前を向こうとしている。それを『キモい』の一言で断じるのは……人として、あまりに寂しいことではありませんか」
「……はあ? 何様なん、あんた」
一美のこめかみがピクリと動く。
顔を真っ赤にして、ドン! とちせの机を蹴り上げる。弁当箱がまたガタリと揺れた。
「偉そうに説教垂れとるけどさあ、無理してウチらに尻尾振っとったんは、あんたの方やろ? 『東京じゃこれが普通』とか見栄張って、必死に話題合わせて。……見てて痛々しかったんよ、あんた」
教室中が凍りつく。
それは、若菜が一番触れられたくない、隠していた事実だったはずだ。
一美は勝ち誇ったように笑い、ちせの胸倉を掴もうと手を伸ばした。
「そのキャラ変も、どうせオトコ受け狙いなんやろ。気色悪いんよ、ええ加減に――」
だが、その手は空中で止まった。
ちせは、身じろぎ一つしなかった。
怯えもせず、怒りもせず。ただ、静かな湖面のような瞳で、一美の歪んだ顔を真っ直ぐに見つめ返していた。
その瞳の奥にある、底知れない「冷たさ」と「強さ」。
それは、一美が知っている、おどおどと顔色を伺っていた若菜のものではなかった。
「……っ」
一美の顔色が変わる。
彼女は掴みかかろうとした手を、火傷したかのように引っ込めた。
本能が告げたのだ。目の前にいるのは、若菜の皮を被った「別の何か」だと。
「な、なんね……その目」
一美の声が震えた。
「斉藤様」
ちせが、静かに口を開く。
「貴女の仰る通り、私は無理をしていたのかもしれません。ですが……友の弱みにつけ込み、それを嘲笑うことでしか己を保てぬ貴女もまた、哀れな方だ」
「なっ……!?」
「お引き取りください。……これ以上、彼女の席を汚さないでいただきたい」
ちせの放つ圧力は、教室全体を圧するほどだった。
一美は「ヒッ」と喉を鳴らして、後ずさりした。
「……キッショ。なんなん、マジで」
一美は捨て台詞を吐くと、青ざめた顔で自分の席へと戻っていった。取り巻きたちも、おっかなびっくりといった様子で散っていく。
嵐が去った後の静寂。
ちせは、ふう、と小さく息を吐いて席に座り込んだ。
俺が慌てて覗き込むと、彼女の膝の上の拳は、小さく震えていた。
「……おい、大丈夫か」
小声で尋ねると、ちせは涙目で俺を見上げた。
「こ、怖かったです……! あの方々が、慶祐さまの仰っていた『やんきー』という種族なのですね……!」
「まあ似たようなもんだ。よく言ったな、すごかったぞ」
「はい……。でも、許せなかったのです」
ちせは、手元のCDケースを愛おしそうに撫でた。
「若菜さまの『好き』を、あのような形で踏みにじるなんて。この体の持ち主は、今、反論することもできません。だからこそ……私が守らねばならないと思いました」
その言葉に俺は胸を打たれ、震える彼女の肩にそっと手を置いた。
こいつは強い。そして、誰よりも義理堅い。
俺の中で、彼女への想いが、確かな熱を持って変わり始めていた。
* * *
午後は国語、現代文の授業だった。
担当の教師が、黒板にチョークを走らせながら言った。
「じゃあ、ここの心情描写について。えーっと……長与、黒板に答えを書いてみろ」
指名されたちせは、「はい」と凛とした声で返事をし、教壇へと進み出た。
クラス中の視線が集まる。
退院後の復帰の挨拶でその育ちの良さは知れ渡っていたが、彼女が授業で板書をするのはこれが初めてだ。
ちせはチョークを手に取ると、迷いのない手つきで書き始めた。
カツ、カツ、カツ。
硬質な音が、心地よいリズムで教室に響く。
書き終えて、彼女が一礼して退くと、教室が静まり返った。
そこには、美術の教科書に出てくるような、流麗極まりない文字が並んでいた。
止め、跳ね、払い。
ただの白いチョークで書いたとは思えない、筆で書いたような墨痕鮮やかな「書」だった。
「……すげえ」
「めっちゃ達筆やん……」
クラスメイトたちが感嘆の声を漏らす。
だが、次の瞬間、ざわめきの質が変わった。
「……ん? あれ、なんて書いてあると?」
「読めなくない?」
黒板に書かれていたのは、確かに日本語だ。だが、それは現代の高校生が見慣れた文字ではなかった。
『其は、恰もてふてふが舞ふごとき……』
「……てふてふ?」
西田が素っ頓狂な声を上げた。
「なんやそれ、呪文か? テフテフってなんの擬音語や?」
「長与さん、それ、ちょうちょうのこと?」
月島明里が助け舟を出した。
ちせは、きょとんとして首を傾げた。
「はい。蝶のことでございますが……。何か、間違いが?」
「いや、間違いというか……」
教師も苦笑している。
ちせは「てふてふ」と書いて「ちょうちょう」と読む、歴史的仮名遣いを、現代でも当然通用するものとして書いてしまったのだ。
さらに、漢字も見たことのない旧字体が混じっている。
『學校(学校)』
『體育(体育)』
彼女のノートを覗き込んだ斉藤一美が、「うわっ、お経みたい!」と悲鳴を上げた。
「慶祐さま……」
席に戻ったちせが、不安そうに俺の袖を引いた。
「皆様、なぜ笑っておられるのですか? 私の文字は、おかしいのでしょうか」
「おかしくはない。おかしくはないんだが……」
俺は、あまりにも美しすぎる「てふてふ」の文字を見上げて、頭を抱えた。
「達筆すぎて、もはや芸術作品になっとるんだよ。……あとで現代の『ひらがな』を特訓な」
「さようでございますか……。未来の言葉は、難しゅうございますね」
ちせは悔しそうに唇を尖らせ、自分のノートの端に、練習のためか小さく『あいうえお』と書き始めた。
その『あ』の字でさえ、国宝級に上手いのだから、始末に負えない。
* * *
休み時間。ちせが日直の仕事で職員室に行っている間、俺は廊下で月島明里に呼び止められた。
彼女は伏せていた睫毛を上げ、単刀直入に切り込んできた。
「宮部くん。……長与さん、本当に『記憶喪失』なの?」
俺は一拍置いてから、努めて平静を装った。
「ああ。医者もそう言ってる。人格が変わったごとなって、本人も苦労しとるみたいや」
「そう……。でも、変よね」
月島は手元の文庫本を閉じた。パタン、という音が廊下に響く。
「記憶がないだけなら、現代の言葉や常識まで忘れるはずがない。彼女、スマホの使い方も、シャーペンの芯の出し方も知らなかった。それに……あの達筆な文字」
月島が一歩、距離を詰める。
「あれは、ただの『キャラ変』や『記憶障害』で説明がつくレベルじゃない。まるで――中身だけ、明治時代の人間と入れ替わったみたい」
背筋が凍った。
鋭すぎる。このままでは、ちせが「異常者」として騒がれかねない。
俺は拳を握りしめ、月島を睨み返した。
「……月島。あいつは今、必死にリハビリしとるんや。茶化すような真似は止めてくれ」
「茶化してなんていない」
「なら、黙って見守ってやってくれ。……頼む」
俺は頭を下げた。
これは「共犯」だ。俺はちせを守るために、クラスメイトを欺き、嘘を重ねる道を選んだ。
月島はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった。宮部くんがそこまで言うなら」
彼女は去り際に、ボソリと付け加えた。
「でも、気をつけてね。……あまり深入りすると、戻れなくなる気がするから」
その警告は、奇妙なほど俺の胸に重く残った。
* * *
その日の帰り道。
西日が長く伸びる時間帯。俺たちは東小島へ続く、心臓破りの石段を並んで登っていた。
傾斜角二十度はあろうかという急勾配。普通の人間なら途中で膝に手をつくところだが、ちせは涼しい顔でスタスタと登っていく。
俺の方が息を切らせているくらいだ。
「……はぁ、はぁ。ちせ、お前、元気やな」
「はい。不思議でございます」
ちせは立ち止まり、自分の太ももやふくらはぎを不思議そうにさすった。
「生前の私は、少し走るだけですぐに息が上がり、このような坂道など駕籠か人力車でなければ登れませんでした。ですが、若菜さまのお体は、まるで羽が生えたように軽いのです」
彼女は、眼下に広がる長い階段を見下ろした。
「毎日、この坂を登って学校へ通っておられたのですね。華奢な体に見えて、その内側には鋼のような足腰と、根性が備わっている。……私には真似できません」
「あいつは昔から、体力だけはあったからな。泥だらけになって山を駆け回ってたし、中学の頃は剣道部で男子を竹刀で追い回しとったし」
「まあ、剣道を? それは凛々しい」
ちせは目を輝かせて、くすくすと笑った。
「私など、お行儀見習いのお琴や生け花ばかりで……。本当は、男子に混じって凧揚げをしたり、海へ飛び込んだりしてみたかったのです」
「お転婆娘やな」
「はい。よく乳母に叱られておりました。『長与の娘らしくなさいませ』と」
ちせの声音が、ふと寂しげに沈んだ。
「『らしくあること』というのは、窮屈ですね。私はもっと走りたかったし、もっと大声で笑いたかった。でも、着物の裾が乱れるから、家名に傷がつくからと、いつも何かを諦めておりました」
彼女は俺の方を向き、真っ直ぐな瞳で問いかけてきた。
「慶祐さまは、いかがですか? 『宮部の跡取りらしく』あることは、窮屈ではありませんか?」
ドキンとした。
俺が普段抱えている息苦しさを、彼女は正確に見抜いている。
「……ああ。窮屈だよ。みんな俺の背中に『神社の息子』って看板を見てる。俺自身のことなんて、誰も見ちゃいない」
俺は足元の石ころを蹴った。
乾いた音が坂道に響く。
「だから本当はこの街を出たいんよ。どこか遠くへ行って、ゼロから勝負したい」
弱音とも取れる本音を、俺は自然と口にしていた。
普段なら誰にも――若菜にさえ言わないような言葉だ。だが、同じように「家」という鎖に縛られていた彼女になら、言える気がした。
「ここにおったら、俺は一生、御影の歴史に縛り付けられたままだ。だから、ここから一番遠い場所へ行きたい。……誰も俺を知らん場所で、家柄も血筋も関係ない、俺自身の力だけで生きてみたいんだ」
ちせは、ゆっくりと瞬きをした。
そして、そっと俺の手の甲に触れた。
「素敵なお考えだと思います」
「え?」
「逃げるのではありません。ご自分の足で、歩き出すのですね。……慶次郎さまは、それができませんでした。ですから、貴方様にはぜひ、その夢を叶えていただきたいのです」
彼女の手は温かかった。若菜の体温だ。けれど、その奥にある魂の温もりが、直接俺の胸に流れ込んでくるようだった。
「慶祐さまなら、きっと大丈夫です。私が保証いたします」
「根拠がないやろ」
「ございますよ。だって……」
ちせは悪戯っぽく微笑み、一歩先へ進んで振り返った。
「貴方様は、百年前の亡霊の手を取り、こうして坂道を一緒に登ってくださるほど、度胸と優しさがあるお方ですから」
西日を背負った彼女の笑顔が、あまりに眩しくて、俺は言葉を失った。
喉の奥が、からからに渇いていた。
これは、まずい。
俺の良き理解者であり、俺の夢を全肯定してくれる、理想の女性。
惹かれていく自分を、もう止められそうになかった。
「……調子のいいことばっか言うな」
俺は照れ隠しにそっぽを向き、再び歩き出した。
「ほら、行くぞ。日が暮れる」
「はい、慶祐さま!」
ちせは嬉しそうに俺の隣に並んだ。
肩が触れ合うほどの距離。
月島には怪しまれたが、少なくともこの瞬間、俺たちの間には確かな絆があった。共犯者であり、理解者であるという、特別な絆が。
その事実が、罪悪感と共に、今の俺には甘美な救いだった。
* * *
「宮部。ちょっと時間いいか?」
翌日の放課後、俺は写真部の早瀬湊に呼び止められた。
普段は寡黙で、ファインダー越しにしか世界を見ていないような彼が、珍しく切迫した顔で俺を見ている。
「……どうした? 改まって」
「ちょっと部室に来てくれん? 見せたいものがあるんやけど」
俺はどこかで嫌な予感を覚えながら、彼について特別棟にある写真部の部室へと向かった。
薬品の匂いが微かに漂う暗い部屋には、誰もいなかった。
早瀬は自分のデスクに俺を座らせると、一枚のプリント写真を差し出した。
「これ見て」
それは、ちせが転校してきた初日、教室のざわめきの中で湊が撮ったポートレートだった。
窓からの逆光を受け、黒髪を輝かせながら、どこか遠くを見つめる少女。
その佇まいは、現代の教室にいるとは思えないほど神秘的で、大正ロマンの絵画から抜け出してきたようだった。
「湊……すげえな。お前、プロみたいやん」
「いや。被写体が良すぎた。俺の腕じゃなか」
本当にきれいだ。このまま写真展に出ていてもおかしくないくらい完璧な写真だった。
早瀬は淡々と言いながら、机上のノートパソコンをスリープから復帰させた。
「でもな、慶祐。問題は、こっちなんよ」
モニターに、同じ写真のデジタルデータが表示される。
「現像してるときになんか違和感があって。元データを確認してみたんやけど」
彼はトラックパッドを操作し、画像の解像度を上げていく。
カチッ、カチッ。
クリック音が静かな部室に響くたび、ちせの顔が画面いっぱいに拡大されていく。
「目だ。よく見てみろ」
さらに拡大する。
長い睫毛に縁取られた、澄んだ黒い瞳。その虹彩の中に、窓の景色や教室の風景が映り込んでいる。
だが、瞳孔の奥――ハイライトが当たる一番深い部分に、異質な「何か」があった。
「……なんだ、これ」
俺はモニターに顔を近づけた。
液晶のドットが滲むギリギリまで拡大されたその影。
それは、確かに「人」の形をしていた。
暗い水底に沈んでいるかのように、体育座りで膝を抱え、顔を伏せている少女のシルエット。髪の色は特徴的に明るかった。
「……若菜?」
俺の口から、無意識にその名が漏れた。
湊が眼鏡の奥の瞳を細めた。
「やっぱり、そう見えるよな」
彼は画面を指差した。
「最初はノイズか、窓ガラスの映り込みかと思った。だが、どう見ても教室内にはこんな場所に座り込んでる奴もスペースもないんだ。それに……この影、泣いてるように見えんか?」
指先から、すっと血の気が引いた。
若菜は今、ちせの身体の中で眠っているはずだ。それが、湊の写真に写り込んでしまったのか。
想像したくなかった。
早瀬が椅子を回転させ、俺に向き直った。
「宮部。お前、何か知っとるんじゃないか?」
「……」
「あいつ……今の長与は、本当に『長与若菜』なんか?」
核心を突く問い。
明るい日差しが降り注ぐ部室の中で、モニターの中の小さな影だけが、底知れぬ闇を放っていた。
「……悪い、湊」
俺はモニターから目を逸らした。
「今は何も言えん。このことは、しばらく俺と若菜に任せてくれんか?」
「……そうか」
「ただ……あいつは今、必死に生きようとしとる。それだけは確かだ」
早瀬は頷いてそれ以上追求しなかった。ただ、深く溜め息をついてノートパソコンを閉じた。
パタン、という乾いた音が響き、泣いている少女の姿も視界から消えた。
「このデータは消しとく。……ただの心霊写真じゃ、洒落にならんからな」
「恩に着る」
俺は逃げるように部室を出た。
廊下の窓から見えるグラウンドでは、サッカー部の掛け声が響いている。
そんな平和な日常のすぐ裏側に、あの「膝を抱える若菜」がいるかもしれない。
俺はその不気味な可能性に震えながら、握りしめた拳に爪を食い込ませた。
* * *
その日の学校帰り。
校門を出たところでちせが立ち止まり、俺の袖をクイクイと引いた。
「慶祐さま。……お願いがございます」
「なんだ? 腹でも減ったか?」
「いいえ。……街へ、連れて行ってはいただけませんか?」
彼女は真剣な眼差しで、石畳の先にある市街地を見つめた。
「病院と学校、そして神社の往復だけでは、ここがどこなのか、実感が湧かないのです。私の知っている長崎と、何が変わり、何が変わっていないのか……。この『令和』という時代の長崎を、この目で見ておきたいのです」
その言葉に、俺はハッとした。
確かに、彼女はずっと狭い世界に閉じ込められていたようなものだ。百年の時を超えて目覚めた場所が、どんな世界なのか知りたいと願うのは当然だろう。
「……分かった。じゃあ、長崎駅前まで行ってみるか。あそこなら、今の長崎が一番よく分かる」
「はい! ありがとうございます」
俺たちは、大通りへと歩き出した。
「慶祐さま。……あれは、何事でしょうか!?」
電停のホームで、ちせが目を丸くし、俺の背中に隠れるようにして線路の彼方を指差した。
カーブを曲がり、青い車体の電車がゴトゴトと近づいてくる。
「何って、路面電車たい。……あ、そうか」
俺はハッとして、自分の知識の浅さを呪った。
長崎に市電が走ったのは確か大正に入ってからだ。明治の人間である彼女にとって、街のど真ん中を鉄の塊が走る光景など、想像の埒外だろう。
「電車……電気軌道でございますか? こ、こんな狭い通りを、煙も吐かずに走ってくるなんて……!」
「電気で動くんよ。人を食べるわけじゃなか」
プシュー、とエアブレーキの大きな音がしてドアが開く。
ちせは「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げ、後ずさりした。
「乗るぞ。これが一番早か」
「こ、これに乗るのですか? 腹の中に……?」
俺は怯える彼女の手を引き、なかば強引に乗車口へと誘導した。
俺は定期入れからICカードを取り出し、読み取り機にタッチした。ピッ、という軽快な音が鳴る。
続いてちせが乗ろうとして、入り口で立ち往生した。
「……あの、切符はどこで買うのでしょうか?」
「今はこれだ」
俺はもう一枚のICカード(母さんから借りた予備)をちせに手渡した。
ちせは、得体の知れないプラスチックの板を恐る恐る持ち、読み取り機へ近づけようとするが、恐怖で手が震えて止まってしまう。
「む、無理でございます! このような得体の知れない機械に触れれば、魂を抜かれて……」
彼女が泣きそうになった、その時だった。
スッ、と彼女の腕が動いた。
ちせの意志とは無関係に、右手だけが滑らかに動き、迷いなくカードを読み取り機に叩きつけたのだ。
――ピピッ。
「え……?」
ちせが呆然と自分の右手を見つめる。
俺も、その所作から目が離せなかった。
その手つきは、あまりにも慣れていた。日常で使っていた若菜の、無意識の動作そのものだった。
「……若菜さま、でしょうか」
揺れる車内で、ちせは自分の右手を愛おしそうに撫でた。
「私が怯えているのを見て、助けてくださったのですね。『怖くないよ』と、背中を押してくださった気がします」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。
若菜は眠っているわけじゃない。
この体の中にいて、ちせと共に生きている。言葉は交わせなくても、体温を通じて二人は繋がっているのだ。
電車の中でちせは、自分の手の中にあるプラスチックのカードを、不可解な呪具でも見るような目で見つめていた。
「……恐ろしい世の中です。この薄い板一枚に、金銭の価値が宿っているとは」
「便利だろ? 小銭をジャラジャラ出さんで済むし」
「便利……なのでしょうか。私には、全てが狐に化かされているようでなりません」
そう言いながらも、電車が動き出すと、彼女の表情は一変した。
窓枠に手をかけ、食い入るように外の景色を見つめ始めたのだ。
ガタン、ゴトン。
独特の揺れとリズム。
車窓を流れるのは、ビルや車といった現代の景色だが、明治の時代はどんな光景だったのだろうか?
「……速いですね」
ちせが、窓に額をくっつけるようにして呟いた。
「私の知っている長崎の街並みとは、随分と変わってしまいました。高い建物ばかりで、空が狭うございます」
「寂しいか?」
「いいえ」
彼女は振り返り、はにかむように微笑んだ。
「最初は恐ろしゅうございましたが……この『ガタンゴトン』という一定のリズム、案外心地よいものですね。……ふふ、まるで大きな鉄の揺り籠に揺られているようです」
西日が差し込む車内。
つり革が揺れるリズムに合わせて、彼女の黒髪が揺れる。
その横顔があまりに楽しげで、俺は「次は観光通り〜」という無機質なアナウンスさえも、どこかのどかな響きに感じてしまった。
だが、ふとちせの表情が曇った。
彼女は窓の外から視線を外し、車内の様子を不思議そうに見渡している。
「慶祐さま。……皆様、何をなさっておられるのですか?」
「え?」
俺は周囲を見回した。
車内は満員に近いが、奇妙なほど静かだった。
学生も、スーツを着たサラリーマンも、買い物帰りの主婦も。乗客のほとんどが俯き、手元の小さな板――スマートフォンを無言で凝視している。
青白い光に照らされた顔は無表情で、指先だけが忙しなく動いている。
「ああ、スマホを見とるんよ。……まあ、情報の確認とか、暇つぶしやな」
「すまほ……。あの、小さな黒鏡のことですか?」
ちせは眉をひそめ、俺のポケットからはみ出していたスマホを指差した。
「はい。先ほど、改札で使った魔法の板と同じものですよね。遠くの知識や、他人の言葉を映し出す便利な道具だと伺いました」
「まあ、そうだな」
「便利、なのでしょうね。ですが……」
彼女は声を潜め、どこか恐ろしげに呟いた。
「これをお持ちの皆様、魂を抜かれておられるようにも見えます」
俺は、握っていた吊り革から手を離しそうになった。
「私の時代では、鏡は『己を映すもの』でした。ですが、この鏡は『己以外のすべて』を映し出し、見る者を底なし沼のように引きずり込んでしまう。……まるで、百鬼夜行の列に加わっているかのような狂気を感じます」
彼女は真剣な眼差しで、俯く乗客たちを見つめた。
「この時代の方々は、皆、強大な陰陽師の末裔かと思っておりましたが……あるいは、強大すぎる呪具に使役されている『操り人形』なのかもしれませんね」
俺は返す言葉を失った。
言われてみれば、確かに異様な光景だ。
同じ箱の中にいながら、誰も隣の人間を見ていない。
窓の外の美しい長崎の夕景にも目もくれず、掌の中の仮想現実に没入している。
単に「便利」と消費し、依存している俺たちよりも、彼女の方がよほど、この機械の本質的な「不気味さ」を正確に捉えているのかもしれない。
「……手厳しいな。使いすぎると魂を吸われるってのは、あながち嘘じゃないかもな」
「肝に銘じます」
ちせは深く頷くと、再び窓の外へ視線を戻した。
流れる街の景色を、一瞬たりとも見逃すまいとするように。その瞳の輝きは、スマホに没頭する現代人の誰よりも生き生きとしていた。
路面電車を降り、俺たちは新地中華街へと足を運んだ。
極彩色の門をくぐると、石畳の通りには観光客が溢れ、美味しそうな湯気と匂いが充満している。
「慶祐さま。ここは……『唐人屋敷』でございましょうか?」
「今は中華街って言うんだ。……腹、減っただろ?」
俺は一軒の点心の店先で足を止めた。
ショーケースには、豚まんや角煮まんじゅうが並んでいる。だが、俺が選んだのはここを通るときにいつも食べたくなる別のものだった。
「おばちゃん、ハトシ二つ」
「はいよ、揚げたてだよ!」
渡されたのは、油紙に包まれたキツネ色の揚げ物だ。
噛みついた瞬間、ジュワッと熱い油が溢れ出し、海老の甘みが火傷しそうなほど舌を刺激する。観光客向けの店だが、この暴力的なまでのカロリーと香ばしさは、部活帰りに貪り食ったあの頃の味そのままだ。
「ほら、食ってみろ。熱いから気をつけろよ」
手渡すと、ちせは目を丸くして、そのきつね色の塊を見つめた。
「ハトシ……。まあ、ハトシでございますか?」
「おっ、知っとるんか?」
「はい。祝いの席や、特別な宴の折に、父が卓袱料理として頼んでくれたことがございます。ですが……」
彼女は困惑気味に眉を寄せた。
「このように、紙に包んで往来で食すものなのですか? 私の記憶では、綺麗なお皿に盛られて出てくる、高価な料理でしたが」
「今はファストフード感覚よ。時代は変わるもんたい」
俺は苦笑して、自分のハトシにかぶりついた。サクッ、と小気味よい音がして、海老の香ばしさが口いっぱいに広がる。
ちせも、恐る恐る口元へ運んだ。
小さな口で、端の方を少しだけ齧る。
カリッ。
揚げたパンの香ばしい音。
その直後、ふわりと広がる海老の甘みと、濃厚な油の風味。
ちせの動きが、ピタリと止まった。
「……どうだ?」
俺が尋ねても、彼女は答えない。
ただ、食べかけのハトシを両手で包み込むように持ち、震える瞳でそれを見つめている。
「ちせ?」
「……変わりません」
ぽつり、と彼女が呟いた。
「景色は変わりました。言葉も、着るものも、街の音さえも、私の知っている長崎ではなくなってしまいました。……けれど」
彼女の大きな瞳から、音もなく涙が零れ落ちた。
その涙は、頬を伝って、ハトシを包む油紙に落ちていく。
「この味は……百年経っても、何も変わらないのですね」
彼女は泣き笑いのような顔で、俺を見た。
「懐かしい……。懐かしゅうございます、慶祐さま。
父様と、母様と……みんなで囲んだ、あの日の夕餉の味がいたします」
彼女は、愛おしそうに、もう一口ハトシを頬張った。
サクッ、という音が、雑踏の中でそこだけ静かに響く。
咀嚼するたびに、彼女の中で「失われた時間」が再生されているのが分かった。
俺は胸が締め付けられる思いだった。
たかが数百円の買い食いだ。
けれど、この揚げパン一つが、孤独なタイムトラベラーである彼女を、かつての幸福な記憶と繋ぎ止める唯一の錨になっている。
「……いっぱい食えよ。ここなら、誰も行儀が悪いなんて言わんから」
「はい……。はいっ、おいしゅうございます……!」
ちせは涙を拭うことも忘れ、夢中でハトシを頬張った。
その口元についたパン粉を、俺が指で拭ってやると、彼女は照れくさそうに、けれど心からの笑顔を見せた。
中華街の喧騒の中、彼女の周りだけ、セピア色の優しい時間が流れているようだった。
「慶祐さま。一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「なんや」
「少し前から、心に引っかかっていることがございます」
ちせは油紙を丁寧に畳みながら、こちらを見ずに言った。
「はじめてお会いした夜。貴方様は、私を『蝶々夫人』のようだと仰いました」
俺は、口の中のものを飲み込みそこねた。
覚えていたのか。
「あれは……その、ちょっとした冗談で」
「存じております」
彼女は、少しだけ笑った。
「ですが、あれは待つ女の話でございます」
「……知っとると?」
「私の時代の話でございますから」
港のほうから、汽笛が聞こえた。
「丘の上の家から、毎日、港を見下ろして。船が来るのを、三年待つのです。周りが皆、もう戻らぬと申しても、あの方だけは信じ続けた」
「……ああ」
「私は、あの話が嫌いでございました」
はっきりとした声だった。
「では、どういうのが好きなんや」
ちせはしばらく黙って、それから答えた。
「船に、乗るほうでございます」
夜のアーケードの灯りが、彼女の横顔を流れていった。
「待つのではなく、乗って出ていく女の話が、私は読みとうございました。……そのような本は、一冊もございませんでしたけれど」
俺は、何も言えなかった。
代わりに、屋台へ引き返した。
「おばちゃん、ハトシもう二つ」
「あら、まだ食べると?」
「こいつ、育ち盛りやけん」
油紙を押し付けると、ちせは目を丸くして、それから困ったように笑った。
何と言えばいいのか分からなかったのだ。
お前の読みたかった本は、たぶん今なら書店に山ほど並んでいる。図書館にも、電車で三十分の街にも、この国のどこにでもある。百年遅い、と言うのは残酷すぎた。
だから俺は、揚げパンを二つ買った。それが、今日の俺にできる精一杯だった。


